25 永遠に閉じられた瞳(弟子と師匠7)
○月×日
匿名X:俺、護衛隊だったんですけど、「フィツエリの君」の真実を言えなくて辛いです。近衛と王都は馬鹿ばっかりですか・・・?
匿名A:そのまま夢を見せておいてやれよ。
匿名B:知らない方が幸せなこともあるさ。
匿名C:俺も護衛隊だったけど、・・・腹筋が鍛えられた。発作的に笑ってしまうのを耐えるってかなりキツイ。
匿名D:俺も護衛隊だったけど、フィツエリ男爵令嬢と結婚したのってデクシム子爵家だったよな。・・・ひょんなことから知ってしまったあの事実、言うに言えず、俺も辛い。
シールルー平野に陣を構えたローム国軍。
その朝、パストリア軍の先頭に立っていた筈のパストリア王子ルーゼンメイルがいつの間にかローム軍へと合流し、共に戦うことが発表された。
今まで、パストリア軍に対するローム軍の旗頭の一つとして姿を見せていたローム王妃レイリアーネだったが、それこそ彼女だけではなく、パストリアの正妃が産んだルーゼンメイル王子がローム軍にいるとなれば、更にパストリア軍の士気を挫くことだろう。
「王妃は王宮に返す。良いか、何があっても王妃を守れ。何と言ってもパストリア国王となるルーゼンメイル王子の姉君なのだからな。側室がいようと関係ない。我が王妃はレイリアーネだけだ」
「はっ」
国王に念押しされるまでもない。近衛騎士団にしてみれば、王妃の護衛は本来自分達のものでありながら、様々な事情からローム国騎士団にその仕事を奪われていたのだ。
セイランド・リストリ将軍は、かなりの精鋭をつけて王妃一行を王宮へと戻す隊列を編成させた。
「お名残り惜しいですわ、ケリスエ様。私もあなたの雄姿を見とうございました」
「ルーナ姫。・・・あなたにもしものことがあってはと、あなたが戦場にいらしては私もおちおち戦うことなど出来はしません。どうか安全な王都で勝利の報告をお待ちください」
ぴとっとサーライナにくっついて別れを惜しむルーナは、王妃など全く見ていない。それを横目で見ながら、国王にも同じようにくっついていいだろうかと、王妃は考え込んだ。
ルーナの様子を見れば、さりげなく相手の服を小さく握ってか弱い女性をアピールしているようだ。やはり、国王にどっしーんと抱きついてはいけないらしい。
とりあえず、ルーナの真似をしてみようと、王妃はとととっと国王に寄っていった。
「どうした、王妃」
「陛下。私もあなたの勇ましいお姿を見とうございました。ここで戻るのは辛うございますわ」
ルーナのように、国王の服を小さく握ってみる。すると、国王は少し目を丸くしたが、王妃の脇腹に手をやると、少し持ち上げて抱き上げてきた。
「うむ。まあ、戦場は危ないからな。ましてやルーゼ殿がいる今、これから一気に攻め込むのだ。王妃は安全な所にいるがよい。帰ったら、ちゃんとご褒美をやろう」
そう言って、よしよしと頭を撫でてくる。
王妃は思った。・・・何かが違う、と。
まるで自分の我が儘を「いい子だな。まあ、大人しく留守番していなさい」といった感じで対応してもらいたいのではない。「あなたがいないのは寂しい。が、この勝利をあなたに捧げよう」と、ロマンチックにしてもらいたいのだ。
だが、どう言えば、それが伝わるのだろう。やはり、あのフィツエリならではの全身を布で覆うスタイルでないと、神秘的な雰囲気は演出できないのだろうか。このドレスが悪いのか? それともベールがないのが悪いのか? ・・・今からでもベールをかぶってきていいだろうか。
眉間に皺を寄せて考える王妃の頬に、国王は小さく口づけてくる。
「私がいない王宮でも、王妃よ、そなたならば守れると信じている」
「・・・! 大丈夫ですわっ。ちゃんと私がっ、陛下が戻るまで王宮の留守を守ってみせますっ」
「そうか。やはりそなたは賢く得難い、立派な王妃だ」
途端に先程までの悩みを忘れ、王妃は王に良いところを見せようと決意する。
それを少し離れた所から見ながら、ルーゼンメイルは思った。
(姉上ってばちょろすぎる・・・)
それでもあの姉を手の上で転がせるのだから、やはり義兄は凄い人なのだろう。
互いに軍の一番目立つ場所にいながら、決して手を伸ばすことも、言葉を交わすこともできなかった数日前の自分達を思えば、義兄に対しては感謝しかない。
遠く、互いの姿を目に入れながら、どうして姉と弟がそのまま駆け寄ることもできないのかと、苦渋の思いに何度、爪の跡がつくまで手を握りしめただろう。いくらケリスエ護衛隊長の独断とはいえ、ローム国王の意に反することであれば、ルーゼンメイルを連れてくることなど、出来なかった筈だ。
そんなルーゼンメイルは、王子に相応しい武装をさせられている。よくぞそんな鎧があったものだと思ったら、ローム国王のものではなく、ケリスエ護衛隊長の物だという。
「たまに、格好だけでも将軍らしくしてくれと言われていた時に使っていた物なのです。ですから見た目は派手ですし、目立つ装飾もついていますが、この場合はちょうど良いでしょう。マントも金糸銀糸で派手に刺繍されておりますが、・・・陛下よりも目立っていただかねばなりませんし、ちょうど良かったですね」
けれども傷の一つも入っておらず、汚れの一つもない鎧と藍色のマントといった一式は、袖を通したことがあるとはとても思えないものだった。というより、誰がどう見ても、その黒に近い藍色のマントいっぱいに刺繍されているのは、パストリア王家の紋章である。
胡散臭そうな目でそれを指摘するルーゼンメイルに、サーライナはにっこりと笑った。
「そうですか? 偶然でしょう。ちょうど暇だったので手持ちのマントに刺繍をしたら、パストリアの紋章に似てしまっただけなのです」
ぬけぬけとそんなことを言うのだから、やっていられない。何でも、王子を迎えにも行かずに歩いて移動させていたのは、その刺繍が終わらなかったからだとか言うのだから、脱力もする。
王子のいる天幕に翻っていた旗を見て、真似していたらしい。あまりにも複雑な紋章ってのは迷惑ですねと、そんな感想など聞きたくもない。というか、その時点で、全然、偶然じゃないだろう。
しかも、それを見たローム国王までが、破顔して満足そうな顔になる。
「おお、ルーゼ殿。まさにそうしているとパストリア国王に相応しい出で立ちではないか。・・・さすがだ、ケリスエ護衛隊長。やはりそなたを指名して良かった」
「恐れ入ります」
出来るなら、騙されないでください義兄上と、大声で言いたい。真面目そうな顔をしているが、きっとこの女の本性は、かなり行き当たりばったりだ。やってみたらうまく行った、そういう手合いに違いない。
ルーゼンメイルは、しかし、そこで言葉を飲み込んだ。
(我慢、我慢だ、私・・・。そう、そんな彼女が自分の護衛隊長なのだから)
王妃の護衛隊長とされていたサーライナは、王妃が王都に帰還することになった今、即座にルーゼンメイルの護衛隊長へと変更されていた。
そんな彼女が馴染み深いというローム国騎士団に、ルーゼンメイルの天幕も用意されている。
近衛騎士団に守られているローム国王とは別になるが、ルーゼンメイルに痺れ薬を渡した男も、大汗を偽装した男も戻ってきており、その上、姉の護衛をしてくれていたソチエト第五部隊長もいるので、気は楽だった。やはり、見知らぬ人ばかりというのは緊張するからだ。
「ルーゼ。無理はしないでね。どんなに離れていても、・・・あなたを愛してるわ」
「姉上。もう私には姉上しかいないのです。どうかご壮健で。・・・お会い出来て嬉しゅうございました。二度と会うことがなくても、・・・いつもあなたの幸せをお祈り申し上げております」
涙を流して別れを惜しむレイリアーネの出立を見送り、ルーゼンメイルは意識を切り替えた。
今日一日でローム国騎士団ならパストリアを打ち破ってみせるでしょうと豪語していたケリスエ護衛隊長だったが、今日は王妃が帰還することと、パストリア軍がかなり混乱している様子なことから、勝負は明日になりそうですねと、そんなことを今朝になって伝えてきている。
実際、パストリア軍は、ルーゼンメイルの行方が知れないせいだろう、かなり距離があるローム軍から見ても右往左往している様子だった。
ルーゼンメイルは、小さく目を閉じた。
黙って虜囚の身に甘んじていた日々。誰が敵なのか、もう自分は知っている。そして、それらを滅ぼす力は義兄が与えてくれた。
「明日はパストリア軍も驚くことでしょう。自分達が探し回っていたあなたが、こちらにいるのですから。・・・さて、どれくらいの割合で、こちらの軍門に降ることやら」
そう言って、ローム国騎士団のクネライ将軍が、ルーゼンメイルの気を軽くしようと、片目を瞑って話しかけてくる。
「ご安心ください、ルーゼンメイル王子。ケリスエ護衛隊長には、かなりの人数を割いてつけました。あなたがどれだけ突っ走ろうと、あなたに怪我一つ負わせることなく、彼女は屍の山を築き上げるでしょう」
その日は、様々な打ち合わせをローム国騎士団の主だった人間や、近衛騎士団の所にいるローム国王と話し合って終わっていた。
だが、夕方になって、ローム国騎士団の天幕でルーゼンメイルを交えて部隊長達が雑談していたところに、王都騎士団の将軍代行ロメス・フォンゲルドがやってくる。
「ロメス殿。・・・どうした? 珍しいな、こちらにやってくるとは」
「それこそ何で黙ってたんだ、カロン殿。あのパストリア王子がこっちについたってのはともかく、近衛騎士団じゃなくお宅の預かりって話じゃねえか。普通、そういうことならこっちにも話してくるだろ、当然だろ、常識だろが。あの国王も、それに関してうちを全くの無視とは、何を寝ぼけてやがる。信じられるか、この仕打ちが。しかも、カロン殿まで何も言ってこないとはどういうことだ」
そこにいたクネライ将軍もそっちのけで、ロメスはカロンに文句を言う。
「無茶を言わないでくれ。・・・俺が仕切る戦ならともかく、そうでないもので声を掛けられるか。ロメス殿が何をやらかすか分かってる以上、こちらも融通できるものと出来ないものがある。だからこそ、明日のぎりぎりまで黙っておきたかったのに、どこからバレたんだ・・・。というか、苦情はセイランド殿に入れてくれ。あっちこそ、責任者じゃないか」
「甘えんだよ。近衛騎士団なんて隠し事できるわけねえだろ。ま、こっちはさすがだったけどな。全く変化が無かった。ちなみにセイランド殿なら国王にとっ捕まってる状態だ。苦情は後で改めて入れるさ」
さすがにクネライ将軍も苦笑せざるを得ない。
「お褒めにあずかり、恐縮だが・・・。フォンゲルド殿。今回のルーゼンメイル王子の護衛とその指揮はケリスエ護衛隊長がなさることになっている。王都騎士団の出番はなかろうと思うが。・・・・・・ルーゼンメイル王子。こちらは王都騎士団の将軍代行、フォンゲルド殿です。こんな色男ですが、ひとたび戦いとなれば、全てを皆殺しにする男ですぞ」
「お初にお目にかかります、ルーゼンメイル王子。ただ今クネライ将軍よりご紹介にあずかりましたロメス・フォンゲルドでございます。・・・それこそ、こちらにいらしてくだされば、パストリアの死体の山をあなたに捧げさせていただきましたものを」
「ルーゼンメイルだ。・・・この度は世話になっている。よろしく見知りおいてもらいたい」
挨拶をするとなったら、途端に態度を変えて恭しく膝をついて頭を下げてくるロメスという男に、ルーゼンメイルは少し戸惑いを見せた。
カロンはすかさず副官のリールスに命じてロメスの席を用意させている。当然のように、ロメスはそこに座った。
体格の良いローム国騎士団の部隊長に比べると、どちらかというとロメスは細身にも見える肉体だ。しかも現れた当初はともかく、そうしていると艶のある美男子で、荒っぽいことなどしそうにもない。
ルーゼンメイルはまじまじとロメスを見つめた。
「騙されてはいけませんよ、ルーゼンメイル王子。そのロメス殿は、クネライ将軍が説明された通り、かなり凶悪な男です。けれど今回はちょうど良いかもしれませんね」
のんびりと、王子をそっちのけで周囲にいた騎士達と話していたサーライナが、そこで会話に割り込んできた。
「ちょうど良いとは? ケリスエ前将軍。王子を中心にした斬り込み隊を私に譲ってくださると?」
「いや。そうではない、ロメス殿。明日の戦いはほとんど戦にもならんだろう。ルーゼンメイル王子に組み込むつもりのパストリア軍を完全に滅ぼされても困る。・・・だが、その後、王子はパストリア王宮を攻めるわけだ。・・・今回の戦いはロメス殿には遠慮してもらいたいが、パストリア軍を率いて王宮を制圧する時には、ロメス殿こそ適任だろう」
そこで面白そうにロメスが片眉を上げる。
「と、仰有いますと?」
「ルーゼンメイル王子。ロメス殿は、それこそ彼が通った道には死体しか残らぬと言われる男です。そして容赦がない。・・・同じパストリア兵であれば、その戦う剣にも鈍りがあるでしょうが、彼にそれはありません」
ロメスの問いを無視して、サーライナはルーゼンメイルに話しかけた。
「嫡出である王子に対しての振る舞いは、愛妾の産んだ庶出の王子を擁する貴族によるものだとか。・・・それこそ、許せない思いはおありでしょう。ですが王子という立場で、あまりにも非道なことは出来ない。ですが、・・・彼は違います。あなたが望めば、彼らが苦しみながら死ぬようにも、苦しまずに一撃で死ぬようにも、全てにおいて望みを叶えてくれるでしょう。その残虐非道さは、あくまでローム軍に帰属するものです」
ルーゼンメイルは、驚いてサーライナを見返した。
知っているのだろうか、この護衛隊長は。母を殺したであろう彼らに、自分の生殺与奪を握られていたあの日々を。
「耐えろとか、忘れろとか、そんなことを言う気はありませんよ、王子。人を殺す者は、人に殺されるのです。少なくともこの場にいる者は、その覚悟をもって戦場で剣を持っております。・・・それは当然のこと。だから己の欲の為に人を殺した者は、同じく復讐という欲に駆られた者に殺される覚悟も持つべきなのです」
サーライナの黒い瞳が、そこでロメスに向けられる。ロメスはにっこりと笑ってみせた。
「そういうことでしたら、今回の戦よりもそっちの方が退屈しのぎになりそうですね。なるほど、では明日はお譲りしましょう。ですが、王子・・・。お約束です。パストリア王宮を攻める時には、王都騎士団をご指名くださると」
「安心するがいい、ロメス殿。王には私から申し上げておこう。明日、王都騎士団は戦力を温存しておくがいい。ローム国騎士団だけで十分だ。・・・そして、パストリア軍の王子に降った者と、ある程度のローム国騎士団と王都騎士団がいれば、パストリア王宮など簡単に落とせる」
ルーゼンメイルの意見も訊かずに二人はさっさと話を進めていく。サーライナから、パストリアの情報を記したものを渡され、ロメスはパラパラとそれをめくり、「ま、カイエスに見せときゃどうにかなるだろ」と、呟くと立ち上がった。
「では、こちらもそれにあわせて編成し直しますので、今夜はここで失礼します。おやすみなさいませ、王子。クネライ将軍や他の方々も、良い夜を。・・・じゃあな、カロン殿」
「ああ。・・・あまりセイランド殿を責めるなよ」
「それはそれ、これはこれさ」
そう言って、ロメスはひらひらと手を振ると、そこを立ち去っていった。
その姿が見えなくなってから、カロンがサーライナに苦言を呈する。
「ラ・・・ケリスエ護衛隊長。あんな安請け合いして大丈夫なんでしょうね。知りませんよ、勝手に王に話を通すとか約束してしまって。あなたは勝手な行動が多すぎます」
「大丈夫だろ。適材適所さ。・・・それにパストリア王宮まで行ってると遠いしな。ローム本国の守りが薄くなっても困る。大体、あの国王も過保護が過ぎるんだ。王子だって、国王の前じゃ遠慮するだろうが。それに、・・・うちは虐殺には向いてない。ま、特別手当ては十分に出るだろうし、後はロメス殿に任せておけばいいさ。面倒な仕事は効率よく少なく、報酬は多く。うん、そういうものだな。その為に、普段から勤勉に働くんじゃないか」
ルーゼンメイルは無言になった。
肝心のルーゼンメイルを前に、よくぞ言えたものだ。どうせルーゼンメイルの性格的に、ローム国王にチクるとは思っていないのだろう。
しかし、・・・虐殺なのか。あのロメスという男、・・・虐殺するのか。
そんな凶悪な男を自分につけるというのか、このケリスエ護衛隊長は。
「あー・・・。ケイス第六部隊長。お前、つーか第六部隊、王都騎士団と一緒にパストリア王宮までな。うん、第六部隊に任せた」
「はあっ!? ちょっ、何言ってんですか、クネライ将軍っ。だって、ケリスエ護衛隊長、明日の戦が終わったらお役御免って奴ですよねっ? でもって王都にほとんど帰るってことですよねっ!? 冗談じゃありませんよ、俺だって帰りますっ」
「それこそ、そのケリスエ護衛隊長が決めたことが原因だ。あの凶悪人間を放置できるか。お前ならどうにか止められるだろう。・・・間違って、あの血に酔った狂犬が王子を殺したら困る。責任もって王子を守れ」
更にルーゼンメイルは無言になった。
どうやら、ローム国騎士団は、自分がパストリアを攻める為ではなく、王都騎士団のあの男が間違って自分を殺さないようにと、護衛の為につけられるらしい。
(どんな危ない奴なんだよっ)
そんな人間を自分につけようというケリスエ護衛隊長はどこまで性格がひねているのか。
しかも彼女が決めたことなら全ては通るというのか。女なのに・・・。
(そりゃ鍛えられている様子はあるが、・・・それでも女性だ。なのに、いくら以前は将軍だったとはいえ、どうして今も尊重されているんだろう)
どう考えても、彼女ではこの部隊長の誰一人にも、それこそ普通の騎士にも負けてしまうに違いない。どんなに鍛えていても女性の体だ。しかも、筋骨隆々とした彼らの中にあると、頭一つ以上低いのだから尚更である。となれば、かなり指揮能力に優れているのだろうが。
しかし、ルーゼンメイルのその疑問に対し、ソチエト第五部隊長は首を横に振った。
「他ならばいざ知らず、・・・ローム国騎士団においては強さが一番に優先されますからな。まあ、明日の戦いをご覧になればお分かりになりましょう。ケリスエ護衛隊長は強いですぞ。彼女を王妃に、そしてあなたにつけた。それこそが、王のお心です。王子、あなたが思うよりも、王はあなた方姉弟を案じておいでなのですよ」
近衛騎士団に比べてかなりフランクなローム国騎士団だが、それが居心地良かったらしく、ルーゼンメイルは自分から色々と話しかけたりして、自分のペースを確立している。
おかげで、護衛隊長であるサーライナも王子を放置していられた。元々、護衛隊としてサーライナの配下に組み込まれていた者達は、それなりに面倒見もいい。
「ライナ。ここにいたんですか」
「どうした、カロン? 眠れないのか?」
「何を言ってるんですか。・・・分かってるくせに。俺を連れてってくれるとか言って、どうして俺だけ追いやられるんですか。信じられませんよ、ホント」
草原を見渡せる場所に立って星を眺めていたサーライナに、後ろからカロンが声を掛けてくる。
戻った昨日から、サーライナがカロンと二人きりになる時間がなかったからだろう。そう言ってカロンはサーライナを背後からそっと抱え込んできた。
「お前なあ・・・。たかが王宮に行って帰ってくるだけじゃないか。それにパストリア王宮内部なんて、こんな機会でもなければ入ることなど出来ん。ちゃんと行って来い。パストリア王宮の造りは、お前にとっても初めてだろう。・・・王子の復讐はロメス殿に任せて、お前はちゃんと見てこい。・・・背後を急な山に守られたローム王宮と違い、パストリア王宮は平野の真ん中に位置する。それを360度の全方位型で、城壁が何重にもあるんだ。そして、運河が城の横を走っている」
「・・・はあ」
「だから移動は舟を使うことも出来るのさ。王子はその造りに慣れているから、それに応じた攻め方を考えるだろう。・・・恐らく、運河に出る隠れた地下道もある筈だ。全てを叩きこんで来い。まあ、パストリアと再び戦をすることはないだろうがな」
カロンは溜め息をついた。自分が離れたくないと口説いているのに、サーライナはまさに弟子を鍛え上げる思考になっている。くるりと、サーライナがカロンの方へと向き直った。
「そう、嫌そうな顔をするなよ」
「あなたには分かりませんよ。俺の気持ちなんて。・・・いつだってあなたは俺を置いてくだけじゃないですか。やっと、屋敷で俺の帰りを待っててくれるようになったってのに」
「・・・別にそのままそれだろ? ちゃんとお前の帰りを待っててやるから、パストリア王宮まで行って来いってだけじゃないか。それに、私はいつだってお前を連れてってるつもりなんだがな」
やはり自分の気持ちは通じていないらしい。カロンは空の星を仰いだ。どうしてこの人はこうなんだろう。うん、デリカシーが足りないに違いない。
そんなカロンに、サーライナが頬を膨らませてくる。
「お前な・・・。その、人を貶すようなことを考えるのはやめろ。・・・しょうがないな。カロン、じゃあ、その代わりにお前の願いを何か一つ叶えてやるよ。それで手打ちにしろ」
「願い、ですか?」
「ああ。・・・たとえば、アレが欲しいとか、何をしたいとか。ただし、私に出来る範囲でな。戻ったら鵞鳥の丸焼きを食べたい、とかでもいいぞ? 子豚の丸焼きでも。それとも、どこかにまた旅にでも出てみるか?」
そう言って笑ってくるサーライナはちょっと可愛くて、カロンは抱き寄せてその肩に顔を埋めた。
いつかと同じ台詞が、つい、唇から出てしまったのは、思い出してしまったからだろうか。
「歌、・・・歌ってください」
びくっとサーライナは震えたようだった。
「ライナ・・・?」
「あ、いや・・・何でもない。そうだな、・・・じゃあ、離れろ、カロン。こういうことでもなければ、二度とその機会もないかもしれんしな。お前に、お前の為だけに歌ってやる」
そう言って、サーライナは草原の方へと歩いていく。そして両手を広げて舞い始めた。
それはカロンが今まで見たのとは、全く別の舞だった。剣を使わず、その体の全てを動かして、彼女は時に大きく跳躍し、小さく旋回し、全ての注意を自分に向けていく。まるで、何かを招きよせているかのように。
(って・・・。どうして歌い出す前から人が集まってるんだ? 後ろに来ている奴ら、・・・さっきまでいなかったよな)
けれどもカロンとて、こうなると後ろの人間などよりもサーライナの動きだけを見ておきたい。いくら満月とはいえ、月明かりと少し離れた場所にある篝火だけでは、注意しておかないと彼女の動きを見失ってしまうからだ。
それに彼女はカロンの為だけにと言ってくれた。どうしてそれを自分が見逃していいだろう。
(指の反り返りも、・・・足の動きすら、こんな艶めかしい動きがあったのか・・・)
ふらふらと、引き寄せられるように、背後にいた人間が近寄ってくるのに気づく。だが、彼らもカロンのいる位置程度で足を止めた。それ以上進むと、かえって彼女の邪魔になるからだろう。サーライナは、そんな観客すら目に入らぬのか、カロンだけにその視線を向けてくる。
(やはりあなたは綺麗だ、ライナ・・・。その存在こそが、誰よりも輝いている)
やがて彼女が歌い出す。それは彼女の滅んだ部族で使われていた言語だからだろう、何と言っているのか意味は分からなかったが、闇を割るような、それでいて月に届くような、力強くも澄んだ歌声だった。
『あまねく光、照らし出す大地に、降り立たれることを、伏して願わん。祝福されし・・・・・・』
まるでそれは、月の光が彼女に向かって降りそそいでいるかのようだった。暗い筈なのに、サーライナの姿がよく見える。
指先のそれぞれが誘うかのように翻されるのも、くるりと体を回転させながら足の動きがそれを追うかのようにゆっくりと斜めに弧を描くのも、そして、その顔がこちらを向いた時には視線がカロンを捉えてくるのも。
(・・・ライナ?)
だが、やがてカロンは異常に気づき始めた。周囲の人間が魅入られたようになっていたのもあるが、何よりも、サーライナの瞳がカロンを映さなくなっていると、直観したからだ。
彼女の体は今も舞っている。歌声も響いている。それは間違いない。
けれど、先程まで強い意思を秘めていた彼女の黒い瞳は、まるでその力を失っているかのようだった。そう、カロンには分かる。
あの陶然とした表情は、既に彼女の意識を沈めているからだと。
(なのに、・・・どうして歌い、舞い続けていられる? 彼女は既に正気ではない。あの恍惚とした顔が全てを物語っている。今の彼女は、何も分かっていない)
止めるべきか、続けさせるべきか。
カロンは迷った。彼女の意識が薄れているにしても、それでもこんなにも歌って舞えているのだから問題ないのかもしれない。けれども、このまま続けさせて本当に大丈夫なのか。
カロンが迷っている間に、周囲では男達が膝を地面についていった。同時にふらふらと、更にサーライナに近寄って行こうとする男も出ている。感極まったか、涙を流している者もいた。
(これは・・・、感動じゃ済まされない。・・・皆から引き離さなくてはっ)
カロンはサーライナに駆け寄りその腕を後ろ手に確保すると、その体を抱いて、その場から彼女を連れ去った。
体の中を光が満たしていく。それは、何よりもの歓喜だ。意識が押し流され、体の隅々まで神の息吹が支配していく。
「カ、ロン・・・?」
「気づきましたか、ライナ。・・・良かった」
サーライナが気づいた時、そこは岩に囲まれた場所だった。何故か、自分は服を着ていない。
「・・・何があった?」
「それはこちらの台詞です。・・・どういうことですか、ライナ。あの歌と舞は何だったんです? 皆がおかしくなったのは何故ですか? そしてあなたがおかしくなったのはどうしてですか?」
サーライナを腕に抱いた状態で、カロンがそう問い詰めてくる。その裸の胸に抱き寄せられている自分は、見事に服を着ていないのだが、・・・さて、何があったのだろうと、サーライナは思った。
「えっと・・・、たしか、お前に歌ってやったんだっけ」
「ええ、今まで全く聞いたことのない歌を」
「そうだな。・・・あれは特別なんだ。一人にしか与えられない歌だからな。・・・喜べ、カロン。私がお前にあの歌を与えた以上、私があれを他の人間に与えることはない」
「は、あ・・・」
よく分からないが、どうやらかなり特別な歌だったらしい。周囲では聞いていた人もかなりいたのだが、・・・この分では、別に周囲で誰が聞いていようといまいと、どうでもいいのだろうか。
カロンは眉根を寄せて考えた。
「本来は、部族の長などにしか捧げられない歌だが、・・・一生に一度だけ、神にその人間への守護を願える歌を歌える。それが、あれだ」
今までの歌も、似たような意味合いだった筈なのだが、一生に一度で相手は一人きりというのだから、かなり特別なのだろう。カロンはそう思って、なるほどと頷いた。
「それはとても嬉しいのですが、・・・ライナ、周囲で見ていた男達がおかしくなっていました。あれは何ですか?」
「耐性が無かったからじゃないか? うちの部族の人間なら見惚れる程度で済むのが、一気に最高クラスのそれだったからな。心が引っ張られすぎたんだろ、どうせ。大した問題じゃない。過ぎ去れば、正気に戻る。というか、私が舞うのをやめた時点で、しばらくしたらその影響下から抜け出せる」
それならいいかと、カロンは思った。サーライナを連れ去った以上、あのおかしくなっていた男達も正気に戻っただろう。ならば、特に問題はない。
「では三つ目の質問です。ライナ、あなたが正気を失っても舞い続けていたのは何故ですか? そしてあなたの心がここになかったのに、動いていたのは何故ですか?」
「・・・・・・何をどう動いていたかまで責任は持てん。集中する意識が高まった時点で、私の意識は押し流されてしまうからな。魂が抜けるというより、私の表面の意識は消失する。実際、舞っている途中から今までの記憶は全く無い」
「・・・全く?」
「そう、全く」
重々しく、サーライナは頷いた。こういう時に隠し事をしても仕方がない。
「で、カロン。どうして私は服を着ていないんだ? 服はどこだ?」
カロンはとてもとても大きな溜め息をついた。
その反応は何なのか、ムカつくと、サーライナは思った。まるで自分が悪いことをしたかのようではないか。その大きく呆れたと言わんばかりの反応は何なのだ。こっちは、せっかく特別な歌を歌ってやったというのに。しかも、こんなにも記憶が飛んでいるということは、もしかしたら神が降りられたのかもしれない。単に、交信の歓喜に心が飛んだだけかもしれないが。
だが、カロンは疲れたような声で言った。
「あなたが脱いだんですよ、自分で」
「・・・自分で?」
「そうです。・・・全く、何なんですか。自分で脱いどいて、全て覚えてないって・・・。信じられませんよ、本当に」
自分に露出狂の趣味はなかった筈なのだが、そうなると、まあ、カロンは悪くないかもしれないなと、サーライナは思った。
「で? 結局、私は何回まで歌ったんだ? 一回でも構わないんだが、・・・こういう時は数多く繰り返す程いいんだ」
「さあ・・・。俺だって言葉の意味が分からなかったですからね。しかも初めての歌なんだから」
なるほどと、サーライナは小さく笑った。
「しょうがないな。じゃあ、カロン。このままお前の耳元でもう一度歌ってやるよ。・・・どうせこの辺りには誰もいないし、そうしたら聞くのはお前だけだろ。おかしくなる奴も出ない。ただし、効果があるのはさっきので、これはあくまで歌だけだがな」
そう言って、今度は舞をつけず、本当に微かな声でサーライナは歌い始めた。
『あまねく光、照らし出す大地に、降り立たれることを、伏して願わん。祝福されし、この者に、神のご加護と・・・・・・』
カロンは黙ってそんな彼女の顔を見ていた。月明かりがほのかに照らす、目を閉じて歌う、その誰よりも愛しい姿を。
その朝、ローム軍の先頭に立つローム国王と、そしてパストリアの紋章を背に纏ったルーゼンメイル王子の姿に、パストリア軍には大きな動揺が走った。
「どうして王子がローム軍に・・・?」
「人質にとられてしまったのか?」
「どうして王子があちらにいるんだっ」
特に混乱していたのは、下位の騎士達と兵士達だった。
だが、パストリア軍の主だった将軍や貴族達は、苦々しい思いで向こうの陣営にいる王子を見つめる。
そう、ルーゼンメイル王子が連れ攫われたと聞き、パストリアの様々な街道に追跡の兵士を出した。そして王都に早馬を出し、ルーゼンメイル王子を擁しようとしそうな貴族の心当たりを調べてもらうようにも伝えた。
けれども。
考えてみれば、これこそが一番あり得る話だったのではないか。
王位争いに敗れた王子を今頃になって担ぎ上げようとする貴族よりも、・・・それこそローム軍を率いるローム国王の妃はルーゼンメイル王子の同腹の姉なのだ。自分の弟を見捨てられなかった、それこそが一番あり得る話だっただろう。
そして、パストリア正妃の産んだルーゼンメイル王子を擁するローム軍は、パストリアへ攻め入る正当な理由を持つ。
「どう、しますかな・・・」
「生き延びたければ投降、するしかあるまい。だが・・・」
「そうですな。我々はまだ、この首を差し出せば済むかもしれません。だが、・・・王子の怒りがどこまでかによりましょう。せめて家族の命だけはと、思うばかりです。けれども・・・・・・」
彼らの目が、同行していた貴族達に向けられる。
「まっ、待ってくれっ。こっちだって王子達の命令に従っただけだっ。将軍だってそうだろうっ」
「そうだっ。こっちだって一族の命運が掛かってるっ。仕方ないだろうっ。ここはローム軍を打ち破ってみせよっ。その為の軍ではないかっ」
「わっ、私は何もしていないっ。ルーゼンメイル様に無礼を働いたのはっ、私ではないっ」
「大体、卿らがローム軍を打ち破り、王子をお救い申し上げれば済むだけの話ではないかっ。王子はただローム軍に囚われておしまいになっただけだっ。全軍、一丸となり、王子を救出せよっ」
だが、主だった将軍達は、そこで力弱く首を横に振った。
「貴族の方々がご存じ無いのも無理はありますまい。・・・この度の負けは決まったようなもの。だが、それこそ王子にとっての敵と味方の篩でもあるのでしょう。私は部下を連れて投降いたします。そしてルーゼンメイル様に忠誠をお誓い申し上げましょう。必要ならば私の首を差し出し、その上で家族への温情をお願い申し上げるつもりです」
一人の将軍が、そう呟いた。何人かが、同じ決意を抱いて小さく頷く。
「私もです。是非ご一緒に。他の方は、戦われるも良し、同じく王子の下へ馳せ参じるも良し、お好きになさればよろしかろう。これは、・・・もう王位争いの中心に巻き込まれたということです」
何人かの将軍と主だった指揮官がその場から去り、やがて部下達と白旗を掲げて、横の方へと分裂していった。
「どういうことだっ。戦う前から負けを認めるとは、それでもパストリア軍の誇りがあるのかっ! ・・・そなた達だけではないかっ、騎士の誇りがある者はっ」
残された貴族の一人が、その光景を信じたくなくて喚き立てる。だが、残ったカングリア将軍は、力弱くそれを否定した。
「私とて出来るならば投降したいですとも。・・・ですが、うちの息子は王都にいらっしゃる王子に仕えているのです。・・・たとえここで命を落とそうとも、いや、息子の為に私はここで死なねばならぬのです。さすれば、息子の命は助かりましょう。私が投降したと知られたら、即座に息子は殺されます」
「何を言っておるっ。負けると決まったわけではあるまいっ」
愚かな子供を見るかのように、彼らは貴族達を見遣った。リーレンデ指揮官が、遠くに見える一人を指さす。
「ルーゼンメイル様の隣に立つ、あの褐色の髪、目立つ赤いマントの存在にお気づきにならぬのですか。あれは、それだけ目立っても尚、討ち取られることもなく、・・・それどころか全ての戦いに負けはないと謳われた彼の有名な女将軍に違いありますまい。引退なさったと聞いておりましたが、・・・やはりご存命でしたか」
「はっ。何を馬鹿なことを。・・・戦場に出てくる女など、小細工を弄するばかりの刺客でしかないではないか。しかもそんな存在を持ち上げて、臆病風に吹かれるとは何事かっ」
けれども、カングリア将軍は部下に命じた。
「私は死なねばならぬが、・・・お前達は投降せよ。ルーゼンメイル様は、物静かで知られるお方。逆らわねば命まで取りはすまい。それに、これで分かったではないか。どうして今までローム軍が我らを相手に遊びを繰り返していたのか。・・・・・・これから、我らは負けるのだ」
「ですが・・・」
「生きろ。本来、パストリア軍の忠誠はパストリア国王に捧げられるもの。それこそ、愛妾方の産んだ王子を擁する貴族のものではない。・・・そして、あそこでパストリア王家の紋章を翻しているお方がどなたなのか、それを考えよ」
そこまで言われると、貴族達も互いに顔を見合わせるようになる。自分達も投降すべきかと悩み始めたからだ。
「はっ、今更でしょう。ルーゼンメイル様ではなく、公爵達についた時から戻れない道だったんです。負けると思ってたら、勝てる戦も勝てやしません。我らはルーゼンメイル様を討ち取ってでも忠誠をパストリア王宮に見せつけなきゃならんのですよ。・・・卿も、士気を挫くようなことを言ってくださいますな」
ミストーテ指揮官が、力強く言い放つ。だが、その瞳には覚悟した者の諦観があった。
そして貴族達もそそくさと投降する方へと混じっていく。
「ほれ、見なさいよ。あいつらなんて、貴族のくせにこの期に及んで逃げてくれやがった。それこそ、ルーゼンメイル様を馬鹿にしていたくせに、アレですぜ。・・・あいつらこそ、俺達と一緒に討ち死にすべきだったってのに」
「そう言ってくれるな、ミストーテ殿。・・・我らが間違っていたのだ。軍の力を全て合わせれば、ルーゼンメイル様を王とも出来た筈だ。それをせず、公爵達に膝を折った。その罪を、命で贖うだけの話だ」
「やれやれ。カングリア殿も難儀なこってすな。ま、俺も娘が第三王子に仕えておりますんでね。・・・ここで死ぬしかないんですよ。せいぜい華々しく散りましょうや。ルーゼンメイル様は無駄に人の命は奪わんでしょうが、・・・あの王子達は何をするか分かりゃしません。だからルーゼンメイル様は王位争いから失脚しなさった」
「そうだな。汚いことをなさらなかったルーゼンメイル様は、だから遅れをとった」
離れていく貴族達一行を見遣りながら、カングリア将軍とミストーテ指揮官は、そんな会話を交わす。
「けどねえ、・・・だからまだ救いが持てるじゃないですか。俺達は薄汚い貴族達と滅んでも、あのルーゼンメイル様ならって。うちだって、娘を人質にとられてなきゃ、こんなことしとりませんや」
「そうだな。・・・だが、投降していった中には、ルーゼンメイル様に礼を失していた者も多い。あれが助かるかと思うと業腹だな」
「全くですな。・・・さ、行きましょうか。カングリア将軍」
「ああ」
やがて、かなり数を減らしたパストリア軍と、ローム軍が相対する。
(ルーゼンメイル様。・・・あなたを見殺しにするつもりだった私を許さなくて良いのです。だから、そんな目で見ないでいただきたい)
カングリア将軍は、久しぶりにまっすぐルーゼンメイルを見た。疾しい気持ちがあったから、いつだって目を逸らし続けていた。
(けれど、やっとあなた様を見ることが出来ます)
次期国王としてルーゼンメイルに膝を折ったこともあるくせに、事情が変わると、このままローム軍との戦の先頭に立たせた。そんな自分に、掛けてもらう情けなどないのだ。ルーゼンメイルが殺されると分かっていながら何もしなかった、家族を選んだ臆病な自分など。
きっと、どうして投降しなかったのかと、そう思っているのだろう。そんな甘さが、・・・いや、だからこそ、あの方にだけは、王位争いから失脚などしてほしくなかった。
「全員、総突撃、用意っ!」
カングリア将軍は軍の先頭に立ち、それこそパストリア軍の隅々にまで響く大音声で命令を下した。
「ローム軍を殲滅せよっ。だが、ルーゼンメイル様には決して傷をおつけしてはならん!! 突撃っ!」
その言葉が聞こえたのだろうか。
ルーゼンメイルの緑の瞳が大きく開かれたような気がした。
それでも走り出す馬が地面を揺らし、怒号が響き合う中では何も見えなくなる。その光を弾く、白に近い金の髪も、若葉色した瞳も。
(パストリアの王冠こそ、あなたに・・・。その姿が見えます、ルーゼンメイル様)
やがて自分の目の前に赤い布が翻ったような気がして、そしてカングリア将軍の意識は永遠の眠りへと消えていった。
それは、ほとんど戦にならぬものだと、ルーゼンメイルも理解していた。
白い旗を掲げて離脱した一団は、離れた所に武器を下ろして整列している。そして残ったパストリア軍など、ローム軍に対して数でもかなり劣るものだった。
「セイランド殿。陛下とルーゼンメイル王子を、確保しておいていただけますか? 出てこられては邪魔ですから」
「分かりました、ケリスエ護衛隊長」
気づくと、横でそんなことをサーライナがセイランドに言っている。ルーゼンメイルは自分の耳を少し疑った。
「ちょっと待て。邪魔とはどういうことだ。ケリスエ護衛隊長。お前、自分のところの王に向かって邪魔とは何だ、邪魔とは」
「失礼いたしました、陛下。・・・危ないので、後ろに下がっていていただけますでしょうか」
言い直せばよいというものではないだろう。
ルーゼンメイルは、(もうヤだ、この人・・・)と、思った。ローム人はマイペースすぎて、自分にはついていけない。あのルーナという侍女といい、このケリスエ護衛隊長といい、ロームの男も女もまともな人間はいないのだろうか。
「余計悪いわっ。大体なっ、これは我が義弟のっ、ルーゼ殿の戦いなのだぞっ。この義兄が出なくてどうするっ」
「・・・ふむ。陛下は、可愛い弟がいるものだからちょっと浮かれていらっしゃるのですね。ですが、陛下。よくご覧ください」
サーライナは、パストリア軍を手で示した。
「白旗を掲げた者達はともかく、戦うことを決めた者達に漂う覚悟を。・・・あれはもう死に場所を定めた者の瞳です。・・・恐らく、負けると分かっていても戦わねばならぬ理由があるのでしょう。たとえば、脅されているとか、逆らえない何かがあるとか。そんな彼らにルーゼンメイル王子が平気で剣を交えることができるでしょうか。彼らとてパストリアの民、ましてや己の意思に反して戦わされているとなってはいかがなものでしょう」
「む・・・。ところで、ケリスエ護衛隊長。今日、そなた、少しおかしくないか?」
「実は寝不足なのです、陛下。だから、普段よりも言葉がおかしいかもしれません」
寝不足だと言葉がおかしくなるものなのか?
ローム国王はちょっと考え込んだ。だが、ケリスエ前将軍のろれつが回っていないわけではない。というより、いつもなら言わないことを言い過ぎているだけだ。自分はそこを指摘したい。
そりゃ、たしかに可愛い義弟に良い所を見せたかったのは否定できないが。
(う、浮かれてた・・・か? いや、やはりここは頼りになる義兄としてだな、出来ればその辺りを・・・)
ローム国王が、そこで更に考え込む。
だが、サーライナは、それ以上を考えさせる気はないと言わんばかりに、一気に畳み掛けた。
「陛下。王子には後程、投降した者達が本当に恭順を示しているのか、それとも形だけで隙あらば王子を殺そうと考えているのか、その辺りを見極める作業がございます。そこで頼りになるのは、一国の国王である陛下だけではありませんか。王子にとって、他に相談相手がいらっしゃいましょうか」
「そ、それはそうだが・・・」
「ですから、これはこちらにお任せください。陛下は、王子を守って後ろに下がっていてくださいますね?」
「・・・分かった」
そこでケリスエ護衛隊長は、リストリ将軍に合図する。
ルーゼンメイルは、(いやいや。本当は、邪魔ってのが本音だよなっ? 何か立派なこと言ってたけど、最初のが本音だよなっ?)と、思いながらも、近衛騎士団の騎士達に、そのまま国王と共に下がらされてしまった。
「ま、仕方あるまい。ケリスエ護衛隊長が邪魔というのなら邪魔なのだろう。・・・すまんな、ルーゼ殿」
「いえ、義兄上。・・・そうですね。投降できない理由があるのだと、私も考えるべきでした」
言いくるめられたようでありながら、ローム国王はやはり分かっていたらしい。ルーゼンメイルに困ったように笑いかけてきた。
護衛隊長の筈なのに、サーライナは護衛隊を率いて参戦するようだ。・・・何のための護衛隊なのだろうと、ルーゼンメイルはちょっと目が泳ぐ。
けれども、下がらされて全体的に見たなら、確かに見えてくるものがある。
久しく目を合わせていなかった将軍が、こちらをまっすぐ見てくるのも。そして、見知った顔が覚悟を決めている様子なのも。
やがて、クネライ将軍がローム軍に一斉攻撃の命令を下す。同じように、パストリア軍の将軍も、一斉攻撃の命令を下した。
「だが、ルーゼンメイル様には決して傷をおつけしてはならん!!」
カングリア将軍のそんな声が、自分の所にまで響き渡る。ルーゼンメイルは、目を瞠って彼の姿をもう一度見ようとした。
(ならば・・・! どうして・・・っ)
分かってる。それは自分の甘さが招いたことだと。
もっと早くに、母を殺される前に、異母兄弟である王子達を全て殺しておけば防げたことなのだ。
裏切られる前に、裏切らせてはならなかった・・・。それが自分の義務だったのに。
(けれど・・・。いくら仲良くなくても、殺したいわけじゃなかった。自分の兄弟を・・・)
それでも、あちらは自分を殺す気満々だったわけだが・・・。
そんなルーゼンメイルの感傷など知らぬとばかりに、みるみるうちに、全てが入り乱れ、剣戟の音が響き渡り、馬のいななきや一斉に走り出すそれらが地面を揺るがす。
「す、すご、い・・・」
見るつもりはなかったが、ケリスエ護衛隊長は目立つ赤いマントを羽織っていた為、嫌でも目に入る。彼女は、美しいとしか言えぬ動きで、馬の上を跳んでいた。
まるでダンスを踊っているかのような動きとしか言いようがない。剣の一振りでそれが触れた命を次々に刈っていく。馬だけを残して、パストリア軍の主だった武将が次々に、彼女に討ち取られていった。
「やれやれ。だから王子につけておいたのに。しかも、この後はあの狂犬を王子につけろと言い出すし・・・。だが、彼女の判断に間違いはない」
「え・・・?」
同じようにケリスエ護衛隊長に視線を向けたまま、ローム国王がルーゼンメイルに話しかけてくる。
「王子。パストリア王宮まで一緒についていって差し上げたかったが、彼女に止められましてな。それこそパストリア次期国王がすべきことを肩代わりするな、義弟を信じてやれぬのか、と」
「なかなか、・・・はっきりと言わせていらっしゃるのですね。義兄上」
「まあ、言葉は飾っておったが、そんな意味だろう。・・・それに、ケリスエ護衛隊長の判断は信頼できる。あれをご覧になればお分かりになるだろう。彼女はさっさと主だった武将に狙いを定めて討ち取っていった。それが出来る実力、そしてそれと知っているがゆえの部下達の行動、・・・全てにおいて乱れが無い。あれだけの統率力を持ち、武勇を誇る前将軍の意見を、ないがしろには出来ん」
たしかに、その凄まじさは、たかが護衛隊長をさせておくには勿体ないものだった。
ルーゼンメイルは、義兄に向かって口角を上げてみせた。自分はちゃんと、一人の男として義兄の瞳に映っているだろうか。
「義兄上。・・・王都騎士団のフォンゲルド殿ならばお会いしました。彼をお借りしたく存じます。・・・パストリア王宮を掌握しましたら、ローム王宮の義兄上と姉上に改めてお礼の使者を」
「うむ。・・・まあ、あの暴れ狼も同行するという話だし、それならさほどひどいことにはならんだろう」
ローム軍では、武将に動物の渾名をつけるのが一般的なのだろうか。やはりローム人はよく分からないと、ルーゼンメイルは思った。
何にしても、パストリア軍の主だった者達が討ち取られた時点で、戦っていた兵士達も投降する。彼らは一斉に、武器を下ろして、負けを認めた。
「やれやれ。ローム国騎士団の独壇場だったな」
そんなローム国王の言葉を聞き流し、ルーゼンメイルは馬を降りて、その戦場だった場所へと歩いていった。誰も止める者はいない。
「王・・・」
「良い。妨げるようなことはするな」
「はっ」
そんな会話は小さくなされ、ルーゼンメイルの耳には入らなかった。
(あっけない・・・ものなのだな。人の命とは・・・)
ほとんどパストリア軍の死体だけ散乱している中に立ち、ルーゼンメイルは心を彷徨わせた。どうしてなのか。まるで意識が別に分けられているかのように、実感が薄い。
膝を地面につき、顔だけは見知っていた男の瞼を閉じさせてやる。その手が、赤黒い血に塗れた。
(兄や弟達数人を殺しておけば、・・・これだけの死体が転がることはなかった)
こんな自分の姿を、投降した彼らはどんな思いで見ているのか。パストリア軍の死を悼んでいるように見えているのか。それとも形だけの哀悼だと思っているのか。
「王子。人の心は、一気に多くのことを受け入れられないことがあります。あなたの心は惑っている。・・・その重さを受け入れられずに」
背後から、ケリスエ護衛隊長の声が掛けられる。ルーゼンメイルはゆっくりと振り返った。そこには、血に塗れた姿があった。それすら、本来は自分がかぶるものだったのだ。
「だが・・・。全てを受け止めるのが私の義務だ」
「人は、自分の能力以上のことなど出来はしませんよ、王子。・・・忘れておしまいなさい。それはあなたの罪ではない。正妃もあなたも殺して利をとろうと考えた者達が、この結果を招いたのです。あなたではありません」
ルーゼンメイルはフッと小さく笑いを漏らした。その言葉を信じ、自分は悪くないと思えたら、そして全ては彼らの罪だと受け入れられたら、どんなに良かっただろう。けれども、優しく甘い言葉に流れるのは、何も学ばないということだ。
それを教えてくれた乳兄弟がいる。・・・彼に教えられたことを忘れる気はない。それが彼に返せる全てだからだ。
「私の名のもとに流された血の重さを忘れては、私はあの異母兄弟と同じ存在に成り下がるだけだ。・・・ケリスエ護衛隊長。あなたにも感謝を。あなたの手を汚したそれは、私のものだった」
その言葉を聞いて、ケリスエ護衛隊長は肩を竦めたようだった。ルーゼンメイルのことを、頭が固いとでも思っているのだろう。
だけど、きっと自分は忘れない。自分の甘さが招いたこの屍達を。この死体の山を築いたのはローム軍かもしれないが、それをさせたのは自分だということを。
目を逸らした先で、それこそ自分が幼い時には頭を撫でてくれた顔を見出し、ルーゼンメイルは唇を噛んでこみ上げる苦い思いに耐えた。
次の日、投降してきた者達を前に、ルーゼンメイルは理性的に対応した。
自分への忠誠を誓った者達を許し、そして・・・。
「ルーゼンメイル王子っ。私はっ、私は命令されただけなのですっ」
「そうですっ。どうかご慈悲をっ」
けれどもルーゼンメイルは、自分に忠誠を誓った者達に命じて、彼らを遠慮なく処刑した。仮に投降したと言っても、自分を殺そうと思っていた、そしてそれを隠そうともしなかった彼らにかける情けはない。
「私とてそこまで馬鹿ではない。脅されてあちらについた者と、最初から利を狙ってあちらについた者との区別ぐらいはつく。・・・ましてや、人は自分が不遇の時にされたことは忘れぬものだ」
その後、ルーゼンメイルは、処刑の際、シールルー平野で亡くなった騎士や兵士達の瞼を一つ一つ閉じさせてやった時のことを思い出し、そして心を凍らせて対応していくことになる。
尚、パストリア王宮へ攻め入る際のロメス・フォンゲルドの戦いぶりを見て以降、ルーゼンメイルはその後決して性別や外見でだけは判断しないことを決意したとも言われている。
【弟子と師匠7】
我らが神よ。どの地にあって、どの名を名乗り、どのものに帰属しようとも、我らは常にあなたと共にある・・・。
「サーラ、朝ですよー。お日様ぴかぴかですよぉー」
「んー・・・。あとちょっとだけ。昨日は遅かったんだ」
「嘘ばっかり。ほらぁ、起きないとくすぐりの刑―っ」
「うわっ、やっ、やめなさいって、ルースッ」
遠慮なく足の裏や脇腹をくすぐられてしまい、サーライナは飛び起きた。目の前では、可愛い女の子が笑っているが、それすらも今は恨めしい。
パタンと、サーライナは再び寝台に体を倒してしまった。
「サーラ? またくすぐっちゃうぞぉー?」
「分かった、起きるよ、ルース。だけど、ちょっとだけ一緒に。ね?」
そう言ってルースレイルを抱え込むと、子供ならではの柔らかい体が気持ちいい。サーライナは再び目を閉じた。
「もうっ、知らないからねっ。リスエルに怒られちゃってもっ。怒るとリスエル、怖いんだからねっ」
「・・・あっ、そうだった。今日っ、・・・・・・行きたくない、・・・ルースみたいに仮病を使いたい」
慌てて目を開けながら、それでもルースレイルを抱えたままでサーライナはうだうだとしている。一緒になって寝台をごろごろと転がりながら、何をそんなに嫌がっているのかと、ルースレイルは首を傾げた。
「なーにやってんのよ、サーラ。ほらほら、いつまでもぐだぐだとしてるんじゃないの。ルースが真似して、あなたみたいにだらだら惰眠を貪る子になったらどうするのよ」
そこで、上から声が落ちてくる。リスエルードだ。
「いーい、ルース? サーラはカッコつけてても、所詮は寝てりゃ幸せっていう怠け者なんだから、そこは見習っちゃ駄目よ? あなたがちゃんと監督しててちょうだい。ルースが見張ってたら、サーラはちゃんとしてるんだから」
「うんっ、ルースがサーラをちゃんと見張っておくからねっ」
「そうよ。サーラをマトモに出来るのはルースだけなんだから」
「・・・頑張るっ」
そんな会話を聞きながら、心の底から、頑張らなくていいと、サーライナは思った。普段は何かと喧嘩もしてるくせに、事がサーライナのことになると結託するこの二人は何なのだろう。
「じゃあ、ルース。今日はね、サーラのお見合いなの。綺麗にしてあげないと駄目だから、服を選ぶのを手伝ってちょうだい」
「お見合いって、男の人と会うの?」
「そうよ。この辺り一帯で、そろそろ結婚してもいい人達が全員集まって顔を合わせるの。だからサーラにもお化粧してあげなきゃね。どんな服にしようかしら」
「サーラは桃色の服がいいっ」
「そうね。桃色も可愛いわ。ルース、ちょっと手伝ってちょうだい。サーラにも色々と着せてみなくちゃね」
「うんっ」
肝心のサーライナを無視して二人で話を進めていくのだから、やっていられない。
ぽんとリスエルードに小川へ放り込まれ、体を洗ってきなさいと言われて戻ったサーライナを待っていたのは、まさにとっかえひっかえの着せ替え作業だった。
「はい、今度はこっちの布を垂らしてみて? やっぱり腰は幅広の方がいいかしら。それともあえてウェストはそのままに飾り紐だけがいいかしら」
「ルースねっ、サーラはこうしてきゅってした方が似合うと思うっ」
「えー、そぅお? だけど、それだとカッコいいって感じになっちゃうでしょ? これはお見合いなのよ、ルース」
「けどけどぉっ、そんな格好したら、サーラじゃないみたいっ」
二人が、全くサーライナの意見を必要としていないことだけはよく分かる。サーライナは黙ってされるがままになっていた。
「で、サーラはどれがいい?」
「できれば、そこの上着と、その編み紐で・・・」
「うん、却下」
ならばどうして自分の意見を訊いたのかと、サーライナは恨めし気にリスエルードを見る。
「いーい? これは集団お見合いなのよ、サーラ。少なくともいいなと思う人がいたら、その人にもいいなと思ってもらいたいものでしょ? 少なくとも、見た人が綺麗だなと思える格好をしなさい」
「けど、リスエル・・・。私、まだ、そういうのは・・・。正直、いいなも何も、人といる方が落ち着かないのに」
「サーラ。・・・あなたが引っ込み思案に生きていれば生きている程、その影響を受けるルースは、人と交流できない人間になっていくのよ?」
「頑張って行って参ります」
それでも色気のない人間に、婀娜っぽい格好させてもおかしなだけだ。爽やかな路線でいった方が良いだろうと、薄い桃色をベースにした、体の線をあまり露わにしない服に決まった。
髪を一部結い上げて垂らし、そして化粧もされてしまう頃には、出掛ける時刻ぎりぎりになっている。
「うわぁ。サーラ、きれー」
「・・・ありがと、ルース」
「ふふっ、何なら今夜は帰ってこなくてもいいのよ、サーラ。じゃ、楽しんできてね」
「ハハハ・・・」
もう帰りたいと、行く前からそんなことを思いながら、サーライナは野外会場へと向かったのである。
こういった場所に来たからといって、本当に相手を見つけなくてはならないわけではない。どちらかというと、なかなかこういうことでもないと若手が一堂に会することもない為、情報交換の場となっているのも事実だ。
ただ、お互いに着飾っているのが照れ臭くもあるだけで。
「よお、サーラじゃねえか。来てたのか。先だって以来だな」
「ジール。久しぶり。あの時は助かった、ありがとう」
「いいってことよ。なんつっても、リスエルの妹弟子なら俺の妹みたいなもんだからな」
先の戦で、サーライナへ振り下ろされた斧から助けてくれたジールフェイルが、そう言って肩を叩いてくる。そのまま抱え込まれて、サーライナは戸惑ってジールフェイルを見上げた。
「ジール?」
「悪い。ちょっとこのままで。・・・いや、実はさ、その気はない女に迫られててな」
「なるほど。じゃあ、ちょっと仲良くしてみせた方がいいかな?」
「まあ、程々にな。お前だって本命に誤解されたら困るだろ」
こそこそと話してみたら、どうやらジールフェイルはとある女性にアタックされているようだ。ジールフェイルはかなり強いのだから、どんな女丈夫かと思いきや、見た目はかなり華奢な女性だという。
二人は仲良くいちゃいちゃとしているフリで皆と離れると、そのまま湖方面へと移動した。
「助かったよ、サーラ。これで諦めてくれるといいんだが・・・」
「てか、怖いもの知らずのジールにも、そんな怖い存在があったって方が笑えるけど。しかも、その相手が華奢なお嬢さんって、何それ」
「しょうがねえだろ。理屈じゃねえんだよ、こういうのは」
くすくすと笑うサーライナに、ジールフェイルが頭を掻きながら地面に座り込む。手招きされて、サーライナはその横に座った。二人で仲良くしているように見せかける為だろう。
「あいつはさ、・・・父が違う妹になるんだ。そりゃ表面上は他人だが、・・・それもあって昔から可愛がってたんだがな。そこまでは良かったが、あいつ、伴侶に俺を選ぼうとしやがった」
「・・・だけど、母が違うなら問題ないんじゃないの? それに、可愛がってたんなら、ジールだって嫌いじゃないどころか、好きなんでしょ?」
サーライナが尋ね返すと、ジールフェイルは困ったような顔になった。
「そりゃま、そうなんだが・・・。あのな、サーラ。お前は短期の戦しか請け負わないから知らんのだろうが、・・・・・・俺は戦以外にも遠い場所に行く仕事も引き受けることがある」
「知ってる。凄いよね、私もそこまでになれるといいんだけど、・・・まだまだかな」
ジールフェイルは、暗殺や間諜の仕事も請け負うのだ。全てにおいてオールマイティに近い。
「たまに限られた小さな村に行くこともあるが、・・・サーラ。俺は、母だけじゃなく父が同じ子供同士での結婚も反対だ。というよりも、同じ村で、伴侶を組み合わせ続けるべきではないと思っている」
「・・・・・・どうして?」
「何となく、なんだが・・・。あまりにも近しい間柄で伴侶を組み合わせ続けるのは、その子供や更にその子供が弱るような気がするんだ」
「そう、なの・・・? 偉い人達は、血が濃い方がいいって、わざと近い間で結婚し続けるって言うけど」
実際、その結果、優秀な子供が生まれるという実績が出されている。近親婚により、優れた頭脳の持ち主が輩出された王家の話は有名だ。
「らしいな。だが、・・・俺はそれに反対だ。小さな村で人数が限られる場所は、・・・そのまま滅んでいっている。サーラ、お前にしてもだ。もしも伴侶を選ぶなら、自分とは血の繋がりが遠い、出来れば全く縁のない人間を選べ。部族は母が違えば誰とでも良いとしているが、・・・なるべく自分とは全く違う出自の奴を選んだ方がいい」
「ジール・・・」
サーライナは目を見開いた。滅ぶとはどういうことか。先程、子供が弱っていくと彼は言ったが、それは風邪をひきやすいとか、そういうレベルではないということなのか。
だが、真面目だった表情を一変させて、そこでジールフェイルは笑いかけた。
「で? サーラは誰かいいと思う奴がいるのか? 俺がこっちに連れてきちまったから、そのチャンスを潰しちまったか? いいなって思う奴がいるなら言えよ。俺が取り持ってやる」
「生憎、そんな気にはまだなれないかな。・・・そんな気になれない。リスエルは、好きになったらドキドキするって言うけど、幸せな気持ちにも、怖い気持ちにもなるって言うけど、・・・・・・そんな思いになれたのなんて、神に祈った時だけだ」
「ああ。・・・ま、お前はちょっと特別だからな。慌てる必要はない。こういうのは自然な流れがある」
そう言って、ジールフェイルはサーライナを抱き寄せて、そのまま頭を撫でてくる。サーライナは逆らわず、その胸に体を預けた。
「で、そのリスエルは元気か?」
「うん。今、特に伴侶も恋人もいないしね。・・・ジールは、リスエルに申し込まないの? というか、どうしてジールとリスエル、伴侶にならないの?」
「以前、申し込んだ時は、『今は駄目』って言われちまったのさ。いつならいいのやら。・・・けど、お前もこういうのに参加し始めるようになったし、そろそろ問題ないのかな。また、改めて申し込むさ。・・・心配してくれてありがとな」
「ううん。私も、ジールならリスエルといても許せる。というより、こういうのは本人同士のことなんだけど、ジールとリスエルなら恋人じゃなく伴侶になってほしいって思う」
「そりゃ、ありがとさん」
二人の会話は小さな声だったから、離れた人間には聞こえない。
けれども誰かが駆け去っていく足音を聞きながら、二人は一つの失恋を思って小さな罪悪感を共有していた。
心を閉ざして、何も感じないようにする。
そうじゃないと、気が狂いそうになるから。終わりのない孤独の恐怖に叫び出しそうになる。だから、・・・誰にも関わりたくない。誰も近くに置きたくない。
黒髪に緑の瞳をした彼女も、そして小麦色の髪に薄茶色の瞳をした女の子も、誰ももういないのだと考えたくないから・・・。
(だから深く眠りたい。この現実を忘れる為に・・・)
そんな自分が、まさか弟子を引き取って育てることになろうとは、自分で決めておきながら、それでもびっくりする流れだった。それでも思った以上の成果で、そこは満足だ。
いささか大きな反抗期もあったが、どの親もそういうものを経験するらしいから、それも成長過程なのだなと、思っていた。
だが、まさかそんな弟子から告白なんてものをされるとは、思いもかけない成り行きだったりして、最近のケリスエ将軍の心は、ぐつぐつ煮えたぎった鍋のようだ。ぽこぽこ泡立つし、噴きこぼれそうになるし、本当に目が離せない感じで、火そのものを消したくなってしまう。しかし、まさか、弟子そのものを消し去るわけにもいかないのが、悩みどころだ。やはり鍋と人間は違うらしい。
「おはようございます、将軍」
「ああ、おはよう。ヨイネ、カロンとリールスはどうした?」
ヨイネしかいない食事室に、ケリスエ将軍は、いつもいる弟子とその副官見習いはどうしたのかと尋ねた。
「昨夜、凶悪な夜盗が出たそうで、駆り出されていきました」
「そうか」
「あの、たしかに深夜でしたけど、こちらにもあれだけ急ぎの伝令が大声で騒いでドンドンと扉を叩いておりましたし、凄い騒ぎだったのですが、・・・将軍はお出かけになっていらしたんでしょうか?」
だが、自分はまだ玄関の鍵を開けていないし、どう考えてもケリスエ将軍は屋敷の中からここに来た筈なのだがと思いつつも、ヨイネは尋ねた。
「いや、寝てて気づかなかった」
「・・・・・・」
ヨイネは黙り込んだ。しかし、彼はとても空気を読む少年だったので、すぐに気を取り直して微笑んだ。
「今朝は摘んだばかりのハーブを入れたスープです。叩いた肉を入れたパンもあります。出来立てですから、温かいですよ」
「そうか」
「残りは、騎士団の方に届けるので、今日はご一緒させてください。カロン様もリールス様も、お腹をすかせていらっしゃると思いますし。大鍋に入れて持って行くつもりなんです」
「ああ」
あの騒ぎで起きないだなんて何かあったら気づかずに死んでしまうのではないだろうかと、ヨイネはケリスエ将軍の危機管理能力が心配になった。それでもその熟睡しているケリスエ将軍の部屋に忍び込んだ盗賊が、全員ケリスエ将軍に殺されたのは有名な話だとも聞く。
(まあ、いいか。たしかに愛想はないんだろうけど、使用人とも一緒に同じご飯を食べてくれる方だし、お給金まで支払ってくれるし、・・・それにお優しい方だ)
従者であるヨイネは馬に乗れないものだが、屋敷の敷地内で練習するのは許されている。それだけでも破格の扱いだ。
ちょうど歩きたかったからと、馬をヨイネに曳かせてはいるものの、それでいて一緒に歩くケリスエ将軍を見ながら、ヨイネはやっぱりこの屋敷に引き取られて良かったと思った。
そんな二人が騎士団に到着した時に見たのは、かなり疲れ切った様子の面々だったが。
「信じられないですよねっ。そう思いませんか、サフィヨール様っ」
「あ、ああ。まあ、な・・・」
ヨイネが多めに作ってあったパンもスープも、みるみる内になくなっていく。別にそれは構わない。沢山食べて大きく育てばいい。もう大きく育ち過ぎたが。
だが、どうして自分の執務室でこいつらは朝食をとっているのかと、ケリスエ将軍は思った。それなら第六部隊の執務室で食べればいいものを。
第六部隊の二十人程が、そこでガツガツとヨイネの差し入れを腹に入れていた。
ヨイネは、これでは足りないと判断し、追加で小麦の粥を作るべく、水場へと行っている。
何でも、昨日の夜盗は、第六部隊員の隣家に入ったらしく、その為、その隊員の家族が他の仲の良い隊員の家に駆けこみ、そして第六部隊長であるカロンの所に助けを求めたのだとか。
それはそれでいい。仲間同士、助け合うのは大切なことだ。
「あんだけの騒ぎだったんですよっ? それでも出てこない以上、留守なんだろうって思うじゃないですか。まさか寝てたなんて、俺は本気で思いもしませんでしたよっ。在宅なら、それこそ手伝ってもらいたかったですよっ。俺達がこんなにも一晩中、賊を相手に追いかけっこ退治に励んでいた間、すやすやと熟睡ですよっ? 信じられますか、サフィヨール様っ」
「ま、まあ、いいじゃないか。カロン。将軍が夜遊びに出掛けてたってよりも・・・」
ヨイネから、「ケリスエ将軍は朝帰りでも何でもなく、お休みだったそうです」と、耳打ちされたカロンは、そう言って先程から文句の垂れ流しである。・・・なんて可愛くない弟子なのか。
ケリスエ将軍としては、その時に何の努力もせず、後から文句を言うというのはどうかと思わずにいられない。
「それなら起こしにくれば良かっただけだろう。留守かどうかも、そこで確認すれば良かっただけじゃないか」
「・・・ヨイネに、生きるか死ぬかの博打をさせろと?」
カロンが恨めし気な顔で問い返す。言うに事欠いて何てことを言い出すのか、この人は。
必死で叩かれる扉の音と、自分を呼ぶ声に、枕元にあった剣と着替えを握って飛び出したカロンである。
報告を聞くや否や馬に飛び乗って駆けていったカロンを、リールスもすぐに着替えて追いかけた。
「部隊長も私も、すぐに飛び出してしまいましたから、・・・私が部隊長よりも早く反応できていたなら良かったのでしょうが」
そう言って、リールスがすまなそうな顔になる。自分達はともかくとして、カロンならばまだケリスエ将軍の部屋にまで行けるからだ。
その後の戸締りはヨイネの仕事だったが、さすがにケリスエ将軍の片翼へ様子を見に行けと、カロンもリールスも命じなかった。というより、何があろうとも近寄るなと以前から口を酸っぱくして伝えていたのだから当たり前である。
「まあまあ。カロンも言ってみたかっただけですからな、将軍も真面目に取り合う必要はありますまい。・・・ですが、意外ですな。戦場では少しの物音でも反応するあなたが、屋敷ではそんなにも熟睡しているとは。だが、熟睡していても体が動いて賊を退治するのだから、それは本当に深く眠っているものなのですかな?」
サフィヨールがケリスエ将軍に尋ねてくる。けれども、寝ている時の自分がどうなのか問われても、ケリスエ将軍にだって分からない。
「さあ。記憶にないから分からん」
そうだろうなと、そこにいた全員が思った。何にしても、屋敷における眠りを妨げる者にはもれなく死を与えるのだから、この将軍にだけは近づきたくもない。というより、決して口には出来ないが、どれ程・・・。
「大体、あなた、どんだけ寝汚く眠りこけてりゃ気が済むんですか。休みの日なんて朝からダラダラ寝てますよね。以前はそんなこともなかったくせに」
誰もが口に出来なかったことを、カロンがすっぱーんと言いきった。
さすがのケリスエ将軍も、ムッとしたようだった。少し目つきが悪くなっている。
「放っといてくれ。私とて誰の生活にも口など出しておらん」
そこで、第六部隊のジギリット小隊長がにこにこと口を挟む。ジギリット小隊長はサフィヨールと同年代の、温和なタイプの男だった。
「いやいや。さすがは将軍。休める時に休んでおけるのは生き延びるコツですからね。・・・ですが、以前はそうではなかったというのであれば心配ですな。もしや、体調がお悪いのでは? 何でしたら、うちの近所の医師を紹介しましょうか? かなり腕がいいのです」
そういう人間には、ケリスエ将軍も別に喧嘩腰な反応はしない。
「いや、体調は悪くない。・・・以前は、単にカロンの教育上、そうふるまってただけだ」
「なるほど。ケイス部隊長の為に、休日もきちんと朝は起きてと、模範的な生活をなさっていらしたのですな」
そう穏やかにジギリット小隊長がまとめてしまえば、カロンも口を噤む。
だが、サフィヨールがそこで尋ねた。
「で、最近はそれをしなくなったというのは?」
「カロンも育ったし、元の生活に戻しただけだ」
サフィヨールがカロンに、「お前が原因じゃねえか」と、肘で小突く。カロンは、何だか困ってしまったかのような表情になっていたが、それでも言うだけは言おうと思ったらしい。
「別に寝るのが趣味でも構いませんが、・・・それでも健康的な生活の為にも、ちゃんと朝は起きてくださいよ。そのうち昼と夜との区別もつかないボケ老人と言われても知りませんよ」
「・・・・・・」
時々、こいつは本当に私のことが好きなのだろうかと、思わずにはいられないケリスエ将軍である。少なくとも、好きな女にボケ老人はないだろう。
けれども、・・・カロンから向けられてくる視線が、とても優しいものになっているのが分かり、ケリスエ将軍は小さな溜め息をついた。
ああ、やはり、人の心は様々な具が入り過ぎた鍋のようだ。中身が少し見えたかと思ってもそれはすぐに隠れるし、急にその具が顔を覗かせてくるし・・・。いきなり吹き零れてくる感情すら、自分では火傷しそうで、鍋の近くには行きたくないものなのに。
そうして。カロンと結婚したはいいが、カロンはかなり悩んでいたらしい。
「もしかして、お前、寝てないんじゃないのか、カロン?」
「え? ああ、ちゃんと仮眠はとりましたよ」
ある時、もしかして夜は寝ていないのではないかと思い、問い詰めたケリスエ将軍にカロンはそう答えた。
「仮眠って・・・。別に普通に寝ればいいだろう。それとも私の寝相が悪かったか?」
「違いますよ。・・・ただ、あなた、熟睡している時って、無意識の内に人を殺してしまうでしょう? だから一応、あなたが動いたら分かるようにと、ある程度、眠りを浅くしていただけです」
「は・・・?」
さすがのケリスエ将軍も目が点になった。
「いや、そりゃ・・・、あなたに殺されるなら本望ですけど、やっぱり死にたいわけじゃないですから、それなりに自衛手段はとっておこうと」
「阿呆か、お前は・・・」
言わなかった自分も悪いかもしれないが、そういうことは訊いてくれと、ケリスエ将軍は脱力した。
「別に私に殺気を向けてこない限り、私は殺さん。・・・お前が私を殺す気になったなら、私も無意識でお前を殺そうとするかもしれないが、特にそういうのがないなら問題はない。ちゃんと夜は寝ろ」
「え? そうなんですか?」
「・・・そうなんだ」
それからは、カロンもきちんと眠るようになったらしい。たまに、夜、水が欲しくて目覚めると、深い寝息を立てている彼の姿がそこにあった。
ケリスエ将軍がもぞもぞとしても起きないぐらいだ。
月明かりに照らされたその顔を見ながら、その胸や背中の固い筋肉をぺたぺたと触ってケリスエ将軍は眠りにつく。かつて自分が抱きかかえて眠っていた柔らかい女の子ではないけれど、それでも穏やかな感情が伝わってくるからいい。
孤独を忘れる為に、眠りを繰り返す意味が薄れていくから・・・。
エルセットは、日中、母親であるサーライナが何かと構ってしまうからなのだろう。夜はぐっすりと眠る赤ん坊だった。
「普通は夜泣きで困るものらしいんですが、疲れきって寝てるって感じですね。・・・ライナ、今日は何をしてたんです?」
「なにもしてないぞ? 裏庭を抱っこして歩いたり、高い高いをしたり、にらめっこしたりしたぐらいだ。だが、エルセットは、いきなりぐたっと寝るんだよな」
「それ、無理に起こされていたから、そこで力尽きて寝てしまっただけだと思うんですけど」
苦笑しながらも、カロンはエルセットに優しい目を向ける。エルセットが着ているのは、カロンが作った暖かい服型の上掛けだ。どんな寝相でも大丈夫なように、そして母親に外へ連れ出された状態で眠っても大丈夫なように。
子供用の小さな寝台に寝かされているエルセットは、よほど疲れているのか、小さくクースーピーと、鼾のようなものまでかいている始末だ。これでは朝まで起きるまい。
「赤ん坊はよく眠るものですからね。・・・そこは母親に似たということでしょうか。まあ、エルセットは見た目もあなたにそっくりですけど」
「そうか?」
「ええ。あなたに似て、強い子になるでしょうね」
「・・・そこはならなくてもいいんだがな」
サーライナは、そう言ってエルセットの髪をその指先で掻き上げた。
「男で強さをもって生きようとしたら、いつか力弱った時に辛くなるだけだ。それぐらいなら、程々でいい。自分の身を守れる程度で。・・・カロン。お前に教えたそれも、別に誰かに教えなくてはならないものじゃないんだ」
「ライナ・・・?」
サーライナは、そっとカロンの顔に指を伸ばした。
「お前は部族の人間じゃない。だから掟に囚われる必要もない。・・・私はお前にそれを与えたが、けれどもお前は自由なんだ。弟子をとらねばならぬ義理はない」
「やめてください、そういうことを言うのは」
伸ばされた手を優しく握り、カロンはその褐色の髪を手櫛で梳いて、肩の向こうへと流す。
「かなり伸びましたね」
「お前のおかげでな。・・・もう、膝まで届くんじゃないのか?」
わざと話を変えたカロンに付き合い、サーライナも相槌を打つ。それは、この話はここまで、という合図だ。
カロンがサーライナの頭に小さく口づけ、「そろそろ寝ましょうか。きっと明日はエルセットがお腹を空かせて早起きするに違いありませんからね」と、寝台へ誘う。
「赤ん坊ってのは、本当に昼夜お構いなしだよな」
「あなただってそうだったんですよ。みんな同じです」
カロンはエルセットの額にも口づけて、「おやすみ、エルセット」と、囁く。そして、二人は同じ寝台へ横になった。
「昨日はどこまで話したっけ?」
「あなたが、神殿を出て、泣きながら獣を狩っていたところまでですね」
「そうだったな。そう、姉弟子であるリスエルードは、『辛くても頑張るなら付き合うわ。だけど耐えられないなら、神殿に帰るって選択肢もあるの。だから、絶対に何かじゃなきゃいけないってことはないのよ』と言って、私と一緒に獣が苦しまないよう、急所を仕留めるやり方を工夫していったんだ」
その頃、眠る前には、サーライナが育った村での話をするのが習慣になっていた。それはカロンが頼んだからだが、サーライナも幼い時からのことを思い出しつつ、カロンに語った。
お互いのどちらかが眠くなったら、その日はそこで終わりだ。続きはまた明日・・・。
「おやすみ、カロン」
「おやすみなさい、ライナ。良い夢を」
そう言って眠りについたカロンの寝顔を見ながら、サーライナはそっと目を閉じる。
(ジール・・・。リスエルはあなたと一緒にいるのだろうか。あなたがついているなら、リスエルも大丈夫だろうが)
あの頃、ジールフェイルに言われた意味はよく分からなかったが、様々な人々を見てきた今なら、彼の抱いていた懸念が分かる。
カロンは、全く自分とは違う人間だ。血縁の近さを心配するまでもなく、民族そのものが異なる。
(けれども、・・・だから愛したわけじゃない)
都合が良かったから愛したわけじゃない。・・・けれど、彼が相手なら仮に子供が出来ても問題ないと、そういう思いがあったのも事実だ。
その愛を信じられたから愛したわけじゃない。・・・けれど、彼だからこそ、その愛してくる感情を素直に受け取れたのも事実だ。
自分に影響されない人間だから愛したわけじゃない。・・・けれど、彼なら大丈夫だからと、全てを委ねられたことも事実だ。
(信じろとは言わない。だけど、お前だけだ。カロン・・・)
弟子でもなく、養い子でもなく、いつしか一人の男として愛していたのは・・・。
そして。
弟子として、養い子として、そして夫として、自分はこの男を永遠に愛しているだろう。




