第1章 第3話「兄の影」
二歳の私には、まだ、よく分かっていないことが、たくさんあった。
その一つが、兄という存在だった。
私の世界には、母と父がいた。そして、私の身体の小ささを基準にすれば、私は、その二人の保護の中で完結していた。母の腕の中で乳を飲み、父の書斎の前で絵本を抱え、ろうそくの光の下で眠る。それが、私の世界のすべてだった。
ところが、その世界の周縁に、ときどき、もう一つの影が、現れることがあった。
それは、私より大きくて、けれども父よりは小さかった。
その影は、いつも、軽い足音で家の中を駆け抜けて、私の前に来ると、ぴたりと止まった。
止まって、私を見下ろした。
私は、その影が、誰なのか、最初の一年半は、よく分かっていなかった。
ただ、その影が現れると、母の声が、いつもより少し高くなった。
「マルク、走らないで。テオが、目を覚ますわよ」
そして、その影は、いつも、少しだけ申し訳なさそうに、足音を消した。
マルク。
それが、その影の名前だった。
マルクが、はっきりと、兄として私の中に現れるようになったのは、私が二歳と数ヶ月になった頃だった。
ある日、私は居間の絨毯の上で、父からもらった絵本のページをめくっていた。字は読めなかったが、絵を見るのは好きだった。絵本には、星と月と、夜空を歩く誰かの後ろ姿が、繰り返し描かれていた。
そこに、その影が、走ってきた。
「ただいま!」
声が、扉の方から響いた。
「あら、マルク、お帰りなさい」
母が、台所の方から答えた。
「学舎は、どうだった?」
「うん、まあ、普通」
その声は、私が初めて、はっきりと少年の声として認識した声だった。
それまで、私の身体の聴覚は、その声を、ただの「家の中の音」として、漠然と聞き流していた。けれども、その日、私の耳は、その声を、確かに個別の人物の声として、捉えた。
私は、絨毯の上で、顔を上げた。
居間の扉が開いて、その影が、入ってきた。
影、ではなかった。
それは、もう、はっきりと、一人の少年だった。
マルクは、私より、頭ふたつ分は背が高かった。
七歳の少年だった。
黒い髪が、額の上で、二つに分かれていた。父アンリの灰青色の瞳と、同じ色の目をしていた。けれども、その目つきは、父よりずっと活発で、ずっと忙しなかった。
「あ、テオ」
マルクは、私を見ると、ぴたりと足を止めた。
「お前、何してんの?」
その声は、まだ少年のものだったけれども、すでにわずかにぶっきらぼうな響きを含んでいた。
私は、絵本を手に持ったまま、マルクを見上げた。
「あに、さま」
私は、そう、口にした。
それは、私が、初めて、マルクを呼んだ瞬間だった。
マルクは、しばらく、固まっていた。
それから、ぼそりと、こう言った。
「……お前、俺のこと、覚えてたんだな」
「うん」
私は、頷いた。
頷いてから、私は、絵本を、マルクに、差し出した。
「あにさま、ほん」
「は?」
マルクは、私の前に屈み込んだ。
「お前、本、読んでくれって?」
「うん」
マルクは、しばらく、私の差し出した絵本を、じっと見ていた。
それから、頭を、軽く掻いた。
「……俺、字はそんなに上手くないんだぞ。学舎で習ってる途中だ」
「いい」
私は、頷いた。
「あに、よむ」
マルクは、しばらく、私と絵本を、見比べていた。
それから、絨毯の上に、どさりと、胡坐をかいた。
「分かった。ちょっとだけだぞ、テオ」
そして、絵本を、私の前で、開いてくれた。
マルクの音読は、決して上手くなかった。
途中で何度か、つかえた。
「えーと、その、王子は、夜空を……夜空を歩く、と、誓っ……誓った」
そんな調子だった。
けれども、私は、そのつかえる声を、奇妙なほど、夢中で、聞いていた。
なぜなら、その声は、前世の私が、生涯持たなかったものだったからだ。
兄の声。
私の前世には、兄がいなかった。妹がいた。妹は私より年下で、私が彼女を読み聞かせる側だった。
今の私は、逆だった。
私が、年下で、誰かに、本を読んでもらっていた。
それが、なぜか、私の身体の、深いところに、染み込んだ。
絵本のページが、めくれた。
「そして、王子は、ある夜、星のかけらに、手を伸ばした。けれど、星は、彼の指の中で……えーと、消えた」
マルクは、淡々と読み進めた。
「消えなかったのは、彼の願いだけだった」
最後のページで、マルクは、そう、読み終えた。
しん、と、居間が静かになった。
私は、自分が、なぜか、その一行に、強く心を動かされたのを、感じていた。
──消えなかったのは、彼の願いだけだった。
私は、絵本の、最後のページの、後ろ姿の少年の絵を、じっと見つめた。
そして、ふと、自分の前世を、思い出していた。
工藤智哉。
研究室。
爆発。
最後に、私が、握りしめた、母の漬物の味。
それは、消えなかった。
私は、それを、握りしめたまま、ここに、来た。
──消えなかったのは、私の願いだけだった。
私は、無意識に、自分の胸に、手を当てた。
そこには、確かに、温度があった。
「テオ?」
マルクが、私の顔を、覗き込んだ。
「お前、なに、難しい顔してんの?」
「あにさま」
私は、マルクを、見上げた。
「ほん、すき」
「……ああ、そうかい」
マルクは、ふいに、視線を逸らした。
そして、ぼそりと、こう言った。
「本、好きなのは、いいことだ。俺は、剣の方が好きだけどな」
「けん?」
私は、その言葉を、繰り返した。
「ああ、剣。騎士団の人が持ってるやつ。俺、いつか、あれを、振りたいんだ」
マルクの声が、ふっと、明るくなった。
「父さんと母さんは、本ばっか読めって言うけどな。俺は、剣がいい。剣を振れる男になるんだ」
私は、その言葉を、頷きながら、聞いた。
頷いたけれども、私は、その時、マルクの目に、わずかな影があるのを、確かに見ていた。
七歳の少年の目に、何かを、ずっと、見つめている影が、あった。
私の身体は、新生児に近かった。けれども、私の意識は、二十八年間、人間を観察してきた、研究者のものだった。
その影は、私には、見えた。
そして、私は、その時、まだ、その影の意味を、知らなかった。
ただ、覚えた。
──兄の目には、何かが、ある。
それが、私の、兄に対する、最初の観察だった。
それから、マルクは、ときどき、私の傍に来てくれるようになった。
毎日、ではなかった。
マルクは、近所の学舎に通っていた。フランディアの初等学舎は、六歳から十歳まで通うもので、マルクは、その三年目だった。学舎では、読み書きと、簡単な計算と、それから王国の歴史を、学んでいた。
家に帰ると、マルクは、たいてい、自分の部屋にこもった。窓を開けて、木の枝を振り回していることもあった。庭で、見えない相手と、ひそかに剣を交えるような動きをしていることも、あった。
けれども、夕暮れになると、マルクはよく、居間に降りてきて、私の隣に座った。
「テオ、また絵本か?」
「うん」
「貸してみろ」
そして、マルクは、私の絵本を、つかえながら、読んでくれた。
時には、絵本ではなく、マルクが学舎で習った歌を、教えてくれることもあった。
「これは、フランディアの建国の歌だ。父さんは、こういうの、好きだろ」
そう言いながら、マルクは、低く、歌った。
歌は、上手くはなかった。けれども、その声は、母の歌とも、父の朗読とも違う、七歳の少年の声だった。
私は、その声を、聞いた。
聞きながら、私は、自分の中で、ある思いを、はっきりと、抱いていた。
──私は、この兄を、大切にしよう。
なぜなら、この兄は、私の、新しい人生で、初めて与えられた、兄だったから。
前世の私は、家族と疎遠だった。
妹に、ありがとうと、言えなかった。
母に、漬物の味を、伝えられなかった。
父に、無理はしていないと、答えられなかった。
私は、それを、繰り返したくなかった。
私の意志は、まだ、二歳の身体の中に閉じ込められていた。
けれども、私の意志は、確かに、決めていた。この兄を、いつか、私が、守れる側に、なろう、と。
それは、二歳の身体には、まだ早すぎる決意だった。
けれども、私は、その決意を、自分の中の、深い場所に、しまった。
冬が、来た。
フランディアの冬は、深い灰色だった。雪は、滅多に積もらなかったが、空はずっと、低く、重く、垂れていた。家の窓には、夜になると、霜が、薄く張った。
私は、毎晩、母の腕の中で、ろうそくの光を見ながら、眠った。
母のお腹は、その頃、わずかに、膨らんでいた。
私は、その変化を、ずっと、感じていた。
母の体温が、わずかに高くなったこと。母の歩み方が、わずかに遅くなったこと。母の歌の合間に、ふっと、深い息が混じるようになったこと。
私は、その変化の意味を、自分の中で、既に、知っていた。
──新しい、家族が、来る。
私は、その予感を、何度も、確かめた。
そして、その予感が、現実になったのは、私が三歳になる、神月の少し前のことだった。
夜が更けていた頃に、家の中が、急に、騒がしくなった。
私は、自分の小さなベッドの上で、目を覚ました。
廊下を、誰かが走る音がした。父の声が、低く、しかし急いだ調子で、何かを指示していた。母の声は、聞こえなかった。
私は、ベッドから、降りようとした。
そのとき、私の部屋の扉が、開いた。
そこに、マルクが、立っていた。
マルクは、寝間着のままだった。髪が、寝乱れていた。
「テオ、起きてんのか」
「あにさま」
私は、頷いた。
マルクは、私のベッドの脇に、屈み込んだ。
「母さんが、産むんだとよ」
その声は、いつものぶっきらぼうさを、少し、失っていた。
「俺たちの、弟か、妹か」
私は、頷いた。
それから、自分の小さな手を、マルクの方に、伸ばした。
マルクは、その手を、しばらく、見ていた。
それから、自分の手を、ゆっくりと、私の手に、重ねた。
マルクの手は、子供の手だった。私の手より、ずっと大きかったけれども、それでも、まだ、大人の手ではなかった。
その手が、私の手を、握った。
「テオ」
マルクが、私の顔を、じっと、見た。
「俺たちは、もう一人、増えるんだ」
「うん」
「お前、もう、末っ子じゃ、なくなる」
「うん」
「……いいか、テオ。俺は、お前と、新しいやつと、両方の兄貴に、なる」
マルクの声は、震えていた。
七歳の少年が、誰にも教わっていない、けれども、自分の中から、自然に出てきた言葉だった。
私は、その言葉を、聞いた。
聞いて、私は、自分の中の、何かが、温かくなるのを、感じた。
私は、二歳の身体で、マルクの手を、ぎゅっと、握り返した。
「あにさま」
私は、そう、呼んだ。
「ぼくも、にいさま、なる」
マルクが、私を、しばらく、見ていた。
それから、ふっと、口の端を、緩めた。
「……ああ、そうだな。お前も、兄貴に、なるんだ」
マルクの目に、いつもの影は、その瞬間、消えていた。
私は、その消えた影の代わりに、マルクの目に、新しい光が、灯ったのを、確かに、見た。
その光は、私が、兄に与えられた、最初の贈り物だった。
私は、その光を、自分の中に、しまった。
明け方近く、家の奥から、新しい泣き声が、聞こえた。
それは、私の産声とは、違っていた。
もっと細くて、もっと震えていて、けれども、確かに、生きている音だった。
マルクが、私のベッドの脇から、跳ね上がった。
「生まれた!」
そして、廊下を、走っていった。
私も、ベッドから、降りようとした。
降りてみたけれども、私の脚は、まだ、走るには、追いつかなかった。
私は、ゆっくりと、廊下に、出た。
廊下の奥、母の寝室の扉が、開いていた。
そこから、ろうそくの光と、新しい泣き声と、それから、父と産婆の声が、漏れてきた。
「──女の子です。ご立派な、お嬢様で」
産婆の声が、私の耳に届いた。
「ありがとう」
父の声が、答えた。
その声は、低く、けれども、確かに、震えていた。
「ありがとう」
父は、もう一度、繰り返した。
私は、廊下の真ん中に、立っていた。
立ったまま、ゆっくりと、その扉に、近づいていった。
マルクが、扉の前で、こちらを振り向いた。
「テオ、お前、来たのか」
「うん」
マルクは、私の手を、もう一度、握ってくれた。
「行くぞ。お前の妹に、会いに」
私は、頷いた。
頷いて、私は、兄の手に、引かれて、その扉の中に、入った。
母の腕の中には、もう一人の、新しい命が、いた。
蜂蜜色の髪が、薄く、その小さな頭に、生え揃いつつあった。
母譲りの、緑がかった灰色の瞳が、ろうそくの光の下で、ぼんやりと、開いていた。
「テオ、マルク」
母の声が、私たちを、呼んだ。
「あなたたちの、妹よ」
母の声は、疲れていた。
けれども、その声には、私が、生まれた夜にも聞いた、あの、深い祝福が、滲んでいた。
私は、ゆっくりと、母のベッドに、近づいた。
そして、その小さな命を、じっと、見た。
その命は、まだ、私の予測を、何ひとつ、立てさせてくれなかった。
物理学も、化学も、私の前世の知識のすべては、その小さな命を、説明できなかった。
私は、ただ、そこに、命があることを、感じた。
それは、知識ではなく、存在だった。
「テオ」
母が、私を、呼んだ。
「お兄ちゃんに、なってあげてね」
私は、頷いた。
頷いて、私は、その小さな命に、向かって、自分の小さな声で、こう、囁いた。
「いもうと」
それが、私の、新しい家族との、最初の言葉だった。
マルクが、私の後ろで、頷いていた。
父が、眼鏡の奥で、ゆっくりと、目を細めていた。
母が、私たち三人を、抱きしめるように、見つめていた。
私は、その家族の真ん中で、自分の身体の小ささを、初めて、嬉しく、思った。
なぜなら、私は、今、この家族の、一員として、ここに、いるからだった。
私は、もう、工藤智哉ではなかった。
私は、テオドール・ヴァルメールだった。
私には、父がいて、母がいて、兄がいて、そして、たった今、妹が、できた。
それが、私の、新しい人生の、
最初の、
完全な、
家族の、
形だった。
その妹の名前は、クララ、と、名付けられた。
クララ・ヴァルメール。
私が、いつか、守ることになる、家族の太陽。
けれども、その日、私は、まだ、その未来を、知らなかった。
私は、ただ、自分の小さな兄であることを、誇りに思いながら、母のベッドの脇で、長いこと、その小さな妹を、見つめていた。
外では、フランディアの冬の朝が、灰色の中に、ゆっくりと、明けていこうとしていた。
私の人生の、
最初の章は、
こうして、
家族の、
完全な、
円の中で、
閉じた。
第1章「水色の朝」完
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