第11章 第3話「レヴは、古き、と書いてあった」
結月の末の、午後の鐘四つだった。
私は錬金術実習場から、寮へ、戻った。
その日の課題は、五枚目だった。
合金鍋の中で、銅と鉛の、低温溶解。
ジルと私は、淡い、橙色がかった、薄い灰色の被膜を、出すことに、成功した。
老師は、ふだんと同じ調子で、「ふぅむ、いい色だ」とだけ、言った。
寮の入り口の脇に、手紙箱が、ふだんと同じ位置に、置かれていた。
入り口の壁の、低い位置に、十段に区切られた木枠の手紙箱。
私の段は、上から、四段目。
私は、手紙箱の前で、立ち止まった。
四段目の中に、二つ折りの、白い、ふだんよりも、薄手の紙が、入っていた。
封蝋は、なかった。
折った紙の角に、ヴァルメール家の家紋が、ふだんよりも、薄い、藍色のインクで、押されていた。
家紋の下の刻印は、「C・V」。
クララ。
私は、紙を、手に取った。
紙は、ふだんよりも、軽かった。
家から、ふだんよりも、軽い紙で、手紙が、来ていた。
寮の自室に、戻った。
マチューは、午後の実習で、不在。
机の前に、座った。
紙を、開いた。
クララの筆跡だった。
仮名が、ふだんよりも、多かった。
漢字は、ふだんよりも、少なく、ところどころ、ひらがな混じりで、書かれていた。
「おにいちゃん」と、最初の行に、書かれていた。
> おにいちゃん。
>
> こんにちは。
>
> クララは、げんきです。
>
> おとうさんと、おかあさんも、げんきです。
>
> おにいちゃんは、げんき?
>
> ***
>
> あのね、おにいちゃんに、ききたいことが、あるの。
>
> 3ねんごの、しんたくのぎが、こわいの。
>
> あ、ちがう、もうすこしで、たんじょうび、です。
>
> でも、しんたくは、まだ、さきだった。
>
> ***
>
> しんたくのぎ、こわい。
>
> おにいちゃんは、けんじゃ、って、いわれたから、へいきだったの?
>
> マルクおにいちゃんも、ちょっとへんだった、って、おかあさんが、いってた。
>
> クララも、こまるかな。
>
> ***
>
> でも、おかあさんが、おしえてくれたの。
>
> 「おにいちゃんに、てがみを、かきなさい」って。
>
> だから、かいてみたの。
>
> ***
>
> へんじ、まってます。
>
> いそがなくて、いいよ。
>
> でも、まってます。
>
> ***
>
> クララ
私は、紙を、机の上に、置いた。
しばらく、動かなかった。
クララは、七歳半。
神月15日生まれの私と、神月15日生まれではない、夏生まれのクララの、年齢の差は、三歳半。
クララの誕生日は、灯月。
私の手紙は、いつ届くか、わからない。
家からリューヴェルまで、ふだんで、五日。
戻りで、また、五日。
往復、十日。
クララの誕生日には、間に合うかどうか。
私は、ペンを、取った。
机の上に、ふだんよりも、薄手の紙を、家の紙に、合わせて、薄手のものを、出した。
四つ折りに、できる大きさのものを、選んだ。
何を、書くか、しばらく、迷った。
迷ったのは、書く語を、選ぶときだった。
書く順番を、内側で、整える必要が、あった。
私は、書き始めた。
> クララへ。
>
> げんきで、よかった。
>
> おとうさんと、おかあさんも、げんきで、よかった。
>
> おにいちゃんも、げんきです。
>
> ***
>
> しんたくの、ぎの、はなしを、するね。
>
> おにいちゃんも、へいきでは、なかった。
>
> けんじゃ、っていわれた、あとも、おにいちゃんは、しばらく、ふしぎなかんじが、つづいた。
>
> 「けんじゃ」って、いったい、なんなのか、おにいちゃんも、まだ、はっきりとは、わからない。
>
> ***
>
> マルクおにいちゃんは、たぶん、ちょっと、こまった。
>
> でも、ことしのあき、マルクおにいちゃんに、てがみで、ききなさい。
>
> ちょくせつ、ききなさい。
>
> マルクおにいちゃんは、たぶん、ちゃんと、こたえてくれる。
>
> ***
>
> クララも、こまっても、いい。
>
> こまるのは、わるいことじゃ、ない。
>
> こまっても、おうちにいて、ごはんを、たべて、おかあさんとはなして、おとうさんと、ほんを、よめば、それで、いい。
>
> ***
>
> しんたくのぎで、なにを、いわれても、かぞくは、かわらない。
>
> おとうさんも、おかあさんも、マルクおにいちゃんも、おにいちゃんも、かわらない。
>
> クララも、かわらない。
>
> ***
>
> 3ねんごは、まだ、とおい。
>
> いまは、ごはんを、たべて、おかあさんと、はなして、おとうさんと、ほんを、よめば、それで、いい。
>
> ***
>
> こわいときは、また、てがみを、かきなさい。
>
> おにいちゃんは、まってます。
>
> ***
>
> テオ
書き終わった。
書き終わって、しばらく、紙を、見ていた。
書いた語の中の、いくつかが、自分の体の中に、ふだんよりも、深く、入っていた。
「かぞくは、かわらない」と書いた箇所。
「こまるのは、わるいことじゃ、ない」と書いた箇所。
クララに、書いた、言葉だった。
書いた相手は、クララだったが、書いた瞬間に、私の中にも、入った。
「書くと、字が、自分の体の中に、入る」
結月の終わりの、自分の声が、また、戻ってきた。
私は、紙を、四つ折りに、した。
机の引き出しの三段目に、入れた。
明朝、寮の入り口の手紙箱の、出口側に、差し出す。
灯月の初旬の、朝の鐘六つだった。
私は寮の入り口の手紙箱の、出口側に、四つ折りの紙を、差し出した。
家から戻ってきた配達夫が、手紙袋に、入れた。
手紙箱の私の段に、別の手紙が、入っていた。
家からの、二通目。
封蝋は、ヴァルメール家の紋章、開いた本に、羽根ペンと、三日月。
家紋の下の刻印は、「É・V」。
母エリザベート。
私は、自室に、戻った。
母の手紙の、封を、ペーパーナイフで、慎重に、剥がした。
ぱきり、と、小さな音が、鳴った。
中から、二つ折りの、便箋が、二枚。
開いた。
母の筆跡だった。
落ち着いた、わずかに、流麗な字。
母の手紙では、ふだんと同じ、フランディア語の中に、レヴァンタ語の語が、ところどころ、混じっていた。
「Mon dieu」は、なかった。
代わりに、レヴァンタ語の「ma bichette」(私の小さき者)が、最初の行に、入っていた。
> テオ。
>
> 元気ですか。
>
> あなたが学院で古代語を、学んでいると、お父様の手紙で、聞きました。
>
> ***
>
> あなたの古代語の引用句のことを、お父様が、わたくしにも、見せてくださいました。
>
> わたくしは、これらの字形を、見たことが、ありませんでした。
>
> でも、字の音の並びを、声に出して、読んでみたら、わたくしの、学院時代の死語学のノートの中の、ある音と、似ていることに、気付きました。
>
> ***
>
> わたくしは、自分の死語学のノートを、もう一度、開きました。
>
> あなたが帰省したときに、お渡ししたあのノートは、わたくしの手元には、もう一冊、控えがあります。
>
> その控えの、ほうを、もう一度、開きました。
>
> ***
>
> 死語学のノートの、二十年前のページに、わたくしは、次のように、書いていました。
>
> ***
>
> 古代語の「レヴ」は、レヴァンタ語の「rivère」(古い、年経た)と同源かもしれない。
>
> ***
>
> 古代語の「エ」は、レヴァンタ語の「et」、北海ノルディア語の「oc」と、いずれも、接続の語と同じ。
>
> ***
>
> 古代語の「ノ」は、レヴァンタ語の「ne」(〜の、属性の助詞)と同じ位置に、置かれる。
>
> ***
>
> わたくしは、これらを、二十年前に、書きました。
>
> その後、わたくしは、これらを、誰にも、話しませんでした。
>
> 話す相手が、いなかったからです。
>
> ***
>
> あなたが、学院で、古代語を、学び始めたと、聞いて、わたくしは、自分のノートを、ふたたび、開きました。
>
> あなたに、伝えてよいのか、しばらく、迷いました。
>
> でも、お父様が、「テオには、伝えなさい」と、言ってくださいました。
>
> ***
>
> ですから、伝えます。
>
> ***
>
> レヴ=古き。
>
> エ=と。
>
> ノ=の。
>
> ***
>
> わたくしは、これ以上は、読めないわ。
>
> でも、あなたが行く道は、わたくしが歌った3つの言語の、もうひとつ向こうに、あるかもしれない。
>
> ***
>
> 急がないで、テオ。
>
> 三語ずつで、いい。
>
> 歌は、急がない方が、長く、歌えるのよ。
>
> ***
>
> あなたの返事を、待っています。
>
> 急がないで。
>
> ***
>
> ma bichette。
>
> ***
>
> エリザベート
私は、便箋を、机の上に、置いた。
しばらく、動かなかった。
「レヴ=古き」
「エ=と」
「ノ=の」
声には、出さなかった。
内側で、三度、読んだ。
私は、机の引き出しの二段目を、開けた。
祖父の手紙の三枚目を、麻布から、取り出した。
机の上に、原本を、広げた。
完全記憶は、祖父の手紙の三枚分の、すべての文字の位置を、保持していた。
私は、第2層(羊皮紙の二枚目)の、すべての行を、内側で、巻物のように、引き出した。
「レヴ」「エ」「ノ」の三語の連鎖を、探した。
一つ目。
第2層の冒頭近く。
「レヴ・ノアン・エ・ファルナ」
レヴ=古き。
ノアン=?(まだ、読めない、だが、父アンリの索引で「六なる」と示唆された、あの語)。
エ=と。
ファルナ=?(まだ、読めない)。
二つ目。
第2層の中盤。
「レヴ・コリエ・ノ・ファル」
レヴ=古き。
コリエ=?(まだ、読めない)。
ノ=の。
ファル=?(まだ、読めない、だが、「ノアン・テラム・コリエ」の連鎖と並列に、置かれていた語)。
三つ目。
第2層の末尾近く。
「……エ・ノ・……レヴ・ヴェレ」
エ=と。
ノ=の。
レヴ=古き。
ヴェレ=?(まだ、読めない)。
私は、第2層の三箇所の連鎖を、内側で、もう一度、巻き戻した。
「読めた」
「三語、読めた」
声には、出さなかった。
内側で、二度、繰り返した。
それから、内側で、続けた。
「だが、ノアンと、ファルナと、コリエと、ファルと、ヴェレは、まだ、読めない」
「読めない」
「読めない」
「読めない」
「読めない」
「だが、レヴと、エと、ノは、読めた」
机の上の祖父の手紙の三枚目の、原本を、しばらく、見ていた。
「読めるのに、意味が、取れない」
家から戻ってきたあとも、私が、内側で、繰り返していた言葉。
その言葉の、密度が、ふだんよりも、わずかに、薄く、なっていた。
「読めるのに、意味が、取れない」
完全には、取れない。
だが、三語ぶんは、取れた。
机の上の、六つの並びが、今朝までと、同じ位置に、あった。
書きかけのアネット手紙。
書き始めの父への手紙と、父からの返信。
古代語の写しの束(鏡月の半月から、九枚、灯月の初旬で、十二枚に、増えていた)。
古代語綴字概論。
母の死語学のノート(家から持ち帰った原本)。
そして、新しい実験ノート(最初の三行の「手順、手順、手順」と、二行目以降の、銅と銀、鉄と亜鉛、鉄と鉛、銅と亜鉛、銅と鉛の合金溶解の、五枚分の手順を、書き写したもの)。
母の手紙の便箋を、六つの並びの隣に、置いた。
「六つの、上に、一つ、増えた」
私は、母への返信を、書こうとした。
ペンを、取った。
紙を、出した。
書く語を、選ぶ前に、私は、ペンを、机の上に、戻した。
返信は、明朝に、しよう。
母の手紙を、内側で、もう一度、読みたかった。
机の上で、母の便箋を、もう一度、開いた。
「急がないで、テオ」
「三語ずつで、いい」
「歌は、急がない方が、長く、歌えるのよ」
声には、出さなかった。
ただ、母の声を、内側で、思い出した。
帰省の最後の朝、玄関で、私に、麻布表紙の死語学のノートを、差し出したときの、声と、ほぼ、同じ、調子。
私は、便箋を、四つ折りに、して、机の引き出しの三段目に、入れた。
ペーパーナイフは、引き出しの二段目に、戻した。
祖父の手紙の三枚目は、麻布で、包み直して、引き出しの二段目に、寝かせた。
引き出しを、静かに、閉めた。
七つ目。
私は、椅子に、座ったまま、夕の鐘四つを、待った。
夕の鐘四つは、まだ、鳴らなかった。
夕の鐘四つが、サヴァン通りではなく、学府丘の方角から、低く、響いた。
私は立ち上がった。
夕食の食堂で、マチューと向かい合った。
マチューは、ふだんと同じ、肌の色で、ふだんと同じ、声の調子で、ふだんと同じ、食べる速さで、いっしょに、食べた。
何も、聞かれなかった。
何も、答えなかった。
夕食後、自室に、戻った。
机の上の、七つの並びを、もう一度、見渡した。
椅子に、座った。
ペンを、取った。
新しい実験ノートを、開いた。
二行目以降の、合金溶解の、五枚分の手順の、次の頁を、開いた。
新しい頁の、最初の行に、私は、書いた。
手順を、踏むことを、覚えた。
二行目に、私は、書いた。
手の動きと、同じことを、計算で、書けた。
三行目に、私は、書いた。
家族の手紙が、温度を、運んできた。
四行目に、私は、書いた。
レヴ=古き、と、書いてあった。
四行、書いて、しばらく、動かなかった。
それから、私は、続けた。
だが、ファルナは、まだ、読めない。
それでも、レヴは、読めた。
コリエは、まだ。ファルも、まだ。
それでも、エと、ノは、読めた。
「読めない」と「読めた」を、交互に、書いた。
それから、もう一度、続けた。
理屈と、手の動きは、両立する。
一人で、急いだ運用は、書いて、置く。
それが、あの夜の、私の、答えだ。
三行、続けて、書いた。
最後に、私は、書いた。
夏の終わりに、もう一度、母上に、手紙を、書こう。
祖父の三枚目を、ふたたび、開く、前に。
二行、書いた。
ペンを、置いた。
実験ノートを、閉じた。
机の上の、七つの並びを、もう一度、見渡した。
七つの並びは、ふだんと、同じ位置で、月明かりに薄く、浮かんでいた。
灯月の、初旬の、半月。
私はろうそくを、消した。
机の上の七つの並びは、月明かりに薄く、浮かんでいた。
新しい実験ノートの、革の縁が、月光で、わずかに、光った。
「明朝、母上に、返信を、書く」
指先で、新しい実験ノートの、革の縁を、一度だけ、なぞった。
それで、明日が決まった、ということになる。
鐘十つが、学府丘の方角から、低く、響いた。
就寝の鐘。




