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18 ジレームの扇動者(フェルエストとシルフィーナ)

○月×日

匿名X:早く帰ってきてください、キヤン・ハイリ副官。今まで、あの第一部隊長をよくぞ遠慮なくあそこまで怒鳴りつけられるもんだと呆れていましたが、いなくなって、あなたの偉大さが分かりました。


匿名A:同感。・・・俺、なんだかんだ言っても、ハイリ副官が第一部隊長に男惚れしてるだけなんだなと思ってたけど、第一部隊長にとってもハイリ副官が必要なんだってよく分かった。

匿名B:何があったんだ、第一部隊・・・。

匿名C:アホだな、B。元々、どの部隊長だって将軍の前だから大人の男性っぽく振るまってるだけで、将軍もましてや気に入りのハイリ副官もいない第一部隊長なんて、鎖の切れた猛獣だろうがよ。

匿名D:第六はまだ部隊長の不在にも慣れてるからいいが、よそは・・・大変だな。近衛と王都に偉そうに言われた第二部隊長がブチ切れて、あいつらタコ殴りにしたって話、聞いたけどよ、・・・うちの将軍、絶対、部隊長達のこと、誤解してると思う。

匿名C:言える。・・・よそに偉そうに言われて不愉快な思いをしないようにって、今回の割り当てをとったらしいけど、そもそも不愉快な思いを耐える部隊長なんて存在しねえって事実を分かってねえよ。


 ラファイ王国の王都ジレーム。そこでは、様々な不満が溢れていた。


「また軍勢が攻めてくるんじゃないだろうね。いいかげんにしとくれよ。うちの亭主を戦に連れてっただけで十分じゃないか」

「全くさ。息子まで連れてかれたら、あたしゃどうやって生きてきゃいいんだい」

「誰が王様だろうが、俺達の暮らしなんて全く変わりゃしねえ。それどころか、店に並ぶ品物もどんどん高くなっていく。・・・いつまでこんな暮らしが続くんだ」

「だけどねぇ、商人がなかなか来てくれないのよ。今まではちょくちょく来てくれていたのに、ジレームに来る途中で軍勢に出会ったら、物をタダ同然で徴収されてしまうんですって。何回かそういう事があって、ついに来なくなってしまった人もいるわ。売りたくても、物が入らないのよ」

盗人(ぬすっと)相手なら商人も護衛を雇っちゃいるが、軍勢にゃ手も足も出ねえからな」

「ほんとによ。おかげで近郊の農家から仕入れられるものだけでやりくりするしかねえ。・・・こっちだって高く売りたくて売ってるわけじゃねえよ。仕入れの値段だって信じらんねえぐらいに上がってんだ」

「早く落ち着いてほしいよ。お貴族様は、王様を作りゃあ楽しいことがあるってんだろうがよ、俺らにゃ全く関係ねえ」

「ああ。あいつらもパン一つの為に朝から昼まで並んでみりゃいいんだ」


 民衆の不満は、それを取り締まる兵士達へも向けられた。街角で不満そうな集団を見かければ、「ほら、散れ」と、声を掛けるのが兵士達だからである。

だが、その兵士達とて、庶民の仲間だ。兵士だから食べてはいけるが、さほど高い給料をもらってるわけでもなければ、家族が長い行列に並んで買い物をし、やっとのことで毎日のスープを作っていることに変わりはない。


「俺だって食う為に軍に入ったんだ。家族を飢えさせたくねえんだよ。・・・ほら、見逃してやるから、さっさとここは逃げとけ」

「お偉い兵士さんなんだからよぉ、どうにかしてくれよ。・・・うちにゃあ、産まれたばかりの赤ん坊だっているんだ」

「どこも同じだ。俺だって養わにゃならん妹と弟がいるんだ。親父もお袋も死んじまった。やっとのことで手に入れた職場だ、あいつらを飢え死にさせたかねえんだよ」


 誰もが不満を抱え、しかし、その不満をどこにぶつけていいかも分からず、ただ苛立っていた。


―――力強い王が立ってくれたなら。

―――この状況をどうにかしてくれる人がいてくれたなら。

―――誰もが飢えず、軍や盗賊に全てを奪われない日々をくれる人がいたなら。


 噴火する前のマグマが全てを焼き尽くす熱を抱えてとぐろを巻いているように、噴出する先を見つけられないままの鬱屈した思いが、ラファイ王国では渦巻いていた。




 その日、ルートリュードは、妹の為に貸本屋へと訪れていた。こういうものはメイドがこっそりお嬢様の為に借りに行くものなのだが、ルートリュードの家にメイドを雇う余裕はない。それでも妹の楽しみとなるのであれば、そういったものをちょくちょく借りてくる程度の余裕はあった。


「こんにちは、親父(おやっ)さん。良い本は入ってるかい?」

「それがなぁ。書いてた奴らもこういうものを書くより、まずは食ってく為に農家へと出稼ぎに行くぐらいだ。ま、少しは入っちゃいるけどな」


 貸本屋の主人は、そういってルートリュードに幾つかの小さな本を出してきた。がっしりとした体つきのルートリュードには似合わない小さな本の中身は、男と女の恋愛ドラマを描いた、いわゆるラブストーリーである。

 

「えっと・・・、これは今まで借りたこと無かったな。どれどれ、ケンタウロスがお姫様を攫って結婚する話? ・・・ま、いいけどさ。でもって、こっちは、・・・家庭教師の男と、生徒である息子の母との純愛? ・・・・・・ちょっとさすがにこっちはまずいな。そしてこっちは、泣く泣く恋人と切り裂かれた令嬢が愛のない結婚をして、それでも恋人と二人で駆け落ち・・・・・・。まあ、この程度なら、・・・いいもんなのか?」

「さあ。だけど、どれもご婦人には人気なんだから分からんもんさ。ま、絶対にあり得ないと分かってるから人気なのかもしれんがね」


 こういった感傷的な涙を誘われる物語こそ、ご婦人方には人気の物語だ。だが、男にとっては何とも感情移入しにくいものでもあった。


「まあ、いいさ。じゃあ、この二冊、借りていくよ。・・・ところで、例の本は入ってるかい?」

「ああ、やっと入った奴だな。勿論さ。・・・さあ、これだ」


 貸本屋の主人は、棚の奥から一冊の本を出してくる。ルートリュードは、嬉しそうに破顔した。それは最近あちこちの貸本屋でデビューした作家の本で、なかなか面白いのだ。

騎士の生き方を描いた小説なのだが、そこに出てくる内容が真に迫っている。作者は貴族か騎士に近い位置にいる人間だろうと思われるのだが、その小説に出てくる主人公の騎士はひねくれていて、問題行動ばかりで、上司や部下も手を焼く毒舌ぶりだったりする。けれども、小説のあちこちに散りばめられた騎士達の生き方は、まさに自分もそうでありたいと思えるものだった。

読書はルートリュードのひそかな趣味だが、この本を書き写したものを同僚に見せた途端、皆がはまった。今じゃ、上司も楽しみにしていたりする。

内容が内容だけに、今じゃこっそりと「作者を探せ。もしくは主人公のモデルを探せ」運動が起きているのだが、未だに見つからない。


「このテイトって作家、かなり格安で請け負ってくれるんでね、おかげでどこからも引っ張りだこなのさ。・・・しかも面白い上、何冊も書いて持ってくる。瞬く間に花形さ」

「そりゃ凄い。・・・そうなると、実は裕福なお貴族様が正体だったりしてな」

「かもなぁ。ま、それはないだろうがな。・・・内緒だぞ? かなりゴツゴツした男でな、こういう貸本屋の作家をしているのは恥ずかしいらしく、夜にしかやってこないんだ。だが、ひ弱で太ったお貴族なら、あの体はあり得んよ」

「へえ。・・・会ってみたいけど、それじゃ無理か」


 実は、本を借りに来るついでに偶然会えたならばと、期待もしていたルートリュードである。だが、そういうことなら諦めねばなるまい。夜、出歩くには、今のジレームは治安が悪すぎる。変な奴らに絡まれたくもない。


「じゃ、この三冊で」

「毎度っ」


 本を布袋に入れると、ルートリュードは足取りも軽く、貸本屋を出た。ルートリュードは本を借りると、いつも自分でその内容を書き写している。そんな手書きの本は少しずつ増えて、妹にも大喜びされていた。金を出して借りてこなくても、そうすれば繰り返し読める。本を読むなど贅沢なことかもしれないが、そんな小さな喜びが日々を鮮やかにしてくれる。


(ん? 酔っ払いか?)


 だが。

 しばらく歩いていると、大通りの横にある、それこそ人が一人しか通れないような路地に、人が(うずくま)っているのに、ルートリュードは気づいた。

 いつもなら気にも留めずに通り過ぎただろう。もしくは、そんな酔っ払いや行き倒れなど珍しくもなしと、放置していた筈だ。だが、何となく・・・。そう、何となくなのだろう。

 テイトの本を借りたばかりだったせいかもしれない。人を助け、人を守り、その為に敵を打ち砕く騎士としての誇りを描いたあの本、・・・・・・それを思い出してしまっていたからなのか。


「おい。そんな所で転がってんじゃない。・・・身ぐるみ、剥がされるぞ?」

「・・・るせえよ。俺がそんな間抜けをやらかされてたまるか。・・・これはな、ちょっとドジって揉めただけだっつーの」

「何だ、借金持ちか。ちゃんとツケは払っとけよ」


 よくある話だ。ツケで飲もうとして叩き出されたか、娼館で支払いを逃げようとしたか。だが、声はしっかりしているようなので、ルートリュードは立ったまま忠告だけする。

 蹲っていた男は、そのぼさぼさの頭を掻き上げた。力強い紺色の瞳が、ルートリュードを射抜く。


「お人よしだな、・・・何だ、兵士か? このジレームにもそんなおせっかいな野郎がまだいたとはな」

「放っといてくれ。ま、減らず口を叩けるようならいいさ。ちゃんと日暮れまでには家に帰れよ」


 そう言って、ルートリュードは立ち去ろうとした。


「せっかくなら送って行ってくれよ、兵士さん。クソ馬鹿強い奴にやられたもんでな、これでもかなりダメージ食らってんだ」

「はぁっ?」


 だが、その言葉は嘘ではなさそうだった。よくよく見れば、脂汗も浮いている。


「しょうがねえな。・・・家はどこだ? 医者が先か?」

「医者はいらん。だが、しばらく飯は食えんな。本当に遠慮なくやりやがって、あの色ボケ野郎が」


 毒づきながら舌打ちする元気はあるようだ。ルートリュードはその男に肩を貸すと、男の家へ送っていった。変な親切心を出すのではなかったとも思いながら。


「かなり重いな、お前」

「女じゃないんだ。当たり前だろ」


 その男は、ジレームで一旗揚げようと田舎から出てきたのだと、そんな同郷の者同士で小さな家を借りて暮らしているのだと、ルートリュードに語った。

 案内された家は、街中にある共同住宅の一画だった。路地に面した小さな扉を開けると、中にいた男が驚いて振り返る。


「どうしたんだ、ロースさん。何かあったのか? そちらの方は一体・・・」

「るせえよ、カイ。狼にやられただけだ。くそ、あの野郎、ちょっとこっちがちょっかい出しやがったぐれえで。今日は飯はいらん。あいつ、遠慮なく蹴りやがった」

「・・・・・・自業自得だよ。それよりも、そちらの方にはご迷惑をおかけしたようで。良ければ、夕食でも食べて行ってくれないか? どうせロースさんの分が余るし」

「はあ。じゃあ、ありがたくご馳走になるよ」


 ロースと呼ばれた男は、殴られた腹が痛むと、そのまま寝に行ってしまった。やがて、ロムと呼ばれる男も帰ってくる。

ジレームから一歩も出たことのないルートリュードでは知らない様々な話をしながら、ロースを送ってくれたお礼にと、カイと呼ばれた男は、質素ながら心尽くしの夕食をルートリュードに振る舞った。

 

「そうか。地方ならまだ物はあるんだな」

「おかげさまで。とはいえ、ジレームが落ち着いてくれなきゃラファイ王国そのものが存亡の危機なのは確かだよ。こっちだって王都で出世しようとやってきたんだ。なのに、故郷に錦を飾ろうにも、ジレームそのものがガタガタじゃあどうしようもない」


 カイがそうぼやくと、ロムも仕入れたばかりという噂を披露する。


「実際、今日聞いた噂だが、とある領主様なんて、王族の血が入ってないのに、『どこの王家も最初は全く違う血の持ち主だったじゃないか』と、反乱を企てているそうだ。・・・そんなのまで加わってこられちゃ、誰が王様になるやら」

「何だと? そんな噂が? どこの領主様だ?」


 ルートリュードも目を瞠る。これは上司に報告しておく必要があるだろう。気圧(けお)された様子で、ロムもしどろもどろに答えた。


「どこの領主様とは言ってなかったけど・・・。やはり警戒されたくないから名前を出さなかったんじゃないか? そういう噂を持ってくる奴らも、目をつけられたくないから肝心なことは言わないし。・・・だが、そうなるともう、ラファイ王国は貴族の領主様方のおかげでめちゃめちゃになりそうだな」

「そうか。・・・いや、噂であっても馬鹿には出来ん。良かったら、どんな人間がそんなことを言っていたのかだけでも教えてくれ」

「中肉中背で、ありふれた茶色っぽい髪の男だった。年齢は二十代から三十代といった感じだ」


 ロムの返事に、ルートリュードは、それはまた見つけるのも難しいなと、思った。そんな人間はどこにでもいるからだ。できれば見つけ出して、もっと詳しい話を聞きたかったが仕方がない。だが、そういった噂があると知るだけでも、違ってくることはあるだろう。上司に伝えれば、上司もまた更なる上司に伝え、その反乱の芽を摘むはずだ。結果として、出世できるかもしれない。

 ただの喧嘩に負けたらしい男を送る羽目になっただけかと思いきや、予想外の収穫である。下を向いて考え込むルートリュードは、カイとロムがほくそ笑みながら見交わす瞳には気づかなかった。




 その頃、とある居酒屋では、流しの歌い手がその声を響かせていた。

その居酒屋は、薄くて安い酒を出す。そして質より量の食べ物も。

 だが、酒の薄さはともかく、数日前から出してくる食べ物がかなり旨くなったと評判だ。何でも、その日の夕方に食事をした男が、支払いをしようとしたら持ち金が足りなかったらしく、こう言ったのだ。


「すまん、亭主殿。足りない分は、今日は皿洗いと片づけをさせてくれないか。何なら給仕を手伝うからさ」

「ああん? ふざけんな、てめえ。・・・ま、足りないっても、大した金額じゃねえしな。それならまずはこれ、運んでけ」


年老いた夫婦二人だけでやっている居酒屋なので、猫の手も借りたいぐらいに忙しい。居酒屋の主人も、ケッと言いながら手伝わせてみたら、これがまた手慣れた様子でこなす男だった。


「何だ、てめえ。木偶(でく)の棒かと思いきや、かなり器用じゃねえか。どうせなら明日も来い。ちゃんと給金は払うぜ」

「まあ、どうせ今は仕事もないしな。なら明日も来るよ」


 大きな体でのんびりとした男だったが、次の日は昼過ぎから来て、掃除や仕込みまで手伝う生真面目さだ。しかも、これが居酒屋の夫婦よりも手際が良い。力もあるようで、ガタついていた椅子やテーブルも直してしまう。

 田舎へと出稼ぎに行った息子達よりも若い男だが、頼りになる。居酒屋の夫婦はすっかりその男が気に入ってしまった。男は、カーンと名乗った。

 そして、市場で安く売られていたからと買ってきたのはいいが、どうやって調理しようかと悩んで夫婦が手つかずのままにしていた材料もあったのだが、

「これ、どうしてここに放ってあるんだ?」

「それがねえ。その野菜、どうやって料理するか分かんなくてさ・・・。スープに入れればいいって聞いてたんだけど、切って味見してみたら不味(まず)くて食べられたもんじゃなかったよ」

「へえ。じゃあ、女将さん、俺がこれで一品作ってもいいかい?」

「何だい、カーンさん。この使い方が分かるのかい?」

「ちょっと齧ったら酸っぱくて食えたもんじゃない野菜だったが、火を通すとやわらぐみたいだからな」

と、その男は、その野菜を小さく切って軽く炒めてから、他の残っていた材料も使って、滋味溢れるスープを作ってしまった。古くなって片隅に置かれていたパンも刻んで深皿に入れ、そのスープをかける。


親父(おやっ)さん、女将(おかみ)さん、店を開ける前にちょっとこれでも食べておいたらどうだ? 残り物で作ったが、悪くないだろ?」

「おっ、うめえじゃねえか。カーンさん、あんた、天才だな。今日はこれを作って出してみるか」

「本当に美味しい。あんたよりよっぽどカーンさんの方が料理人にむいてるじゃない」

「・・・いや、これでも商人見習いだから」


 カーンは、とある商人に弟子入りし、見習いとして働いていた男なのだそうだ。見習いといっても、それなりの仕事をも任されており、今回はそれを片付けてから主人である商人とジレームで落ち合う予定だったらしい。なのに、カーンはジレームに辿り着く直前で、ラファイ王国の貴族が抱えている軍勢とかち合ってしまったのだという。

 そうして、仕入れてきていた物や金をほとんど取られてしまったのだとか。


「任された仕事を全て駄目にしてしまった以上、旦那に合わす顔はないが、それでも報告はしなきゃならねえからな。商人は信頼が全てだ。ただ、・・・とっくにジレームに着いててもおかしくない旦那が、まだ来てないってことが気にかかる。何か起こったんでなければいいんだが・・・」


 居酒屋で料理を作ったり、給仕をしたりしながら、カーンは問われるままに、人々にそういった話を隠さずに語った。

 聞く客の方も、そうなると怒りを覚えずにはいられない。


「くそったれの貴族共がよ、自分達はそうやって物を奪いとってりゃいいからいいさ。けど、俺たちゃどうなる。そんなことしてたら、全ての商人がジレームに来なくなるじゃねえか」

「おうよ。これがかつては都の中の都と謳われたジレームかっつーんだ」

「一人息子を連れていかれ、息子は戦死したのか、帰ってこねえ。しかも状況はひどくなる一方だ。・・・何のために息子は死んだってんだ」

「けっ。同じ人間なんぞとは思ってねえんだろうよ、王様とやらはよぉ」

 

 ひとしきり、皆の不満がブチ上げられたところで、ポォーンと、楽器の音が響く。その音に振り返った彼らは、その存在を思い出して次々に声を掛けた。彼女の前にある壺へ小銭を投げ込む男もいた。


「シーラ、歌ってくれよ」

「そうだ、シーラ。何か気が晴れる歌をやってくれ」


 南の国出身ならではの褐色の肌に、黒い髪、黒い瞳をしたシーラという娘が、にこっと笑う。どこかあどけなさを残しながらも、綺麗な女だった。

ジレームの女性は、ゆったりと膨らんだ袖の、腰よりも少し高い部分でウェストを作ったワンピーススタイルが一般的だ。だがシーラは、膨らんだ袖のブラウスに、布をたっぷりとつかって膨らませたキュロットを履いていた。そしてその上から鮮やかな糸で織り込まれた長方形の布を左肩から垂らし、腰の部分で紐を使って留めている。その布はかなり大きめなので、一風変わったドレスにすら見えた。


「いいわよ。何を歌おうかしら? 恋歌? それとも故郷を偲ぶ歌? はたまた、ジレームの昔語りがいい? それとも外国の歌がいいかしら?」

「何でもいいさ。シーラの歌は外れがない」


 そう言って、一人の男がシーラの前にある壺にチャリチャリンと小銭を入れていく。シーラは、その男に微笑んだ。


「じゃあ、お客さん。あなたカッコイイから、かつてこの国で戦神のようだとも言われ、王になった将軍の語り歌にするわね」


 聞いていた周囲の男が、ヒューヒューと囃し立て、ピィーと口笛を吹く。ちょっとした気まぐれでポケットに突っこんでいた全ての小銭を出した男も、カッコイイと言われて照れ臭そうである。

 やがてシーラは、ピーン、パーンと弦楽器を(はじ)いた後、それを奏でながら、かつて自分が仕えていた国王を裏切り、殺して王位についた将軍の物語を歌い出した。賢王として善政を敷きながら、やがて民を苦しめる愚王となった男に仕えた将軍の語り歌を。

 

『民を苦しめた王は、そこでも愚行を繰り返す。花はうなだれ、風は止まり、やがて悪夢は国の全てを覆っていった。

忠実なる王のしもべ、勇敢なるジレーム将軍は悩み苦しみ、一つの答えに辿り着く。

 我らが王よ、賢く強く素晴らしき王よ。あなたは変わってしまわれた。あなたの愛した民衆を苦しめるあなたは、あなたであってあなたではない。私はかつて忠誠を誓ったあなたの為に、あなたを滅ぼしましょう。

 勇敢なるジレーム将軍が率いる軍勢は、王と貴族を討ち果たす。自分が討ち取った王の首に向かい、ジレーム将軍は、涙を流して語りかけた。

我らが王よ。私の主である王よ。あなただけを死の国に送り出しはしませぬ。すぐに私もお供いたします。

そしてジレーム将軍は王となり、乱れた国を整える。平和をラファイにもたらした後、ジレーム王はそのまま川に飛び込み、その命を散らした。

我らが王よ。これこそがあなたの愛した平和な国。あの笑顔こそがあなたの愛したラファイの民のもの。どうぞ私の命と共に、お受け取りくださいませ。

ジレーム王の遺体は上がらず、短い在位は歴史にも残らなかった。その死を嘆き悲しんだ人々は、その名を王国の最も栄えた土地に残す。

ジレーム、それは平和をもたらす勇ましき男の名前

ジレーム、それはその国を愛する者に仕えた男の名前。

ジレーム、それはラファイに輝く、愛という本質を知る都の名前。

おお、ジレームよ。時の流れに様々な命が失われようとも、その名が残る限り、この国に生きる者の愛と誇りは消えない』


 まだ夜と言うより夕方だった為、その歌は道行く人々にも聞こえていた。窓の外では、ふと物語のような歌に興味を抱き、立ち止まって聴いていた子供達もいた。

「ねえ、お母さん。知ってる? ジレームってね、王様に苦しめられた民衆の為に戦った将軍の名前なんだって」

と、家に帰った子供達は、その物語を親に話し、翌朝には友達にも話す。

 次々に投げ込まれる小銭に応え、シーラは帰ってこない恋人を待つ乙女の恋歌をも歌う。そうして、夜も更けていくと、シーラはその小銭の入った壺を店の奥に一度預けた。慣れた男達も、居酒屋の真ん中のテーブルを脇にどかせて協力する。


「さあ、皆で踊りましょうっ。・・・ほら、お客さんも立って踊って? 手拍子も忘れずにねっ」

「シーラ、そう回さないでくれ。目がクルクルしちまうよっ」


 シーラは男の手を掲げてくるりくるりとその身を翻させた。悲鳴をあげながらも、誘われた男も楽しそうだ。誰もが手拍子に参加し、歌にも参加する。拍子が単純な上、歌詞も簡単すぎて、一度聴いたら誰でも覚えてしまうものだったからだ。


『ジレーム、それは花の都。

 ジレーム、それは夢の都。

 ジレーム、それは我らの街。

 ジレーム、それは・・・』


 最初に誘われたのは、居酒屋の女将だが、手に持った打楽器を打ち鳴らしながら、その単調な歌を、明るく楽しくシーラは歌った。最初は目を白黒させていた女将だったが、毎晩のこととなると、体を動かすのも慣れたものだ。

決まりなどない、ただ楽しく体を動かせばいい。

 年老いている者はのんびりと上半身だけ揺らせばいいし、若い者は足踏みも高らかに踊ればいい。

 ジレームに対して不満を抱く集団が生まれないよう、定期的に様々な居酒屋にも取締りに入る軍の兵士達だったが、これはジレームを讃える歌なので取り締まり対象外だった。時には、一緒になって踊っていたりもする。ジレームに生きて、ジレームを褒める歌に何の異存があるだろうか。一般市民だろうが、軍の兵士だろうが、関係なく参加していった。


「へえ、覚えやすい歌だな」

「いいじゃないっすか、俺、気に入りましたよ」


 あまりにも簡単すぎて音痴になりようもない為、この居酒屋から始まったその歌を、日中も歌う人間は増えていった。




 居酒屋の片づけを終えると、女の一人歩きは危ないからと、カーンがシーラと一緒に帰る。それを見送り、居酒屋の亭主と、残っていた酔客は首を傾げた。そこまでの常連となると、このまま店で夜明かしすることも多い。


「何でい、何でい。シーラはそのまま帰っちまうのかい」

「うーん・・・。シーラも歌い手なんだから、男に自分を買ってもらいたいんじゃないかとは思うんだがねえ。歌だけじゃさほどの儲けにもならんだろうに」


 酔客の言葉に、亭主も不思議そうな顔をして同意する。


「あんたはだから間抜けなのよ。シーラとカーンさんは誰がどう見ても恋仲じゃないの。南の女は情熱的って言うでしょうが。カーンさんとの恋が終わらない限り、シーラが体を売ることはないわよ」

「ああっ、恋仲っ? あの二人がっ!?」

「だから男は馬鹿なのよ。誰がどう見てもそうじゃないの」


 鈍すぎる亭主に、女将は呆れた声になる。そこでガツンと音がして振り向けば、女将の目に酔客が額をテーブルに打ちつけているのが映った。


「何よ、どうしたの?」

「・・・そんなぁ。憧れてたのに」


 どうやら酔客はシーラを狙っていたらしい。女将は、やれやれと溜め息をついた。


「見れば分かるじゃないの。大体、カーンさんが初めてシーラを見た時のあの瞳。どう見ても一目惚れしてたわよ。そこで口説かなきゃ男じゃないってね。だけど、どんなお客さんにも靡かなかったシーラを数日で口説き落としただなんて、カーンさんったらやるじゃない。ふふ、どうやって口説いたのかしら」


 年齢を問わず、女は恋話が大好きだ。いずれシーラから聞き出そうと、女将は決めていた。シーラは歌い手の割にすれた所がない。女将にしてみれば、自分の子供達よりも年下のカーンとシーラだけに、何とはなし、放っておけないものを感じていた。

こういう酒場を経営していると、酒に酔ってみっともない醜態をさらす男ばかりが目につく。

だが、最初は目だけで相手を追い、やがて思いを伝え、静かに愛を育む。・・・そんな真面目な恋愛をしているらしい二人に、女将は亭主と知り合った昔を思い出し、心が温まっていた。


 一方。

 カーンとシーラは、のんびりと家路についていた。カーンの渡した地味な色のマントを羽織ったおかげで、シーラのその独特な衣装も分からなくなる。だが、カーンと名乗っているカロンにしても、シーラと名乗っているケリスエ将軍にしても、何とも今日は気まずい一日だった。

 街を抜けて、木々の多い道へと差し掛かる頃には、通り過ぎる人もいなくなる。周囲に誰もいないことを確認してから、ケリスエ将軍は静かに尋ねた。


「で、どうするんだ、カロン? 思いっきり蹴ってただろ、ロメス殿の腹を」

「まさか彼とは思わなくて・・・。俺はあなたに迫ろうとしていた男を撃退したつもりだったんです」

「あの男もなあ。・・・どこに行っても女好きなのかねぇ」

「今度、カレン殿に言いつけておきましょう。・・・ただ、潜伏先を知らないんですよ。謝りに行こうにも、どこにいるやら」

「あれですぐに動けるあたりがさすがなんだがな。しかし、今日の飯は食えなかっただろう」

「・・・ですよねぇ。今度、お詫びに何かご馳走しときます」

 もしくは一発殴られてやるべきかと、カロンは悩む。友だと分かっていたら、あんなことはしなかったのだが。結局、ロメスの軍資金は、その頼りになる部下も同行するというので、そちらに渡してあるものだから、完全に別行動なのだ。ロメスだけなら渡さなかったが、ロメスの操縦に慣れている部下達ならば金の管理もしっかりしているだろうと、判断したのである。

「まあ、そう落ち込むな。・・・それに、私にとっても改めて考えるものがあった。天賦の才があるとかないとか、師弟関係で重視するのはそういうものじゃないな、やっぱり。私は真面目に努力し続けるお前で良かった」

「・・・え? あの、・・・ライナ」

 誰もいない月明かりだけの夜道で立ち止まると、ケリスエ将軍はカロンの首に両手をまわす。抱きつきやすいようにと、カロンがその体を支えるように抱きしめると、カロンに聞こえるか聞こえないかのような小さな声で、彼女は囁いた。それこそカロンには幻聴と思える程の(ひそ)やかさで。

「なあ、カロン。お前だから、・・・私は愛せたんだ」

 



 事の起こりは、日中、ケリスエ将軍が市場に買い物に行っていたことにある。何といっても、今のケリスエ将軍は肌を褐色にし、髪を黒く染めて緩く波打たせ、エキゾチックな衣装を身につけている。目立ってはいたが、どうせ物価や情報を仕入れたいだけだったし、異国からの旅人となれば、それもまた不自然ではない。

 そこで、いきなり数人の男に囲まれ、声を掛けられた。


「何だ、シーラじゃねえか。へへっ、一人かい?」

「ええ、そうよ。買い出しにね。本当に物が少なくて困っちゃう」


 シーラと呼ぶ以上、居酒屋の客なのだろうと思うが、どうでもいい人間の顔など覚えてもいないケリスエ将軍である。鬱陶しいので、そのまま去ろうとした。


「待てよ。・・・なあ、シーラ。一度、お前とやりたいって思ってたんだ。金ははずむぜ、どうだ?」

「あら、ごめんなさい。私、そういうのはしてないのよ。じゃあね、また」


 だが、そこで逃がしてくれるようならば、集団で囲むことはなかっただろう。一人の持ってる金ではどうにもならないかもしれないが、皆で金を出し合えば・・・。そういう思惑で集団になって声を掛けてきたことに、ケリスエ将軍も気づいていた。

 昼間の市場では女性らしく振舞うしかないが、人目につかない所に連れて行かれた時点でどうにかすればいいだろう。どこにでも下劣な人間はいるものだ。


「おい、行くなよ。ほら、ここじゃ皆の迷惑になる。あっちへ行こうぜ」

「嫌よ、放して」


 嫌がる女の腕を握りしめて連れて行こうとする男達に、周囲の誰もが遠巻きになりながらも心配そうに見つめる。だが、若い男の集団とあって助けにくい。ああいう若者達は、止めに入った人間にも容赦なく暴力をふるうものだ。

可哀想に、あの異国から来た娘は彼らにどんな目に遭わされるのだろうと、誰もが他に助けてやれる人間はいないのかと、周囲を見渡す。

するとそこで、彼女の手を掴んだ男を殴り倒した男がいた。


「ぐぇっ」

「無理矢理はいかんな。女ってのは、自分から服を脱がせるもんだ。男が服を剥ぐもんじゃねえ。口説く手間を惜しむなよ」


 ぼさぼさのイエローレッドの髪に無精髭を生やした男は、シーラを背に庇って男達を楽しそうに見渡した。


「しっかしよお、お前ら、そんなに集まらないと女一人を満足させられねえのか? どんな貧相な持ち物なんだよ、・・・クッ、可哀想にな」

「何だと、てめえっ」

「ふざけんじゃねえっ」


 あまりにも気の毒そうに、そして面白そうに言われたものだから、周囲で聞いていた野次馬も噴き出さずにはいられない。

殴り倒された男は起き上がれる状態ではなかったが、その言葉に残された男達は一斉に殴りかかった。


(うーむ・・・。相手が悪かったとしか言いようがないが、ま、この男を相手にして殺されなかっただけマシか?)


 そんなことを思いながらも、怯えて震える女の役割を演じていたケリスエ将軍は、瞬く間に男達を倒したロメスの雄姿に感動したフリをする。鼻血を垂れ流している者はいたが、どの男も骨は折れていない。これなら警備の人間もお咎めなしで済ませてくれるだろう。


「さ、行こうか。お嬢さん。送っていくよ」

「ありがとうございます、旦那様。助けていただいて感謝しております」

 

 そうケリスエ将軍が礼を述べると、周囲からもパチパチと拍手と歓声が沸き起こる。


「よっ、兄ちゃんっ。強えな」

「男だなっ、兄ちゃん。すげえぜ」

「いやぁ、それ程でも。ま、そいつらはそのまま転がしといてくれや。目が覚めたら、大人しくママの所に泣いて帰るだろ」


 最後まで苛めることを忘れないロメスである。周囲の野次馬も、それには笑わずにはいられない。

さすがに目立ち過ぎた為、そそくさとケリスエ将軍はロメスと共に、その場を離れた。ロメスが自分の肩に手をまわしているのは不愉快でしかなかったが、状況が状況だけに仕方がない。

 やがて、少し離れた路地に来ると、そこでケリスエ将軍は肩を抱いていたロメスの手を掴んで離した。


「おかげで助かりました。さすがに目立たぬ場所であの人達を倒すにしても、まずは同行しなくてはなりませんでしたし、面倒だったんですもの」

「何だ、あんた、自分であいつらを倒すつもりだったのか? そりゃ勇ましいことだな」


 別に自分でどうにか出来たと言わんばかりの女のセリフに、ロメスは片方の眉を上げて面白そうな顔になった。肩を抱いた時にこの女の体が筋肉質なことには気づいたが、それでも暴力沙汰に弱いのが女だろうと思えば、ロメスとしても苦笑せざるを得ない。


(何言ってんだ、こいつ? 何が勇ましいことだな、だ。・・・お前に言われる覚えはないぞ)


 そこでケリスエ将軍は、もしかしてと思った。

そう言えば、この男がよくぞ自分の肩を抱いたものだと思ったが、気づいていないとなれば、なるほど納得である。だが、ここであっさりと自分から名乗ってしまえば、ロメスも気まずいことになる。と言うよりも、ロメスの立つ瀬がなくなるような気がする。ロメスから気づいてもらうのがベターだろう。

ベストなのは、このまま円満にお別れすることだが、ケリスエ将軍だと分かっていなくてここまで連れてきたロメスだ。・・・スムーズに、「じゃ、さよなら」「ああ、さようなら」と、お別れしてくれるものだろうか。おそらく、何らかの理由があって連れてきた筈だ。本来、この男なら、別に困っている女を助けたところで、そのままさっさと別れることが出来る程度には、女に不自由していない。


「もしかして、私が分からないのかしら?」

「勿論、分かってるさ。最高の夜を過ごさせてもらったしな」


 にっこりと微笑んで、言外に自分を思い出せと、ケリスエ将軍は伝えてみた。

そんな女の様子に、ロメスはどの日だかは知らないが、夜を一緒に過ごした女だと判断したらしい。


(そっちのお楽しみもしっかりやってたのか。ま、ロメス殿だしな)


ありもしない夜の感想を述べてくるのだからどうしようもない。だが、自分が抱いた女の顔も何も覚えていない時点で最低な男だ。


(うちのカロンは、こんなロクデナシじゃなくて良かった)


 つい、弟子と比べてしまうケリスエ将軍である。ロメスとカロンが友人なのは知っているが、こういう影響は受けないようにと、きちんと言い聞かせておかねばなるまい。いや、あのカロンなら、そんなことを言うまでもなく、あり得ないのだが。

そう言えば、ジレームでは覇気を抑え、人に好かれやすいような雰囲気を作るようにしていたしなと、ケリスエ将軍は思う。だから、ロメスは自分が分からないのだろう。感覚で相手を見分けるとは、やはり獣のような男だ。

 

「とりあえず、その手を私の体から離した方がいいわ。後悔するのはあなただから」


 路地とはいえ、周囲には人が通り過ぎてもいる。二人が立っているその横の建物の中だって居住者はいる。ロメスの名を呼ぶわけにもいかず、名乗るわけにもいかず、ケリスエ将軍は忠告へと徹した。


(さりげなく腰に手をまわしてくるこいつは何なんだろうな。・・・カレン殿にはあんなにもダメダメだったくせに。・・・本命にだけ情けなさ全開って奴か。アホだな)


 だが、ロメスにとって、ラファイのジレームは誰も自分を知らない場所である。何をやってもいけると大いに羽を伸ばしていたロメスは、そんな女の忠告など気にも留めなかった。

腰にまわした手を少し強くはたかれた程度でめげていたら、女など口説けない。嫌だと言われても、それでもへこたれることなく口説いてくる強さのある男を、女は望んでいるものだからだ。


「へえ? そうなのか? だが、この甘い口づけの為なら、後悔などする筈もない」


 再度ケリスエ将軍の腰に手をまわし、顎をもう片方の手でとらえて口づけようとしたロメスだ。しかし、さすがにそれ以上は叶わなかった。


「その人に手を出すんじゃねえよっ」


 そう言って、二人の隙間を狙って足を入れ、見事にロメスの腹だけを蹴り飛ばした男がいたからである。


「げぇっ」


 油断していたロメスは、見事に吹っ飛ばされた。


「大丈夫か? 買い出しに行ったと聞いて探してたら、市場で男に連れて行かれたと聞いて・・・」

「ええ、・・・私は大丈夫なんだけど」


 見事に吹っ飛ばされたロメスだったが、それは蹴られた衝撃を弱める為に、わざと反射的に自分でも地面を蹴っていたことも影響していた。そうでなければ、数メートルも跳ね飛ばされる筈がない。まともに受けたら失神するだろうと判断したのもある。

大きく後ろへと跳ねのきながらも、ロメスはその男へ反撃する為に、その姿を捉えようとした。

 かなり大柄な体だ。だが、その顔は・・・。髪を焦げ茶色に染めた程度で見間違えるわけもない。


(・・・・・・嘘だろ)


 その男は、先程までロメスが迫っていた女を愛しそうに抱きしめていた。だが、ロメスの記憶と認識が確かなら、その男がそんなことをする女はただ一人である。


「出掛ける時にはせめて誰かを連れてってくれ。こんな格好をしていたら、お前は無力に等しいだろう」

「こんなに汗を流して・・・。どんなに探し回っていたの。馬鹿ね。私ならどうにでも出来るのに」


 ロメスは痛む腹を抱えて、それでもすぐに、その場を転がった勢いのまま離れる。立ち上がれない自分の状況で相対したくない時はある。そう、戦略的撤退、ここはそれに尽きた。


「馬鹿でいいよ。だから、お前は一人で行動しないでくれ」

「まあ、それはともかく・・・。あなた、お友達を蹴り飛ばしちゃったけど、それでいいの?」

「あぁ? 誰が友達だよ」


 髪を焦げ茶色に染めただけのカロンと違い、日頃の色男が嘘のように髪を伸ばしてわざとボサボサにし、髭も生やしていたロメスである。カロンは彼がロメスだと気づいてはいなかった。

だが、カロンが振り向いたそこに、もう蹴り飛ばした筈の男の姿はない。あれだけの勢いで蹴ったのだから、半日は失神して転がっていると思っていたのだが。


「あっちも私が私って分かってなかったみたいだけど、・・・あれ、猫かぶりで有名なあなたのお友達だったのよ?」

「・・・・・・嘘。俺、本気で蹴っちまったぞ」

「そうね。かなり勢いよくやったわね」


 そして、その場を離れたロメスはロメスで、違う路地に蹲り、頭を抱えていたのである。


(て、ことは・・・。あれはまさか・・・・・・。俺ってばよりによって世界中の女が死に絶えてもと言い切った相手に対して・・・。死にてえ、今すぐあの記憶と共に死にてえ)


 しかも自分の言葉を、あちらは自分だと知っていた上で聞いていたのである。どんな間抜けだと思われていたか、察して余りある。更に他騎士団とはいえ、上官に対してやったそれは・・・・・・。

 ロメスは本気で落ち込んだ。


(そりゃ、俺、調子に乗ってたさ。だって、色々な奴らを焚きつけて人生最高って感じでノリノリにやってたんだぜ? 男も女も面白いように転がしてたんだ、誰だって調子に乗るよな)


 粗野な男を演じながら、それでも話術は得意なロメスである。ガラの悪い所に行く時はボサボサの頭で、少しなりを整えたい時には髪を撫でつけて髭の形だけ整える。それだけでも、かなり印象が変わった。

 普段の髪を短く整えて髭も剃っているロメスは若々しい好青年だが、髪の襟足も長めにして髭を整えれば、世間の荒波をくぐり抜けてきた落ち着いた男という印象が出てくる。どちらもボサボサにした時は、単なる破落戸(ごろつき)だ。

酒場や広場、教会などで隣り合った男女と、世間話として他国の様々な話をすれば食いついてくる人は多い。しかも特権階級ならば尚のこと、他国の話は気になる話題だ。

「自分の寛容さを見せつける為にも、どの国であれ、国王は最初の亡命貴族を手厚く保護するでしょうね。・・・とはいえ、次から次へと来るようになったら冷淡にもなるでしょうが」

などと、ロメスは真っ先に他国と通じることで生き残りを目指す考え方を囁いていた。

 娼婦を使うのもその内の一つだ。

「知ってるか? 民衆を守ってくれない王ならば王じゃない。かつて、そう言って、国ごと他国に身売りしたことがあったんだぜ。弱い王を掲げているよりも、強い王を国民が選んだんだ。・・・その時は、王族の姫を強国に嫁がせるという体裁を取ったがな」

と、高級とされる娼館に出向き、今度はそういった話を寝物語に聞かせる。娼婦は、自分に学があると思わせたくて、ロメスから聞いた話を、さも自分が考えているかのように貴族の客に聞かせる。いつしか、娼館の待合室では、そういった話題が当然のようにされるようになっていた。

 猫をかぶらねばならぬ相手もおらず、ロメスはやりたい放題だった。カイと名乗っているカイエスも、ロムと名乗っているロムセルも、こうなったらロメスの管理に関しては諦めの境地に至っている。気分は放し飼いだ。

従って、ロメスはケリスエ将軍の存在など忘れていた。というよりも、ケリスエ将軍の覇気溢れる姿を思い出せば、どうせ力自慢の所にしか出入りしていないだろうと思ってもいたのだ。


(まさか、あんなかよわそうな美女に化けられるだなんて思わねえじゃねえか・・・)


 それでもその正体がアレだと思えば、エキゾチックな美女すら化け物にしか見えない。大体どうして自分は、格好が変わった程度で正体を見抜けなかったのか。

旅の踊り子と見て、甘い口説き文句で籠絡するつもりだった。そして行く先々でこちらの望む思想を吹きこんでもらう役割を担ってもらおうと考えていたのが、見事に水の泡だ。

 ロメスの自己嫌悪はかなりのものだった。






 教会の横に、それなりに身なりの整った男達が出入りする建物があった。王位争いが始まるまでは、その建物にも活気があったものだ。だが、王位争いが長引くにつれ、出入りしていた男達も生活に追われるようになったのだろう、やって来る回数が減り、やがてそこはどんどん寂れていった。


「それでも、まだ学ぼうとしてくれる人がいる。・・・それこそが救いです」


 その建物で教鞭をとるニコライは、そう言って微笑んだ。目の前には、それでも学ぼうとして通ってくる貴族の子弟達、そして他国からやってきたというセイムと名乗る男がいた。

 厳密に言えば、セイムはジレームに住む学生ではない。だが、ラファイのジレームを訪れ、そして祈りの為に教会にやってきたセイムは、そこに付随する学問施設に気づき、勉強好きらしく聴講だけでもできないかと頼んできたのだ。尚、セイムが差し出した受講料を見て、施設長はすぐに了承したという。


「セイム君も奇特ですね。何もわざわざ他国から今のラファイへやって来る必要もないでしょうに」

「実は、生き別れの母がまだラファイで生きているという話を聞きまして・・・。それでせめて辛い暮らしをしているようならば引き取ろうと思って参ったのです。と言っても、幼かった時に別れた私では母がどんな姿かも分からず、・・・かつて我が家で働いてくれていた爺や達に、捜してもらっている有り様ですが」


 それに、母が幸せに生きているようならば、あえて名乗りはせずにそのまま身を引くつもりなのですと、セイムは小さく笑った。聞いていた他の学生達も、そんな母を思うセイムの気持ちに同情せずにはいられない。

 セイムは、ファルラシアというかなり遠い北にある国から来たのだと言った。ほとんどの学生にとって聞いたこともない国名だが、それも当然のこと、その北にある国からこのラファイ王国に辿り着くまで、間には幾つもの国があるという。


「そんな遠い所から・・・。いくら産みの母とはいえ、よくぞ捜そうと思われたものですね」

「ある時、九死に一生を得ることがありまして・・・。あの時に死ななかったのが不思議なぐらいなのですが、一度は死を覚悟してしまうと、・・・どうしても、一目なりとも母に会いたかったのです」


 セイムは切なそうに目を伏せた。どんな理由でその母とこんなにも遠く別れることになったかは語らないセイムだったが、誰しも色々と事情があったのであろうことは、推測できる。

 旅の途中に見聞きしたというセイムの話は誰にとっても興味深く、やがてほとんどの講師や学生も、セイムを中心にして、色々な話をしてもらうことが日課のようになっていた。


「私の父、ですか? こんな貴族様の多い場所では恥ずかしい限りで、何程のものもない出身ですよ。ただの商売人です」


それでも、セイムは本人が謙遜して言うような小さな商売人などではなく、恵まれた商家の出だろうと、誰もが察していた。そうでなければ、特例として聴講を許される筈もない。金のない人間が、こういった場所で学ぶことなど出来ないのだから。

図々しく聞き出した学生により、セイムは父親と正妻との間ではなく、妾との間に産まれた子なのだと、すぐに皆には伝わった。しかし、商家といえども、縁戚に末端貴族との繋がりもあるからなのだろう、セイムの仕草にはそれなりに洗練されたものがあった。

本来、妾腹の商家の息子となれば、こういう貴族の子弟が通うような学問所では弾かれやすい。なのに、明日が見えないまま鬱屈していたジレームの中に吹き込んできた新風の如きセイムは、瞬く間に皆の心を掴んでいた。


「愛国心と言うほどではないが、やはり故郷こそ自分のルーツだとは思うね。特に北の国とは、雌伏の精神が強いものなんだ」


最初こそ丁寧に話していたが、やがてセイムも砕けた口調へと変わっていった。貴族相手にも萎縮することなく話すセイムの語り口は、まだ見ぬ国への憧れを掻き立てる。


「雌伏とは何かって? たとえば、国や主君を卑怯な手段で奪われたりした時、誰もがすぐに復讐できる力があるわけじゃないだろ? そういう時は、自分達の力がつくまでは大人しく従っておき、やがて自分達の力が相手を凌ぐようになったら、一気に復讐することさ」

「それは卑怯って言わないか?」


聞いていた学生の一人が、そこで声をあげる。今まで従順にしておきながら、ある日いきなり復讐されたのでは、そちらもびっくりするしかないではないか。騙し討ちなど卑劣な行動だ。


「そりゃね。だけど犬死にしたってしょうがないじゃないか。最初に不当な手段で奪われたものなら、どうして自分が奪い返してはいけないんだ? そこで一緒に殉死したって、誰も救われないだろうが。自分の気が済むだけさ。だけど、仮に一時は仇に仕えることになろうとも、いずれ物事をあるべき姿に戻せたなら、それこそ国の、そして祖先から続く伝統と誇りを取り戻せるってことだろ?」


誰もが感覚の違いを実感して押し黙ってしまった。けれども、あまりにも堂々と言われるものだから、そういう考え方ももっともだなと、そう思ったりもする。

 セイムは、少し面白そうな光をその空色の瞳に湛えて尋ねた。


「ならば問うが、仮の話として君の父親がラファイの重鎮だとしよう。ある日、他国、・・・そうだな、それこそ隣国のポリンガルが攻めてきて、君の父親を含めたラファイの貴族達が討ち取られてしまう。君が剣を取って戦おうにも、既に城は落ちている。君は残された母親と妹達を、生き延びて守ってやらねばならない。その為にはポリンガルに頭を下げて忠誠を誓わねばならない。・・・まず、そういうことが仮にあったとしよう。そして時が流れ、やがて君や君の友人達もかつての父親のように経験を積み、力を持つようになった。翻って、ポリンガルは落日の勢いとする。・・・さて、君や君の友人達は、一度忠誠を誓った相手だからといって、そのポリンガルに使い捨てられてでも忠誠を持ち続けるのか? それとも父や叔父といった身内を殺したポリンガルに対して反旗を翻すのか? ・・・君にとっては、仇であるポリンガルにどこまでも尻尾を振り続けるのが、当然なのかな? ・・・他国の人間である私にも分かるように教えてほしいのだが、そんな時、ラファイの騎士道とは、どうあるべきなんだ?」


 やがて、学生の一人が口を開く。


「そもそも、その場合にポリンガルに忠誠を誓うことがあり得ない。その時は、せめて生き残った家族を連れて他の領地に落ち延びるまでだ」

「・・・どこに行くんだ? 今まで貴族の奥方、姫君として(かしず)かれていたご婦人が、旅など耐えられるとでも? 領地へ戻っても、王城が落ちたなら、そこにはすぐに新しいポリンガル人が領主となってやってくるんだぞ。どこへ逃げ延びて、その生活費用を捻出する? それとも市井の人間に混じって生きるか? 今までペンと剣しか持ったことのない手に、(くわ)(おの)を持つか? 今まで畑を耕したこともなければ、(きこり)をしたこともないのに。・・・それぐらいなら、一時の恥ずかしさに耐えてでも、ポリンガルに忠誠を誓った方がまだ貴族らしい体面を保てるだろう」


 セイムはかなり辛辣な男だった。フッと、皮肉な笑いを浮かべて、他の学生が口を開く。


「まるでセイムはポリンガル人のようだな。それこそ、ポリンガルから送り込まれた間諜かと思うぐらいだ」

「冗談やめてほしいね。俺はいつでも自分に問うようにしているだけだ。・・・自分が何を守りたいのかを」


 セイムは両肩を竦めてみせたが、それはまるでその場にいる学生達に、「お前達にはそんな覚悟もあるまい」と、言っているかのようでもあった。そんな二人の険悪そうな空気を和らげようと、違う学生が、少し明るい声で尋ねる。


「なら、セイムがジレームの人間ならポリンガル人に頭を下げるのかい?」

「いや、・・・俺がもしもジレームの人間ならば」


 セイムは、そう言って少し考え込んだ。


「俺なら、自分の国のことは自分達で決めたいと思う。だから、・・・きっと攻め込まれる前に王を無理にでも立てたいと思うよ。それこそ自分が頭を下げるに相応しいと思えるラファイの人間を主としたい。自分が誇れる素晴らしいラファイ人が国王なんて最高じゃないか。・・・ラファイの民が他国に対して自慢できる王様を立てて、そして一丸となれてこそ、国を愛してるって高らかに言えるのだと思うよ」


 さすがに、それには皆も驚かざるを得ない。他国の人間でありながら、まるでセイムがラファイを愛しているかのような言葉を連ねてきたからだ。

 先程、皮肉な笑いを浮かべていた学生が、鼻白んだように吐き捨てた。


「まるで、セイムはラファイを愛しているかのようだな」

「・・・嫌いじゃないさ。母が暮らしている国だ」

「ファルラシアって国の人間なんだろ?」

「そうさ。だけど、他国を愛しちゃいけない理由はないよ」

「じゃあ、どうして最初はポリンガルに頭を下げるべきだって言ったのさ」

「そういうのを見てきたからだよ。・・・ラファイ王国は他国に今まで踏みにじられていない日々が続いているが、よその国はそうじゃない。・・・意地を張って、無駄死にしてきた人達はいつだってどこにだっていたよ。商売で他国に行けば、残された家族の嘆く声はそこかしこに溢れていた。だから・・・、出来ることならば、自分が知り合った人達には長生きしてもらいたいって思うもんだろ?」


 王位争いこそ続いていても、ここ百数十年は他国に侵略されたことのないラファイ王国である。聞いている皆にも実感は乏しい。だが、セイムの言葉はまるで戦を知っているかのように、不思議な説得力があった。

 誰もが、口を閉じて考えずにはいられなかった。彼らこそまさにラファイ王国貴族の子弟だからだ。

 自分達には詳しい話など聞かせてもらえなくても、邸では常に父や来客が険しい顔をして話し込んでいる。それこそ、ポリンガルと手を結ぶか、それとも新しい王の候補を立てるか、と。

 他国からやって来たばかりだからこそ言える、感じたままのセイムの意見を、誰もが胸の中で反芻して考え込まずにはいられなかった。




 セイムと名乗ってセイランドが学生生活を楽しんでいる時、部下であるスカルはテイトという偽名を使ってこっそり作家デビューをしていた。それはスカルの趣味なのだが、ロームでは正体がバレないわけがなく、書き溜めたままだったのだ。だが、ラファイなら問題はない。スカルは売れ行き上々なそれに、かなり満足している。誰にもバレないようにと、こっそり貸本屋へ出かけていくスカルだったが、小遣い稼ぎにもなって気分は上々だ。しかも、その騎士の在り方を描いた内容は、貴族と軍との乖離に一役買っていた。

 そして、まさか自分をモデルにした貸本が出回っているとは思いもしないテイトは、行商人に化けて、今日も売り込みをかけている。


「いかがですかぁ。よく効く傷薬ですよー」

「ああ、あなた。やっと見つけたわ。こないだ買っていた薬がとても効いたのよ。だからうちの主人にまた買ってきておいてくれないかと頼まれてね、捜してたの」

「これは毎度、奥さん」


 市場の小さな一画で傷薬だけを売るテイトは、愛想よく微笑んだ。ちなみになぜ傷薬だけかと言えば、セイランドの妻であるユリアナと違い、他の薬を扱うと、ぼろが出るからである。傷薬ならば間違いようがない、それだけだ。

 尚、それらの傷薬は全面的にユリアナの協力の元に作成されていた。


「本当によく効くわね、これ。驚いちゃったわ」

「元々、これは普通の傷薬というよりも、戦場の兵士さん達にも愛用していただいている薬ですからね。それこそ効き目が違んですよ」

「まあ、戦場で? 物騒なのね」

「いや、まあ・・・。こちらも商売ですからね。・・・奥さんにだから言いますがね、商売人の間じゃ、ジレームで大きな戦があるらしいと噂になってたんですよ。その前にちょっとこれを売りにきたらいいんじゃないかと思いましてね、それでジレームに立ち寄ったんです」

「まあ、戦? またどこかであるの?」


 嫌そうな顔になった彼女に、テイトは周囲を見渡してから囁いた。


「よそじゃかなり噂ですよ。今度はジレームだって。・・・何でもラファイの貴族が、よその国と通じてラファイを売りとばす算段をつけたらしいんですよ。そうなると今度はジレームが攻められる。・・・奥さん、あなたも何かあったらすぐに家に閉じこもれるよう、日頃から気をつけておいた方がいい。いくら何でも、俺達みたいな平民にまで剣は向けない筈だ。・・・内緒ですよ?」

「・・・・・・分かったわ、誰にも言わない。ありがとうね、お兄さん」

「たとえ人の女房でも、美人は世界の宝ですからね。奥さんにだけ、ですよ」

「んまっ。もうっ、うまいんだからぁ」


 周囲を警戒して小さな声になるテイトの様子に、照れ隠しでパシパシと肩を叩きながらも、これはかなり信頼できる情報なのだろうと判断した彼女は足早に帰宅し、そして夫にそれを伝えたのだった。


「あんた、大変よ。よそでは、もう、ラファイの貴族がよその国と通じてるって噂があるんですって。もう、次にはジレームが攻められるって話らしいの。・・・家に閉じこもっていれば、私達のような平民には剣は向けないだろうって話だったけど」

「・・・何だと? そんなわけあるか。軍なんてのはなぁ、平民だからこそ遠慮なく殺して物を奪い取るんだ。攻めてくるとなったら、それこそ違う土地に逃げないとヤバイだろうが。・・・何てこったい」

「あんた・・・。どうしよう」

「いや、まだ、そんな噂なら、すぐじゃあないんだろう。だが、・・・何で俺達の国を、よその国に取られにゃならねえんだ」


 ジレームの民にしても、王位争いには文句を言いつつ、今までの戦いはジレームの外で行われていたことから、まだ誰もが安心していたのだ。どれ程にラファイ王国が揺れていても、ジレームにいる限りは安全だと。

 けれどもそうではないのではないかと、次はジレームではないのかと、そう囁く声は、誰の心にも深く入り込んでいった。




 そして金のない若者達が集まるカフェがあった。カフェといっても、酒も出すし、料理も出す。ただし、ほとんど金のない若者向けとあって給仕する人間もいなければ、料理人というほどの人間もいない。

耳の遠い年寄りが前払いで酒や飲み物を出し、料理を手渡すタイプの店だ。テーブルや椅子すら、使う人間が拭いて片付けていけという感じの、そんな小汚い店だった。

 それでも、集まる場所を探している若者達にしてみれば、スペースさえあれば文句はない。ガタついた椅子に、脚の取れかけたテーブルだったが、そこで安くて不味い料理や酒を口にしながら、彼らは様々な不満を語り合っていた。


「この国を愛する者こそが、この国を背負うべきだ」

「そうだ、もう我々から金と命を吸い取るだけの国王は必要ない」

「俺達から搾り取った金はどこへ行ったっ? 宝石や、雲の上のお方の豪勢な食事に変わっただけさ。俺達は残飯をあさってるってのにな」

「国王になりゃ余程の暮らしができるんだろうよ。・・・だが、どうして俺達が飢えなきゃならない?」

「俺達の国は俺達のものだ」


 だが、そんな集まりは、やはり取り締まりの対象でもある。ましてや、そういった若い者が集まることが出来る場所は限られていた。


「お前らぁっ、また性懲りもなくっ」

「やべえっ、取り締まりだっ! ・・・逃げろっ!」


 大きく扉を開ける音と共に、不満分子を取り締まる兵士達がなだれこんでくる。ガッシャーンと、皿が割れ、椅子やテーブルがガタガタッ、ドスンッと、兵士達に投げつけられては大きな音を立てた。

 裏口や窓から逃げ出す若者も多いが、やはり外で控えていた兵士達に捕まったり、運よく逃げることができたりもする。


「待てぇっ。・・・そっちだっ、捕まえろっ!」

「逃がすかっ、この若僧共がぁっ」

「放せぇっ、放せったらっ。この貴族の犬野郎がぁっ!」


 兵士達が店に踏み込む度、彼らの何人かは捕まる。だが、捕まえられたと言っても、無料の飯を与えてまで牢に置いておいても、予算の無駄だ。その上、そんな不満はあちこちにある。

 数日、牢で臭い飯と、光も差さないじめじめした空間に耐えさせられ、そして少々の痛い目をみせられてから解放されるのが、彼らの常だった。

 だが。

 そんな自分達の不満を語り合うだけだった彼らに、最近になって希望の光が差し込んだ。

 その名をキーンと言う。

 キーンは、自分はとある貴族が召し使いに手をつけて産ませた子なのだと言った。母親は、そんなキーンを産んだ後、亡くなったとも。


「いやあ、ほら、息子と言ってもさ、旦那様と奥方様とお坊ちゃまがいる以上、俺なんて召し使いの息子でしかないだろ? だが、召し使いとして働こうにも、旦那様の血も俺には入ってるわけでさ、他の使用人だってそんな相手を顎で使いにくいよな。だから俺は、部屋から出ず、誰の目にも留まらず、そうやって息をひそめて生きていけって言われてたんだよ」


 キーンは、そんな自分の生活をあっけらかんと語った。・・・かなり気の毒な話だと思うのだが、キーンはあまり悲壮感に浸るタイプではないらしい。


「だけど旦那様が亡くなっちゃってね、で、奥方様の産んだお坊ちゃまがきちんと家を継いだもんだから、俺は用済みというか、もう養ってやる義理はないって、そのまま追い出されたんだ。ま、腹違いの弟なんて、目障りなだけだっただろうし、しょうがないよな。ハハハ」


 さすがに、そういった事情なので、その実家は明かせないとも、キーンは言った。


「怪しいな。そんなこと言って、本当はただの平民じゃないのかよ」

「そう思うならそれでいいさ。俺にとっては、身分なんて意味がない。・・・俺は、母の息子だ」


 正々堂々と自分は召し使いの息子だと言ってのけたキーンに、鼻を明かしてやりたかっただけの男も己を恥じて口を噤まずにはいられなかった。

 そんなキーンだったが、やはり貴族の家で育ったせいか、平民とは違うところがあった。食べる時の所作にしても、かなり優雅だ。そして様々なことを学び、知っている。どうやら優秀な家庭教師がつけられていたらしい。


「歴史を知ることは大切だ。そこから、自分が生きる為の知恵を読み取れるのだから」


 そう言って、キーンはかつて様々な内乱に至った事例を彼らに語った。


「国に反旗(はんき)(ひるがえ)す時、大切なことは数で完全に勝利することだ。自分達が不満を訴えても、所詮は烏合(うごう)(しゅう)。鎮圧されて終わりだ。・・・ならばどうするか。全ての民衆を味方につけることだ。全ての民を相手に勝てる自国の軍は存在しない。なぜなら兵士も民衆だからだ」


 ただ、不満を高らかに言い募るだけで、その不満を解消する為に何をすればいいのか分かっていなかった彼らに、キーンは「どうすればいいか」を、鮮やかに示した。


「人々に触れ回ることが大事だ。街には様々な人がいるじゃないか。文字が読めない人もいるだろうが、読める人もいる。そして君達は語ることの出来る唇を持っている。決して無力なんかじゃない。まずは皆に知らしめよう、我らが正義を! 賛同者を増やせ。やがては兵士をも取り込むんだっ」

「おおっ」「我らが正義を!」「誇りをっ」「民衆万歳!」


 誰もが拳を振り上げてキーンに賛同する。その歓声で、カフェの空気が揺れる程だった。


(うーん、・・・癖になりそうだ)


 そんなキーンと名乗っているキヤンは、かなりノリノリだった。日頃、仕事をしない上司の尻を追いかけ、副官としてムカつきまくっている日々なのだが、こうして扇動者なんてものをやってみると、かなり気分がいい。後のことを考えずに動けるとは、なんて気持ちがいいものなのか。


「俺っ、版画が出来るぜ。以前、工房に弟子入りしたことがあるんだっ」

「よっしゃぁ。なら、分かりやすく絵でも示せよ。国王の座を狙う貴族達の間抜けなツラと、怒れる民衆の絵を描き、それを街角に貼りまくれ。文字が読めなくても、絵なら分かる。・・・皆の不満を高めろっ、俺達こそが明日のジレームを切り拓くんだっ!」


 尚、キヤンのカリスマ性は、その仕事をしない上司のモノマネでもある。偽名は本名と似ている方がいいからと、キーンと名乗りつつも、やはり誰かを率いるとなったら、あの上司の動作や仕草はかなり参考になった。

 離れてみて、クネライ第一部隊長の人を惹きつける懐の広さを、改めて実感する。・・・・・・今頃は、キヤンがいないことをいいことに、仕事をサボりまくっているだろうが。

 それでも、やはりあのサボリな上司に会いたいと、キヤンは思った。そしてどこまでも付き従っていきたいとも。

 

(部隊長。・・・不思議ですね、これだけ遠く離れて、だからこそあなたを身近に感じる)


 そう思いながら、キヤンは皆を見渡して力強く頷いた。皆の熱狂が大きく渦巻いていく。


「おおぉっ」

「やろうぜ、俺らが明日のジレームを背負うんだっ」

「ジレーム万歳!」

「ラファイの栄光を再び!」


 そんなことをしているのはキヤンだけではない。他にもあるカフェや酒場で、騎士団の人間は似たようなことをしていた。時に、「いい仲間がいるんだ」などと紹介され、お互いに初めて会ったフリなどもしたぐらいだ。


(これでいい。彼らは明日の為に戦うだろう。自分達の未来を信じて)


 年代を問わず、貴族の今のやり方に対する不満はやがて一気に高まる。そうしてある日、一気にそれらは噴出する筈だ。その為に、今は不満をどこまでも盛り上げておかねばならない。

 キヤンは自嘲の笑みを浮かべた。こうやって愛国を叫び、仲間として振る舞いながらも、それでも自分は白い毛皮をかぶった黒い羊だ。

だがそれは、見ていた人間には力強い明日を約束する微笑に映った。






 人の集まる所に、ロームの騎士団メンバーあり。

まさにそんな感じで、色々とジレームの人間を煽りまくっていた三騎士団の選抜メンバーだったが、そろそろ放っておいても大丈夫だろうという感じになった。

 その頃になると、バラバラに入り込んで好き勝手に動いていた筈が、かなり色々な場所で出会っていた。誰しも時間を無駄にせず、色々な所に顔を出していたというのもあったのだが、世間とは狭いものだ。


「そろそろ脱出した方がいい。あとはもう、時間の問題だ。何より・・・、恐らく二人の顔は知られ始めている」

「ま、頃合いだろうな。・・・今じゃ、取り締まる側の騎士や兵士すら、貴族への不満を明らかにしてやがる。貴族同士でも、誰が他国に通じてるのかと、疑心暗鬼に陥ってるときたもんだ」


 カロンの言葉に、ロメスも頷いた。しかし、セイランドはちょっと不満そうだ。


「あと少し、読んでおきたい書物があったんだが・・・」


三人は、川原でのんびりとカロンが持ってきた酒を飲んでいた。しっかりつまみも持参しているカロンとセイランドである。ちなみにロメスはご馳走になる側の人間だった。

周囲には枯れた草木がかなりあって、すぐそこの道からでも人がいるかどうかは分かりにくい。

尚、カロンが蹴り飛ばした件に関しては、ロメスはケリスエ将軍だと分からなかった自分に非があると、改めてケリスエ将軍に自分の無礼を謝罪した。その後、カロンに対しても

「俺が悪かった。俺だってあれがカレンとカロン殿なら同じことをしただろう」

と、ロメスから謝って終わらせようとした。

そういう点、ロメスはかなり潔く、そして男気のある人間である。あの場で済ませずに仕切り直したのは、身動きがとれない格好の悪さを披露したくなかっただけらしい。そういった美学も貫く男である。

だが、それではカロンの気が済まない。お互いに「自分が悪い」「いや、俺が」と譲り合った挙句、結局、ロームに帰ったら、カロンがイチオシの馬の手入れグッズをロメスにプレゼントするということで決着がついた。

 

「セイランド殿は、学生に混じってたんだな。・・・面白かったか?」

「まあな。カロン殿も参加してみればよかったのに。俺も商人の息子という触れ込みにしたんだ」

「いや、俺はさすがに無理だ。セイランド殿は貴族出身だから溶け込めたというのもあるだろう。どんなに身分を偽っても、自ずと発するものはある」


 そう言ってカロンは首を横に振った。

正直、もっと若い頃には、生粋のローム生まれで貴族出身という恵まれた立場のセイランドを羨ましく思ったこともないとは言わない。だが、今のカロンは、他でもない自分だからこそ手に入れられたものがあるのだと、そう思うようになっていた。

 だからだろう。自然な笑顔で、貴族には溶け込めない自分を認められる。


「けどよ、二人とも結構ちまちました感じじゃなかったか? 俺みたいにあちこち河岸(かし)を変えて、アレコレしていた方がよほど楽しかったと思うんだが・・・」

「いや。・・・俺は、ユリーに対して顔向けできないことはしたくないんで」

「俺も、あの人の傍にいられないなら、来た意味がないんで」

 

 何にしても、ロメスにとって今回の仕事はかなり適役だったらしいと、二人は思った。ロメスはかなりいい笑顔だ。・・・・・・部下であるカイエス達には気の毒なことをしたかもしれない。


「ただ、将軍がそろそろ脱出した方がいいと言っている。あの人が言う以上、無視は出来ん。うちの連中は数日前から順に帰還を始めている。俺達は最後で、明日、脱出する予定だ」


 カロンが言うと、セイランドとロメスも考え込む顔になる。


「あの方が言うなら、それは無視できんな」

「そうだな。・・・セイランド殿。俺達も明日には出た方がいいかもしれん」

「いや。・・・実は考えすぎかもしれないがと、うちの部下達も何やら不穏なものを感じていたらしいんだ。・・・悪いが今すぐ戻ってすぐに出発する。どうせ、もう荷造りは終えているんだ。宵闇に紛れて出れば、分かりにくいだろう」


 セイランドはそう言って立ち上がった。


「ではな。ロメス殿、カロン殿。ロームでまた会おう」

「ああ、またロームで」

と、ロメスが応えれば、

「ジレームから少し離れたここに、隠れ家を手配している。いざとなったらここに逃げ込め」

と、カロンが地図を手渡す。

 セイランドが立ち去った後、カロンとロメスは小さく笑った。


「ま、セイランド殿が今日出発してくれるなら安心か。どうせ俺の所も、あとは俺とカイエスだけだ。後の奴らはロムセルに任せて脱出させてるしな」

「そうか。ロメス殿が残ってたのも、彼を心配してたからだろ」

「そんなんじゃねえよ。・・・カロン殿なら心配してねえぜ? アレがついてるからな」


 そう否定してみせたものの、ロメスもカロンには隠せないなと思った。

 セイランドは、カロンやロメスに比べて荒っぽい仕事には慣れていない。カロンとロメスの、セイランドを残して脱出したくないという気持ちは共通のものだった。互いに助け合うからこその友人だ。


「明日、俺達は旅の行商人を装って出るが、・・・大体、ルートとしてはこうだな」


 カロンがロメスに地図を示しながら、それを伝える。ロメスは怪訝そうな顔になった。


「そんな所に道なんてないだろ?」

「いや、それがあるんだ。地元の人間もあまり知らない。せいぜい馬一頭しか通れない細いけもの道だ。だから、仮に追手がかけられても逃げ切れる。・・・普通の街道を行ってもいいが、もしも何かあったなら、ここにある草原から右に入るんだ。目印は、ここに一本立っている木に、黄色いボロボロの布を結んである。そして、ここの所には青い布だ」

「・・・なんで、セイランド殿には言わなかった?」

「セイランド殿にけもの道を通れというのは無理だろ。その代わり、渡した地図の隠れ家には、食料から何からを置いてあるし、うちの奴らが待機してる。まあ、俺達が明日行った時点で引き払うから、いるのは明日までだが。ま、今日の内にセイランド殿が出発するなら問題ない。それなりの手練れを待機させてある。その隠れ家が、ここだな。もしも食料が足りない時は、寄ればいい。馬も僅かだが余裕はある」

「へえ。本当にお前さん、面倒見いいな。大体、そんなものの為に家を用意して、馬や騎士も待機させてたのか。・・・かなり物入りだっただろ」

「あの人は、・・・そういうことには情報収集と手配の金を惜しまない人でな」


 カロンは少し苦い顔になった。

なるほどと、ロメスは思う。

 そう言えば、将軍という役職の割に、ケリスエ将軍が贅沢をしているのを見聞きしたことはない。常勝と言われるその裏では、その為の努力と金払いは惜しんでいなかったということなのか。金の使い方が違うのだ。


「ありがたくもらっとくよ。・・・ではな、カロン殿。ロームで会おう」

「ああ。幸運が共にあるように」


 そうして、カロンとロメスも別れた。

 セイランドやロメス、そして他の騎士団メンバーと違い、ケリスエ将軍はあくまでジレームを讃えるといった感じの行動しかしていない。その為、兵士達に目をつけられたりする筈がなく、それどころか、異国出身の歌い手でありながら感心なものだとも受けとめられていた。

 だからこそ、最後まで残ったというのもある。特に、扇動者として堂々と派手にやらかしていたメンバーにいたっては、郊外に出るまでカロンがこっそり護衛していたぐらいだ。

 そんなカロンである。やはりロメスが出発するのを見届けてから出るつもりだった。決して本人には言おうとも思わなかったが。


(明日、出発ね。・・・さて、どこで見届けるかな)


 カロンはそんなことを考えながら、最後の調理をしに酒場へ向かった。

 あくまで保険のつもりの行動とあって、さほど心配していなかったそれが、現実になるとも思わずに。

【フェルエストとシルフィーナ】


 セイランドの家は貴族である。従って、平民出身のユリアナにとって、夫の実家はかなり敷居が高かった。

邸の規模が違うのだ。今、セイランドとユリアナが暮らしている家など、セイランドの実家の(うまや)ぐらいの大きさなのだから。


(だけど・・・良い方なのよね。お義父様にしても、お義母様にしても)


 大事な息子の妻である。それこそ貴族令嬢との縁組を望んでいただろうに、そんなことをおくびにも出さず、リストリ伯爵と伯爵夫人はユリアナを息子の嫁として認めてくれていた。


(だから・・・、だから嫌ってるってわけじゃないのよぉーっ)


 息子ばかりのリストリ伯爵夫人は、義理ながらも娘が出来たことを喜び、たまには遊びに来てねと、優しい言葉をフェルエストやガーラントに言づけては誘ってくれる。

 だからといって、ちょくちょく訪ねていく勇気はあまりないユリアナだった。何といっても、リストリ伯爵邸は、取り次ぎの家令や召し使いもいる豪邸なのである。・・・・・・そんな中で、「若奥様」などと、(うやうや)しく呼ばれようものならば、息が止まる。

 だから、今の状態は仕方がないのだ。

 そう。セイランドとユリアナの小さな家に、その伯爵夫人が、まさに貴族の奥方らしき優雅な(たたず)まいでお茶を飲んでいるというのは。


「本当に申し訳ございません、お義母様。うちは使用人がいないので・・・。私の淹れたものでお口に合うといいのですが・・・」

「まあ、気にしないでちょうだい。とても美味しいわ、ユリアナ様。・・・だって、セイランドがそうしてるんでしょう? 使用人が雇えないならうちから出すって言ったのに、セイランドが嫌がったのよ。雇えるぐらいのお給料は出てるくせに、本当にひどい子よね。・・・だけどね、あなたが欲しいと言うのであれば、今からでも手配してよ」

「いえっ。この家は十分、私だけで維持できますからっ。・・・・・・あの、お義母様。できれば私のことはユリアナと呼んでいただければ・・・」

「まあ。ユリアナ様は使用人じゃないのよ。息子の大事な奥様なの。仮にフェルエストやガーラントが結婚しても、その相手を私が呼び捨てにすることはないわ」


 おっとりとしていながらも、リストリ伯爵夫人は平民出身のユリアナを息子の妻として尊重してくれる。なんてありがたいのだろうと、ユリアナは感動した。


「ですが、お義母様。フェルエスト様にも『ユリー』と呼んでいただいておりますし、ガーラント様にも『ユリアナ義姉さん』とか『ユリー』とかって呼んでもらってるんです。それこそ、お義母様なんですから、どうぞユリアナと呼んでください」


 人というのは、その言葉よりも言葉に込められた気持ちを読み取ってしまうことがある。少し頬を赤く染めて言うユリアナからは、姑に対して取り入ろうとする気持ではなく、あくまでリストリ伯爵夫人に対する敬意が伝わってきた。

貴族ではあり得ない、そのユリアナの飾り気のなさと素朴さに、リストリ伯爵夫人は、きゅんと胸が締めつけられる。


(なんって可愛いのっ。まじない師をしてたっていうのに、どうしてこんなに擦れてないのっ)


 しかし、内心の感情を人に見せないようにと、そこは叩きこまれて育ったリストリ伯爵夫人である。義理とはいえ、娘の可愛いセリフに悶えてるなどと、そんな感情は全く出さず、にっこりと微笑んだ。


「まあ。そう言えば、ユリーって男の子の名前なのに、セイランドも貴女(あなた)をそう呼んでたわね」

「ええ。これは、フェル義兄様、・・・いえ、フェルエスト様にもお話ししたんですけども」


 そう言って、ユリアナはセイランドと共に旅したことを義母にも語った。さすがに王妃様云々(うんぬん)は言えず、その辺りは全く触れずに、ただ、セイランドに頼まれて旅をしたのだと、そういうことにする。

王宮に勤め、様々な事情を腹の中に収めて生きているフェルエスト相手に話すのとは、わけが違うからだ。

だが、そこは何といっても貴族社会に生きるリストリ伯爵夫人である。その辺りの事情については見抜いた上で気づかぬフリをした。

そんな宮廷社会に明るいリストリ伯爵夫人ではあるが、そういった野宿をする旅などはしたことがない。


「まあ。そんな建物があるの?」「そんな衣装が? どんな感じ? 色合いは?」「まあ。そんな恐ろしいことが?」


 などと、興味深げに質問し、驚き、感動したりする。セイランドは、全く仕事のことなど話してくれないからだ。

 旅先でのセイランドの口調をユリアナが真似したり、セイランドはこういうことも出来るのだと、そう具体的にユリアナが取り上げるものだから、自分が知らない息子の一端を知るとは何て新鮮な気持ちになるものだろうかと、その話にはそんな楽しさがあった。


「まあ、お義母様。フェル義兄様も、全くおうちではお話しにならないのですか? フェル義兄様の王宮の仕事場はですね、・・・」


と、そうなるとユリアナも簡単に、フェルエストが王宮で使っている椅子のデザインや仕事ぶりを話す。


「まあ。フェルエストったら、帰ってきたら『疲れたから寝る』だけなのよ。そんな所で仮眠もとるのね」

「ええ。そんな時の為に、長椅子があるんです。密会用ではないんですよ? それでですね、お茶とかが欲しくなったら、女官に頼んでもいいんですけど、侍従が近くの部屋に控えていまして・・・」


 舞踏会とは違う、国の運営組織としての王宮を、ユリアナは自分が見聞きした程度で話した。


「あらまあ。あの子ったら、たとえ書類が床に落ちてても拾わない子なのに、仕事場だと違うのね」

「そうなんですか? かなりきっちりなさっておいでですよ」


 自分一人で大きくなったかのような顔をする息子達三人で、全くもって男の子なんてつまらないと思っていたリストリ伯爵夫人である。しかし、ユリアナが語る息子達三人の話は、生き生きと息子達が社会で必要とされている日々を伝えてきた。


「んまあっ。そんな目に遭ったの、フェルエストったら。・・・ぷふっ、普段あんなに澄ましてるくせにっ、・・・ほほほ、今度からかってしまおうかしら」


 笑い過ぎて、目尻に涙が滲んだぐらいである。けれども貴族の笑顔すら駆け引きであるそれとは違い、ユリアナの話は笑ったり泣いたりすら隠す必要がなく、それどころかもっと笑わせようと、ユリアナは次々に話してくる。


(いやーん、何て楽しいのかしら。・・・そうよ、ここに来たら、貴族っぽく振る舞う必要なんてないじゃないの。だって人の目がないんだからっ)


 どうして家の主であるセイランドだけでなく、フェルエストやガーラントまでもが時々ここを訪れているのか、理解した母であった。

しかも、あのぶっきらぼうに召し使いに命令するだけのガーラントが、ここに来たら一緒にハーブを刻んで食事を作ったりもするのだという。特に煮込み料理が得意なのだとか。調理など出来ないリストリ伯爵夫人だが、息子が料理を作るというのなら、一度はそれを見てみたくもある。


(何よ、それ。・・・私にこそ、まずはご馳走してくれてもいいのに。ガーラントったら、なんて子)


 お母様はプンプンとお怒りである。これは、一緒に参加しなくてはつまらないではないか。


「ね、人前では『ユリアナ様』だけど・・・、私も息子達のように、ここでは『ユリー』って呼んでもいいかしら?」

「勿論です、お義母様。・・・うふふ、もしもお義母様もお嫌いじゃなかったら、たまにはお忍びで一緒に市場にも行ってみましょうね」

「まあ、市場?」

「ええ。たまにガーラント様も一緒に行くんです」

 

 夫であるセイランドと一緒でないのはどうかと思うが、ユリアナは

「セイランド様はこの国を守る為に、頑張ってくださってます。そんなお疲れになって帰ってくるセイランド様に、家の中のことで煩わせたくないんです」

と、頬を染めて語った。

「それに・・・。実はガーラント様ったら、私と(さば)き方を張り合っていらして・・・。せめてセイランド様よりも上手くならねばって、今、特訓中なんです」

「・・・そう、なの」


 義理の姉と弟。それが夫の留守に一緒に何かしているというのは、淫靡(いんび)なイメージが漂うものなのだが、そこで詳しく鶏の捌き方と、それに対するガーラントの手際について話してくるユリアナに、そんなものは全く存在しなかった。

 別に禁断の愛などをされたいわけではなかったが、そこまで清々しく男女の関係がないというのも、拍子抜けがする。


(それこそ男同士の愛に生きてるのはセイランドではなくガーラントだったというオチなのかしら・・・)


お母様は、もやもやと複雑な気分である。ここは全力で聞かなかったことにしようと思うしかないではないか。

そんな姑と嫁とのティータイムは、つつがなく終了していった。




 さて、そんなリストリ伯爵夫人にも悩みはある。

 それは長男フェルエストの結婚である。次男であるセイランドが結婚したのに、長男がまだ独り身というのは、あまりよろしいことではない。


「ですが、母上。まだシルフィは子供です。もう少し育ってからでいいでしょう。親に甘えられる子供時代を奪うこともありますまい」


 そんな婚約者に対するフェルエストの姿勢は、婚約者の父親からだけ好評である。父親にとってみれば可愛い娘、いつまでも手元に置いておきたいものだからだ。しかし、婚約者の母親は、そう思ってはいなかった。


「夫はまだ手放さなくていいのだと喜んでますけど、・・・うちの娘ももう嫁いでもいい年頃だと思いますの。何より、本人がそう望んでいるんですもの」

「そうですわね。我が家としても、次代の伯爵夫人を早くお迎えしたいのですけれど、フェルエストは、あくまで急がないことがシルフィーナ姫の為だと思い込んでいますし・・・。どうも婚約期間が長かったせいか、大事に思い過ぎているようなんですの」

「それはありがたいのですけど、・・・ここは強引にしてほしいものですわ。こちらにシルフィーナを泊めていただいた時も、フェルエスト様ったら手を出さないどころか、寝かしつけに本まで読んでくださったとか」

「ええ。・・・こちらもフェルエストの続き部屋に姫の部屋を用意して、繋ぐドアも開けっ放しにしておきましたのよ?」

「ですわよね。・・・何の為の薄い夜着だったのかしら」


 女同士だからこそ、こういったことは早めにした方がいいと分かっている。そこでリストリ伯爵夫人は、ふと思いついて言った。

 

「そうそう、うちの次男はとある平民の女性と結婚したんですけれど、その女性はかなり親しみやすい方なんですの。そしてフェルエストとも義理の兄妹としてうまくやっているようですわ。・・・ね、この際ですから、シルフィーナ姫を、次男の家に遊びに行かせてみませんこと? 私達と違う視点から、この状況を打開してくれるかもしれませんわ」

「まあ。それもいいかもしれませんわね。ここは何でもやってみなくては」


 そんなわけで、リストリ伯爵夫人はユリアナに事情を説明した上で、セイランドの家にシルフィーナ姫を訪問させたのだった。






「お初にお目にかかります、シルフィーナでございます。どうぞよろしくお見知りおきくださいませ、ユリアナ様」

「ようこそおいでくださいました、シルフィーナ様。ユリアナでございます。さ、どうぞお入りになってくださいませ」


 ユリアナは目を真ん丸にして、シルフィーナを見つめた。

一方、あくまでそこは小さな家で、使用人もいないのだと聞いていたシルフィーナである。それこそそんな家に来るのは初めてとあって、通された部屋で興味深そうにあちこちを見渡していた。

そんなシルフィーナに椅子を勧め、ユリアナは微笑んだ。


「ふふっ、フェル義兄様の婚約者様が、こんなにも大きなお嬢さんだなんて、びっくりしました」

「・・・私、大きいかしら? どちらかというと、他の人よりも小さいらしいんだけど」

「ああ、そういう意味じゃありません」


 首を傾げるシルフィーナに、ユリアナは笑って否定した。


「フェル義兄様からは、婚約者の姫君については、よく聞いていたのですけど・・・。てっきりまだ子供なんだろうと思っていたんです。それこそ将来は美少女になりそうな幼いお嬢さんって感じで」

「フェル様は、いつもそうなんですの・・・。私だっていつまでも子供じゃないのに」


 シルフィーナは唇を尖らせて不満そうな口ぶりになった。フェルエストの話を聞いていたユリアナは、せいぜい十歳未満の子供を想像していたのだが、実物は十七歳の、まさに年頃の美少女だった。薄い色の金髪に黄緑っぽい緑の瞳をした、可愛らしい感じの令嬢である。

 ちょっと着せ替え人形にして遊びたくなってしまったユリアナだった。


(セイランド兄様も、昔はよく遊んでくださったけれど・・・。こういう方が好みでいらしたのね)


 ユリアナがシルフィーナを観察していたように、シルフィーナもユリアナを興味深く見ていた。

 母親や使用人の目がない上、ユリアナは貴族社会と無縁の存在である。

 しかも貴族社会の友人と違い、お互いにリストリ家の嫁、つまり義理の姉妹になるわけだから、プライバシーにかなり関わることを話しても足を引っ張られることはない。

 シルフィーナは、瞬く間にユリアナに心を許し、色々と相談し始めた。


「え? 寝台に忍び込んだんですかっ? シルフィさん、それはいくらフェル義兄様でも危ないですよ。襲われちゃいますよっ」

「ユリーさんもそう思うでしょっ? ・・・なのに、なのにっ、それが違ったのよっ。フェル様ったら、『しょうがないな』で、そのまま一緒に朝まで熟睡コースだったの。・・・みんなにっ、みんなに『これなら大丈夫』って太鼓判を押された夜着を着て、言われた通りにぴたってくっついてみたのにぃっ」

「こんな美少女を相手にしてそれ・・・。フェル義兄様、なんて凄い人なの・・・」

 

 ユリアナは、ハハハと乾いた笑いを浮かべるしか出来なかった。

 聞けば、シルフィーナはほとんど産まれた時から、フェルエストとの婚約が決まっていたのだという。両家が仲良かったことが一番の理由だろう。フェルエスト達兄弟も、そんな理由でシルフィーナが小さい頃から可愛がってくれており、まさに家族ぐるみのお付き合いだったとか。


「うーん。私が今までフェル義兄様から聞いた、シルフィさんに対する表現からして、かなりの愛があることは確かなんですけど・・・。どうもフェル義兄様はシルフィさんを十七歳ではなく、七歳の子供のように認識していらっしゃるのではないかと・・・」

「私に大人としての魅力がないってことなのぉっ? これでも頑張って、大人っぽい格好もしてみたのにぃっ。フェル兄様って呼んでたのもやめて、フェルエスト様って呼ぶようにもしてみたのにぃっ」


 バシバシと、クッションを叩いて、シルフィーナは素面(しらふ)のままで絡み酒である。お茶で酔えるとは凄いものだ。

 尚、呼び方が「フェル兄様」から「フェルエスト様」に変更された時、フェルエストはシルフィーナに向かって、

「そんな長い呼び方をしなくてもいいだろう。フェルで構わないぞ。シルフィは特別だからな」

と言ってくれたらしい。特別と言われ、それはそれで嬉しかったのだが、・・・・・・そう言って頭を撫でてこられたのだから、全くもってシルフィーナの意図は伝わっていない。


「うーん。そこは頭を撫でるんじゃなくて、せめてキスの一つも欲しいところですね・・・」

「でしょうっ!?」


 ふるふると口惜しがるシルフィーナは、まさに涙で潤んだ目も可愛らしい。大人っぽい格好をしなくても、年相応の格好で十分魅力的だろう。

 とっくに、「ユリーさん」「シルフィさん」と言いあうようになっていた二人は、互いに問題点を突き詰めるようにして話し合った。


「思うに、それこそ産まれた時から見ていたとなると、フェル義兄様には父親のような感覚があるんだと思います。となると、ここはシルフィさんを、一人の女性として見ていただかなくてはなりませんね」

「そう言えば、うちのお父様も、私のことをいつまでも子ども扱いするのよね。・・・何なのかしら、あれ」

「・・・父親にとって娘というのは、たとえ年頃になろうが、結婚しようが、永遠に小さな娘のままなんですよ、きっと」


 それこそ父親感覚の男が、いかに娘のような存在に対してそういった恋愛感情を持ってくれないものか、ユリアナはよく知っている。どんなことが無駄だったか、それこそ失敗例なら数多く把握もしている。・・・今では、それすらも微笑ましい気持ちで思い出せるけれども。

 それでも、・・・初恋だったのだ。あれはユリアナにとっての。


「だけど素敵ですね、シルフィさんは。一人の男性に対して、父親と娘、兄と妹、そして恋人、やがては夫と妻って、様々な関係を築けてしまうんですから。とってもお買い得です。普通は、一組の男女でそんなにも色々な時代を楽しめることなんてないんですよ?」

「・・・・・・恋人、ね。なれるのかしら、本当に」

「なれますとも。だって、シルフィさんはこんなに可愛いんですから」


 そういうわけで、ここは一般家庭の生活体験をしてみるという名目で、シルフィーナはセイランドの家でしばらく暮らすことにした。そして二人は、「フェルエストに女性として見てもらおう計画」を発動させたのである。






 最近、フェルエストはリストリ家ではなく、仕事が終わるとセイランドの家に戻る。というのも、婚約者であるシルフィーナがそこにいるからだ。

 事の起こりは数日前。

 セイランドがフェルエストの所に来て、「シルフィがうちにしばらく泊まるそうですよ。何でも一般家庭の生活を体験したいらしいんです」と、言ったことにある。


「やはり俺とユリーの家で、シルフィだけじゃ可哀想でしょう。兄上も遠慮せず泊まっていってくださって結構ですよ」


セイランドにそんなことを言われるまでもない。シルフィーナは生粋の貴族令嬢だ。世話をするメイドや侍女もなしに、生活できる筈がないと、慌ててフェルエストはセイランドの家に駆けつけた。

 が、そこで見たのは、こぼれんばかりの笑顔で、ユリアナと一緒に楽しそうに庭でハーブを摘んでいるシルフィーナの姿だった。


「あ、フェル義兄様、セイランド様。お帰りなさいませ。今日はシルフィさんの作るスープですよ」

「お帰りなさいませ、フェル様、セイランド兄様」


 ユリアナとシルフィーナが、揃って振り返る。それは仲の良い友達同士にも見えた。

そんなシルフィーナに、苦々しそうな顔でフェルエストは腕を掴む。


「シルフィ。お前が人に世話してもらうことなしに生活出来るわけがないだろう。・・・我が儘を言ってユリーに迷惑をかけるんじゃない。さ、帰るぞ」

「い・や・で・す。セイランド兄様もユリーさんもいいって言ったもの」

「心配しすぎですよ、フェル義兄様。誰だって『初めてすること』はあります。そうやって練習していけば出来るようになるものですし、今日だって一緒に買いに行ったシルフィさんが可愛いからって、お肉も安くしてもらえたんですよ」


 連れ帰ろうとするフェルエストに対して、シルフィーナがツンとそっぽを向いたなら、ユリアナは爆弾を落とす。


「へえ。シルフィも肉を買い出しになんて行ったのか。そりゃ面白かっただろう?」

「ええ、セイランド兄様。とっても新鮮で楽しかったわ。お肉ってあんな感じで売られてるのね。あのね、こーんな形の野菜もね、そこで味見していきなさいって、齧らせてもらったのよ」


 フェルエストと一緒に帰宅したセイランドがシルフィに話しかけると、にこにことシルフィーナも空中に手でその様子を描く。


「ちょっと待て。シルフィが買い物・・・? 冗談じゃない、それこそ悪い男に目をつけられて路地に引っ張り込まれてしまうだろうがっ。俺は許さんぞっ。シルフィ、二度と行っちゃいかんからなっ」


 大体、可愛いからって肉を安くしてくれた? 冗談ではない。セイランドも何が面白かっただろう、だ。そこは見知らぬ男に笑顔を向けるなと、注意すべきところだろう。

 フェルエストは、一気に頭に血を上らせた。


「・・・横暴よ、それ。大体、路地に引っ張り込まれるって、何がどうなるというの?」

「決まってるだろうっ。お前みたいな可愛い娘がいたら、誰だって口説いて・・・」


 フェルエストは、ゴホンと、そこで咳払いをした。


「ともかく、世の中には悪い男も多いんだ。ついでに誘惑しようとする男もな。絶対に許さないからな、シルフィ」

「何を言ってるのかしら、フェル様ったら。いつもいつも私にはまだ絵本とお人形がお似合いって言うくせに、何が誘惑よ。・・・さ、おうちに入りましょう、ユリーさん。これをどうすればいいの?」


 プンと顔を横に背けて、シルフィーナは全く聞く耳を持たない。


「じゃあ、それを刻んでスープに入れましょうね。・・・フェル義兄様も、セイランド様も、どうぞ夕食が出来上がるまで、座ってお待ちになっててくださいな。さ、家に入りましょう」


 日頃、子ども扱いしていることを逆手に取られ、フェルエストはフルフルと怒りに震えた。何という可愛くないことを言い出したのか、このシルフィーナは。


「ま、心配なら兄上がシルフィの世話をしてやればいいだろう? 別に客室はあるんだし、兄上の着替えも置いてあるんだからいいじゃないか」


 どうでもいいとばかりに、セイランドが欠伸しながらそう言った。フェルエストが睨んでも、気づかぬフリだ。

 尚、シルフィーナの作ったスープは、ユリアナの手伝いが良かったのか、初めて作った割には悪くない味だった。




 いつもフェルエストやガーラントが来た時に使っている客室は、ベッドが二つ入っている。

婚約者だから同じ部屋でいいでしょうと、そこに通されたフェルエストとシルフィーナだったが、フェルエストにしてみれば、(俺にメイドの真似事をしろってか?)と、いささか投げやりな気分になっていた。


「フェル様。後ろ、外して?」

「だから言っただろう。メイドも無しに着替えが出来る貴族令嬢なんていないんだ。・・・ほらな、やっぱり邸の方がいいだろ?」


 着替えようとして、服を脱ごうにも背中に手が届かなかったシルフィーナだ。勝ち誇ったようにフェルエストに言われ、そこでムッとした顔になる。


「いいわよ。じゃあ、ユリーさんにしてもらってくるから」

「・・・! やめんかっ、ユリーはもうセイランドと一緒に休んでいるだろうがっ。夫婦の寝室に行くもんじゃないっ」

「どうして?」


 夜、夫婦の寝室を訪れるものではない。だが、そういった性教育を受けていないシルフィーナはきょとんとしている。フェルエストは赤くなって斜め下に目をやった。


「いや、だから・・・。いい、俺がそれは外してやるから」 

「最初からそう言ってるのに。変なフェル様」


 そこで説明すれば良かったのかもしれないが、子供にそんなことを教えていいわけがない。

 そう不本意な気持ちでシルフィーナの背中に近づけば、後ろに垂らされた髪が邪魔で、それを簡単にまとめて前に垂らせば白いうなじが目に入った。

そのまま背中で結ばれているリボンを解いて、脱ぎやすいようにしてやりながら、フェルエストはシルフィーナに注意した。


「いいか、シルフィ? こんなことは男にやらせるな。あくまでメイドにやらせるんだぞ?」

「・・・別に、ここにメイドがいないから、フェル様に頼んだだけよ?」


 それはそうである。だが、そういうことを言いたいわけじゃない。あんなにも無防備にうなじを見せるなと言いたいのだ。・・・どう言えば伝わるのだろう。


(返す返すも、我が家に妹がいなかったことが悔やまれる・・・。どう言えばいいのか分からん)


首を傾げたシルフィーナは、そのまま服を落として夜着に着替える。もっと恥じらいをもってもらいたいものだと、フェルエストは天を仰いだ。だが、そういった恥じらいを知らない辺りがまだまだ子供なのだろう。

 勿論、さりげなく視線を逸らせて見ないようにしていたフェルエストである。


(体は大人になっても、まだまだ子供か・・・)


 けれども、そんなところに安心もするのだ。

 夜着に着替えたシルフィーナがフェルエストに抱きついてくる。

 頼むからやめてほしい。体の形がよく伝わってくるのだ。どんな思いを自分がしていると、・・・うん、分かってないだろう、この娘は。


「ね、フェル様。寝る前にお話しして?」

「・・・せめてそっちの寝台に入りなさい。どうして俺の寝台に来るんだ」

「い・や。だって、話し声がうるさいと、ユリーさん達にも迷惑だと思うの」

「・・・・・・いいか、シルフィ。明日にはちゃんと邸に帰るんだぞ?」

「えー。どうっしようっかなぁー」


 が、その晩だけではなく、その翌日も更にその翌日も、シルフィーナはセイランドの屋敷に泊まり続け、それにあわせてフェルエストもセイランドの家に泊まり込まざるを得なかった。そう、間違ってもシルフィーナがユリアナに迷惑をかけることのないように。

 義兄として、リストリ家の次期後継者として、フェルエストはかなり律儀だったのである。




 そんな日々が続く中、一番の被害者はフェルエストだっただろう。

その日は、セイランドと話し合うべきだと思ったフェルエストがリストリ家に誘い、三兄弟はフェルエストの部屋にいた。

テーブルに突っ伏して、フェルエストは(うめ)いた。


「悪魔だ・・・。あいつらは悪魔に違いない」

「兄上がシルフィを子ども扱いするからでしょうが。自業自得ですよ」

「全くですよ。フェルエスト兄さんがシルフィを子ども扱いし続けたツケを、今、払わされてるだけじゃないですか。婚約者が入浴の手伝いをさせてきたところで、普通は鼻の下も伸びて『あなたは女神ですか』状態でしょうよ。それを言うに事欠いて、何が悪魔ですか」


 しかし、弟であるセイランドとガーラントは冷たい反応だった。

尚、ガーラントは、フェルエストとセイランドが出勤している間に、ユリアナの所を訪れ、ユリアナとシルフィーナの話を聞いている。ガーラントは、さすがにユリアナ一人ならばともかく、シルフィーナという世間知らずな姫君を連れては大変だろうと、日中の買い物時などにおける護衛をしに行ったわけだが。

「本当に、そういうところがラント兄さんって出来た人だよね」

「買いかぶりだよ、ユリー」

 そんな風に仲良く話しながら、シルフィーナのアタック玉砕歴史を聞けば、長兄のデリカシーの無さと情けなさに呆れもするわけで、ガーラントとしては全くフェルエストの味方など出来ない。


「ガーラント。お前なあ、それが兄に向って言う言葉か」

「と言われましても・・・。大体、シルフィは十分に可愛く、大人の女性に育ったじゃないですか。胸だってしっかり膨らんでるし、お尻だってプリッとしてるし・・・」


 そこでガンッと、テーブルが大きく叩かれる。すかさず倒れそうになる酒の瓶を確保したのはセイランドだった。


「フェルエスト兄さんも、そうやってちょっと俺が挑発した程度で怒るぐらいに大切にしてるなら、それをシルフィに伝えてやればいいんですよ。お前は十分に綺麗だし、どこに出しても自慢の俺の恋人だって」

「そうだな。俺もガーラントの意見に賛成ですよ。・・・俺達は、シルフィは昔から兄上のものだと思ってたし、だからいずれは義姉になる可愛い娘だと思ってた。だから、この期に及んで変にジタバタしている兄上の方がおかしいとしか言いようがありませんね」

「セイランド兄さんの言う通りですね。俺達にとっては、所詮、いずれはフェルエスト兄さんのものになる娘でしかないんです。・・・それ以上でもそれ以下でもありません」


 弟二人にそう言われてしまうと、何も言えなくなるフェルエストである。

 

「お前達に俺の気持ちが分かってたまるか」

「分かりませんよ、そんなの。俺はちゃんと外堀も埋めてからユリーを手に入れましたしね」

「なるほど。そう言われてみれば、フェルエスト兄さんよりもセイランド兄さんの方が無駄なく勝ちを取りに行ける男ってことですね」


 かなりひどいガーラントの言葉に、フェルエストは撃沈した。




 その夜はフェルエストとセイランドから、「飲んでいて遅くなるから、夕食はいらない」と言われていた為、さっさと二人で夕食を済ませ、入浴もして夜着に着替えていたユリアナとシルフィーナだった。


「あら、お帰りなさいませ、フェル様」

「ああ。・・・シルフィ」


 かなり泥酔した状態で帰ってきたフェルエストは、そのまま寝台に倒れ込んだ。


「大丈夫?」

「ああ。・・・すまん、シルフィ。水をくれるか?」

「・・・・・・はい、どうぞ」


 カップに入れた水を差し出せば、上半身だけ起こしてフェルエストはその水を一気に流し込む。


「フェル様が酔っぱらってるの、初めて見たわ」


 フェルエストは、興味津々で顔を覗き込んでくるシルフィーナを抱き寄せた。そしてそのまま寝台に寝転がる。

 密着した姿勢のまま、二人はお互いに重なり合って心臓の鼓動を感じていた。


「なあ、シルフィ?」

「なあに? ・・・お酒くさいわよ、フェル様。どれだけお酒を飲んだの?」

「・・・俺はな、お前が産まれてから、四つ足状態でバタバタしては移動するというよりも転がるような姿も、そしてやっと立ち上がれるようになってすっ転ぶ姿も、そんなのも全部見てきたんだ」

「いつのことを話してるのよ、フェル様ったら。寝ぼけてるの?」

「アーとかウーとかしか言えなかったくせに、いつの間にかおしゃまな女の子になって、小さな手足を動かして駆けてくるようになって、・・・そんなのも、ずっと見てきたんだ」

「何それ。・・・それなら私だって、フェル様が今みたいに眉間にシワを寄せてない時代を知ってるんですからね」


 人の子供の頃の話を持ち出すなんて卑怯だ。シルフィーナはむぅっとふくれっ面になった。

 けれどもフェルエストはそんなシルフィーナの気持ちなどに頓着せず、あくまで語り続けた。


「これがお前の婚約者だと言われ、それからはその子がずっと大きくなっていく姿を見ていた。見る度に大きくなり可愛くなっていく、それが俺の喜びだった。あんなクソ可愛くない弟達と違い、・・・俺にとっては、お前だけが世界で一番大切な、俺だけのお姫様だったんだ」

「・・・それはちょっとひどいわ、フェル様。セイランド兄様も、ガーラント兄様も、可愛いかどうかは知らないけど、かっこいいわよ」


 そう異論は述べてみたものの、さすがに赤くなるシルフィーナだ。嫌われてるだなんてことは一度たりとも疑ったことはないが、改めて一番大切だと言われると、何だかドキドキする。


「・・・俺だって分かってる。お前がもう年頃になってるってのは。けど、シルフィ。お前だけは特別なんだ。そこらの女性のように、大人になった、だから手を出していい。・・・そんな風には思えない。なにより、お前が令嬢ではなく夫人になってしまえば・・・、貴族の奥方がどんなに爛れている生活をしていることか。あれに染まってしまうのかと、そう思えばいつまでもお前だけは令嬢のままで置いておきたかった」

(ただ)れてるって、何が?」


 貴族の奥方は、義務さえ果たせば愛人などを作り、恋愛遊戯にかまけるものと相場が決まっている。今はまだご令嬢とあって、そんなことを教えられてはいなくても、やがて貴族の奥方の仲間入りをし、サロンでそういったことを教わるようになり、・・・愛人を囲うことを覚えていくのだ。

 フェルエストは、そんな世間知らずだった乙女が、嫁いで変化していくのを数多く宮廷で見ていた。

 勿論、そうならない娘もいた。けれども、・・・絶対、などということはない。


「お前だけはずっと大切にしたかった。世界で誰よりも大事なお姫様だからこそ、ずっと子供でいてほしかったんだ」


 そう急いで大人になんてなるなよと、小さく囁くフェルエストに対し、ふんふんと、シルフィーナは頷いた。


「分かるわ。そしていつか、私をお嫁さんに出すのね。『辛かったらいつでも帰ってきていいんだぞ』とか言って」

「何でそうなるっ!」


 さすがに、その流れでそう言われるとは思わず、フェルエストは小さく怒鳴りつけた。しかし、シルフィーナは平然としたものである。大体、産まれた時から親しく育ったフェルエストだ。何があろうと自分を傷つけることはないと分かっている。


「あら。だって、お父様もいつも同じことを言ってるわよ?」

「俺はお前を嫁に出したいわけじゃない・・・」

「けど、うちのお父様と同じ気持ちなのよね?」

「・・・違う」


 やっぱり自分の気持ちは誰にも分かってもらえないのかと、フェルエストは片手で顔の上半分を覆った。どうしてどいつもこいつも無神経に生きているのだろう。


「なあ、シルフィ?」

「なあに? お父様と同じで、『一生、嫁に行かなくていいんだぞ』って言うの?」

「言うわけないだろ。・・・・・・お前のお父上の所に伺うよ。そして結婚式の日取りを決めよう。俺はお前の父親じゃない。お前を他の男になんて、絶対に譲りたくないんだ」


 フェルエストは、シルフィーナごと、上半身を起こした。自分の胸にもたれたまま赤くなっているシルフィーナはとても可愛い。


「誰よりも愛してる、シルフィ」


 そう言って口づけようとしたフェルエストだったが。


「えっ、やだ。キスしないでっ」


 しかし、シルフィーナの小さな手が、ぱしっとフェルエストの唇に当てられる。


「フェル様、お酒臭いからっ。初めての唇へのキスがそんなのってイヤ。・・・大体、酔っぱらって、結婚しようって言うの、ひどくない?」

「・・・・・・・・・」


 酔っぱらってでもいなければ告白できなかった男心など、乙女には理解できないものなのだ。


「分かった。それも仕切り直そう。・・・今日は大人しく寝ようか」


 それでも切り替えは早いフェルエストだ。立ち上がってシルフィーナをもう一つの寝台にころんと転がし、服を手早く脱ぐと濡らした手巾で体をさっと拭いて、夜着に着替えた。そうして再び寝台に横になる。

 すると、自分の寝台からのそのそと、シルフィーナがフェルエストの所へやってくる。


「で、どうしてお前は、自分の寝台じゃなく俺の寝台に入ってくるんだ。今日は酔ってるから、おとぎ話なんてできないぞ?」

「ホント、フェル様って馬鹿よね」


 シルフィーナは呆れた声になる。大体、分かりきったストーリーのおとぎ話を、自分が本当に聞きたがっていたとでも思っていたのだろうか。というか、誰もおとぎ話をしろだなんて言ってない。

 話なんて何でもいいのだ。それがフェルエストの声で、フェルエストが自分に語りかけてくれるものなら。


「誰が馬鹿だ・・・」


 かなり年下の婚約者に呆れた目で見られながら、(どうしてこんなに可愛いのに、性格と寝相だけは治しようがないんだろう)と、フェルエストは小さく溜め息をついた。




 次の日。

 シルフィーナは笑顔でユリアナに勝利宣言をした。


「うわぁ、やりましたねっ、シルフィさんっ。やっぱり入浴のお手伝いが効いたんでしょうかっ。それとも手料理かしらっ。それとも普段は見られない可愛い町娘って感じの格好っ? ・・・世界で一番大切なお姫様って、・・・とっても愛されてるじゃないですかっ」

「そう思うっ、そう思うっ!? やっぱり愛よね、愛っ。・・・えへっ、初めてのキスってどこがいいのかしらっ、ねっ、どこが素敵っ?」

「やっぱりお酒に酔ってってのはナシですよねっ。うん、駄目っ。やっぱりそういうことならロマンチックこそ必要ですよっ」


 きゃっきゃと手を握り合って、飛び跳ねている義理の姉妹。そんな二人の熱狂ぶりに、今日も今日とて手伝いにやってきたガーラントは、一度開けた扉を、・・・黙ってそっと閉めた。


(何、それ。キスする場所まで決めとかなきゃいけないのか? てか、そこまで言ったセリフも告白も、周囲にペラペラ話されてるって何? ・・・俺は無理、うん、耐えられない)


 シルフィーナの婚約者は兄で良かったと、ガーラントは胸を撫で下ろした。自分なら愛の言葉など二人だけの秘密にしたい。誰でも彼でも知ってるだなんて、嫌すぎる。


(うん、買い物は・・・。勝手に買ってきて、玄関の中に入れこんでおけばいいだろう。あれじゃ一日中、話し続けていそうだ)


どうせ食材があれば、適当にユリアナは調理する。少なくとも一緒に店へと出掛けながら、長兄のラブストーリーなど聞かされたくはない。

そしてガーラントは、適当な肉や野菜を玄関の扉の内側に入れておくと、そのまま帰宅した。それ以上、ガールズトークを聞く勇気はなかった。




 後日。

 フェルエストはシルフィーナの父親に面会を申し入れた。そして、前もって娘から話を聞いて覚悟を決めていた父親と、結婚式の日取りを打ち合わせたのである。


「大体ねえ、俺はもっとシルフィを大事にしたかったんです。それを誰も彼もが、もう年頃なんだからとか言って、急かしてくるし。・・・だけどっ、こんな小さな時から見守ってきたんですよっ? 大きくなりました、さあ結婚しましょう、・・・そんな簡単な思いで手折(たお)れるもんじゃなかったんですっ」

「分かるっ、分かるぞっ、フェルエスト君。そこが女には分からんのだっ」


 意外なことに、花婿と一番話が合ってしまったのは、花嫁の父だった。

 二人は昼間っから酒の瓶を開け、いかに周囲がそんな男心を理解しないかを、ぶちぶちと言い続けた。


「大体、何なんですか、あいつらは。体さえ出来上がれば、もう女だとでも言うんですかっ。俺は、シルフィをほんっきで大事に大事に花開くまでそっとしておきたかったんです」

「そうだともっ。周囲に惑わされて無理に大人にならなくても、まだシルフィーナは子供なのだっ。それをあいつは妻のくせに、全くもって理解せんっ」

「お義父さんの言う通りですよっ。大体、少女時代をどうして早足で通り過ぎなきゃいけないんですかっ。そういった時代もゆっくりと、あるがままに一歩一歩踏みしめていけばいい。全てはそれからでいいじゃないですかっ」

「君ほど分かってる男はいないぞ、フェルエスト君っ」


 とはいうものの。

 所詮、結婚するとなったら張り切るのが、二人の母親である。そして母親同士がタッグを組んだら、もう男の出番などない。

 シルフィーナも交えて、どんなドレスにするか、招待客はどうするかと、一気に二つの伯爵邸は賑やかになった。尚、肝心の花婿の意見など、誰もきいてはくれない。二人の父親は置物扱いである。

 大体、今までも家族ぐるみのつきあいだったくせに、そう改めてアレコレすることがあるのだろうか。

 そんな男達の思いをよそに、女達はどこまでもエキサイトしていた。






「誰よりも君が大事だ、シルフィ。今までも、これからも」


 二人の結婚式は教会で行われた。白い花嫁衣装に身を包んだシルフィーナはまさに風の妖精のようで、フェルエストは、その眩しい美しさに目を細める。シルフィーナも、お揃いの白い花婿の衣装に身を包んだフェルエストに、頬を赤く染めた。

 誓いのキスをする前に、そんな言葉をフェルエストがシルフィーナにだけ聞こえるよう囁く。

それが、シルフィーナの初めてのキスだった。

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