赤い神
裕馬は、沙季を呼んだ。
「早く!今の白蛇は何をするかわからないんだから!」
沙季は足をもつれさせながら、必死でこちらへやって来た。裕馬はストラップを携帯から千切り取り、手に持った。体の前に突き出すように持って吊り下げると、思った通り、その玉は小さいながらも光を放ち、白蛇を襲った。
白蛇は悲鳴を上げて顔を伏せた。今まで、月の光にこんな反応をしたことはない。やはり、己が闇に浸食されつつあるのだ。
しかし、その光は容赦なかった。蒼の力とは思えないほど執拗に白蛇を追い込んで囲み、その光の中でのたうつ白蛇を見ると、さすがに裕馬も気の毒になった。しかし…蒼の力がここまで追いかけるのは、きっと訳があるのだろう。裕馬は、そのまま光が消えるまでそうやって玉を持ち続けた。
ようやく光がおさまって、白蛇を解放したのは、しばらく経ってからであった。沙季が恐る恐る白蛇に近付いて様子を見る。
「…大丈夫、安らかな気だわ。」
裕馬はホッとした。やっぱり蒼の力は、悪いものは追いかけ回すのか…でも、本人が居ないのに、これの力はどこまで通用するんだろう。
裕馬は、引き戸を開けて、家の方を見た。沙依の部屋の辺りの黒い霧は、半端ない濃さで、ぼんやりとしか見えないはずの自分にも、はっきりと見える。
白蛇の方は、一見普通であったのにもかかわらず、内に闇を潜め、そして沙依は…内に潜めた闇が大きく濃くなって収まりきれなくなり、溢れ出てなお、あのように濃い霧を発生させているなんて。
裕馬は、その小さい玉を見た。
「きっと無理だろうなあ…。」
それでも、裕馬は意を決して沙依の部屋へ向かった。
蒼は、目を覚ました。自分の力が使われた。あれは、裕馬にやった玉の力だ。もしも闇に遭遇した時、とりあえずでも逃げられるようにと…。
そして、じっと気を探って…慌てて起き上がった。駄目だ。
「駄目だ裕馬!その玉じゃそいつは消せない!」
蒼は急いで傍に掛けてあった打掛を引っ掴むと、今来ている襦袢の上に羽織った。ここに居る時はいつも着物なんだから…蒼がぶつぶつと動きにくさに必死で戦って、窓枠に手を掛けると、李関が同じような格好で駆け込んで来た。
「蒼様!」と飛び立とうとしている姿に気付き、「我もお供いたします!」
蒼は頷いて、飛び立った。
正直、まだ疲れが抜けていなくて寝ていたかったが、裕馬があれに食われたら…今度こそ、ヤバい!
蒼の飛ぶスピードは、あまりにも遅く感じられた。あの洞窟で維心に引っ張られて飛んだ時、物凄いスピードで前が見えなかった。能力の違いに、蒼は苛々としながらとにかく裕馬の所を目指して、飛んだ。
維心がふと、目を開けて身を起こした。隣りの維月はそれに気付き、問うた。
「維心様?いかがされましたか。」
維心は維月を見た。
「蒼と李関が、我が結界の東に触れた。出て行ったと言うことだ。」
維月は驚いた。
「このような時間に?」
維心は頷いた。
「東と申すと…主が人の時に住んでおった辺りに向かっておるな。月の宮なら北東になるのでの。」
維月は考え込むような顔をした。
「何か…人の世の不穏を感じとったのかもしれませぬ。」
心配げな維月を見て、維心は微笑した。
「心配は要らぬ。李関が共と申した。あれは若いが優秀な龍よ。軍神であるしな。人の世のことぐらい、やつでも事足りるゆえ。どうしてもとなれば、我が行く。我なら瞬時にそこへ参れるゆえな。」
維月は微笑んだ。
「はい。」と維心を見て、腕を引っ張った。「維心様…」
維心は面白そうに微笑んだ。
「こら維月。まだ足りぬと申すか。」と維月に覆いかぶさった。「主の誘いは断れぬと申すに…。」
その頃蒼は、それどころではなかった。まだ沙依の神社まで半分ぐらいの地点に居た。李関を振り返る。きっと、李関ならもっと早く飛べるはずだ。オレに合わせてるから、このスピードなんだと思うと、蒼は思い切って李関に言った。
「李関、頼みがあるんだ。」李関は何事かと蒼を見た。「オレ、飛び慣れてなくて、これが精いっぱいなんだ。すまないけど、オレを引っ張ってくれないか?このままだと、間に合わないと思うんだ。」
李関は驚いたようだが、頷いた。
「それでは失礼して、我が牽引させていただき申す。」
李関が蒼の腕を取ると、グイと引っ張られる感覚があり、途端にものすごいスピードで進み始めた。維心ほどではないものの、やはり李関は軍神なのだ。臣下達より遥かに能力は高いのだ。
蒼は引っ張られながら、裕馬の気を探った。もう、闇の中へ足を踏み入れているようだ…これでも間に合うかどうか…。
裕馬は、蒼からもらったストラップの小さな玉を握りしめて、玄関から入った。途端に玉は光輝き、裕馬の握りしめた拳をものともせずに光を放って、裕馬を取り巻いた。回りの黒い霧は、裕馬を避けて漂っている。裕馬は自分に力がないばっかりに、沙依一人助けられないのが情けなかった。蒼の力に頼ってばかりで、結局、別れる時も蒼に頼っていた。そんな自分が、沙依に罵声を浴びせられても仕方がなかった。
だから、今更愛情云々はもうないけれど、せめてまともな生活が出来るように、ここから出してやりたかったのだ。
裕馬自身は玉の光に守られたまま、沙依の部屋の前に到着した。そこは裕馬でもドアノブが見えないほどに真っ黒な霧に溢れ、裕馬は本能的に触るのをためらった。しかし、意を決してを伸ばすと、ドアを押して開いた。
中から、おびただしい量の霧が溢れて、裕馬は視界を奪われた。視界が戻って来た時、裕馬はその部屋の隅に、痩せ衰えた沙依が、うずくまっているのを見つけた。その体からは絶えず霧が流れ出ていて、裕馬は思わず吐き気を覚えた。これほどの霧の中、蒼の玉の力に守られていなければ、自分は一分も正気を保てなかっただろう。
「沙依!」裕馬は呼びかけた。「こっちへ来るんだ!ここから出よう!蒼の所へ連れて行く!」
沙依はゆらりと立ち上がった。その姿はまるで、もう死んでいるかのようだった。目は落ちくぼみ、頬はこけて、もはや誰なのかも見分けがつかないほどだ。
「…そんなところへ行っても、もう駄目よ」沙依はかすれた声で言った。「私は浄化出来ないほどひどい「人」に成り下がってるのよ。また、蔑んだ目で見られるぐらいなら、このまま飲まれてしまってた方がましよ…!」
裕馬は首を振った。ますますひどくなる黒い霧に、沙依の様子も定かに見えない。
「何言ってるんだよ!これは間違いなく霧のせいじゃないか!早くこっちへ!」
裕馬は手探りで沙依の痩せた腕を掴んだ。手を引いてドアへ向かおうとすると、背後からものすごい量の濃い霧が裕馬に覆いかぶさって来た。
「うわっ!」
思わず沙依の手を離すと、低い笑い声が聞こえた。
「ふふふ、あんたも一緒に堕ちたらわかるわ」沙依の声はもう本人ではないようだ。「こっちの方が、ほんとは楽なんだって!」
回りを黒い霧に包まれ、裕馬は倒れてもがいた。そして、気を失う時、蒼がこっちへ向かっているのが見えたような気がした。
蒼には、その気が見えた。裕馬が、闇に巻き込まれた!
「李関…!」
李関にも見えているようだ。眉根が寄り、一層急いで飛んでいる。間に合ってくれ!蒼は、裕馬の握っている自分の力の残像の玉に向かって必死で気を飛ばした。せめて、着くまで裕馬を守ってくれ!
裕馬は、自分の回りに何かの力が降りたのが感じ取れた。
急に体から変な圧力が消え、ふっと軽くなる。蒼の玉か…?それとも蒼が来てくれたのか…?裕馬は確かめたかったが、瞼が開かない。体が誰かに運ばれている。空気が変わり、外へと出たのがわかった。宙に浮いているような感覚がする…きっと、飛んで窓から出たのだ。ということは、人ではない何か…やっぱり蒼か…。
裕馬はそのまま、何もわからなくなった。
蒼は、そこに降り立って地面に寝かされた裕馬が、誰かに見降ろされているのを見た。そして咄嗟に思った…これは、人ではない。
その何かは、振り返った。
「何も力のない人であるのに」それは蒼に言った。「よく頑張ったものよ。主の力が、この「人」の人格を守った。もう一人の女の方は…我には闇を排除する以上は出来なんだ。人格を取り戻すには、他人の助力が必要であるな。」
蒼は驚いてその姿を見た。赤い髪に金色の瞳。そして、赤い甲冑を身にまとっているにもかかわらず、それは女であった。
蒼は、恐る恐る訊いた。
「…あなたが、友を助けてくれたのですか?」
相手は頷いた。
「そうだ。我は世では楊蘭と呼ばれておる…どこかの人が付けた名であるが。月の力の持ち主、蒼よ。」
蒼は驚いたが、頷いた。もう、相手が自分を知っているのには慣れた。それほど、蒼の力は異質であったからだ。
「楊蘭様は、どちらかの神でいらっしゃいますか?」蒼は言った。赤い甲冑は、鳥だろうか。「友を助けてくださいましたこと、感謝致します。」
相手は微笑んだ。
「何でもないことよ。ところで、我は神ではない。おそらくは主と同じ…今思えば、主は我の孫であるやも…。」
蒼は絶句して、傍らの李関を見た。李関も困ったようにこちらを見ている。
楊蘭は、人のような仕草をした。
「ああ、良い。追々順を追って話す。とにかくは、主の友人を連れ帰るのが先であろう。全てが終われば、明日にでも、我を呼ぶのだ。龍の所におるのであろう?我はそこへ行く。」
そして、呆然とする蒼と李関を置いて、夜空へ飛び立った。




