第193話 黒くても、一枚は一枚
朝の入口はいつも通り暗く、低い二基の灯りが返却棚だけを照らしていた。ゼフが三箱を順番に確認し、一番から三番まで異常0。物理箱3、穴札12、朝値変更0。補修班許可段+1にも変化はない。
昨日は、同じ額面の銀貨を重さだけで揃える案を退けた。
貨幣は分銅ではない。長年使われて少し軽くなった銀貨まで、そのたびに不足分を足したり、重すぎる物を削ったりする必要はなかった。
普通の摩耗なら一枚は一枚として使う。大きく欠けた物は既存の交換窓口へ回し、人為的に削って銀を抜いた物は貨幣改変として扱う。
物理的な重さは判断材料にはなるが、額面そのものではない。
そこまで終えたところで、今度は銅貨の見た目が問題になった。
市場側の机には、今朝も銅貨が十数枚並べられている。
明るい赤褐色の新しい物、普通に茶色くなった物、黒っぽい物、表面に緑色の汚れが少し浮いた物まで様々だった。
フィンはその中から最も黒い一枚をつまみ上げ、窓際の明かりへかざした。
「汚いけど、紋章も額面も普通に見えるな」
「使えます」
ブラントは頷いた。
「ですが、昨日の夕方から『黒い銅貨は受け取らない』という店が七軒出ました。さらに三軒が、新しい銅貨ならそのまま、古い銅貨なら二枚余分に出してほしいと要求しています」
フィンが銅貨を机へ戻した。
「同じ額面なのに?」
「見栄えが悪いから商品価値が低い、という理屈です」
ミナが少し眉を寄せる。
「銅貨の商品価値?」
声にすると、妙だった。
貨幣は商品を買うために使う物で、普通の店で一枚一枚を観賞品として買うわけではない。
そこへ細身の商人が、今日も新しい商売を持って現れた。
「だから市場で状態を分ければいい!」
机へ置かれた札には、《一等銅貨》《二等銅貨》《流通注意銅貨》と書かれている。
フィンは札を見たあと、商人の顔を見た。
「昨日、銀貨を重さで格付けしなかったのに、今日は見た目で格付けするの?」
「全然違う! 客が受け取りたい貨幣を選べるようにするだけだ。一等は光沢あり、二等は通常摩耗、黒ずみや錆のある物は注意貨!」
「額面は?」
「同じだ」
「じゃあ一等が欲しい理由は?」
細身の商人は一瞬だけ詰まったものの、すぐに言い返した。
「綺麗だからだ!」
レイナ 「市場で好むのは自由」
男の顔が明るくなる。
「なら――」
「受取額を変えるのは別」
また止まった。
店側が「新しい銅貨の方が好きだ」と思うことまでは止められない。祝い事や贈り物のために、綺麗な貨幣を欲しがる人もいるだろう。
しかし、通常の支払いで額面の読める有効な銅貨を「汚いから半分の価値」とするなら、貨幣の意味そのものが店ごとに変わってしまう。
女商人が黒い銅貨を一枚手に取った。
「私は普通に受け取りますよ。次の支払いで使えますから」
細身の商人はすぐに反論する。
「だが、お前自身は新しい銅貨と古い銅貨、どちらを選ぶ?」
「同じ十枚なら、数えやすい方ですね」
「ほら!」
「でも黒いから十一枚要求はしません」
女商人は平然と返した。
革帯の男が銅貨の列を見ながら腕を組む。
「とはいえ、どこまで汚れても一枚として受け取るんだ? 完全に腐食して紋章も見えない物まで同じとは言えんだろう」
そこは見る必要があった。
普通の黒ずみ。
表面腐食。
大きな欠損。
見分けのつかない貨幣。
全部を同じにはできない。
まず、実物を分ける。
ブラントが昨日から集めた銅貨は十八枚。
通常の黒ずみが九枚。紋章も額面も読める。
表面に緑色の腐食がある物が四枚。ただし、軽く拭けば刻印は見える。
縁が欠けている物が二枚。
表裏の刻印がほとんど消えている物が二枚。
残る一枚だけは、表面が異様に明るかった。
フィンがそれを持ち上げる。
「これが一番綺麗」
ゼフが受け取り、指で縁をなぞった。
「薄い」
「え?」
鍛冶工房主にも見せる。
親方は一度手に載せただけで顔をしかめた。
「磨きすぎだな。表面をかなり削ってる」
細身の商人が言葉を失った。
新しく見える。
光沢もある。
だが、実際には金属を削って薄くしている。
昨日の銀貨ほど悪質に銀を抜く目的ではなく、単純に綺麗にしようとして磨きすぎたらしい。
購入元。
市場の銅貨洗浄屋。
フィンが嫌な顔をする。
「もう洗浄屋まであるの?」
「昨日の夕方からです」
ブラントが答えた。
早い。
呼ばれた洗浄屋は、悪びれた様子もなく布と研磨砂を持ってきた。
「黒い銅貨を嫌がる店が増えたから、磨けば通りやすくなると思ったんだ」
レイナ 「何枚?」
「四十三枚」
周囲が少し静かになる。
「全部削った?」
「軽く磨いたのが三十七。強く磨いたのは六枚くらいだ」
六枚。
回収して確認。
明らかに薄くなっている物が四。
問題ない範囲が二。
事故0。
ただし、目的と結果が逆だった。
見た目を良くして使いやすくするための作業が、貨幣そのものを傷めている。
ミナが光る一枚と、普通に黒ずんだ一枚を並べた。
「綺麗な方が状態が良いとは限らないんですね」
「昨日までと同じだな」
フィンが笑った。
「新品だから正常じゃない。判子が多いから上等じゃない。検査欄が全部埋まってるから良品でもない。今度は光ってるから良貨とは限らない」
細身の商人は《一等銅貨》の札を黙って裏返した。
午前中、市場で実際の受け取りを試す。
パン屋。
黒ずんだ銅貨一枚。
紋章。
見える。
額面。
見える。
大きな欠損0。
普通に受け取る。
次。
肉屋。
緑色の腐食が少しある銅貨。
店主が嫌そうな顔をした。
「手が汚れる」
女商人が布で軽く拭く。
緑色の粉が取れ、刻印が見える。
貨幣自体は問題ない。
店主も受け取った。
ただし、保管箱の中へ湿った銅貨をまとめて入れていたことが分かる。
鍛冶工房主が箱を見る。
「これ、貨幣じゃなく保管の問題だぞ。濡れたまま入れてるから腐食が進む」
店主が気まずそうに頭を掻いた。
「魚屋から来た銅貨、そのまま入れてた」
対策。
乾かす。
箱の底。
湿った布を外す。
終わり。
《銅貨保管規則》。
0。
《貨幣乾燥責任者》。
0。
店主自身が嫌なら、濡れたまましまわなければいい。
細身の商人が小声で「防湿貨幣箱……」と呟いた。
女商人が聞き逃さなかった。
「市場で売るならいいんじゃないですか?」
男の顔が明るくなる。
レイナ 「市場」
「今日は商売を止められてない!」
「領主府標準にしたら0」
「分かってる!」
次は、縁の欠けた銅貨。
小さい欠け。
一枚。
額面判別可能。
既存交換窓口へ持っていくほどか。
ブラントが過去の扱いを確認する。
普通摩耗として流通している例あり。
そのまま。
もう一枚。
大きな欠け。
紋章の一部まで失われている。
こちらは既存交換窓口。
昨日の銀貨と同じ。
新しい判定窓口。
0。
最後。
刻印がほとんど見えない二枚。
一枚は古すぎて摩耗。
もう一枚は表面腐食。
フィンが二枚を手のひらへ乗せた。
「銅貨っぽいけど、本当に同じ額面か自信ないな」
そこまで来れば、普通の店へ「受け取れ」と押し付けるのも違う。
領主府の交換窓口。
両替商。
詳しい者へ確認。
使えると分かれば戻す。
分からなければ交換。
つまり。
《見た目が悪いから拒否》。
ではない。
《何の貨幣か判断できないから確認》。
そこは別だった。
午後には、別の方向から問題が出た。
市場の一角に、《新銅貨のみ》という札を出した菓子屋が現れた。
理由。
「祝い菓子だから、汚い銅貨を受け取りたくない」
フィンが店先の札を見上げる。
「祝い菓子と支払いの銅貨、関係ある?」
店主は真剣だった。
「縁起が違う!」
レイナ 「民間取引なら?」
ブラントが確認する。
「価格や支払条件を事前に明示して、客が選べるなら、通常の私的取引としては扱えます」
つまり。
その店が「新銅貨で払う人にだけ売る」という面倒な商売をしたいなら、基本的には自由。
客も嫌なら別の店へ行けばいい。
ただし。
税。
公共料金。
領主府への支払い。
そこで同じことはしない。
有効な貨幣なら、普通に額面で受け取る。
領主府側まで「綺麗な銅貨優先」にすると、貨幣そのものへ公的な上下が生まれる。
革帯の男が納得したように頷いた。
「民間の好みと、公が額面通り受け取ることは別か」
「うん」
「じゃあ菓子屋は好きにやって、客が減っても自分の責任」
「市場」
フィンが笑った。
「最近まとめるの上手いね」
「今日は素直に受け取る」
「成長した」
「やっぱり腹立つな」
その日の夕方。
菓子屋。
朝。
《新銅貨のみ》。
客。
11人。
購入。
4。
断念。
7。
昼過ぎ。
札。
変更。
《新銅貨なら小菓子一個おまけ》
フィンが札を見て吹き出した。
「受け取り拒否やめた」
女商人も笑う。
「市場が調整しましたね」
古い銅貨でも通常価格で買える。
新銅貨を持っている客だけ、小さなおまけ。
民間の販促。
自由。
領主府関係0。
細身の商人はその様子を見ながら腕を組んだ。
「綺麗な貨幣には、やはり別の価値があるじゃないか」
レイナ 「額面以外の好み」
「それを価値と言う!」
「市場価値なら」
「今日は勝った気がする!」
「公的額面は同じ」
「全部は勝てないのか!」
夕方の領主への報告では、黒ずんだ銅貨、強く磨かれた銅貨、大きく欠けた銅貨の三枚が机へ並べられた。
領主は最初に黒ずんだ一枚を持ち上げた。
「これは使える?」
「普通に」
ブラントが答える。
次に、光沢の強い一枚。
「これは綺麗だな」
「磨きすぎで薄くなっています」
領主の眉が上がった。
最後に大きく欠けた一枚。
「これは交換窓口」
「はい」
領主は三枚を並べ直した。
「見た目の良し悪しと、貨幣として使える状態は別なのだな」
レイナ 「正解」
「黒くても額面が読めて、普通に使えるなら一枚。光っていても削りすぎて傷めていれば問題。何の貨幣か分からないほどなら確認する」
「満点」
フィンが領主の横で頷いた。
「今日は分かりやすかった」
「私は最初から分かっていた」
領主が得意げに言う。
レイナ 「朝、光る方見てた」
領主 「……見るくらいいいだろう」
少し笑いが起きた。
ブラントが本日の数字をまとめる。
確認銅貨18。
通常黒ずみ9。
表面腐食4。
小欠け1。
大欠け1。
判別困難2。
過度研磨1。
洗浄済銅貨43。
強研磨疑義6。
明確な薄化4。
回収4。
事故0。
大欠け・判別困難。
既存交換窓口へ。
新規貨幣等級0。
一等・二等銅貨制度0。
領主府の新銅貨優先0。
民間の貨幣選好。
自由。
民間販促。
自由。
その時、ブラントが最後に市場の集計紙を一枚追加した。
「もう一つ、動きがあります」
フィンが見る。
「菓子屋?」
「それだけではありません。新しい銅貨を受け取った人が使わずに取っておき、古い銅貨から先に支払う動きが増えています」
領主が首を傾げる。
「何が問題なのだ?」
ブラントは別の袋を机へ置いた。
中身は、ほとんど黒ずんだ古い銅貨だった。
「市場の釣り銭箱です。新しい銅貨だけ、店員や客が手元へ残すため、流通する貨幣が古い物へ偏り始めています」
フィンが少し考えてから言った。
「綺麗な銅貨は持っておいて、汚い方から使う?」
「はい」
ミナが新しい銅貨を一枚取り上げる。
「額面は同じなのに、片方だけ流れなくなる」
女商人も少し考え込んだ。
「それが広がると、新銅貨を作っても市場に出てこなくなりますね」
細身の商人の目が輝いた。
「なら新銅貨に保存料を――」
全員 「0」
「まだ最後まで言ってない!」
夜になっても入口は暗く、二基の灯りは低いままだった。返却棚の三箱にも異常はない。
貨幣は、綺麗だから一枚ではない。
黒いから半枚でもない。
額面が読み取れ、普通に使えるなら一枚。
大きく壊れたり、何の貨幣か分からなくなった時だけ確認する。
見た目の好みは市場に任せる。
公が貨幣の美しさまで格付けしない。
レイナが帳面を閉じる。
「今日も一つ」
フィンは黒ずんだ銅貨を指先で転がした。
「古い銅貨を0にしなかった。見た目の格付けを0」
「使えるかどうかだけ見ました」
ミナが続け、ゼフは過度研磨の四枚を別袋へ入れる。
「回収4。追加流通0」
ユハも入口を一度確認し、いつも通り「通路正常」と答えた。
ブラントは最後に、新しい銅貨と古い銅貨を一枚ずつ机へ並べた。
「次は、同じ額面でも『綺麗な方だけ手元へ残す』せいで、流通する貨幣が古い物へ偏り始めた問題です」
フィンが二枚を見比べる。
「悪い方から先に使うのは、普通の行動だよな」
「うん」
レイナも新しい銅貨を一度だけ見た。
「だから面白い」
俺は板へ一行だけ残した。
銅貨18を見た目だけで等級化する案を0とし、通常黒ずみ9・表面腐食4・小欠け1は状態確認後に流通継続、大欠け1と判別困難2は既存交換窓口へ、過度研磨による薄化4は回収して事故0。民間が新銅貨を好むことは自由としつつ、公的額面は同じまま維持した。次は、同じ一枚なのに綺麗な銅貨だけが手元へ残され、古い銅貨ばかりが市場を回り始めた時、それを止める必要があるのかを見る。




