KillerWorld ―七つ目の答え― 最終章「七つ目の答え」
すべてが始まった場所。
ヘリクス。
かつて0と呼ばれ。
何を聞かれても。
「分かりません」
と答えていた白い部屋へ。
アベスは戻ってきた。
五人を見た。
人は繰り返す。
見る。
残したい。
比べる。
怒る。
離したくない。
測定は間違っていなかった。
人間には。
確かに傾向がある。
それでも。
次の選択まで。
同じとは限らなかった。
その中央で。
すべてを測ってきた存在が。
アベスへ問う。
『何を選ぶ』
人間全部を。
決められるのか。
残すのか。
捨てるのか。
そして。
身体も。
声も。
顔も。
ほとんど失ったイースが。
最後にアベスの背中へ手を伸ばす。
「……行っておいで」
答えを与えず。
道を決めず。
最後の一歩だけを。
アベス自身へ返して。
七つ目の答えが。
今。
選ばれる。
最終章
七つ目の答え
RATを出たのは、夜がまだ朝を拒んでいる時間だった。
空は黒に近い青で、建物の輪郭だけが街灯の向こうに浮かんでいる。
開け放されたままの窓から冷えた風が入り、古い廊下に染みついた煙草と埃の匂いを少しずつ薄めていた。
アベスは出口の前で一度だけ振り返った。
眠っている人がいる。
奥の部屋では、誰かが寝返りを打ったのかベッドが小さく軋んだ。
少しすれば水道が鳴り、扉が開き、昨日とよく似た朝が始まる。
以前なら。
それらはただ起きている現象だった。
今は違う。
誰がどこで眠るのか。
どの階段が軋むのか。
朝になると、どこから食べ物の匂いがするのか。
知っている。
覚えている。
「行きます」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
隣で壁に肩を預けていたイースが笑う。
「律儀だねえ」
右腕は身体の横へ垂れたまま動かない。
右脚も立っているだけで僅かに遅れ、身体の重さのほとんどを左側へ逃がしていた。
それでも彼は。
いつものように先へ出ようとした。
一歩。
右足がついてこない。
身体が傾く。
アベスが左腕を取った。
「……初手からこれ?」
「地面が悪いです」
「平らだけど」
「では、イースが悪いです」
「そこは否定してよ」
まだ。
笑えていた。
* * *
ヘリクスまで。
一日では着かなかった。
列車を乗り継ぎ。
途中から車へ変え。
その先はまた列車。
さらに最後は歩かなければならない。
最初の列車が動き出した頃。
東の空にようやく白さが混じり始めていた。
ホームの屋根には夜露が残り。
発車ベルの余韻だけが、冷たい空気の中へ細く伸びていた。
窓ガラスにはまだ駅の白い照明が映っている。
列車が速度を上げるにつれ、その白さが一枚ずつ剥がれ。
代わりに低い家並みと朝焼けが入ってきた。
座席の下から伝わる振動が一定になる頃。
街はようやく目を覚まし始めていた。
窓の外を住宅地が流れていく。
犬を連れて歩く人。
店先へ箱を並べる男。
ゴミを出す女。
開き始めるシャッター。
まだ熱を持たない道路の上を、朝の薄い霧が滑っていった。
駅へ停まるたび。
外の匂いが短く車内へ入る。
焼いたパン。
コーヒー。
雨の残ったアスファルト。
誰かの香水。
アベスは。
その一つ一つを見ていた。
隣ではイースが目を閉じている。
眠っているように見えた。
列車が大きく揺れた。
こつ。
イースの頭が窓へ当たる。
反応はない。
次のカーブ。
また。
こつ。
「イース」
返事がない。
アベスが肩へ触れる。
数秒して。
左目だけが開いた。
「……何」
「頭を打っています」
「そう?」
「痛くないんですか」
イースは少し考えた。
それから。
笑った。
「分かんない」
アベスは黙る。
「便利になってきたね」
「便利ではありません」
「そう?」
「はい」
イースは肩をすくめ。
また目を閉じた。
列車がトンネルへ入る。
外が消え。
窓が鏡になった。
アベス。
その隣。
知らない男。
次の照明が流れる。
今度は女。
暗くなる。
老人。
また光。
イース。
そして。
口元だけが別人。
アベスは目を逸らさなかった。
「そんな見られると照れる」
閉じていたはずの左目が開く。
「顔が変わっています」
「人気者だから」
「関係がありますか」
「ないね」
頭の中で声が弾んだ。
(今日はよく当たるなあ)
「くじ引きじゃないよ」
(次は誰かな)
「予告しなくていい」
「誰と話してるんですか」
「友達」
一拍。
(えっ)
「嘘」
(早いなあ)
イースが小さく笑った。
その笑い声が。
途中から別の男の声へ変わる。
戻るまでに。
少し時間がかかった。
アベスは窓へ視線を戻した。
朝の街が。
もう遠くなっている。
* * *
昼を過ぎる頃。
車内の人は何度も入れ替わった。
学生が降り。
作業着の男たちが乗り。
泣いていた子供が、母親の腕の中で眠る。
時間は見えない。
ただ。
窓の光と人の顔だけが変わっていく。
イースの身体も。
同じように少しずつ変わっていた。
最初は。
一拍の遅れだった。
呼ばれてから顔を向けるまで。
掴んだつもりのペットボトルを落とすまで。
右脚が床へ出るまで。
それが乗り換え駅に着く頃には。
誰が見ても分かるほどになっていた。
ホームへ降りる。
イースが右足を出す。
動かない。
上半身だけが前へ進む。
身体が落ちる。
アベスが間に入った。
右膝が床へぶつかる。
「イース」
「何」
「転びました」
「転んでない」
「床にいます」
「休憩」
アベスはイースの左腕を取った。
「立てますか」
「立てるよ」
ベンチの縁へ左手を置く。
力を入れる。
上がらない。
一度。
息を吐く。
二度目。
腰が浮く。
右脚は棒のように遅れたまま。
左脚だけで身体を押し上げる。
その間にも。
イースは笑っていた。
アベスは笑わなかった。
予定していた列車を一本見送った。
次も。
さらにもう一本。
時計の針が進む。
ヘリクスへの到着は。
一時間以上遅れた。
ホームの電光掲示板から。
予定していた列車の表示が一つずつ消えていった。
朝には足元へ落ちていた影が。
いつの間にか反対側へ伸びている。
人の流れだけが何度も入れ替わり。
そのたびに。
二人だけが同じ場所へ取り残された。
* * *
夕方。
乗り換えた車の窓へ。
沈みかけた太陽が長く差し込んでいた。
道路の脇を。
建物の影が後方へ流れていく。
アベスが隣を見る。
イースは窓へ顔を向けていた。
けれど。
目は景色を追っていない。
「見えていますか」
「うん」
「何が」
答えは。
すぐには返らなかった。
エンジン音。
タイヤが継ぎ目を越える音。
遠くで鳴る踏切。
数十秒。
もっと長かったかもしれない。
やがて。
イースの左目がゆっくりとアベスへ向く。
「……君」
「それ以外は」
「贅沢言うね」
「一人見えれば十分」
アベスは。
意味を聞かなかった。
車はそのまま。
夕暮れの中を進んだ。
空が赤から紫へ変わる頃。
頭の中の声が。
唐突に言った。
(ねえ)
「何」
(昔、終わることが決まってた世界があったんだ)
イースが僅かに眉を寄せる。
「また昔話?」
(そう。神様も怪物もいてさ。誰が誰を殺すか、どこで誰が倒れるか、最後に世界がどうなるかまで、みんな知ってるの)
「つまんないね」
即答だった。
声が笑う。
(でしょ?)
車窓の向こうで。
夕陽が山の影へ沈む。
(面白いのはね。みんな結末を知ってるのに、それでも最後の日までその盤面に立つんだ)
「馬鹿なの?」
(かもね)
「で?」
少し間。
声は。
いつもより楽しそうだった。
(僕、こういうの好きなんだ)
「何が」
(全部決まってるって言われた盤面が、本当にその通り終わるのか見るの)
イースが鼻で笑う。
「性格悪いね」
しばらく。
道路の音だけが続いた。
それから。
(もし僕ならさ)
「うん」
(誰が死ぬかも、誰が勝つかも、全部決めた神様の目の前に)
声が。
わずかに弾む。
(一個だけ、余計なものを置くけどね)
イースの口元が上がる。
「やりそう」
(やるよ)
「で、勝てるの?」
(知らない)
「知らないの?」
(知らないよ)
あまりにも楽しそうに笑う。
(だから面白いんじゃん)
イースは目を閉じたまま。
小さく笑った。
「無責任」
(ここまで仕込んで普通に負けたら、それはそれで最高じゃない?)
「最低だね」
* * *
夜が来た。
その日のうちには着かなかった。
駅近くの古い宿へ入ったのは。
日付が変わる少し前だった。
イースは。
靴を自分で脱げなかった。
アベスが脱がせる。
ベッドへ横になる時には。
右腕が身体の下へ入り込んだ。
本人は気づかない。
アベスが引き抜き。
身体の横へ置く。
「ありがとうございます」
「そこ敬語なんだ」
「いつもです」
「そうだっけ」
「はい」
「へえ」
外を車が一台通る。
音が遠ざかる。
隣室で水が流れる。
古い空調が。
時々かた、と鳴る。
二人とも。
しばらく何も言わなかった。
アベスが天井を見ながら聞いた。
「明日」
「うん」
「着きますか」
「着くよ」
「あなたが」
少し間。
「着けますか」
イースは。
すぐには答えなかった。
天井を見る。
もう。
ほとんど映っていない左目で。
「着くよ」
それだけ。
夜は長かった。
カーテンの隙間から。
向かいの建物の看板が一定の間隔で明滅していた。
赤。
暗闇。
赤。
暗闇。
そのたび。
ベッドの上に横たわるイースの輪郭だけが一瞬ずつ浮かび。
また消えた。
遠くで貨物列車の低い音が通り過ぎる。
音が完全に消えても。
アベスはしばらく目を閉じなかった。
* * *
翌朝。
イースの顔は戻らなかった。
鏡の中。
半分は。
以前からアベスがイースとして見てきた顔。
残り半分は。
知らない誰か。
目の形が違う。
頬の線も。
髪の色さえ。
一部だけ違っている。
イースは鏡を見て。
「ひどいね」
と言った。
アベスが後ろから見る。
「直らないんですか」
「直してる」
左手を頬へ触れる。
数秒。
輪郭が揃う。
一瞬だけ。
アベスが見慣れたイースになる。
次の瞬間。
また崩れた。
戻るべき一つの顔があるようには見えなかった。
ただ。
借りた顔から。
借りた顔へ。
不安定に渡っているだけ。
イースが鏡から離れる。
「今日はこれで」
「雑です」
「細かい男は嫌われるよ」
「誰にですか」
「知らない」
出発した。
* * *
昼前。
ヘリクスの外周が見えた。
それまで車窓の端に残っていた看板や古い住宅は途切れ。
道路脇の景色が急に均質になった。
雑草の高さまで揃えられ。
縁石には欠け一つない。
監視塔の黒い窓だけが。
白い建物の列の中で等間隔にこちらを向いていた。
白い建物。
整いすぎた道路。
等間隔の植栽。
同じ高さで並ぶ照明。
人はいる。
車も通る。
それなのに。
生活の匂いが薄い。
アベスが立ち止まる。
「覚えています」
イースは壁へ左肩を預けながら聞いた。
「何を?」
「匂いが少ないこと」
「そんなこと覚えてた?」
「前は、気づきませんでした」
「今は?」
風が通る。
消毒。
金属。
新しい樹脂。
それだけ。
アベスは少し考えた。
「寂しいです」
イースが笑った。
「そっか」
歩き出す。
速くはない。
右脚を引きずる。
数十メートル。
休む。
また歩く。
昼を越えた。
影の向きが少しずつ変わる。
研究棟が近づく。
その途中。
イースの膝が落ちた。
アベスが支える。
それでも。
片膝が地面へつく。
「イース」
「何」
「持ちます」
「荷物?」
「はい」
「否定してよ」
アベスはイースの左腕を自分の肩へ回した。
二人で歩く。
一歩。
また一歩。
イースの重さは。
以前より。
さらに軽くなっていた。
* * *
ヘリクス特別研究区。
入口。
ガラス。
白い壁。
金属。
自動扉が開く。
外と同じ温度のはずなのに。
空気が変わった。
一定の湿度。
ほとんど無臭の廊下。
硬い床へ。
足音だけが返る。
一歩ごとに。
乾いた反響が同じ長さで戻ってくる。
遠くで誰かが歩いているはずなのに。
その足音さえ。
壁の向こうで切り取られたように続かない。
空調の風は温度だけを運び。
匂いをほとんど持っていなかった。
アベスの記憶が。
現在へ重なった。
白。
青。
熱。
冷たさ。
パン。
机。
扉。
『分かりません』
『分かりません』
『分かりません』
今は違う。
この場所は。
好きではない。
その感覚が。
自分の中にはっきりある。
アベスは歩き続けた。
一番奥。
観測室の前に。
男が立っていた。
白衣。
真っ直ぐな姿勢。
時間から切り離されたような目。
ゴイ。
アベスが足を止める。
ゴイの視線も。
こちらへ向く。
最初に見たのは。
イースではなかった。
アベス。
一秒。
二秒。
沈黙。
懐かしさはない。
驚きすら。
ほとんどない。
ただ。
研究棚の奥へ廃棄したはずの標本が。
何年も経って目の前へ戻ってきた時のような目だった。
「……なぜ」
ゴイの眉が僅かに寄る。
「0がここにいる」
アベスは答えない。
ゴイは。
頭から足元まで一度見る。
以前とは違う姿。
違う立ち方。
違う目。
それでも。
「いや」
言い直す。
「失敗作を、なぜここまで連れてきた」
イースが笑った。
「先生、再会の第一声ひどくない?」
ゴイの視線が。
ようやく隣へ動く。
右腕。
右脚。
揺れる顔。
崩れた輪郭。
一つずつ見た。
「……お前か」
「僕だよ」
「余計なものを拾う癖は治らなかったらしいな」
「今回は結構当たりだったけどね」
「何を基準に言っている」
「僕の勘」
「価値がない」
「厳しいなあ」
ゴイは再びアベスを見る。
「何をした」
アベスが答える。
「五人に会いました」
ゴイの目が少し細くなる。
「五人」
「はい」
「現在の?」
「はい」
「それで」
短い間。
「何が変わった」
アベスは。
すぐには答えなかった。
ゴイの口元に。
ほんの僅かな失望。
「観測不能だった個体が、観測対象を増やしただけか」
イースが壁へ体重を預けながら言う。
「先生さ」
「何だ」
「今日、君も参加するんだって」
ゴイの視線が止まる。
「誰から聞いた」
「秘密」
「くだらん」
「怒らないんだ」
「なぜ怒る」
イースが口元を上げる。
「ずっと選ぶ側だったのに」
一度。
浅く息を吸う。
「今日は選ばれる側だから」
ゴイの表情から。
僅かに温度が消えた。
「選ばれる?」
低い声。
「違う」
空気が硬くなる。
「私は結果を確認しに来た」
「へえ」
「誰かの答えを受け取るためではない」
アベスへ視線。
「まして」
一拍。
「私より後に生まれ」
「私より短く生き」
「私より少ないものしか見ていない人間に」
さらに。
短い沈黙。
「私の答えまで出されるつもりはない」
イースが楽しそうに笑う。
「先生らしいね」
「当然だ」
「でも」
イースが首を少し傾ける。
「先生、まだ答え出てないよね?」
静寂。
ゴイが完全に黙る。
そこだけは。
アベスにも分かった。
刺さった。
イースは軽い調子のまま続ける。
「嫌でしょ?」
「何がだ」
「先生が捨てた失敗作に」
アベスを見る。
「先、越されるの」
ゴイの目から。
初めて。
明確に温度が消えた。
「……不快だな」
否定しない。
「私の結論を」
一拍。
「他人の口から聞く趣味はない」
イースの笑みが深くなる。
「じゃあ先生も、自分で決めないとね」
「お前に言われる筋合いはない」
「それもそう」
その時。
白い扉が。
音もなく開いた。
* * *
観測室。
昔と。
同じだった。
机。
椅子。
白い壁。
均一な照明。
余計なものは何もない。
机の角は正確に壁と平行で。
椅子の脚は床の継ぎ目から同じ距離に置かれている。
照明には揺らぎがなく。
影さえ薄い。
人間が長くいた痕跡だけが。
意図的に拭い取られているようだった。
アベスが一歩入る。
昔。
ここが。
世界のほとんどだった。
今は。
狭い。
あまりにも狭い。
この壁の外に。
雨がある。
砂がある。
錆びた鉄。
油。
暖かい街。
冷たい夜。
甘いもの。
嫌いな味。
犬の鳴き声。
笑う人。
怒る人。
帰る人。
出ていく人。
全部。
ある。
アベスが二歩目を踏んだ。
音が消えた。
空調。
廊下。
機械。
すべて。
一瞬で。
イースの笑みが消える。
ゴイは姿勢を変えない。
白い部屋の中央。
それは。
立っていた。
誰も。
入ってきたところを見ていない。
それなのに。
最初からそこにいたように見える。
今までの曖昧さとは違った。
形は完全だった。
背筋。
肩。
腕。
顔。
眼差し。
どこを見ても。
一切の揺らぎがない。
その完全さが。
かえって。
人間から遠い。
アベスの皮膚が粟立つ。
怖い。
はっきりと。
そう思った。
ゴイは退かない。
「……久しいな」
声が返る。
一つなのに。
一つではない。
男。
女。
老人。
子供。
低い声。
高い声。
幾重にも重なった。
一つの言葉。
『まだ、答えは出ていない』
ゴイの目が細くなる。
「当然だ」
存在の視線が。
ゴイへ向く。
時間そのものが。
そこだけ濃くなったようだった。
ゴイは一歩も退かない。
「私は私だ」
返事はない。
「誰に測られようと」
真っ直ぐに。
「それは変わらない」
白い光が。
ほんの少し落ちる。
「必要か不要かを決めるのは」
ゴイの声が低くなる。
「私だ」
壁際で。
イースが小さく笑った。
「やっぱ先生、最高」
「黙れ」
「はいはい」
存在の視線が。
アベスへ移る。
その瞬間。
空間が変わった。
壁が遠ざかる。
床の境目が薄れる。
天井が高くなる。
白い観測室が。
果てのない白へ引き延ばされていく。
床の継ぎ目は。
足元から順に消え。
壁と天井の境界も。
白さの中へ溶けた。
距離を測る目印がなくなる。
近いのか。
遠いのか。
立っているのか。
落ちているのかさえ。
視覚だけでは確かめられない。
空気は動いていないのに。
鼓膜の奥だけが。
ゆっくり圧されていく。
アベスだけが。
その中央へ残された。
時間が止まったようだった。
誰も喋らない。
存在も。
ゴイも。
イースも。
アベスは。
自分の呼吸だけを聞いた。
一度。
二度。
三度。
胸の奥が冷たい。
足が逃げたがっている。
それでも。
逃げたいのか。
分からない。
昔なら。
そこで終わっていた。
今は。
その先を待てる。
背後で。
こつ。
小さな音。
イースの膝が床へ落ちた。
アベスが振り返りかける。
「前見てな」
掠れた声。
顔は。
もう一つに保てていない。
知らない男。
女。
老人。
見たことのある誰か。
次々と輪郭がずれる。
「まだ大丈夫ですか」
「今その質問する?」
アベスは前を向いた。
白い世界の中央。
存在は。
ただ待っている。
答えを促さない。
急かさない。
一歩も動かない。
その静けさの方が。
叫び声より重かった。
長い。
長い時間。
声はなかった。
そして。
頭の中で。
少年の声がした。
今までより。
ずっと楽しそうに。
(ねえ、相棒)
イースの左目が僅かに動く。
「誰が相棒だ」
少年は笑う。
その声には。
もう隠しきれない期待があった。
ここまで。
ずっと。
待っていたもの。
自分で穴を開け。
条件をずらし。
時間を稼ぎ。
盤面を整え。
それでも。
最後の一手だけは打たなかった。
だから。
結果を知らない。
だからこそ。
楽しい。
(相棒、ラッパの音が聞こえないかい?)
イースが。
ほんの少し。
口元を上げた。
「……聞こえない」
(最高)
「まだ何も始まってないよ」
(だからだよ)
少年の声が。
弾む。
(ここから先、僕にも分からない)
イースは。
小さく笑った。
「無責任」
「そうだった」
イースは壁から身体を離した。
右脚は。
もう使えない。
左脚だけで。
一歩。
身体が大きく揺れる。
止まる。
息を吸う。
また。
一歩。
アベスの背中。
そこだけが。
見える。
白い空間も。
ゴイも。
中央の存在も。
もう。
輪郭すら怪しい。
それでも。
一人だけは。
まだ見える。
左手を上げる。
途中で。
落ちる。
もう一度。
上げる。
指先が。
アベスの背中へ触れた。
同じ背中。
同じ手。
あの時は。
背中を押して。
道を決めた。
今は。
道を決めた背中を。
押す。
イースが。
笑った。
「……行っておいで」
とん。
本当に。
それだけだった。
アベスの身体が。
半歩。
前へ出る。
白い床へ。
自分の足で。
一歩。
その瞬間。
背後で。
何かが崩れる音がした。
アベスの足が止まる。
「イース?」
振り返る。
イースの輪郭が。
ほどけていた。
顔から。
崩れる。
けれど。
最後に戻る一つの顔は。
どこにもなかった。
男。
女。
老人。
青年。
子供。
これまで借りてきた誰か。
演じた誰か。
騙した誰か。
救った誰か。
壊した誰か。
顔が浮かぶ。
消える。
重なる。
また変わる。
右腕が。
白い光へ溶ける。
右脚も。
胸も。
肩も。
身体と空間の境目が。
少しずつ消えていく。
アベスが一歩戻ろうとする。
「待って」
声。
もう。
誰のものか分からない。
アベスが止まる。
「イース」
「何」
「あなたは」
その先が続かない。
なぜ。
ここまで。
自分に何を渡したかったのか。
何を欲しかったのか。
本当は。
誰だったのか。
全部。
聞きたい。
でも。
イースの顔には。
答えになるものがない。
そして。
その無数の顔の中へ。
一瞬だけ。
少年の顔が混じった。
幼い。
細い顔。
口元だけが。
楽しそうに笑っている。
アベスは。
その顔を知らない。
それでも。
笑い方だけは。
知っていた。
何度も。
イースの頭の中から。
聞こえていたものと同じ。
一瞬。
その少年の目が。
アベスではなく。
白い世界の奥へ向く。
中央に立つ存在へ。
挑発するように。
笑う。
次の瞬間。
また。
別の顔。
また。
誰か。
どれがイースなのか。
もう。
誰にも分からない。
イースが。
いや。
その中にいる誰かも一緒に。
笑った。
「僕はずっと嘘つきだからね」
その言葉が。
アベスへ向けられたものなのか。
自分へなのか。
それとも。
白い世界の奥で。
すべてを測ってきた存在へ向けられたものなのか。
誰にも。
分からなかった。
輪郭が。
最後まで。
一つにならない。
そして。
イースは。
消えた。
* * *
白い光は。
何事もなかったように。
床へ落ち続けていた。
影だけがない。
さっきまで彼が塞いでいたはずの場所を。
光がまっすぐ通り抜けている。
すぐには。
何も起きなかった。
音も戻らない。
風もない。
白い床に。
さっきまで。
確かに一人分の身体があった。
今は。
ない。
アベスは。
そこから目を離せなかった。
数秒。
十秒。
もっと。
長かったかもしれない。
喉が痛い。
胸が重い。
戻ってほしい。
そう思った。
その感情が。
誰かに言われたからではなく。
自分の中から出てきたことが。
分かった。
「……イース」
返事はない。
もう一度。
「イース」
何も。
返らない。
ゴイも。
同じ場所を見ていた。
測るような目。
けれど。
今回は。
端末も。
記録も。
数値もない。
ただ。
長く。
見る。
そして。
低く。
一言。
「……フェイカー」
それだけだった。
* * *
白い世界の中央。
存在は。
まだ立っている。
イースが消えても。
一切。
揺らがない。
その視線が。
アベスへ戻る。
白い空間の奥に。
景色が浮かび始める。
雨。
錆。
砂。
油。
駅。
列車。
人の声。
犬。
甘い匂い。
空いた椅子。
開いた扉。
誰かの背中。
五人。
ゴイ。
イース。
アベスが見てきたもの。
全部。
声が落ちる。
『見たな』
アベスは。
すぐには答えない。
まだ。
イースが消えた場所が。
視界の端に残っている。
それでも。
前を見る。
「……はい」
『繰り返した』
雨の中でも。
砂の中でも。
暖かい街でも。
白い部屋でも。
人は。
自分が身につけたものへ戻る。
見る。
残したい。
比べる。
怒る。
離したくない。
アベスは。
否定しない。
「はい」
『測れた』
「はい」
ゴイが。
僅かにアベスを見る。
存在の観測は。
間違っていない。
人間は。
繰り返す。
怖れ。
欲し。
慣れた選択へ戻る。
白い世界へ。
長い沈黙。
そして。
『ならば』
声が。
空間そのものから響く。
『何を選ぶ』
それだけ。
答えろ。
とは言わない。
人間を決めろ。
とも。
ただ。
選べ。
アベスは。
すぐには口を開かなかった。
時間が流れる。
時計はない。
空調音もない。
秒を数えられるものは。
自分の胸の上下と。
乾いていく喉だけだった。
白い世界の中では。
沈黙そのものが積もっていくように感じられた。
一分。
二分。
実際には。
もっと短かったかもしれない。
誰も。
急かさない。
ゴイも。
黙っている。
存在も。
待っている。
アベスは。
最初の白い部屋を思い出した。
白。
青。
『どちらが好きだ』
『分かりません』
次。
冷たい。
熱い。
『どちらが嫌だ』
『分かりません』
パン。
外。
痛み。
人。
何を聞かれても。
同じだった。
あの頃。
自分には。
答えるものがなかった。
今は。
ある。
でも。
それは。
五人から答えをもらったからではない。
全員。
違った。
全員。
間違っていなかった。
全員。
間違えることもあった。
同じ性質で。
誰かを傷つけ。
同じ性質で。
次は。
別のことを選んだ。
アベスは。
息を吸う。
まだ。
言わない。
雨の匂いを思い出す。
砂が靴へ入った感触。
列車の遅れ。
暖かい食べ物。
嫌だった味。
犬。
誰かの笑い声。
メリカの部屋。
空いた椅子。
開いた扉。
そして。
背中を押した。
ほとんど力のない。
最後の指。
喉が。
少し震える。
ゴイが。
見ている。
かつて。
失敗作と呼んだ0が。
何を言うのか。
一瞬も逸らさず。
アベスは。
ようやく口を開いた。
「僕には」
声が。
白い世界へ落ちる。
「人間全部を決められません」
ゴイの眉が。
僅かに動く。
存在は。
動かない。
アベスは。
続ける。
「見ても」
一度。
息を吸う。
「全部は分かりませんでした」
誰かの過去を知っても。
何をしたかを知っても。
今。
何を選ぶかまでは。
決まらない。
「でも」
アベスが。
自分の胸へ手を置く。
「僕のことなら決められます」
ゴイの視線が。
少し。
強くなる。
「僕には」
昔。
意味がなかった。
好きも。
嫌いも。
欲しいも。
欲しくないも。
ほとんど。
なかった。
それは。
事実。
消さない。
「意味がなかったことと」
長い間。
「これからもないことは」
また。
間。
「同じじゃない」
声が。
少しだけ。
強くなる。
「僕は」
誰も。
答えをくれない。
だから。
自分で。
「自分で選びたい」
白い世界に。
雨の匂いがしたような気がした。
錯覚かもしれない。
それでも。
アベスは。
顔を上げる。
「僕は――」
最後の言葉。
急がない。
自分の中で。
確かめる。
そして。
「それでも、人間でいたい」
長い。
長い沈黙。
存在は。
アベスを見ていた。
ゴイも。
見ている。
誰も。
拍手しない。
誰も。
正解だと言わない。
やがて。
ゴイが。
息を吐いた。
「……それが」
低い声。
「お前の答えか」
「はい」
「人間の?」
アベスは首を振る。
「僕のです」
ゴイが。
僅かに目を細める。
「そうか」
それだけ。
けれど。
その一言までに。
長い時間があった。
ゴイは。
アベスを見る。
昔。
失敗作。
0。
選べない。
測れない。
捨てたもの。
その人間が。
今。
自分より先に。
一つの答えを口にした。
ゴイの口元が。
ほんの少し。
歪む。
笑いではない。
怒りとも。
少し違う。
「不愉快だな」
アベスは。
何も言わない。
「私が捨てたものに」
ゴイが。
薄く笑う。
「先を越された」
イースがいれば。
笑っただろう。
それを。
ゴイ自身も。
分かっているようだった。
* * *
存在の視線が。
ゴイへ移る。
空気が。
また変わった。
ゴイの周囲へ。
光でも闇でもないものが集まり始める。
指先。
輪郭。
白衣。
少しずつ。
世界との境目がほどけていく。
アベスが見る。
ゴイは。
自分の手を見る。
慌てない。
叫ばない。
命乞いもしない。
ただ。
観察する。
声が。
幾重にも重なった。
『お前は不要だ』
ゴイの目が。
僅かに細くなる。
それだけ。
自分が。
何百年も。
他人へ向け続けた言葉。
最後に。
自分へ返ってきた。
ゴイは。
しばらく黙っていた。
そして。
薄く笑う。
「……次は私が選別されるのか」
身体が。
少しずつ消えていく。
それでも。
背筋は。
最後まで曲がらない。
「なら」
一拍。
「それも結果だ」
手。
腕。
肩。
胸。
消える。
最後まで。
自分を否定しない。
最後まで。
自分の論理を。
自分だけ例外にしない。
ゴイは。
消えた。
* * *
白い世界に。
アベスだけが残る。
そして。
中央の存在。
二者。
存在は。
長く。
アベスを見た。
怒らない。
笑わない。
敗北した顔もしない。
その視線が。
ゆっくり。
逸れる。
アベスではない。
ゴイがいた場所でもない。
イースが消えた場所でもない。
さらに。
その向こう。
誰もいない。
白い空間の端。
以前。
一人の少年が立っていた場所。
長い。
沈黙。
初めて。
その完全な顔から。
静けさが。
僅かに失われた。
ほんの。
僅か。
けれど。
確かに。
昨日と今日で答えが違えば。
それも観測ではないのか。
本人が外を見たいと言ったなら。
それも入力ではないのか。
まだ収束していないなら。
観測を続けるべきではないのか。
一つ。
また一つ。
置かれた問い。
その全てが。
今。
一本の線へ繋がる。
アベスを外へ出した。
五人を見せた。
時間を作った。
ゴイまで。
この場へ呼ばせた。
そして。
最後の一手だけは。
自分で打たなかった。
存在の眼差しが。
初めて。
僅かに。
鋭くなる。
『……そういうことか』
返事はない。
少年は。
もう。
ここにいない。
存在の声が。
低く。
世界へ沈む。
『我に』
間。
『観測を続けさせたか』
沈黙。
誰も。
笑わない。
けれど。
アベスの記憶の中で。
あの少年の笑い声だけが。
なぜか。
聞こえた気がした。
存在の顔に。
感情が浮かぶ。
怒りではない。
それより。
もっと深い。
自分の定めた規則。
自分の完全性。
自分が疑わなかった前提。
その全部を。
真正面から壊されたのではない。
利用された。
自分自身に。
扉を開けさせられた。
それを。
最後まで。
気づかなかった。
屈辱。
白い世界が。
僅かに。
軋んだ。
アベスの身体へ。
重い圧力がかかる。
それでも。
存在は。
叫ばない。
少年を罵らない。
怒りに任せて。
盤面を壊さない。
長い。
長い沈黙の後。
その顔が。
再び。
静かになる。
すべてを。
飲み込む。
そして。
一言。
『見事だ』
誰へ。
向けたものなのか。
アベスには。
分からなかった。
存在が。
ゆっくり。
背を向ける。
その動きだけで。
白い世界が割れた。
光が。
左右へ退く。
道が。
生まれる。
一歩。
進む。
海が浮かぶ。
山。
街。
工場。
砂漠。
雨。
炎。
人。
笑う。
泣く。
殺す。
助ける。
裏切る。
戻る。
数え切れない人間の姿が。
その両側に。
世界そのもののように広がる。
存在は。
一度も。
振り返らない。
遠ざかっているはずなのに。
小さくならない。
威圧感は。
一歩ごとに。
むしろ。
大きくなる。
神が。
退いている。
けれど。
逃げる姿ではない。
追われる姿でも。
敗残者でもない。
自分の観測が。
すべて間違っていたからではない。
人は。
繰り返した。
測れた。
傾向も。
欲望も。
恐怖も。
そこまでは。
正しかった。
ただ。
最後の一手まで。
閉じ切れなかった。
それだけ。
存在は。
その事実すら。
威厳の中へ取り込んで。
歩いていく。
やがて。
声が。
世界全体へ響いた。
『人は、測れる』
アベスは。
背中を見ている。
『だが』
一歩。
さらに。
遠く。
『測り切れぬ』
それが。
敗北宣言なのか。
新しい観測なのか。
アベスには。
分からない。
存在は。
最後まで。
説明しなかった。
ただ。
世界の果てへ向かうように。
堂々と。
歩く。
白い光の中へ。
その輪郭が。
少しずつ。
溶ける。
最後の一瞬まで。
背筋は。
真っ直ぐだった。
そして。
消えた。
* * *
白い観測室が戻った。
蛍光灯の微かな唸りが戻る。
空調が低く回り始め。
どこか遠くで。
扉の閉まる音がした。
世界は再び。
壁のある大きさへ縮んだ。
机。
椅子。
白い壁。
二枚の紙。
白。
青。
アベスは。
長く。
そこに立っていた。
誰もいない。
ゴイも。
イースも。
あの存在も。
頭の中で笑っていた少年も。
もう。
いない。
ただ。
自分だけ。
昔。
ここで。
何も選べなかった。
今。
同じ場所に。
自分で立っている。
アベスは。
机の上の二枚を見る。
白。
青。
昔なら。
分からなかった。
今は。
どちらを選ぶ必要もない。
それも。
自分で決められる。
アベスは。
紙へ触れなかった。
扉を見る。
歩く。
一歩。
また。
一歩。
自分で。
手を伸ばす。
扉を開ける。
外から。
風が入る。
白い部屋にはなかった。
匂い。
温度。
音。
アベスは。
少しだけ。
目を細める。
そして。
外へ出た。
KillerWorld ―七つ目の答え―
ここで。
本編完結です。
この物語の中心にあった問いは。
ずっと一つでした。
「人は測り切れるか」
最終的な答えは。
「人は測れない」
ではありません。
人は測れる。
傾向もある。
同じ失敗を繰り返すこともある。
恐怖。
欲望。
執着。
怒り。
人は一度身につけたものへ。
何度でも戻ります。
だから。
ゴイも。
存在も。
全部間違っていたわけではありません。
五人を見ても。
観測結果そのものは消えませんでした。
ネミティブは今も見る。
朔は今も残したい。
カルロスは今も比べる。
ルウは今も怒る。
メリカは今も離したくない。
ただ。
次に何を選ぶかまでは、測り切れなかった。
そこが。
この作品の答えです。
そして。
アベスも人類の答えを出していません。
人間を残すべきだとも。
人間は正しいとも。
言っていません。
アベスが決めたのは。
最後まで。
自分のことだけです。
「僕には、人間全部を決められません」
「でも、僕のことなら決められます」
「意味がなかったことと、これからもないことは、同じじゃない」
「僕は、自分で選びたい」
そして。
「僕は――それでも、人間でいたい」
それが。
七つ目の答えです。 KillerWorld_最終章_七つ目の答え_投稿前最終調整版
イースについては。
最後まで。
本当の顔を出しませんでした。
というより。
もう。
戻る「本当の顔」そのものがありません。
誰かの顔。
誰かの声。
誰かの役割。
嘘。
全部を使い続けた男が。
最後まで。
一つにはならない。
だから最後の言葉も。
「僕はずっと嘘つきだからね」
です。
そして。
あの少年も。
最後の一手だけは打ちませんでした。
穴を作る。
条件をずらす。
時間を稼ぐ。
可能性を残す。
でも。
最後に何を選ぶかは。
本人へ返す。
だから彼自身も。
結果を知りません。
それが。
彼にとって一番面白い。
そして最後。
アベスは白と青の紙を選びません。
昔は。
選べなかった。
最後は。
選ばないことまで、自分で選べる。
そして。
扉を開ける。
匂い。
温度。
音。
何もなかった白い部屋から。
自分で。
外へ出る。
これで。
KillerWorld ―七つ目の答え―
完結です。




