第207話 十九件始めるのをやめたら、完成品が一・六倍になった
翌朝、俺たちは農具修理工房へ向かった。
数字だけなら、昨日の時点ですでに妙だった。
金属材不足は解消した。
職人の人数は変わっていない。
注文数も急増していない。
それなのに作業途中の品――仕掛品だけが、三日前の七件から十九件まで増えている。
普通に考えれば、材料が来て仕事を始められるようになったのだから、悪いことではないように見える。
実際、工房へ入った瞬間もそう感じた。
誰も遊んでいない。
炉の前では職人が赤く熱した金属を叩き、奥では別の職人が刃先を研いでいる。作業台では鍬の柄を外し、その隣では鋤の補強金具を合わせていた。
忙しい。
むしろ以前より忙しそうだった。
ところが、完成品を置く棚は思ったほど増えていない。
代わりに作業台の周囲がひどかった。
柄を外した鍬。
刃だけになった鎌。
金具を外された鋤。
加熱待ちの鉄部品。
研磨待ち。
焼き入れ待ち。
組み直し待ち。
一つ一つには理由がある。
全部、ちゃんと仕事を始めた結果だ。
フィンが十九件を数えてから、工房主へ尋ねた。
「これ、全部今日触ってるんですか?」
「もちろんです。材料が来たから、止めていた分を急いで進めています」
嘘ではなかった。
職人は本当に十九件へ触っている。
問題は、その「触っている」の中身だった。
一人の職人をしばらく見る。
最初に鍬を一つ分解した。
金具を外し、傷んだ部分を見る。
そこで炉が空いていなかったため、横へ置く。
次に鎌へ移る。
刃を外す。
研ぎ場を見ると、そこも使用中。
また横へ置く。
三つ目の鋤を取り、今度は補強金具を切り出し始めた。
途中で炉が空いたという声が掛かる。
最初の鍬へ戻る。
どこまでやったか確認する。
必要な鉄材を探す。
加熱する。
その間に別の職人から工具を借りられないかと声を掛けられる。
鍬が終わる前に、また別の作業が入る。
働いている。
ずっと働いている。
ただし、一つも完成していない。
レイナが俺の隣で小さく言った。
「切り替えすぎ」
俺も同じことを考えていた。
問題は、職人の速さではない。
仕事を同時に始めすぎている。
工房主から三日分の記録を借りた。
材料不足だった三日前。
着手九件。
完成八件。
仕掛品七件。
材料が届いた翌日。
着手十八件。
完成九件。
仕掛品十三件。
昨日。
着手二十一件。
完成十五件。
仕掛品十九件。
フィンが数字を追って首を傾げた。
「完成も増えてるよ?」
「増えてる。でも着手の方がもっと増えてる」
「だから途中が溜まる?」
「そう」
材料が来たことで、工房は止めていた仕事を一気に始めた。
完成数も八件から十五件まで増えた。
一見すると改善している。
だが、途中の仕事も七件から十九件へ増えている。
このまま毎日六件ずつ増えれば、一週間もしないうちに作業台が埋まる。
しかも仕掛品が増えるほど、探す、避ける、思い出す、取り直す、という完成に直接関係しない仕事も増える。
ミナが職人たちの動きを記録した。
一時間。
実作業。
三十八分。
工具や材料を取りに行く時間。
九分。
別の仕事へ切り替える時の確認。
七分。
作業場所を空けるため、途中品を移動させる時間。
六分。
合計すれば、一時間のうち二十二分が「加工そのもの」ではない。
もちろん工具を取りに行く時間を全部なくすことはできない。
だが、仕事を切り替える回数が増えたことで明らかに余計な動きが増えていた。
「じゃあ一件ずつ終わらせる?」
フィンが聞いた。
それも違う。
鍬を炉へ入れている間。
焼き入れ後に冷ます間。
接合部が落ち着くのを待つ時間。
一つの仕事だけを最初から最後まで見張っていても、待ち時間ができる。
同時進行そのものが悪いわけではない。
多すぎるのが問題だ。
俺たちはさらに工程を見た。
分解。
形状確認。
加熱・鍛造。
研磨。
焼き入れ。
組み直し。
最終確認。
全部の工程が同じ速さではない。
一番詰まっていたのは、炉と仕上げ用の研磨台だった。
炉は二人が同時には使いにくい。
研磨台も一つ。
そこへ向かう仕事だけが次々増えている。
分解だけなら速い。
だから手が空いた職人は新しい農具を分解する。
分解すると「仕事を進めた」感じはする。
だが、その後の炉と研磨が追いつかない。
結果。
分解済みの農具が増える。
まるで入口だけ広げて、出口の幅を変えていない倉庫だった。
「前と同じだな」
俺が言うと、フィンが作業台を見た。
「倉庫?」
「荷車を増やした時、西側で荷集めが詰まっただろ」
「ああ……今度は材料を増やしたから、工房の中が詰まった?」
「そういうこと」
一つの制約を外すと、次に遅い場所が見える。
材料不足がなくなった。
だから職人が作業を始められるようになった。
始められる仕事が増えたことで、今度は炉と研磨が一番遅い場所になった。
なら、そこより速く仕事を流し込んでも完成品は増えない。
増えるのは途中品だけだ。
工房主は説明を聞きながらも、納得しきれない顔をした。
「しかし、仕事を始めないというのも……依頼品を置いておくだけになりますよ?」
「完成する数が減るなら問題です。でも、まず試してみませんか」
「どうするんです?」
大げさな工程表は作らなかった。
十九件を全部管理する帳面もいらない。
作業台の横に、空いていた小さな棚を一つ置いた。
三段。
一段に二件。
合計六件。
今、工房内で分解以降へ進めていい修理品は、原則六件まで。
七件目は始めない。
受付済みの農具は、壊していない状態のまま待機棚へ置く。
一件完成して作業棚が一枠空いたら、次を一件だけ入れる。
フィンが棚を見た。
「六件って、何で六?」
「仮だよ」
職人三人。
炉と研磨の処理速度。
昨日までの完成数。
一件あたりの平均作業時間。
それらを見て、とりあえず六件から試す。
六が正解だと制度化する気はない。
四の方がよければ四。
八でも問題なく回るなら八。
現場を見て変えればいい。
重要なのは十九件全部を同時に開かないことだった。
工房主が少し困った顔をする。
「急ぎの依頼が入ったら?」
「急ぎ枠を一つだけ別にする」
「一つ?」
「何でも急ぎにしたら、六件制限の意味がなくなるので」
これには工房主も苦笑した。
「それは……確かに」
緊急修理。
たとえば農作業の最中に壊れ、今日直らなければ作業そのものが止まる農具。
輸送へ使っている荷車の重要部品。
そうしたものだけ、一枠。
使ったら、終わるまで次の緊急品は原則入れない。
本当に二件同時に緊急なら、その時だけ工房主が判断する。
細かい規則は作らない。
一日目。
朝の仕掛品十九件を、いきなり六件へ戻すことはできなかった。
すでに分解しているものを元に戻す方が無駄だからだ。
だから新規着手を止めた。
十九件の途中品を、一つずつ完成させる。
完成しても、仕掛品が六件まで減るまでは新しい仕事を入れない。
午前中。
完成五件。
新規着手、零。
仕掛品十四件。
午後。
完成六件。
新規着手、零。
仕掛品八件。
夕方近く。
さらに二件完成。
仕掛品六件。
そこで初めて、待機棚から次の一件を入れた。
工房主は一日中、少し落ち着かない様子だった。
「仕事を断っているみたいで、妙な感じがします」
「断ってないですよ。受付はしてる」
「でも触っていない」
「触ったまま三日置くのと、触らず一日待って翌日完成するのなら、どっちがいいです?」
工房主は作業台を見た。
朝には十九件あった途中品が、もう七件しかない。
「……後者ですな」
依頼する側から見ても同じだ。
鍬を分解されて工房内に置かれれば、進んでいるように見える。
だが三日返ってこないなら意味がない。
未着手でも、明日始めて明日返る方が実用上は早い。
二日目。
朝の仕掛品、六件。
待機品、十一件。
工房主はまだ不安そうだったが、約束通り六件を超えて着手しなかった。
一件完成。
一件入れる。
二件完成。
二件入れる。
棚の六枠が、仕事の流量を決める。
職人たちは最初こそ「次も分解しておこう」と手を伸ばしかけたが、途中から変化が出た。
今やっている仕事を終わらせないと、次を始められない。
すると自然に、完成へ近い仕事を先に片付けるようになった。
「この鎌、研磨だけ残ってる」
「先に終わらせよう。枠が空く」
「こっちの鍬は焼き入れ待ちだから、その間に組み直しをやる」
以前は、自分の手が空いたら新しい物を始めていた。
今は、工房全体の中で「終わらせられる物」を探している。
誰かの途中仕事を手伝うことも増えた。
職人ごとの仕事ではなく、工房の完成品を増やす方向へ動き始めた。
レイナがその様子を見ながら言った。
「評価対象が変わった」
「何が?」
フィンが聞く。
「始めた数から、終わった数」
そこだった。
忙しさは成果ではない。
着手数も成果ではない。
依頼人へ返せる完成品が増えなければ、工房としては終わっていない。
二日目の夕方。
完成二十三件。
前日の十五件から、一気に八件増えた。
約一・五倍。
しかも仕掛品は六件のまま。
三日目。
職人たちが棚に慣れた。
完成二十四件。
三日前の十五件と比べれば、一・六倍。
仕掛品、最大七件。
七になったのは緊急枠を一度使ったためだ。
緊急修理は荷車の固定金具。
持ち込まれてから一時間九分で完成。
以前なら、十九件の途中品のどこへ差し込むかでさらに混乱していた可能性がある。
今回は通常六枠とは別に一件だけ入れ、終わったら消えた。
待機品も減った。
初日、十一件。
二日目、七件。
三日目、二件。
受付を止めていないのにだ。
フィンが数字を何度も確認する。
「始める数を減らしたのに、待ってる仕事まで減った?」
「完成するのが速くなったから」
「忙しそうだった前より?」
「忙しそうかどうかと、終わるかどうかは別だからな」
ミナが作業時間の再計測を持ってきた。
前回。
一時間のうち実作業、三十八分。
工具・材料移動、九分。
仕事切り替えの確認、七分。
途中品の移動、六分。
今回。
実作業、四十九分。
工具・材料移動、六分。
仕事切り替えの確認、三分。
途中品の移動、二分。
一時間の長さは同じだ。
職人を急がせてもいない。
休憩も削っていない。
ただ、途中の仕事が少なくなったことで十一分が加工へ戻った。
一日なら大きい。
三人分なら、さらに大きい。
工房主が数字を見て、しばらく黙った。
「正直、最初は六件しか仕事をさせないなんて、遊ばせることになると思っていました」
「実際どうでした?」
「前より忙しくない気がするのに、前より終わっています」
一番いい状態かもしれない。
疲労を増やして成果を出すのは簡単だ。
長くは続かない。
同じ人数、同じ時間で、余計な切り替えだけを減らす。
その方が持続する。
領主も現場を見に来た。
最近は報告書だけでなく、数字が大きく変わった場所は自分で見ることが増えた。
以前なら十九件並んでいた作業場。
今日は六件。
床も空いている。
通路に農具がはみ出していない。
「仕事が減ったように見えるな」
領主が言った。
工房主が苦笑した。
「私もそう思いました」
「実際は?」
俺は三日分を見せる。
材料不足解消直後。
完成十五件。
仕掛品十九件。
着手制限後。
完成二十四件。
仕掛品六件。
完成数、一・六倍。
仕掛品、約三分の一。
領主が数字と工房を見比べた。
「これで職人は増えていない?」
「三人のままです」
「作業時間は?」
「同じ」
「炉も?」
「同じです」
「研磨台も?」
「一台のまま」
「では増やしたものは?」
フィンが先に答えた。
「完成するまで次を始めない我慢?」
工房主が吹き出した。
間違ってはいない。
むしろ一番近い。
新しい機械を入れたわけではない。
設備投資もない。
人員追加もない。
材料をさらに積み増したわけでもない。
単に、同時に始める仕事を減らした。
それだけで完成品が増えた。
領主は六枠の棚を見ながら言った。
「これは全工房に六件制限を出すのか?」
「出しません」
即答すると、領主も笑った。
「そうだと思った」
六件は、この工房の今の人数と設備で試した数字だ。
鍛冶場なら違う。
木工なら違う。
十人いる工房なら、六では少なすぎるだろう。
一件に何日もかかる仕事なら、考え方そのものを変える必要がある。
配るなら「六件」という答えではない。
見る数字だけだ。
仕掛品が増え続けていないか。
着手数だけ増えて完成数が増えていないか。
仕事を切り替える時間が増えていないか。
そこに問題があれば、同時着手数を減らして試す。
それで十分だった。
レイナも頷く。
「正解を固定しない」
どこかで聞いた話だった。
領主も気づいたらしい。
「遠村の修理紙と同じか」
「似てますね」
何でも標準化すればいいわけではない。
標準化するのは考え方や確認場所。
現場で変わる数字まで固定しない。
夕方、三日間の試験結果をまとめた。
農具修理工房。
職人三人。
設備変更、零。
追加人員、零。
追加残業、零。
材料追加、試験期間中は零。
同時仕掛品、十九件から原則六件。
緊急枠、一件。
一日完成数、十五件から二十四件。
一・六倍。
一時間あたり実作業時間、三十八分から四十九分。
待機品、十一件から二件。
平均して依頼品が工房内に滞在する時間も、試験前の二・八日から一・四日まで短くなった。
数字だけなら十分だった。
だが、もう一つ予想外の変化があった。
夕方、農具を受け取りに来た農家が言った。
「今回は早かったな。昨日持ってきたばかりだぞ」
工房主が少し誇らしそうに答える。
「始めたら終わらせるようにしたんですよ」
農家は意味が分からなそうな顔をしたが、直った鍬を持って満足そうに帰っていった。
その後も受け取りが続く。
完成品棚が空く。
今までなら完成した農具の間に、途中品まで混ざって置かれていた。
今日は完成品しかない。
受け渡しも速い。
一つ改善すると、予想していなかった小さな無駄まで一緒に消えることがある。
俺は今日の報告書を書き終えた。
《材料不足解消後に仕掛品が7件から19件へ増えた農具修理工房で、同時着手を原則6件+緊急1件へ制限。追加人員・設備・残業なしで、一日完成数15件→24件、仕掛品19件→6件、依頼品滞在2.8日→1.4日。》
そして一番下へ、
《始めた仕事の数ではなく、終わった仕事の数を見る》
と付け加えた。
これで農具工房は、かなり落ち着いた。
材料もある。
輸送も回る。
仕掛品も減った。
今度こそ、しばらく数字を見ながら維持するだけでいい。
そう思ったところで、ブラントが何か言いたそうにこちらを見ていた。
「あるんだろ」
先に聞くと、ブラントが苦笑する。
「あります」
フィンがもう驚きもしない。
「今度はどこ?」
ブラントが出したのは、農具工房ではなく、その隣の建築金具を作る鍛冶場の記録だった。
農具工房の仕掛品は減った。
一方。
建築金具の注文残。
三日前、六件。
昨日、十一件。
今日、十七件。
「材料は?」
「あります」
「職人は?」
「通常通りです」
「途中品が増えてる?」
「いいえ」
そこが違った。
農具工房では始めすぎていた。
建築金具の工房では、そもそも始められていない。
注文だけが入口に積み上がっている。
レイナが記録を追い、一か所を指した。
同じ種類の金具を少量ずつ、何度も作っている。
扉用。
荷車用。
倉庫用。
同じ厚み。
ほぼ同じ形。
それなのに注文が来るたび、一件ずつ炉を準備し、材料を切り、一件分だけ加工して、また別の形へ切り替えている。
フィンも気づいた。
「今度は逆?」
「たぶんな」
農具修理は、まとめすぎた仕事を減らした。
こちらは。
同じ仕事を、細かく分けすぎている。
一件ずつ始める方がいい仕事もあれば。
何件かまとめた方がいい仕事もある。
俺は報告書の最後へ、新しい一行を書いた。
《建築金具の注文残6件→17件。同型品を一件ずつ作るたび、炉・材料・型を切り替えている。同じ仕事は、どこまでまとめた方が速いか》
仕事を始めすぎる問題は止めた。
次は。
同じ仕事を何度も始め直す問題だった。




