第12章 第1話「報告書が、増えた」
灯月末の、朝の鐘五つだった。
私は寝台の上で目を開けた。
梁の節の位置は、昨日と、同じだった。
机の上の、七つの並びは、今朝も、同じ位置で、月明かりの抜けた窓辺に、薄く影を落としていた。
書きかけのアネット手紙。
書き始めの父への手紙と、父からの返信。
古代語の写しの束。
古代語綴字概論。
母の死語学のノート。
母の便箋。
新しい実験ノート。
七つの並びの、いちばん手前に、母への返信の四つ折りが、置いてあった。
書き終えたのは、三日前だった。
書き始めたのは、その前の十日間で、何度も、ペンを置いた。
私は寝台から起き上がった。
足の裏が、木の床の、わずかな冷たさを、確かめた。
母への返信は、書き上げたあと、引き出しの三段目に、収めた。
朝、出口側の手紙箱に、差し出すつもりだった。
机の引き出しの二段目を、私は、開けなかった。
二段目には、麻布で包んだ、祖父の三枚目が、寝かしてある。
灯月の初旬から、ずっと、同じ位置で。
私は寮の階下に降りた。
朝食の鐘六つには、まだ、半刻ほど、あった。
食堂の入口で、私は立ち止まった。
食堂の喧騒が、今朝は、いつもと、違っていた。
奥の壁際で、ヴァルニエ教授と、ヴァサール教官が、立ち話を、していた。
二人の声は、聞こえなかった。
ただ、二人の頭の角度が、ふだんの食堂の朝とは、わずかに、違っていた。
私は、列に並んだ。
パンと、薄い葡萄酒と、無花果の砂糖漬け。
席に着くと、向かい側に、マチューがいた。
マチューは、いつもと同じ調子で、私の皿を、覗き込んだ。
「おう、テオ。お前、無花果、好きだったよな」
「……はい」
「で、で、なあ、テオ、知ってるか」
マチューは、声を、半分ほど、落とした。
「今朝、教師の食堂に、地方から、手紙が、いっぱい、届いたらしいぜ」
「……手紙」
「ヴァルニエ教授が、朝から、机に並べて、ヴァサール教官と、何か、相談してるって、給仕の見習いが、漏らしてた」
「で、で、内容は」
マチューは、首を、横に振った。
「そこまでは、知らない」
「……そうですか」
「お前、賢者専攻だろ、何か、聞いてないか」
「聞いてません」
私は、無花果を、ひとつ、口に運んだ。
砂糖漬けの、わずかな甘さの奥に、土の匂いが、残っていた。
マチューは、しばらく、私の顔を見ていた。
それから、自分の薄い葡萄酒を、ひとくち、飲んだ。
「まあ、いいや。教えてもらえる時には、教えてもらえるんだろ」
「そうですね」
食堂の奥の、ヴァルニエ教授と、ヴァサール教官は、もう、いなかった。
午前の必修講義は、属性相互作用論だった。
賢窓塔の二階の中講堂。
席は、いつもの、後列の右端から、三つ目。
ガリエ教授の声は、今朝は、ふだんと、半分ほど、似た調子で、続いた。
似ているのに、半分。
属性同士の干渉係数の、四象限分類の図が、黒板に、書かれた。
私は、机の上の白紙の余白を、何度か、見つめた。
完全記憶は、ガリエ教授の語る順序を、全て、保存した。
だが、私の手は、書き取らなかった。
朝の食堂の奥の、ヴァルニエ教授とヴァサール教官の、頭の角度の差が、何度も、戻ってきた。
講義が、終わった。
私は中講堂の階段を、ゆっくり、降りた。
階段の途中で、賢者専攻の助手の、ロベール先輩に、呼び止められた。
「テオ。ヴァルニエ教授が、昼の鐘三つに、主任教授室で、君を呼んでる」
「……分かりました」
「何かは、私は、聞いていない。ただ、急ぎでは、ない、と教授は、言っていた」
「……はい」
ロベール先輩は、それだけ告げて、廊下を、北に、戻っていった。
私は、賢窓塔の中庭の井戸端に、降りた。
午前の終わりの、井戸端は、いつものように、人が、まばらだった。
ライナル先輩は、今朝は、いなかった。
ライナルは、夏の終わりから、また、ベルジア方面の現地実習に、出ている。
私は、井戸の縁に、手を、置いた。
縁の石は、今朝の日差しで、わずかに、温かかった。
水球を、一つ、出してみた。
水球は、私の手のひらの、半分ほどの大きさで、井戸の縁の上に、浮いた。
水球の中の、水の流れの規則性は、いつもと、同じだった。
ただ、井戸の水位が、夏の終わりの、ふだんの位置よりも、指の幅ぶん、低くなっていた。
私は、水球を、井戸に、戻した。
戻した水は、井戸の水面に、小さな波紋を、二つ、作った。
二つの波紋は、井戸の壁の手前で、一つに、合わさった。
昼の鐘三つが、賢窓塔の塔頂から、鳴った。
ヴァルニエ教授の主任教授室は、賢窓塔の三階の、北側の角部屋だった。
窓は北向きで、図書館棟の双子尖塔が、遠く、見えた。
私は、扉の前で、二度、息を、整えてから、ノックした。
「入りなさい」
扉を開けると、教授室の机の上に、十数枚の手紙が、広げられていた。
机の手前の椅子に、私は、腰掛けた。
ヴァルニエ教授は、机の向こうから、私を、見た。
教授の灰青の瞳は、いつもの、議論前の、わずかに細められた角度で、私を、捉えていた。
「テオ。来てくれて、ありがとう」
「……はい、教授」
教授は、机の上の手紙の束を、軽く、手のひらで、撫でた。
「ここに、十六通の、報告書がある」
「どれも、ここ、半月の、フランディアの、各地から」
教授は、私に、束の手前の三通を、見えるように、向けた。
「地脈の乱れが、三件」
「魔物の異常出現が、四件」
「古い祠の倒壊が、二件」
「地脈の不調による、井戸の枯れが、二件」
「残りは、これらの報告の、裏付け」
私は、束の手前の三通の、地名の部分を、目で追った。
完全記憶は、十六通の地名と、字形を、即座に、保存した。
真理の眼は、地名の分布を、机の上の机の天板の、薄い木目に、重ね合わせて、見せた。
「……フランディアの、東から、南東に、点が、寄っています」
私は、内側で、もう一度、地名を、並べ直してから、言った。
ヴァルニエ教授の灰青の瞳が、わずかに、動いた。
「そう。それで、君は、どう思う」
私は、しばらく、答えなかった。
「……どれも、地脈と、関わる、土地です」
「古い祠は、地脈の上に、建てられる、ことが、多い」
「地脈の乱れと、祠の倒壊は、同じ根の、二つの、表れ」
教授は、頷いた。
それから、もう一通の手紙を、机の中央に、置いた。
「それで、君は、どこから、調べる」
私は、その手紙の地名を、見た。
「……祠の倒壊が、最も、新しい、報告です」
「日付は、灯月の、二十六日。サヴリーニュ村」
「そこから、調べます」
教授は、もう一度、頷いた。
そして、机の上の十六通を、ゆっくり、右側に、寄せた。
「通常時の地方報告は、北西と、中央が、多い」
「それが、半月で、東〜南東に、寄った」
「仮説としては、悪くない」
「検証は、現地で」
教授は、椅子の背に、軽く、もたれかかった。
「特別研修隊を、編成する。私が、責任者」
「ヴァサール教官が、安全管理」
「マイスター・ロッタが、素材鑑定」
「ライナル・ベルクハイトが、地形勘」
「ジル・カンタンが、陣構築」
「そして、君が、解析」
私は、椅子の上で、姿勢を、わずかに、正した。
賢者専攻の同期は、もっと、年上の、応用科の先輩たちが、何人もいた。
その中で、本科三年の、12歳の私が、解析役。
「……教授」
「何か」
「私で、よろしいのですか」
ヴァルニエ教授は、わずかに、首を、傾けた。
それから、机の上の十六通の束を、もう一度、軽く、手のひらで、撫でた。
「地名の分布を、机の上の木目に、重ねたのは、君だ」
「それを、私に、半呼吸で、伝えたのも、君だ」
「他の応用科の生徒なら、もう少し、迷う」
教授は、それだけ言って、口を、閉じた。
私は、答えを、探した。
「……分かりました」
「お受け、します」
教授は、頷いた。
それから、机の引き出しから、一枚の、白い羊皮紙を、取り出して、私に、差し出した。
「出立は、翌々日の、朝の鐘五つ」
「東街道経由、馬車で、二日半」
「装備は、ヴァサール教官が、明日の昼までに、各人に、指示する」
「サヴリーニュ村の、村長への、書状は、私が、用意する」
「君は、自分の旅の鞄を、整えなさい」
私は、白い羊皮紙を、受け取った。
羊皮紙には、隊員六名の、名前と、出立日と、目的地が、書かれていた。
教授の、わずかに右下がりの、整った筆遣い。
「……はい、教授」
「夕までに、考えなさい、と私は、君に言うつもりだったが」
「君は、もう、考え終わって、ここに、来ていた」
「それは、悪くない、傾向だ」
私は、教授室の椅子から、立ち上がった。
「ありがとう、ございました」
「いいや、こちらこそ。ご家族にも、伝えなさい」
「……手紙で、伝えます」
教授は、最後に、もう一度、頷いた。
私は、扉を、静かに、閉めた。
廊下に出てから、私は、北側の窓の外を、もう一度、見た。
図書館棟の双子尖塔は、午後の薄い日差しの中で、ふだんと、同じ角度で、立っていた。
寮の自室に戻ったのは、夕の鐘四つの少し前だった。
マチューは、不在だった。
机の上の七つの並びは、朝、出かけた時と、同じ位置にあった。
私は、机の前に、座った。
引き出しの三段目を、開けた。
母への返信の、四つ折りを、取り出した。
四つ折りの紙の、角に、私は、家紋を、押した。
藍色のインクで、家紋の下に、「T・V」の刻印。
紙を、もう一度、手のひらに、乗せた。
紙は、母が送ってくれた便箋と、同じ、薄手のものを、使った。
家から、ふだんで、五日。
戻りで、五日。
母に、届くのは、私が、サヴリーニュ村に、着く頃か、その少し後。
私は、自室を出て、寮の入口の手紙箱の、出口側に、四つ折りの紙を、差し出した。
夕方の配達夫が、半刻後に、回収する。
自室に戻った。
机の引き出しの、二段目を、私は、開けた。
麻布の包みが、二段目の中央に、寝ていた。
灯月の初旬から、同じ位置で。
私は、麻布の包みを、取り出した。
包みの厚みは、私の人差し指の、第二関節までの、半分ほど。
包みの中身は、祖父の三枚目の、原本。
私は、麻布を、開けなかった。
開けないまま、机の上に、置いた。
旅の鞄を、寝台の脇から、取り出した。
旅の鞄の内側の、小さな仕切りの中に、麻布の包みを、横向きに、収めた。
仕切りの蓋を、閉じた。
旅の鞄の上から、軽く、押さえた。
押さえた指先の、麻布の手触りが、ふだんの、机の引き出しの中で、なぞった時と、同じ、わずかな粗さで、戻ってきた。
机の上の、七つの並びを、私は、もう一度、見渡した。
並びは、変わらなかった。
引き出しの中の、二段目だけが、空に、なった。
夕の鐘四つが、賢窓塔の塔頂から、鳴った。
私は、椅子に、座ったまま、しばらく、夕の鐘の余韻を、聞いていた。
それから、新しい実験ノートを、開いた。
合金溶解の五枚分の手順の、次の頁を、開いた。
夏の終わりに、母上に、返信を、書こう。
祖父の三枚目を、ふたたび、開く、前に。
灯月の初旬の、夜に、書いた二行は、まだ、その頁の、最初に、残っていた。
私は、その二行を、もう一度、目で、なぞった。
私は、ペンを、取った。
その二行の、下の段に、私は、書いた。
返信は、書いた。三日前に。今朝、出口側の手紙箱に、差し出した。
祖父の三枚目は、まだ、開いていない。
明後日の朝、東街道を、降りる。
三行、書いて、ペンを、置いた。
実験ノートを、閉じた。
机の引き出しの、二段目の、空の中央を、もう一度、見つめた。
「麻布は、旅の鞄の中で、眠っている」
声には、出さなかった。
内側で、一度だけ、確かめた。
夜の鐘十つが、賢窓塔の塔頂から、低く、響いた。
就寝の鐘。
私はろうそくを、消した。
机の上の、七つの並びは、月明かりに薄く、浮かんでいた。
引き出しの二段目は、月明かりの届かない、暗がりの中で、空のまま、眠った。




