第2章 第1話「水の渦」
三歳になった、結月の朝のことだった。
私は、居間の絨毯の上に、一冊の絵本を広げて、座っていた。
絵本の名は、夜空の歩み手、と言った。星と月と、夜空を歩く誰かの後ろ姿が、繰り返し描かれている、家族の手作りの一冊だった。父アンリの母が、若い頃に綴じたものだと、いつか父が、私の頭の上で言っていた。
私は、その絵本を、ほとんど毎日、めくっていた。
絵を見ていると、私の身体の中で、何かが、静かに動いた。
母エリザベートは、台所と居間の境のあたりで、新しい家族を、腕に抱いていた。
クララは、もう一歳になっていた。
蜂蜜色の髪が、私の妹の小さな頭に、薄く、揃いつつあった。母の腕の中で、目を細めて乳を含む顔は、まだ、言葉以前の生き物の顔だった。
私は、絵本のページから顔を上げて、母と妹を見た。
母の歩み方は、二年前、私を抱いていた頃よりも、わずかに慣れていた。妹の重みに、肩の角度が、自然に合わせられていた。
私は、その角度を見た。
見ながら、自分の中の二十八歳の研究者の声が、ふと、こう囁くのを聞いていた。
──二年で、人は、ここまで母になる。
私は、その囁きを、自分の三歳の身体の、深いところに、しまった。
それから、絵本に視線を戻した。
朝食の時刻、母が、台所から、私を呼んだ。
「テオ、お席についてちょうだい。お父さんが、もう、起きていらっしゃるわ」
私は、絨毯から立ち上がって、食堂の長卓に、向かった。
椅子は、まだ、私には少し高かった。父が、私のために、薄い座布団を敷いてくれた、その上に、ようやく、私の小さな身体が、収まった。
向かい合いの、父の対角線上の席。父アンリの灰青色の目が、机越しに私を見た。
「テオ」
父が短く私を呼んだ。
「おはよう。よく眠れたか」
私は頷いた。
頷いて、それから、自分の口で、ゆっくりとこう答えた。
「かあさま、おはよう。きょうの、おかゆ、あたたかい?」
母が、台所の方から、小さく、笑った。
「あら、テオ。お母さんに、朝から、ご挨拶ね」
母の声が、いつもより、少し、明るくなった。
私は、その明るさを、自分の三歳の身体で、確かに受け取った。
──私は、二十八年間、母に「おはよう」と言わなかった。
その独白は、地の文として、私の中だけに、留まった。前世の私は、研究室の床で、母の漬物を握りしめたまま、その言葉を、最後まで、口にしなかった。今、私は、現世の三歳の口で、ようやく、その遅すぎる挨拶を、果たしつつあった。
母は、台所から、湯気の立つ薬草茶を、運んできた。
朝食の卓に、家族の三人と、母の腕の中の妹が、揃った。
「いただきましょう」
母の声が、短く、その場を、整えた。
朝の鐘が、遠くで、鳴った。
父アンリは、薬草茶を一杯、ゆっくりと、飲み終えてから、立ち上がった。
「行ってくる」
「いってらっしゃい、あなた」
母が、玄関まで、父を見送った。
私は、まだ、長卓の椅子に、座ったままだった。
母が戻ってきて、私の頭に、手を置いた。
「テオ、お外、行きましょうか。今日は、井戸の水を、汲みに」
私は頷いた。
頷いて、母の差し伸べる手に、自分の小さな手を預けた。
母の手は、温かかった。
その温かさの中に、母の指先の、わずかな水ぶくれの感触が混じった。前夜の繕い物の、針の跡だった。
私はそれを覚えた。
完全に、覚えた。
二十八歳の私はそれを記録し、三歳の私はただ、その温かさを握り返した。
中庭の井戸は、台所と中庭の壁を共有して、二口で水が汲めるようになっていた。
母は、中庭側の口に、立った。
私は、母の隣に、立った。
井戸の縁の石は、私の胸の高さほどだった。覗き込むには、まだ、爪先立ちが必要だった。
母が、釣瓶の縄を、ゆっくりと、繰り出した。
縄は、井戸の暗い穴の中へ、すっと、消えていった。
私は、その穴を見下ろした。
底の方で、ほんの僅かに光が揺らいでいた。中庭の朝の光が、石組みの隙間を縫って、水面に届いていた。
母が、釣瓶を引き上げ始めた。
「テオ、もうすぐ、出てくるわよ」
私は頷いた。
頷きながら、私は井戸の中の光から目を離せなかった。
光は、水面の上で、揺れていた。
ただ、揺れているのではなかった。
光と光の間に、暗い線が、走っていた。
その線は、水の流れの方向に、走っていた。
そして、線の太さは、光の強い部分では、薄く、弱い部分では、濃く、なっていた。
──水は、流れている。
その当たり前のことが、私の中で、別の言葉に、置き換わった。
──水は、構造を持って、流れている。
私の二十八歳の頭の中で、前世の図書館で読んだ、流体力学の入門書の、一行が、囁いた。
レイノルズ数。境界層。表面の擾乱。
私は、それらの単語を、口に出さなかった。出せなかった。
ただ、井戸の水面の、暗い線の流れを、じっと、見ていた。
線は、釣瓶が引き上げられるにつれて、形を、変えた。
水が、桶の底に当たる衝撃で、線は、放射状に、広がった。
それから、ゆっくりと、円形の渦に、戻った。
渦は、時計回りに、回った。
その瞬間、私の身体の、深いところで、何かが、初めて、開いた。
私は、自分が、見えるようになった、と、感じた。
何が、と問われても、答えられなかった。三歳の私には、まだ、それを言葉にする能力が、与えられていなかった。
ただ、水の中に、見えない筋が、確かに、あった。
私は、それを、見た。
「テオ?」
母の声が、私を、現世に戻した。
「テオ、どうしたの。水、見てるの?」
私は、頷いた。
頷いてから、母の方を、見上げた。
「かあさま。みず、ながれてる」
「ええ、流れているのよ」
母が、釣瓶の桶を、井戸の縁に置いた。
桶の中の水は、太陽の光を受けて、表面に波紋を立てていた。
「テオは、流れる水が、好きなのね」
私は頷いた。
頷きながら、内側で、別の答えを考えていた。
──私は、流れる水が、好きなのではない。流れる水の、中に、見えるはずのない線が、見える。そして、その線が、私を、誰かに、ようやく見つけてもらえたような気持ちにさせる。
その独白は、母には、届かなかった。
母は、桶を、両手で、抱え上げた。
「テオ、家の中に、戻りましょう。水、こぼさないように、お母さんは、ゆっくり歩くから」
私は、母の後ろを、ついて歩いた。
歩きながら、私は、一度、振り返って、井戸の暗い穴を、見た。
穴の底の水面では、まだ、見えない線が、揺らいでいるはずだった。
私の中で、何かが、確かに、変わっていた。
昼の時間、私は、居間の絨毯の上で、絵本を、開いていた。
絵本の中の星は、紙の上で、動かなかった。
けれども、私の目は、いつもと違う風に、その星を、見ていた。
星の周りの、白い紙の地に、ほんの微かに、何かが、滲んでいるように、感じた。
それは、井戸の水面の、暗い線と、似ていた。
私は、目を、瞬かせた。
瞬いたら、滲みは、消えた。
──ああ、これは、目の疲れだ。
二十八歳の私は、そう、解釈した。
三歳の私は、その解釈を、半分だけ、受け入れた。
残りの半分は、まだ、井戸の渦を、覚えていた。
夕暮れの鐘の少し前、父アンリが、図書館から、帰ってきた。
玄関で、靴の音が、止まった。
私は、絨毯から、立ち上がった。
立ち上がって、玄関の方へ、小さな足で、急いだ。
クララは、母の腕の中で、まだ、午後の眠りを、続けていた。母は、台所で、夕食の下拵えを、始めていた。
玄関の扉が、開いた。
父の灰青色の目が、私を、迎えた。
「テオ。お前、走ってきたのか」
私は頷いた。
頷いて、自分の口でこう言った。
「とうさま、おかえり」
それは、三歳になってから、はっきりと声に出して父に言うようになった、新しい言葉だった。
父は、しばらく私を見ていた。
それから、ゆっくりと屈み込んだ。
「ただいま、テオ」
父の声は低かった。
低かったけれども、その声には、私が初めて聞いた種類の温かさが、混ざっていた。
──父は、私に、ただいま、と言った。
私の中で、二十八歳の研究者が、その声を書き留めた。
前世の父も、私に、ただいま、と、言ったことがあった、はずだった。けれども、私の記憶の中で、それは、形を、持っていなかった。今の私は、現世の父の、低い声を、形のある記憶として、持っている。
それが、私の、二度目の人生の、一つ目の、確かな贈り物だった。
夕食の前の、書斎の時間が、来た。
父アンリは、書斎の机に、図書館から持ち帰った数冊の書物を、積み上げていた。革表紙のものが、二冊。紙表紙の薄い綴じのものが、三冊。
私は、父の足元の、絨毯に、座っていた。
座って、絨毯の毛羽を、指で、撫でていた。
父は、椅子の上から、机の書物の一冊を、手に取った。
「テオ。これは、北の地誌だ。お前に読めるものではない、まだ。だが、絵だけは、見せてやろうか」
私は、頷いた。
父が、書物を、机の端に寄せて、私の方に、傾けた。
ページが、開いた。
北の山並みの絵が、現れた。山の形が、私の知らない曲線で、描かれていた。
私は、その絵を、じっと、見た。
見ている間、私の左手が、絨毯の上で、別の動きをした。
机の脚の脇に、父が、別の革表紙の書物を、立てかけて、置いていた。
その書物は、ほかの本と、少し、違って見えた。
革の色が、深く、暗かった。背表紙には、金色の何かが、薄く、刻まれていた。古い、と一目で分かる、書物だった。
私の左手が、その書物の、背に、触れた。
ただ、触れただけだった。
革の手触りは、滑らかで、ひんやりと、していた。
その瞬間。
私の額の中央に、温度が、通った。
額が、わずかに、温かかった。
それは、皮膚の表面の温度ではなかった。
皮膚の、その下の、もう少し深いところで、何かが、灯ったような、温度だった。
私は、手を、書物から、離した。
離してから、自分の額に、もう片方の手を、当てた。
額は、外側からは、いつもと同じ、子供の体温だった。
けれども、内側の温度は、まだ、ほんの僅かに、残っていた。
──気のせい、だろうか。
私は、自分の中で、そう、問うた。
問うてから、もう一度、思い直した。
──いや、前にも、この温度はあった。
私の二十八歳の頭の中で、二歳の冬の夜の、ある瞬間が、蘇った。
兄マルクが、私の手を握ってくれた、その夜。マルクが、両方の兄貴になる、と言った、その夜。
私は、自分の胸に、手を当てた。あの時、確かに、私の中に、温度が、あった。
あれから、半年以上が、過ぎていた。
そして、今。
二度目の温度が、私の額に、戻ってきた。
「テオ?」
父の声が、私を、書物の方に、引き戻した。
「テオ、お前、どうした。眠いのか」
私は、首を、振った。
振ってから、父を、見上げた。
「とうさま。さっきの、ご本、つめたかった」
「冷たかった、か」
父は、自分の手で、その革表紙の書物の背を、軽く、撫でた。
「ああ、そうだな。古い本は、空気の温度より、少しだけ、冷たく感じることがある。革の中に、長く、湿気が籠もっているからだ」
父の説明は、論理的だった。
論理的で、けれども、私の額の温度には、触れなかった。
父は、私の温度を、見ていなかった。
父の目には、私の額の中央に、何も、浮かんでいなかった。
私は頷いた。
頷いて、父の説明を受け入れた。
──三歳の私はまだ、自分の中で起きていることを、誰にも言わない。
二十八歳の私が、そう決めた。
なぜなのかは、自分でも、はっきりとは説明できなかった。ただ、井戸の渦と、額の温度は、私の中の同じ場所に繋がっているような気がしていた。
その場所はまだ、誰にも見せてはならない場所だった。
夜が、来た。
居間の暖炉では、薪が、ゆっくりと、燃えていた。
母が、私とクララを、暖炉の前に、並べて、座らせていた。
母の歌が、始まった。
その夜の歌は、フランディアの北の山の歌だった。母が、北方の友人から、若い頃に教わったと、いつか言っていた。
母の声は、低く、長く、続いた。
私は、母の膝の縁に、頭を、預けていた。
預けながら、私は、自分の中で、今日の出来事を、整理していた。
朝の井戸の渦。光と光の間の、見えない線。
夕方の書物の背。額の温度。
二つの出来事は、別々のものだった。
別々だったが、同じ日に起きた。
──偶然、なのだろうか。
私は、母の歌を、聞きながら、自分の中で、その問いを、何度か、繰り返した。
答えは、出なかった。
三歳の身体は、答えを出す前に、眠気に、捕まった。
母の歌の最後の節が、聞こえた。
それから、私の意識は、ゆっくりと、暗い水の底に、沈んでいった。
意識が沈む直前、私は、自分の中で、一つの言葉を、確かめた。
──今日、私は、水の中に、初めて、線を、見た。
それが、私の、二度目の人生の、二つ目の、確かな贈り物だった。
一つ目は、父の、ただいま。
二つ目は、井戸の、見えない線。
そして、額の温度は、まだ、贈り物なのか、それとも、別の何かなのか、判断する材料が、足りなかった。
材料は、これから、少しずつ、集めていけばよかった。
私の前世の研究者は、いつも、そうしてきた。観察を、重ねて、仮説を、立てて、また、観察に戻る。
──今は、まだ、観察の段階だ。
二十八歳の私が、そう、結論した。
三歳の私は、その結論を、受け入れて、眠りに、落ちた。
後に思えば、あの結月の朝、井戸の中で、私が初めて見た見えない線が、私の、二度目の人生の、最初の実験ノートの、一行目だった。
私は、その日、まだ、紙のノートを、持っていなかった。
けれども、私の意識は、すでに、一冊のノートを、開いていた。
そのノートの、見えない一行目には、こう、書かれていた。
──水は、構造を持って、流れている。
その一行が、後の私を、賢者の道に、運んでいくのだが、その夜、私は、ただ、母の腕の中で、眠っていた。
外では、結月の夜風が、中庭の井戸の縁を、静かに、通り過ぎていった。
第2章第1話「水の渦」了
次話「言葉の積木」(四歳・鏡月〜神月)へ続く




