死と生と
涼は勤務医としての仕事をこなしながら、考えた。確かに死ぬのはもう怖くない。だが、生きながら世を異にするとは、なんと抵抗のあることなんだろう。
つまりは、この人生の全てを捨てて、一からやり直すということだ。その人生が後悔するようなものなら、涼も大手を振って別れたことだろう。だが、これは望んだ道、必死で掴んだ場所なのだ。
その努力を捨て、地位を捨て、人の世ですらない所でまたやり直す…。
自分にまだ、そんな気力が残っているのか、疑問だった。
蒼は、早くから当主として無理にあちらの世界へ引きずり込まれ、回りから迫られ、その力を磨き、今の地位に据えられた。おそらく望んだ訳ではないのだろう。気が付けば必要に迫られて王にされ、王として扱われ、ああして責務をこなしている。
自分は同じように力を持ちながら、全てを蒼に任せて人の世を生きて来る事が出来た。母のように望まぬ結婚もしなくてよかった。誰にも強制されることなく、自分は人として自由に生きた。ここで、蒼が自分に力を貸せと望んでいるのに、撥ね付けていいのだろうか。
自分だけ、人として安らかに眠っていいのだろうか…。
思いに沈みながら、ポケットに忍ばせた辞表を握り締め、涼が執務室で座っていると、看護婦が駆け込んで来た。
「高瀬先生!先生のお父様が!」
涼は驚いて立ち上がった。そして、看護婦について走り出した。
維月が居間に一人座っていると、維心が入って来た。維月は微笑んで立ち上がった。
「維心様。」と、表情を見て、顔を曇らせた。「どうなさったの?」
維心は、維月に歩み寄った。
「蒼より、知らせがあった。」表情は固いままだ。「主の、人の世に居た頃の夫が、危篤状態なのだそうだ。」
維月は、ハッとした。そういえば春頃より病い付いていると、蒼が話していた…。あの人は、確か今は75…。
維月が黙っていると、維心が言った。
「…参るか?」
維月は、ためらいがちに首を振った。
「いえ…もう、別れた人です。愛情はなかったのですから。」
維心はその手を取った。
「我に遠慮することはない。主と心をつないでおるゆえ、知っておる。だが、愛情ではなくとも、共に子を育てた友のような感情はあるのであろうが。」
維月は維心を見た。
「維心様…。」
維心は、維月を抱き上げた。
「我が連れて行ってやろう。」と、暮れかけた空を見た。「おそらく、明日の朝までもたぬ。」
維心はそのまま、夕焼けの中、維月を抱いて飛んだ。
病院に着くと、十六夜が降り立った。
「維月、来たんだな。蒼は先に病室へ行ってる。今、人に見えてない人数も合わせると、えらいことになってるぞ。」
維月は驚いた。
「みんな来ているの?」
十六夜は頷いて歩き出した。
「こっちだ。維心も来い。」
正面の入り口から入って行ったが、人にはこちらは全く見えていないようだ。青銀の髪の十六夜、袿姿の維月と維心、誰もこの奇妙な三人を振り返りもしない。
三階の突き当りの個室に着くと、中から蒼が出て来た。が、ドアを開けているのは恒だった。
「気が近付いて来るからわかった。ここで人に見えてるのは、有とその夫と子供、涼と恒と遙とその夫と子供だけだ。あとはオレも含めて見えてないから、そのつもりで。話し声も聞こえないから。」
維月は頷いた。そして横開きのドアを抜けると、看護師が一人、付いていた。涼は白衣を着た状態で横に立っている。回りには、瑤姫、蒼の子達二人、恒の妻の龍、その子供も、人には見えないながら立っていた。
涼が言った。
「ちょっと安定してるし、もうあなたは戻ってていいわ。あとは私が見てるから。」
看護師は頷いて、出て行った。維月は遠巻きにかつての夫の姿を見た。老いているのもだが、病い付いて数か月、すっかり痩せ衰えていた。若い頃の記憶しかなかった維月は、ショックを受けていた。
蒼はその様子を見て、皆に言った。
「ちょっと、外へ出ないか。」
皆が察して病室を出て行く。涼は出る時に尿パックを見た。…もう、溜まらなくなって来ている。点滴に付けている機械を調節してメモリを上げると、出て行きながら言った。
「もう、心臓はいつ止まってもおかしくないの。薬で無理矢理動けって叩いてるようなもの。今もまた量を増やしたけど…直に落ちて来ると思うわ。そしたら、すぐ呼んで。」
維月は頷いた。十六夜と維心は、皆と一緒には出て行かなかった。
皆が出て行ってシンとした病室で、維月はかつての夫の傍へ寄った。酸素マスクをして、目を閉じている。鼻にも何か管が挿されていた。
「…こんな日が来るなんてね…。」
維月は呟いた。すると、その声に反応するかのように、相手は細く目を開けた。
「維月か…?」
維月は驚いて、酸素マスクをずらした。
「気が…付いたの?待って、皆を…」
相手は維月の腕を握った。それは弱々しい力だったが、維月は振り返った。相手は目だけでこちらを見ている。
「…なんだ…全然変わらないじゃないか。」と微かに笑った。「そうか、やっぱりお前は、人じゃなかったか。」
維月は答えた。
「信じてなかったの?目の前でお腹刺したでしょう?」
相手はまだ維月を見ていた。
「そんなこともあった」微かな声だ。「どっちがお前の夫なんだ…?」
維月は後ろを振り返った。維心と十六夜がこちらを見ている。
「あの…いろいろあって…」
相手は苦笑した。
「お前は昔から面食いだった」と息を付いた。「それじゃ決められんわな。」
維月は慌てた。
「そんな理由じゃないのよ。でもどちらも大切なのよ。」
相手は力なく笑った。
「再婚もしたが、忘れられなかった。相手にも先立たれ、一人かと思ったが、たくさん居るようじゃないか」
振り返ると、話し声を聞きつけて、皆が遠慮がちに入って来ていた。そして思った。この人は、私が、維心様が、十六夜が、見えている。
「皆が見えるの…?」
「見える」と相手は言った。「もう死ぬんだろう。さっきから迎えが来ているのも見える。」
維月は、窓の外を見た。それは、生前のこの相手の父だった。こちらをうかがっているが、多分神がひしめき合っているこの中には入って来づらいのだろう。
「有、蒼、涼、恒、遙。」と、苦しげな息の下、相手は言った。「がんばれよ。悔いのないようにな。何事も…。」
バイタルが乱れる。涼が慌てて見ている。維心が軽く手を上げた。
外に居た、迎えの人がこちらへ来た。
「…時間だ。道を開く。」
通常、維心が人の為に、しかも迷っているのではない人のために道を開くことはない。しかし、目の前には光りが立ち昇り、四角く道が開いた。
波形を描かなくなった画面を見て、涼は父を見た。父から、若い頃の父が起き上がり、立ち上がった。
《なんと身軽になったぞ》笑っている。《維月、お前の今の夫はすごいな。神様か。オレなんか敵わなかったはずだよ。》
そして皆の顔を代わる代わる見、最後に蒼を見た。
《大変だろうが、父さんはずっと見てるからな。》
蒼は、ただ頷いた。涙が溢れて来る。
父は、その父と共に、笑って手を振ると、維心の作った道を通って旅立って行った。
そして、維心はその道を閉じた。維月は維心を見て、その手を握った。
「ありがとうございます、維心様。」
維心はその手を握り返し、維月を見て微笑んだ。
「なんでもないことよ。蒼の父なのだからな。これぐらいはしてやらねば。」
涼は、父の死亡診断書を書きながら、決心していた。自分が人の世で出来ることは、もう終わった。蒼の所へ行こう。人の世の全てを清算して、私は月の宮へ行く。
恒が喪主を務め、父の葬儀は終わった。
しかし、恒はもう月の宮へ行くので、父の菩提は永代供養にさせてもらった。蒼ももう人の世では死んでいることになっていて、有も遙も嫁に行き、涼も月の宮へ来る。誰も仏壇を守ることが出来ないからだ。
それでも、父が安泰に逝ったのをこの目で見ることが出来たので、皆一様にホッとしていた。維心様が立ち会ったなんて、人としてこれ以上のことはない。長く暗い空間を歩かずに済んだのも、維心様が道を目の前に開けてくれたからに他ならない。それには、全員深く感謝していた。
母は葬儀に参列することもなく、龍の宮に引きこもって出て来ない。
維心に聞くと、あれから自分にずっと寄り添っているので、傍を離すに忍びないと言っていた。母なりに悲しんでいるのだろうか。恒はそう思っていた。
侍女が入って来て、頭を下げた。
「恒様、ご準備が整いましてございます。」
恒は頷いて立ち上がった。
「では、月の宮へ参る。」
蒼が母を気遣ったのと、維心への満中陰の品を持って行くのとで、龍の宮を久しぶりに訪れたのは、しばらく経ってからだった。
奥の居間に通されると、維心と維月が奥の椅子に座っていた。母が思ったより元気そうで血色がよかったので、蒼はホッとした。しかし、寄り添っているというのは維心らしい表現で、蒼から見たら、ぴったりとくっついているようにしか見えなかった。維心は維月がその腕の中に入るように座らせていた。
「蒼、久しぶりだの。忙しくしておるのか。」
蒼は頷いた。
「まさかこちらへ来るのが息抜きになる日が来るとは思いませんでした。」
維心は笑った。
「我も主の宮へ行くと、同じ気持ちになる。よい、存分に休んで行くがいいぞ。」
蒼は維月を見た。
「母さん、大丈夫?引きこもりがちだって聞いて、また悩んでるんじゃないかって心配してたんだ。」
維月は微笑んだ。
「ありがとう。大丈夫よ、私が離れたくないと無理を言ってずっとまとわりついていたのに、維心様がお時間を割いてずっと嫌がらずこうしてくださっていたから。ちょっと、悲しいというより、自己嫌悪みたいな感じになってしまっていて…でも、もう平気だから。」
蒼は眉を上げた。
「ずっとこうしてって、維心様、政務は?」
維心はさらっと言った。
「このまま行なっておった。出掛けるのも連れて出ておったし、別に差し障りはなかったぞ。ずっとこの方が、むしろ心配せずに済んで良いと思っておった所よ。」
冗談かと思ったが、大真面目なようだ。蒼はむしろ感心した。維心様はいつも母さんのストーカーのようだったけど、反対のことされても煩わしくないんだ…。徹底している。
維心は、ふと気づいたように言った。
「そういえば、恒や涼はどうしておるのか?無事に寿命は与えられたか?」
蒼は忘れていたと思った。まだ維心様に話していなかった。
「はい。恒は元より神の世界も知っておりますし問題はないのですが、涼は今、李関に付いて神の世のことを学んでおります。」
維心は意外そうな顔をした。
「李関?裕馬ではないのか。」
蒼は苦笑した。
「涼が、裕馬では嫌だと申しまして。その場に居合わせた李関が、では我がと場を取り成してくれたのでございます。それで、そのように。」
維心は何かを思ったようで、フッと笑った。それを見た蒼が、不思議そうな顔で問うた。
「維心様?何か問題ありましたでしょうか。」
維心は笑ったまま言った。
「いや、涼よ。あれは気の強い、維月にそっくりの娘であったと思ってな。今は見た目も近くなってさらに似ておろう。また顔を見たいものよ。」と維月を見た。「もしかして、涼はこっちの世で結婚するやもしれぬぞ。龍は主のような性質を好む。というより、主の気の感じが、我らに違う印象を与えるのよ。涼は主と似て非なる者ではあるが、それでも主に近いことに変わりない。そして月の宮には龍が多い。楽しみであるな。」
蒼は思った。笑い事じゃない。
「しかし、涼は人で…。」
維心は首を振った。
「仙人であろう?」とまた維月を見た。「普通の龍相手であれば大丈夫よ。我は気が強過ぎて、維月以外は駄目であるがな。」
「まあ」維月は少しむくれた。「維心様が普通の龍だったら、何人妃が居られたことやら。」
維心は慌てて言った。
「そうではない。我は主が良い。それを守っておるではないか。怒るでないぞ。怒っておらぬな?」
維月は苦笑して頷いた。
「はい、維心様。」
維心はホッとしたように言った。
「良い返事ぞ。」
見ている蒼が疲れた。もう結婚30年ぐらいになろうとしてるのに。変わらないなあ…この二人は。
蒼は立ち上がった。
「じゃあ、オレは義心に会って、軍の編成のことを聞いて来ます。それも目的だったんで。」
維心は顔を上げた。
「わかった。好きにするが良い。ここは主の宮でもあると思うての。」
蒼は笑って頭を下げた。そして、義心を探してそこを出た。




