呼び声
居間へ入ると、蒼がじっと考え込んでいた。
その姿は、維心が自分の居間で考え込んでいる時ととても似ていた。維月は声を掛けるのを一瞬ためらったが、維心が先に声を掛けた。
「蒼よ」とゆっくりと歩み寄った。「待たせたの。我には十六夜の目覚めた時からの記憶がはっきりと見え申した。それを話そうと思っておるゆえ。十六夜はどこだ?宮の中にはおらぬな。」
維心は気を探ったのだと蒼は思った。
「とても疲れているからと月へ戻っています。でも、すぐに呼ぶので。」
しかし、呼び出すまでもなく、光が空から降りて来た。十六夜がこちらを見ていたのは確かだった。
蒼は皆に座るように促すと、侍女にお茶を持って来るように頼んだ。
「…どうだった?鮮明に見えたのか。」
十六夜がいきなり聞いたが、維心はためらった様子もなく答えた。
「ああ。あれは我ら龍の特技であるからな。しかし本当に奥底にあったので、確かに難儀はした。主が意識して残しておるものではないゆえに、言葉もあいまいで、映像も途切れがちであった。しかし、大事な所は全部見えたゆえに、話そうと思うておる。」
十六夜は頷いた。
「手間掛けさせたな。」
維心は首を振って、その記憶を話し始めた。
「先に、聞こえた言葉の全てを伝えよう」維心は言った。「見えた映像は後で説明するゆえに。我の力で、主らに聞かせるゆえ、聞いておると良い。」
維心は歩く片手を胸に上げた。すると、今まで聞いたことのないような、深い声が響き渡った。
目覚めよ。お前の使命の為に。
ただひとつの力ゆえ、対になるべく、共に歩めるものを与える。
全てをあまねく統治し、それを守り、また断じよ。その責を負うべく、強き力と広き心を与える。
己を頼りにするものと話し、己の力を知れ…
我はこの地より、主に申す。
その命、光となり、
あまねく命を統率し、全ての脅威となり、
不浄なものを一掃し、広く地上を清浄に保ち、
己より他を考え、
全て滞りなきよう整えよ。
迷う時は我に聞け。
我は常にここにおる…。
蒼は、安心するような感覚と、不安な感覚の両方を、この声から感じていた。
地の底から響き渡るようなのに、しかしおどろおどろしいこともなく…。しかし、絶対的な力と、容赦のない様子を感じたり…。
これは何の声なのだろう?蒼は、自分の腕に鳥肌が立っているのを見て取った。
ふと、十六夜を見ると、じっと考え込んでいるような顔をしている。自分の記憶を探っているのかもしれない。これは、紛れもなく十六夜の記憶から出て来た声なのだ。
維心は、胸元から手を降ろすと、言った。
「…十六夜は、この時まだ目覚めたばかりで、この声の意味も理解出来ていなかった。しかも、自分が生命である自覚もない。なので他者から話し掛けられている事実もまた認識出来ていなかった。当然と言えば当然だ。この声の主にそれが分かっておらぬはずもないであろうに、なぜにこれほど早くに語り掛け、その後何も言わぬのか、我には理解出来なんだ。」
蒼は頷いた。生まれたての赤ん坊に話し掛けているようなものだ。それが、わからないはずはないだろう。なのに、この声の主は語り掛けている。しかも、かなり重要なことのように思うのに…。
「…それは、いつかこんな風にその記憶に気付くと、知っていたからなのでしょうか?」蒼は維心に言った。「まるで、こうやって、今の十六夜が気付くのを待っていたように…。」
維心は頷いた。蒼はそれを見て、自分が言ったことにハッとした。そうだ。声の主は、待っていたのか。
「…おそらく、この声に気付き、それが何を意味するかを知る時が来るのを、声の主は知っておったのだろう。そこまで成長して、初めて自分と話すことが出来ると思っておるのだ。」
維心の言葉に、十六夜は言った。
「しかし、ここに居るってどこなんだ?オレには全く覚えがねぇ。一緒に何か見えたのか。」
維心は伏し目がちに頷いた。
「…見えた。主はそこへ行かねばならぬ。なぜなら、そうしなければ、この地が滅んでしまうからよ。」
蒼と十六夜は、衝撃を受けて顔を上げた。維心はため息をついた。
「覚えておらぬか?十六夜よ。もう一度だけ、この声の主は話し掛けておる。主が維月を失った時、我に自分を殺させようと考えたことがあったであろう。あの折り、もう一度話し掛けたのだ。」
十六夜は立ち上がった。思い出した。あれは幻聴ではなかったのか。
維心はもう一度頷いた。
「『我はこれ以上待てぬ。どこへ行こうとしておるのだ。主に出来ぬなら、我がいっそこの地上を一掃し、一から新しく作り直そうぞ。ここへ来るのだ。』…あれから、しばらく時が経っておる。行かねば、地上はもっと荒れようぞ。」
蒼はそれを聞いて身震いした。そう、オレだけが気付いているのではなかった。維心様もまた気付いていたのだ。どこからともなく湧いて来る黒い霧…これは人が出しているはず。だが、最近はそれが多くなったり少なくなったり、定期的にむらがあるようになっていた。少ない時が、人からだけ出ている霧であったら…?多くなる時、何かが意識的にそうしているのだとしたら…?
確かにこの霧に飲まれれば、人であろうと神であろうと、その念に飲み込まれ、自滅の道へと勝手に進んで行く。
天災を起こしたりしなくても、自ら滅んで行ってしまう…。
「では、ここのところのむらのあるあの霧の発生は、決して偶然ではなかったのですね。」
蒼は維心に言った。維心はこちらを見た。
「我はそう思うておる」維心は同意した。「主があの闇を消してから、しばらくは人からの霧が立ち上るぐらいで、大したことはなかったのよ。それが、今は闇が作用しているかのような、霧に憑かれておる輩が多過ぎると思うておった。主達は軽く消してしまうが、神は…例え我でも、あれは消せぬ。力の種類が違うのだ。ただ封じるのみであるのよ。ゆえに、人の世の動向を見よ。最近の人がすることは、既に人ではないかのような残虐なことが増えておるではないか。我には己が身を己で滅ぼそうとしておるようにしか見えぬ。」
蒼は考え込んだ。確かにそうかもしれない…。
維心は続けた。
「それは、神の世界も例外ではない」蒼はびっくりして顔を上げた。「炎嘉の件を思い出してみよ。あやつは我と、確かに敵対する種族ではあったが、我らの代になってからは平穏に過ごして来たのよ。月と我が手を組むぐらいで、我があやつの所に攻め入るなどと、本気で思ってすぐに軍を差し向けて来るなど、正気の沙汰ではない。あやつはもっと話を聞く神だった。ゆえに我も、あれほど迅速に動くと予想出来なんだのだしな。」
蒼はそれを聞いて、戦慄を覚えた。炎嘉様ほどの神でも、そんな考えに沈みこませてしまうのか。
維心はため息をついた。
「しかし、やはり炎嘉は力のある神だ。己で我に返り、話す気になったであろうが。おかしいと思っておったが、これを見て、我は合点がいったのよ。」
蒼は、もしも炎嘉と維心が全面戦争に突入していた時のことを考えると、ぞっとした。もしもあの時、維心が本気で迎え撃っていたら?その闘気は、おそらく地上を破壊して、人の世はどれほどの被害を受けたであろう。
蒼は、一度だけ維心が本気で十六夜と対峙した時の闘気を見た。はるか上空で戦っていたにも関わらず、自分が地上を保護していなければ、地はかなりの範囲で壊滅していた…。
「…あくまで、自滅に向かわせようとするのですね。」蒼は言った。「直接に手を下すのでなく…。」
維心は頷いた。
「自業自得ではあるのだがな。我らが戦えば、地は乱れ、他の神も一掃されるであろうよ。我は自分の力を自覚しておるゆえ、それには踊らされぬ。ましてこのような事実を知った今となっては余計にな。」
十六夜は、黙って外を見ていたが、言った。
「どっちにしろ、それがオレの親なんだろうが。来いと言われなくても、知った今は行くつもりだ。維心、お前、それの場所はわかるのか?」
維心は頷いた。
「わかる。我も共に行くつもりでおるゆえ、案内しよう。」
十六夜は驚いて振り返った。
「お前、危険だぞ?オレを作ったようなヤツの所へ行くんだ。有無を言わさず消されちまうかもしれねぇのに。」
維心は立ち上がった。
「わかっておるわ。だが、いずれ地は消されてしまうかもしれぬ。それなら、今消されようと後に消されようと同じよ。ならば待つより、少しは抗ごうて逝く方を選ぶ。」
維月が立ち上がった。
「…維心様…。」
維心はそちらを見て目を細めた。
「維月、そのような目で見るでない。迷うであろうが。しかし、行かねばならぬのよ。我は王であるゆえな。地を守る義務がある。」と頬に触れた。「十六夜は不死だ。もし我が居なくなろうと、主は独りきりになる訳ではない。だからこそ、行けるということもある。」
蒼も立ち上がった。
「オレも行く」皆がそちらを見た。「オレは何かの意思で作られたんだよ。その意味が分かるかもしれないじゃないか。だって、十六夜と母さんの…陽の月と陰の月の子供なんだから。関係ないことじゃない。」
十六夜はため息をついた。諦めたように首を振っている。
「ここには頑固者しかいねぇ。わかった、来ればいいだろう。だが、明日にしよう。維心も、その格好じゃ行けねぇだろうが。甲冑でも着て来い。それに、維月を連れて帰っていいぜ。オレは死なねぇが、お前は可能性がある。時間を大事にしな。」
維心は頷いて、維月の手を取った。外はもう、日が沈んで暗くなっている。龍の宮へ帰って、準備をしなければならぬ。
「では、明日我の宮へ来い。共に参ろうぞ。」
蒼と十六夜は頷いた。
「こっちも準備して行くよ。」
維心はそれを聞くと維月を抱き上げ、夜空へ飛び立って行った。
維月は、維心に運ばれながら、言った。
「維心様、考え直してくださいませ」維月は涙声だった。「維心様がこの世から居なくなってしまうなどと考えたら…私はいたたまれませぬ。」
維心は困ったような顔をしたが、愛おしげに維月を見た。
「…我とてまだ逝きとうない。安心せよ。そう簡単には逝かぬわ。」
維月の目から涙が溢れた。
「では、約束してくださいませ。維心様は、私との約束は違えぬといつも言っておられまする。必ず、私の所へ生きて戻っていらっしゃると。」
維心は詰まって、少し黙ったが、頷いた。
「約束しようぞ」と飛びながら抱き寄せた。「必ず、主の元へ戻る。だから我の為にそのように泣くでない。」
維月はしっかりと維心を抱きしめて、宮に着くまでの間、ずっとそうやって涙を流していた。
宮に着けば、子達の手前、もう泣くことは出来ない。泣いて止められるものならば…。
やはり私は、維心様をとても愛しているのだ、と、維月は身に染みて思っていた。




