体験学習 5日目②
目が覚めると、『稚愛』は病院のベッドの上にいた。
病院の名前は、愛証総合病院。つまり、救急車に乗って下校したのだ。
「おはよう。春崎稚愛さん……ではなく、伊佐川継人くん」
本当の名前を知る人物。女医であり、稚愛の母親でもある、春崎ゆず子だ。
ゆず子は、ベッドのそばに座っていた。
「今、どれくらい動ける?」
「どれ……くらい……?」
『稚愛』は復唱し、少なくとも口が動くことを確認した。そして、とりあえず首も左右に動く。
あとは無理だった。手足はプルプル震えるだけで、力がどうにも入らない。多少はマシになっているものの、自力で起き上がるには、まだ時間がかかりそうだ。
「なるほど。しっかり洗礼を受けたわね。ガチン症の」
「ガチン症……?」
「特発性筋肉過緊張症候群。通称、ガチン症。稚愛がこれまでの人生で付き合ってきた、身体の特性よ」
「この……身体の……」
「世界的に見ても、例の少ない未知の症候群。だから、私は自分の娘を通して、独自研究を進めているの。今分かっているのは、怒り、悲しみ、喜びなど、激しく感情が揺さぶられている時に、身体に力が入ると、そのまま力が入り続けて止まらなくなってしまう、ということ。そうなると、筋肉弛緩剤を投与するほか、対処法はない」
「弛緩剤……。さっきの、注射か……」
「ええ。稚愛に関わる大人たちと、稚愛本人には、いくつか持たせてあるわ。使い方や、その後のマッサージも教えてある。今ここで、あなたも学んでおく?」
「それならっ……!」
「うん?」
「……い、いえ。なんでも、ありません」
「それなら、こうなる前に教えてくれればよかったじゃないか……!」と言いかけて、やめた。それを言った時、どんな言葉が返ってくるか、一瞬で予想できてしまったからだ。
話を切り替え、『稚愛』は別の疑問を投げかけた。
「すごく……不愉快な気持ちに、なったんです。ひまわり学級の3人組と、話した時。あれは一体、なんだったんでしょうか……?」
「ひまわり学級ね……。不思議でしょ? ひまわりとさくら、男女でクラスが分かれてるなんて」
「あっ……。そういえば、そうだ……」
「元々は、ひまわりもさくらも、男女で分かれたクラスではなかった。きっかけは、去年起きた事件よ。花壇で花の様子を見ていた稚愛を、あの3人組が背中から押し倒した」
「え……!?」
「動機は純粋な、知的好奇心。保健の授業で女性の体について学んだから、実物が見たくなったそうよ。普通の女子なら、走って逃げられるけど、稚愛は固まって動けなくなるから」
「そ、そんなのっ……!」
「ふふっ、卑劣でしょ? 稚愛が服を脱がされそうになったところで、通りかかった先生が止めに入ったんだけど……それはもう、大問題になったわ。私も稚愛の保護者として、何度も学校側と話し合った」
「……」
「男子たちの保護者も、謝罪に来たわ。あんまり誠意は見られなかったけど……稚愛は『もう大丈夫。気にしてない』と、あっさり許してしまった」
「えっ!? ど、どうして……?」
「怒ったりしたら、またガチン症になるからよ。稚愛は、もう二度とガチン症を起こしたくないらしく、その日から、全く怒ったり泣いたりしなくなった」
「あっ……。確かに」
確かにそうだ。春崎稚愛は、継人との入れ替わり生活のなかでも、一度も怒ったり泣いたりしていない。継人がどんな指示をしても、「ふぅ~ん……。分かった」と、逆らわずに従うばかり。
やはり、激しい感情を押し殺すようになってしまったのだろう。
「その後、学校側は『ひまわりとさくらを男女で分ける』ことと、『なるべく稚愛とあの3人を近づけないようにする』ということを、私に約束した。稚愛が卒業するまで……たった一年間の、特別措置」
「そうか……。だから、劇の練習は……」
「でも、少しだけ安心したわ。私だけじゃなく、稚愛の身体にも、あの日の『怒り』が刻まれていた。しっかり苦しんで、しっかり嫌がっていたのね。ふふっ、表に出してくれてありがとう、継人くん」
「……」
稚愛の身体で過ごしていると、かつての稚愛の想いや感情が、記憶となって、継人の中にも流れ込んでくる。
稚愛が、どんな時にどうしたかったのか、今の継人なら、全て分かる。
「さて、これからどうするの? 継人くん。まさか……ガチン症なんて聞いてないので、この体験学習はリタイアします、なんて言わないわよね?」
「もちろん……! 俺は、まだ続けるつもりです」
「ふふっ、優秀ね。じゃあ、君はこれからどうしたい?」
「稚愛ちゃんに、会いたいです。一度、話し合いたいことがあるので」
*
今朝ぶりに、『稚愛』は地下にある和室へと戻った。
少し痺れはあるが、もう手足は動く。『稚愛』は座布団の上に座り、軽くセルフマッサージしながら、『継人』の帰りを待った。
「ただいま……」
帰ってきた。
しかし、声に元気がなく、なぜか手にビニール袋を持っている。
「稚愛ちゃん」
「あっ! つーくん……」
「ちょっとこっちに来てくれ」
「う、うんっ……」
『継人』のぶんの座布団も、ちゃんと用意してる。ベンチに座って話すような、楽な距離感で、配置してある。
『継人』は座ったと同時に、『稚愛』にビニール袋を差し出した。
「これは……」
おむつだ。ぐっしょり濡れた重いおむつが、袋の中に入っている。
つまり、ここに来るまでのどこかで、ベルトを外してズボンを降ろし、おむつを脱いでしまったのだ。
「ご、ごめんなさい……。つーくん」
「うん?」
「えと、えっと……今日、男子たちが、肩車して遊んでて。わたしはやらないって言ってたんだけど、勝手に、お尻とか、触られて……。そしたら、お尻がモコモコしてるし、おしっこの臭いがするぞ! おむつだ! って、バレそうになったの」
「それで?」
「すぐ逃げたから、おむつしてることは、バレなかったけど、舞白ちゃんが追いかけてきて……本当におむつしてるの? って聞かれたから、うん……って言って、見せちゃった」
「そうか……」
バレたのは舞白だけだが、他のやつらからも疑いをかけられている。きっと次は、悪ふざけでズボンを脱がされるだろう。もう隠すのは限界だ。
とはいえ、春崎稚愛は、充分なほど伊佐川継人の名誉を守ってくれた。
(それに比べて……)
『継人』と同じように、『稚愛』もビニール袋に入った汚物を取り出した。
「あっ! わたしと、同じっ……!」
「ごめん。俺も、なんだ」
「お漏らし、したの……?」
「しかも、その……おむつじゃなくて、パンツに」
「えっ!? なんでっ!?」
「ガチン症になったんだ」
「……!」
『継人』の、纏う空気が変わった。
その単語だけで、『稚愛』にどれほどのことがあったのか、全て伝わるらしい。
「そっか……。苦しかった……ね……」
厄介なモノと14年も付き合ってきたその人は、今の『稚愛』の一番の理解者だ。それなら『稚愛』も、その人の一番の理解者にならないといけない。
相互理解。きっとそれが、この福祉介護体験学習の、本質だからだ。
「稚愛ちゃん……俺、稚愛ちゃんになるよ」
「えっ?」
「稚愛ちゃんのことを、もっとよく知るために、稚愛ちゃんをいっぱい体験する。だから稚愛ちゃんは、俺が何をすればいいか、どうしてほしいかを、全部教えてくれ。もう気持ちを隠さず、正直に」
「うんっ……!」
「そして、俺のことも、よく知ってほしい。何をしたらいいか、どうしてほしいかを伝えるから、しっかりと俺になってくれ。それで、もし嫌なことがあったら、ケンカになってもいいから、ちゃんと話し合おう」
「分かった……!」
たった二週間の体験。いや、もはや10日もない。
残りの日を無駄にせず、本気の全力で取り組んで、この貴重な体験を、人生の糧にしなければならない。
「今日から、ちゃんと入れ替わろう」
二人で、一緒に。
*
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福祉介護体験学習レポート
主体験者 伊佐川継人
共同体験者 春崎稚愛
5日目 愛証記念病院地下2階 和室
◆今日の出来事
午後の演劇練習前に、ガチン症により全身から力が抜けなくなり、動けなくなる。その後、担任の先生の注射とマッサージにより、無事回復に向かうが、念のため救急車で病院へ。
夕方、稚愛さんともう一度話し合い、特別カリキュラムに対する姿勢を根本的に見直すことを提案する。稚愛さんも、その提案に賛成してくれた。
夜は、初めて二人で夕食を作ることにした。実はラーメンが好物だと稚愛さんが話してくれたので、メニューもそれに決定。袋麺にトッピングするだけの、簡単なものだが、筆者も稚愛さんも充分満足し、これからも夕食は二人で作ろうと決めた。
◆生活の様子や気づいたことなど
稚愛(元 継人)
・今日の夕食はラーメンということで、食器は箸。ただ、やはり自分では上手く箸を使えなかったので、思い切って稚愛さんに食べさせてもらえないかお願いした。稚愛さんは、快く引き受けてくれた。
・ぼーっとする微熱や、頭がクラクラする原因が、だいたい分かってきた。おそらく、脳で情報が処理しきれないからだ。多くの物事や難しい物事を考えすぎないようにして、脳への負担を減らしていく。
継人(元 稚愛)
・ベルトの着脱や、男子トイレの使い方などを教えた。思ったより飲み込みが早く、時間は掛からなかった。その際、「トイレ以外で、ズボンの中に手を入れたりするのは、できるだけやめてほしい」とはっきり伝えると、理解を示してくれた。
・夕食後、稚愛さんに今やりたいことを聞くと、「一緒に絵を描きたい」と答えたので、二人で一枚の大きな紙に、マジックペンでいろいろな絵を描いた。元々、絵を描いたり色を塗ったりするのが好きだったらしいが、指を自由に動かすことができる身体を得て、さらに熱中するようになったようだ。完成した後、稚愛さんは二人の絵を何度も見比べていた。




