閑話:年下ライバルの完全敗北と、大人のブラックコーヒー
「うわ、まじで酷くなってきたな……」
会社の1階エントランス。自動ドアの向こうは、バケツをひっくり返したような土砂降りだった。
千石は傘を片手に、スマホの画面と外の暗闇を交互に見つめてため息をつく。時計の針は22時半を回っている。
「……やっぱり、戻るか」
ぽつりと呟いた言葉は、激しい雨音にかき消された。
本当は、21時の時点で椎名に「千石くん、紬ちゃんのお迎えもあるでしょ? 後はやっておくから、本当に先に帰って」と笑顔で押し出されるように退勤を促されたのだ。心配だったが、彼女の「母親としての事情」を出されると、独身の自分はそれ以上踏み込めなかった。
でも、駅に向かう途中でどうしても胸がざわついた。
『今夜は実家に預けてるから大丈夫』――あの時、椎名がボソッと言った言葉を、千石の耳は聞き逃していなかった。
「子供がいないなら、残業付き合うって言っても断られなかったはずなのに。……なんで嘘ついてまで俺を帰したんだよ、椎名さん」
寂しさと、少しの焦燥感。
千石は翻って、エレベーターに乗り込んだ。せめて残った書類だけでも半分引き受けて、少しでも彼女を早く帰してあげたかった。それが、年下の自分にできる精一杯の「アピール」のつもりだった。
静まり返った経理部フロアの自動ドアが開き、千石は足音を忍ばせて中に入る。
彼女のデスクには、まだ明かりがついていた。
「椎名さん、やっぱり手伝いに戻りま――」
声をかけようとした千石の足が、ピタリと止まる。
パーテーションの隙間から見えたのは、椎名のデスクの横に立つ、神崎課長の姿だった。
いつも隙のないスーツ姿の課長が、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖を腕まくりしている。ネクタイも少し緩んでいて、普段の冷徹な雰囲気とは違う、妙に生々しい大人の色気が漂っていた。
そして、課長の手には二つのマグカップ。
「……っ」
千石は思わず、物陰に身を隠した。息を潜めて、二人の会話に耳を澄ます。
『これ、すごく美味しいです。酸味が少なくて、私がいつも自動販売機で買っている銘柄に少し似ているような……』
『当然だ。経理部フロアの自動販売機における、君の過去3ヶ月間の購買データを簡易的に抽出・分析した。君が好むコーヒーの酸味、苦味、焙煎度合いの数値を割り出し、それに最も近い豆を私が私費で購入しておいたものだ』
(……は? 購買データの分析? 私費で購入?)
千石は目を見開いた。あまりの徹底ぶりに、背筋に冷たいものが走る。
さらに、神崎課長の声は容赦なく続いた。
『千石が以前、君に温かいカフェラテを差し入れていただろう』
『あの男は「ミルクの甘さで癒やされる」と言っていたが、データは逆を示している。君が本当に疲弊している時に選ぶのは、常にこの深煎りのブラックだ。……他人の浅い観察眼による差し入れなど、君の身体の必要数値を満たさない』
(他人の浅い観察眼、だって……?)
グサリ、と胸にナイフが突き刺さったような痛みが走る。
千石は自分が以前、椎名に「元気出してください!」と笑顔で渡したカフェラテを思い出した。あの時、彼女は確かに「ありがとう」と笑ってくれた。でも、それはただの「優しい先輩としての気遣い」だったのだ。本当に彼女が求めているものを、数字のロジックで完璧に暴き、用意してみせたのは――目の前の、冷徹な上司だった。
『私が、私個人の独占欲として、君と紬ちゃんを私の可処分所得と人生の全リソースを使って守りたいと言っているんだ』
神崎課長の、低く、しかし驚くほど熱い声がフロアに響く。
椎名の顔が、スタンドライトの光の中で真っ赤に染まっていくのが見えた。仕事中の彼女が見せたことのない、完全に「一人の女性」としての、恋を自覚した顔。
「あーあ……。これは、入っていく隙間なんか1ミリもねぇわ」
千石は自嘲気味に呟き、静かに後退りした。
自分の完敗だった。年齢とか、キャリアとか、そんな言い訳すら通用しない。神崎課長は、自分の持つ「大人のカード」をすべて椎名のためだけに切る覚悟を決めている。その圧倒的な熱量と重さの前に、自分の片想いはあまりにも軽すぎた。
エレベーターに乗り込み、再び1階へ降りる。
手元に残ったビニール傘が、なんだかひどく格好悪く思えた。
「おいおい、千石。そんな幽霊みたいな顔してどうしたんだ?」
1階の自動販売機コーナーの前で、ぽつんと缶コーヒーを眺めていた大野部長が、千石の姿を見るなり声をかけてきた。手にはお決まりの微糖の缶コーヒーが握られている。
「……あ、大野部長。お疲れ様です。まだ残ってたんですか?」
「ん? 役員会議の資料の手直しが長引いちゃってさ。いやー、疲れた体にこの糖分が染みるんだよ。お前も一本飲むか?」
大野部長が気さくに自販機のボタンを押そうとする。千石は力なく首を振った。
「いえ、ありがとうございます。……あ、もしよければ、ブラックのコーヒー、奢ってもらってもいいですか。一番苦いやつ」
「お、珍しいな。いつも甘いカフェオレとか飲んでるクセに。大人になりたい年頃か?」
カラン、と音を立てて落ちてきたブラックの缶を、千石は両手で受け取った。
プルタブを開け、勢いよく口に含む。
「ぶふっ……! にっが……!!」
「ハハハ! だから言わんこっちゃない。無理すんなって」
大野部長がガハハと笑う。千石は口の周りを拭いながら、苦い液体を睨みつけた。
「……部長。ブラックコーヒーって、何が美味しいんですか。ただ苦いだけで、全然優しくないじゃないですか」
「んー? まあ、大人の男ってのはさ、優しさだけじゃ超えられない夜があるんだよ。苦味を噛み締めながら、必死に頭回して戦わなきゃいけない時がある。神崎なんか、いっつもそればっかり飲んでるぞ」
大野部長の何気ない言葉が、千石の胸を抉る。
「……知ってます。知ってますよ、もう」
千石はベンチにどさりと腰掛け、缶をじっと見つめた。
「課長って、ずるいですよね。仕事も完璧で、ロジックも強くて。その上、誰かを守るための行動力まで、俺なんかじゃ足元にも及ばない。……勝てるわけないじゃないですか」
大野部長は、千石の視線の意味と、彼がさっきまで上に戻っていた理由を察したのだろう。
ふっと悪戯っぽい笑みを消し、優しい、大人の上司の顔になった。
「なんだ、見てきちゃったのか。上の様子を」
「……はい。椎名さんに嘘つかれて先帰されて、心配で戻ったら……課長が、椎名さんの購買データ分析して好みのコーヒー淹れてました。俺の差し入れ、全否定されましたよ。『浅い観察眼』だって」
「ぶっ、あっはははは! 購買データ! あのバカ、そこまでやったのか!」
大野部長が腹を抱えて笑い出す。
「笑い事じゃないですよ! 俺、マジで失恋したんですからね!」
「悪い悪い。いや、でもさ、千石。あいつがそこまで必死になってるってことは、それだけ余裕がない証拠だよ。あの神崎が、お前という『若くて素直なライバル』に嫉妬して、必死にマウント取ろうとしたんだ。そう思えば、お前も大した男だよ」
大野部長は千石の肩をポンと叩いた。
「神崎はさ、ずっと一人で戦ってきた男なんだ。数字だけを信じて、他人に踏み込まず、踏み込ませず。そんなあいつが、椎名さんと紬ちゃんっていう『家族』を守るために、自分の計算式を壊してまで暴走してる。……不器用だけど、あれがあいつの『本気』なんだよ」
「……わかってます。だから、悔しいんです」
千石はもう一口、ブラックコーヒーを飲んだ。さっきよりは、少しだけ苦味が和らいだ気がした。
「俺じゃ、椎名さんの過去の苦しみまで背負う覚悟は、まだ持ててなかった。子供も含めて、自分の人生全部突っ込むなんて……あそこまで一瞬で決断できる課長は、やっぱり凄いです」
「うん。お前はまだ若いし、これからいくらでも良い恋愛ができる。でも、あの二人はさ、お互いが出会うまでにいろんな傷を負ってきた。だからこそ、あのパズルのピースは、あそこでしか噛み合わないんだよ」
大野部長は缶をゴミ箱に投げ入れると、千石の頭をガシガシと撫で回した。
「よし! 失恋記念だ。明日の夜、美味い肉奢ってやる。千石、明日からまた仕事で神崎に生意気な口利いてやれ。あいつ、仕事で詰められるのが一番堪えるからな」
「え、マジですか? じゃあ、明日思いっきり課長の承認ルートにエラー出しときます」
「おう、やってまえやってまえ!」
二人の笑い声が、静かなエントランスに響く。
千石は手元の缶コーヒーを飲み干した。やっぱり苦いけれど、お腹の奥がじんわりと温かかった。
「……椎名さん、お幸せに。課長、もし泣かせたら、俺、今度こそ容赦なく奪いに行きますからね」
外の雨は、いつの間にか少しだけ小降りになっていた。
年下ライバルの、ちょっぴりほろ苦くて、でも前を向くための特別な夜が、静かに更けていった。
閑話までお読みいただきありがとうございます。
今週末も現代恋愛 第二弾を投稿いたします。
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