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14 刃なきハインツの剣(ジルファスとカロリーナ)

○月×日

匿名X:最近、友人になった奴がいるんですが、・・・どうもうちの騎士団に探りを入れたいのか、酒を飲んでは色々と尋ねてきます。内容は、将軍の屋敷に関する警備についてです。ちなみに俺は第三です。そいつの思惑が分かりません。だけど、俺以外にも探りを入れられている奴がいるのではないかと思うと、第三の仲間の誰に相談していいのかも分かりません。第三部隊長と直属の上司は、将軍についてって留守です。誰か助けてください。


匿名A:すぐに第二部隊長の所へ来い。屋敷でも執務室でもどちらでも構わない。また、Xが来次第、このページは破りとる。見た者は沈黙を守ること。

匿名B:第二部隊長じゃなくても、第四部隊長でも構わないからな。X、お前は偉い。部隊長がいなけりゃ何もできない第三だなんて思ってくれたことを後悔させてやろうぜ。

匿名X:A、B、ありがとうございます。


 先頭に立つ夫、ジルファスの姿が見えなくなり、率いられていく軍勢の姿も城からは見えなくなった。常ならば門番が城門の両脇を守るのだが、カロリーナの気持ちに配慮したのだろう。そこには誰も寄ってこなかった。

 風が、カロリーナのほつれた淡い金髪を揺らし、乾いた涙が残る頬に小さな痛みをもたらす。

それでもカロリーナはそこに立ち尽くしていた。


「カロリーナ殿。あなたの願いは何ですか?」


 背後から、そんな言葉が聞こえた。女性にしては低めだが、男性の声ではない。

 侍女ならば、「部屋に帰りましょう」とか、「もう泣き止んでくださいませ」なのに、願いは何かなどと問われたのは初めてだ。

 カロリーナはのろのろと振り返った。そこには、自分とは全く違う女性が立っていた。


「将軍、様?」

「ええ、カロリーナ殿」


 どうしてこの人がここにいるのだろう。カロリーナは不思議に思った。

 今、自分に話しかけたのはこの人なのだろうか。

 そんなカロリーナの疑問に応えるかのように、ケリスエ将軍は小さく唇の端を上げた。


「カロリーナ殿。あなたの願いは何ですか? ご両親と兄君を殺したイアプト領主を、誰かに殺してもらいたい? もしくはジルファス殿にイアプト領主を殺してもらいたい? それとも、・・・あなたが殺したい?」


 いつもはカロリーナが一人で出歩くと侍女の誰かがついてくるのに、周囲には誰もいなかった。

 そう、目の前にいる、焦げ茶色のまっすぐな髪を風にたなびかせた女将軍以外には。


「わ、私は・・・」


 声が震えた。

私の願い、・・・私の願いは。

言いかけた言葉を、諦めたようにギュッと目を瞑って首を振り、カロリーナは飲み込んだ。

だって、無理なのだ。イアプトの領主は恐ろしい男だという。自分の家族を殺したばかりか、周辺の領主も全て討ち取ったとか。


「大丈夫ですよ。イアプト領主は強いかもしれませんが、我らはもっと強い。イアプト領主を殺してほしければ、あなたはそれを我らに頼めばいい。・・・ねえ、カロリーナ殿。もう、泣いても何も変わらない現実に、そろそろ飽きがきているのではありませんか?」

「・・・・・・・・・申し訳、ござい、ません」


 自分がずっと泣いている姿に呆れられてしまったのだろう。カロリーナは恥じ入り、唇を噛み締めて、新たに噴き出さんばかりになった涙を(こら)えた。


「違いますよ、カロリーナ殿。あなたの涙は綺麗です。見ていても心が洗い流されていくかのようだ。・・・だから、その流す涙と引き換えに願いを叶えて差し上げましょうかと、申し上げているのです」


 カロリーナは顔を上げた。

 この将軍は何を言いたいのだろう。願いを叶えてくれるだなんて、・・・それはどういうことなのか。

焦げ茶色の髪は、時に黒くも見える。そして黒い瞳が自分をまっすぐに射抜いている。

ゆっくりと、小麦色の腕が自分の方へと動くのが見えた。

 自分へと差し出された手は、全てを救う神の手か。それとも破滅へと向かわせる悪魔の手か。


「私の、願いを・・・? 本当に?」

「さて。実際に私が出来るかどうかは言ってもらわないと分かりませんが。それでも言うのはタダですよ、カロリーナ殿」


 惑わせるかのような言葉が自分だけに向けられている。この手を取るも取らぬもお前次第だと、それは伝えてきていた。

 その反応は意識したものではなかった。勝手に足が動いていた。


(悪魔、でもいい。だって、神様は、・・・救ってなんてくれなかった・・・!)


 カロリーナは差しのべられた手に向かって、よろよろと歩み寄る。そして自分の手を重ねた。

 将軍のそれは、自分よりも少し大きな手だった。それでもジルファスより小さい。

 笑顔も何も浮かべていないのに、不思議と怖くはない。

そう、思った。


「私、は、罪深い、ことを・・・・・・」

「そんな思いも、言うだけなら罪にはなりませんよ、カロリーナ殿」


 悪魔の囁きとは、こんなにも優しいものなのか。己の汚さを暴こうとしてくるそれは、その汚さすら何とも思っていないのだと伝えてくる。


「あの男を、私の手で・・・・・・。けど、出来ない。私では・・・」


 だって自分は弱い。林檎をナイフで割るのすら、皆に危なっかしいからと取り上げられるのだ。

 再び目を瞑り、カロリーナはかぶりを振った。出来ないことなど分かっているのだ。少し口にしただけでも、それが分かる。どんなに心の中で憎んでいても、刺繍用の針しか、この弱い手では動かせない。

 優しい家族、だった。貴族の家に生まれながら、それでも役に立たない自分に、「構わないからずっとこの城でいればいい」と、そう言ってくれる人達だった。

 知らない人と会うのを怖がる自分の為に、部屋でも楽しく過ごせるようにと、どこかに行けば綺麗な刺繍糸や布などを買ってきてくれた。時には小さな生き物も。

「辛いことがあれば帰ってきなさい。どこへ行こうともお前はハインツの姫だ」

 そう言ってキニーツ城へと送り出してくれた家族を、・・・・・・イアプトが踏みにじった。


「なるほど。それから?」

「ジルファス様を・・・、ジルファス様を、・・・お願いっ、助けてっ!」


 強いというのであれば、あの人を助けてほしい。決して殺されたくはない。

 ローム国騎士団といっても、まだ全部は到着していないと聞いた。そしてキニーツ軍は敗れる可能性が高いのだとも。

 くずおれそうになるカロリーナの体を、その甲冑を身につけた将軍が支えてくる。尽きたと思った涙が再びカロリーナの水色の瞳から溢れた。

 ジルファスがいなければ、もう自分には何も残されていない。家族を殺され、夫を奪われたならば、自分にどんな生きる価値があるというのか。


「ジルファス殿、ね。・・・カロリーナ殿。もし、ジルファス殿を助けることが出来るのはあなただけだと申し上げたらどうなりますか?」

「え?」


 間近で見下ろしてくる黒い瞳に、カロリーナの意識が吸い込まれそうになる。

 泣いてお願いするしか出来ない自分に、何が出来るというのだろう。

 しかし、そんなカロリーナの腰に左腕をまわした将軍は、再び問いかけてきた。


「前線に向かったジルファス殿を救う手段をあなただけが持っている。・・・そう申し上げたら、あなたはどうなさいますか? 恐ろしい前線へ向かい、ジルファス殿の為にその身を投げ出しますか? あくまでジルファス殿の勝利をこの城で待ちますか? どちらであっても、私は構いませんよ」


 戦場に女が向かうなど愚の骨頂だ。カロリーナとて、そんな常識ぐらい知っている。

 そもそも剣を持ったこともない女が戦場に行ったところで、何の役にも立たないどころか、足手まといになるばかりだ。そして、踏みにじられるだけ。

ジルファスを救えるだなんて、大嘘もいいところだ。

 そう、カロリーナは思った。

 思った、けれども。

 それでもあの人が死ぬのなら、・・・一緒に死にたい。


(最後までお傍に・・・。ジルファス様)


 頓珍漢(とんちんかん)な人なのだ。逃げ出した子犬を追いかけていたからと、頑丈な鎖を贈ってくれたりするような・・・。産まれたばかりの子犬にあれでは、身動きが取れなくなってしまうのに。

 いつも泣いているからといって、手巾を沢山くれたりする人だった。これでどれだけ泣いても大丈夫ですよと、胸を張って言われた時には、もう、クスクスと笑わずにはいられなかった。

 小さな花が好きだと言ったら、いきなり馬に乗せられて名もない花の群生地に連れて行かれたりもした。見渡す限り花ばかりでしょうと言われたけれども、馬に揺られて気持ち悪くなっていた自分に、花を楽しむ余裕はなかった。それに花なら一輪、ただ手渡してくれれば良かっただけなのに。

 初めて見た時には大きくて怖い人だったのに、あまりにも情けなくて、それでも優しくて、・・・だから一緒にいたいと願ってしまった。生まれ育ったハインツ城を出るのはとても怖かったけれど。

 だけど、どんなに怖い場所でも、・・・あの人と一緒にいられたらそれでいい。

 たとえ、それが戦場であろうとも。

 あの人が、それを望まなくても。


「ジルファス様の所に、・・・どうぞ、私を、お連れくださいませ」

「いいですよ」

「私が、本当に、ジルファス様を・・・?」

「ええ。お約束しましょう」


 どこに持っていたのか、将軍の手がカロリーナにふんわりとマントを着せ掛けてくる。

 

「覚えておいでなさい、カロリーナ殿。あなたの望みを叶えられるのはあなただけだと」






 キニーツ領とイアプト領を結ぶ街道の国境付近の開けた場所に、クネライ第一部隊長とジルファスは陣取った。


「まあ、大将っていうのはこういう場所って決まってますのでな。怖いですか、ジルファス殿?」

「緊張はしますが、キニーツの為に皆様が来てくださったのです。どうして私が怖じ気づくことができましょう。なるべくご迷惑をおかけしないよう心掛けます。どうぞよろしくお願いいたします、クネライ殿」

「いや、あなたの存在こそが揺さぶりになりますからな」


 そう言ってカラカラと笑うクネライとジルファス達よりも、イアプト寄りの街道筋にカロンが斬り込み隊として陣取る。


「無理しないでくださいよ、サフィヨール様」

「人を年寄り扱いすんなよ、カロン。まだまだお前にゃ負けねえぜ」

「リールス、ちゃんと叔父君を見張ってろよ。若い者には負けないとか言い出した時点で年なんだからな。サフィヨール様に無茶をさせるな。これでやるとなったらブチ切れて突っ込んでいくお人だ」

「分かりました、カロン様」

「あっ、てめえ、リールス。お前、どっちの味方だっ!?」

「正義と道理の味方です」


 同じく街道筋ながらも、崖が切り立った側、つまり敵が上がってきにくい側にカリスフ第三部隊長が率いるキニーツ領軍が陣取る。

しかし崖を上って来れないのは分かっている為、こちらは弓矢が基本である。また、自分達もそこを駆け下りることは困難だ。それでも戦い慣れしていない兵士達を使う以上、その方が損失も少ないと判断した。何よりも、陣取る兵士に厚みを持たせる必要は無い為、かなりの長さで展開することが出来る。


「カリスフ殿。言われた通り、枝を打ち落とし、先端を尖らせました」

「それでいい。戦う必要はない。それを上から落とすだけでも、彼らは勝手に傷ついていく。弓矢とそれで、村人達でも十分攻撃できるだろう。・・・ただし、第六部隊長の斬り込みが始まったら、それは停止させろ」

「はい」


 カリスフの部下達や、キニーツ領軍でも騎士といった者達にはその辺りを説明した上で散らばせてある。兵士として徴用された村人達も、枝打ちならば慣れたものだ。手際よく作業していた。

 人というのは見下ろされると恐怖を抱くものだ。剣を交えないという意味で戦力としてはかなり落ちる部隊なのに、それは威圧感を相手にもたらしていた。




 一方。

 イアプト領軍は、その街道のイアプト側。その開けた場所に野営を展開していた。


「どうしてこんな軍勢が・・・」


国境を挟んだ街道沿いには、今までどちらの軍も存在しなかった。お互いに街道を真ん中に置いて、互いの領地にある開けた場所に野営を張り、睨み合い、その街道で競り合っている状態だったのに。

 イアプト領軍の指揮を任されていた者達は、今までとは圧倒的に存在感も何もかもが違うキニーツ軍に怖じ気づく。

 そう、違うのだ。

 単に剣を持っただけ、弓矢を持っただけ、そんな自分達とは圧倒的に違うものがある。今まではあちらもそんな感じだった筈なのに。


「え、援軍を・・・。イアプト城に即座に援軍を要求しろっ」

「はいっ」


 しかし、その援軍が到着するまで、どうやって時間稼ぎをすればいいのか。

 兵士達を戦わせて時間を稼ぐにしても、それまでに自分達が出陣しなくてはならなくなったら終わりだ。自分は死にたくなんてない。怪我だってしたくない。指揮官なんて命令をする立場なのだから。


「い、いや、すぐに戦うと限ったもんじゃないだろう・・・。ほら、開戦開始にも決まりがある筈だ」


 そんな言葉も飛び出てくるが、開戦開始の決まりなど、自分達は守ったことがない。どうすればいいのかも知らない。けれど、・・・あちらはそんなことと知らないだろうから、真面目に守るのではないか。


「大体、こういうのはイアプト城主が出てこないと戦とは言えないんじゃないかっ?」

「そ、そうだそうだ。俺らはあくまで部下にすぎん」

「そうだ。イアプト城主が出てくるまで、あちらに待機させればいいだろう」


 今まで小競り合いをしていたことをどう考えているのか、そんな意見も出てくる。

 なぜならば、彼らは勝つことしか知らないからだ。兵士達に命じて戦わせ、勝てばいい。今までそうだった。これからもその筈だった。

 だから。

 自分達が負けるかもしれないなど、自分達が傷つくかもしれないなど、・・・そんなことは考えてもいなかった。


「使者を出せっ。あちらの総大将に、イアプト城主が来るまで待たせるんだっ。イアプト城にはリンデライ様においでいただくように、そして全ての軍勢を出すようにと伝えさせろっ」


 ラファイ王国の王都ジレームに攻め上る為の軍勢を確保する為の侵攻だった筈だ。その軍勢を得るどころか、そこで消耗するのでは全く意味がない。

 理性が残っていれば即座に停戦し、和睦を持ち出すべきである。

 けれども戦いを知る人間はそこにいなかった。

そこが、差、だった。

 イアプト領を含めてローム王国に組み込むつもりである以上、財産も人材も土地の恵みもなるべく損失を防いでおこうとするローム国騎士団と、人を統べるという意味を知らない彼らとの。






 イアプト城にて、リンデライはその知らせを受け取った。


「俺に出向け、だと? 今日、キニーツを落とすのではなかったのかっ。どうしてそういうことになるっ」

「はっ。そうなのですが、あちらも最後とあって死に物狂いの人数を揃えてきまして・・・。どうぞ、援軍を。そして士気を高める為にも、リンデライ様にご出馬いただきたく・・・」

「何たるザマか。ええいっ、仕方あるまい、最低限の兵を残し、全て出陣の用意をさせろ。・・・だが、この俺を出向かせた貸しは遠慮なく取り立ててやるからなっ。キニーツ領は、全て略奪しつくしてやる」


 そこでリンデライは、エルザに向き直った。


「エルザッ、お前も来いっ」

「えっ? あのっ、・・・旦那様?」

「お前なら、誰もが知らないというハインツの姫の顔を知っているだろうっ。この際だっ、見せしめにその姫を血祭りにあげてやるっ」

「そ、そんな・・・っ。お願いでございますっ、旦那様。お嬢様にそんな・・・」

「うるさいっ、さっさと仕度しろっ。このノロマがっ」

「きゃあっ」


 近くにあった机を蹴りつけられ、エルザは身を(すく)めた。

 リンデライにしてみれば、「軍を与えてやったのだ。ちゃんと結果を出して来い」と、そう言いたかった。だが、それを言わせない雰囲気が、国境から城へと駆けてきた彼らにはあった。


(どうして俺がわざわざ出向かねばならんのだっ。どいつもこいつも無能者がっ)


 王都ジレームで、夢を語り合った仲間達。彼らならば自分と共にこの国の未来を変えてくれるだろうと信じた。だから信頼して任せていたのに、なんという体たらくか。

 ハインツ男爵が「嫁がせられない娘でして・・・」と、自分の娘については困ったように言っていたと、亡き父から聞いた覚えがあったから、その姫を妻にしてやることで恩を売り、ハインツ領もいずれ手に入れるつもりでいた。それを横からキニーツに持って行かれ、恥をかかされた分は、キニーツを攻め滅ぼすことで終わらせるつもりでいたのだ。

 なのに、こんなにも梃子摺(てこず)らせてくれるとは。

 こんな所でぐずぐずしている暇はないというのに。

 自分こそがこの国を救い、やがて王冠を戴く人間なのだ。

 その大義も知らず、何という小賢しい存在なのか、キニーツは。

さっさと王都ジレームに攻め上るべき我らの足止めをしてくれた罪は、その姫を嬲り殺すことで気晴らしさせてもらおう。

 

(どうせ器量の悪い姫だという。ならば、その程度は役に立ってもらわねばな)


 リンデライが本当に腹を立てていたのは、それなりの兵を持たせたにもかかわらず、未だにキニーツを落とせていない仲間に対してだった。しかし、その怒りをそのまま彼らに向けては、全てが瓦解してしまう。信頼できる仲間の協力は不可欠なのだ。

 怒りの矛先をすり替えることで、リンデライは己の自尊心に折り合いをつけた。






 クネライ第一部隊長は、副官であるキヤン・ハイリに苦笑いをしてみせた。


「どうするよ、キヤン。敵の総大将がやってくるまで待て、だとよ」

「麗しき美女なら如何程(いかほど)でも待つが、男の身支度を待つ趣味はない。そう返事してみたらいかがです?」

「いいな、それ。別に、四の五の言わせず蹴散らしてやってもいいんだが、・・・その総大将の身柄を確保するよう、将軍にも言われてるしな。ま、これも飛んで火にいる夏の虫ってかね」

「なーに暢気なこと言ってんですか。一人だけでやって来るわけじゃないんですよ。援軍と共にやってくるに決まってんじゃないですか。カッコつけて、負けたらどうするんです」

「ケツまくって逃げるさ。後は第三と第六に任せてな」

「思ってもないくせに。あーやだやだ、こういう部隊長のおかげで無駄に苦戦させられる部下の身になってもらいたいもんですね」


 そう言いながら、キヤンはちゃっかり、


「返答文書に、『身支度に時間がかかるとは、まるで貴婦人のようでございますね。女装趣味を披露してくださるというのであれば、こちらも土産話として語り継ぐ為にもお待ちいたしましょう』と、書いておけ」


などと指示している。

 横にいるジルファスは、どういったものやらである。

 勿論、筆記担当者はキヤンの命令を黙殺し、いつもの通り上司達には期待せず、ペンを走らせた。


「私、ローム王国キニーツ領のジルファス・キニーツは、卑怯にも開戦の名乗り上げもなく侵攻しようとしておきながら、この期に及んでも駆けつけていなかったからと戦いを引き延ばすリンデライ・イアプト子爵の、礼を知らず、恥も知らぬ言い分を、確かに受け取った。

尚、ラファイ王国ハインツ領においても、その開戦の名乗りもなくリンデライ・イアプト子爵がハインツ男爵一家を野盗の如き急襲にて殺害したことを確認済みである。

従って、ハインツ領は遺児であるハインツ男爵令嬢カロリーナ姫の所有となり、配偶者である私、ローム王国キニーツ伯爵家のジルファスが管理するものとなる。

一連のリンデライ・イアプト子爵の所業は、貴族に非ず、騎士に非ず、卑賤なる盗賊のやり方であることは明らかである。

私、ジルファス・キニーツは慈悲の心をもって、開戦におけるリンデライ・イアプト子爵の遅着を許し、その上で正々堂々と野盗に成り下がったリンデライ・イアプト賊徒共を打ち破ることを宣言する」


 書きあげると、筆記担当者はそれをキヤンに渡し、キヤンは一瞥するとクネライに渡し、クネライも見た後でジルファスに渡した。ジルファスが困惑した顔になる。


「こんな大風呂敷を広げてもいいんでしょうか」


 クネライ第一部隊長は大きく手を振って、ジルファスの迷いを一蹴する。


「構わん、構わん。言った者勝ちなんだ、こういうのは」

「そうそう。ジルファス殿はあちらが侵攻してきたから迎え討ち、更に舅ご一家の仇討ちをなさるのですからね。これは誰からも文句はつけられない戦いですよ」


 キヤンも頷きながら同意した。

 そしてその場にいた兵士に、キヤンは、「じゃ、これ、持って行って来い」と、命令している。


(いや、俺が言いたいのは、こんな大風呂敷を広げて負けたらどうするのかと、それを言いたかったんだが・・・)


 しかし、クネライもキヤンも負けるとは思っていないらしい。

 まあいいかと、ジルファスも思うことにした。どうせ一蓮托生だ。


「そうそう。ジルファス殿。戦いなんてのは気楽にな、あまり肩の力を入れるもんじゃねえ」

「抜きすぎると、こういう駄目な上司になりますからね。ホント、部下が苦労させられるだけなんですよ。何事も程々が一番です」


 クネライ第一部隊長が笑いながら言えば、副官のキヤンもそれに追従してくる。副官の割に、キヤンはかなりクネライに対して辛辣だ。だが、紛れもない信頼関係があることは分かった。

すると、それまであまり言葉を発しなかった筆記担当者も口を開いた。


「大事なのは、そういう上司達に期待しないことです。・・・ええ、私共は常にそちらの経験を積ませていただいております」

「可哀想だろ。ローム国騎士団の部隊長とおだてられてても、所詮はこんなもんなんだぜ? 上司からは朝寝するからと遅刻宣言されるし、部下達からは駄目出し食らわされて苛められるし」


 同情してくれと、片目を瞑ってくるクネライ第一部隊長に、ジルファスも笑い返した。


「それでも信頼されて期待されてるし、ですか?」


 クネライ第一部隊長が口角を上げる。


「ああ。それに応えるのが男ってもんだろうがよ」






 援軍と共に駆けつけたリンデライ・イアプトは、その文書を地面に叩きつけた。


「俺が野盗だとっ。何様のつもりだ、ジルファス・キニーツッ」


 だが、そうなると貴族としての誇りも出てくるのが人間である。開戦の口上なり何なりせねばという気にもなる。今更、ではあるが。


「はっ。何が慈悲の心だ。俺と援軍が着いた今、敗れるのはお前だっ。その時代遅れの騎士道精神とやらと共に、無様(ぶざま)に死んでいくがいい」


 自分こそが総大将であると示す為に、色鮮やかなマントを翻し、一段と体格の良い馬に乗ってリンデライはロバルト達数名と共に、自軍より進み出た。

 それと見て、キニーツ側からも馬に乗った五名がやってくる。


「はっ。馬鹿だな。こんなにもこちらに寄ってきているとは。あれを討ち取られたらどうする気なのか」

「全くですね、リンデライ様。ですが、ここは余裕を見せておきましょう。ほとんどの兵を揃えた今、こちらが圧倒的に有利です」

「そうだな、ロバルト」


 本来は互いの真ん中程度まで進むものなのだが、リンデライはそこまで進みたくなかったのだ。街道筋にはあちらの手勢が控えている。そこを襲われたら危険ではないか。

 あちらが自分達の方に進んできてくれるのはありがたい限りだった。




 初陣と言ってもいいジルファスに、クネライ第一部隊長とその副官であるキヤンは、緊張をほぐすかのように話しかけていた。こういう時のクネライ第一部隊長はかなり頼もしいのである。


「ご心配なさるな、ジルファス殿。何があろうと貴殿は守り通してみせる」

「そうですよ、ジルファス殿。何といっても、街道の両側には信頼できるお二方が控えていらっしゃいます。大船に乗った気でやっちゃってください」

「あっ、てめっ、この一番頼りになる俺を差し置いて、どうして他の部隊長を褒めやがる、キヤン」

「ああ、人間って緊張すると、つい本音が漏れるものなんですよね」


 そんな会話をされてはジルファスの緊張も抜けるというものである。背後にいる二名の部下達も笑いをこらえていた。


「頼りにしてますよ。・・・それに、変ですよね。本来は怖がらなくちゃいけない筈なんですが、何だか勝てる気がしてならないんです。ええ、クネライ殿とキヤン殿の会話を聞いていると」

「ほれ見ろ、キヤン。やっぱり俺って頼りになるだろ」

「何言ってんですか。ジルファス殿も、うちの部隊長はおだてりゃおだてる程、木に登る豚なんです。貶しておくぐらいでちょうどいいんですよ」

「けっ、可愛くねえ副官だ。・・・キヤン、右側奥、木の陰だ」

「はい。いざとなれば。・・・ですが第三がお気づきのようです」


 向かって右側の奥に射手がいると、クネライが注意を促す。キヤンと右側にいた騎士も心得たというように、わざとジルファスよりも少し右側前方に自分達の馬を進めさせた。




 そうして、リンデライ・イアプトと、ジルファス・キニーツは向かい合った。


「リンデライ・イアプトだ。この度の戦い、勝たせてもらおう」

「その理由は何だ? 戦う以上、その理由があってしかるべきだろう。単に襲って財産を強奪しようとするならば、それは貴族や領主の戦いに非ず、盗賊一味の戦いである。イアプト領主は盗賊と成り下がったとみなすが、よろしいか?」


 体格が良いせいだろう、ジルファスの声はかなりよく響いた。それこそイアプトの兵士達の隅々まで。それは風の向きも影響していたのだが。風は、キニーツからイアプトへと流れていた。


「イアプト領主に向かって盗賊とは非礼が過ぎよう」

「ならば野盗か。私、ジルファス・キニーツは、野盗リンデライ・イアプトに襲われ、非業の死を遂げた、我が義父ハインツ男爵の仇討ちとして、イアプト一味を退治することを宣言する。

尚、ハインツ男爵一家の死亡により、ハインツ領はハインツ男爵令嬢であり我が妻であるカロリーナの所有となる。イアプト一味に(さら)われたハインツ領に属する者達は、この戦いに加わる必要はない。速やかに投降、もしくは戦闘地域から離脱するよう、新領主カロリーナの夫として命じる。

また、リンデライ・イアプトの所業は貴族に非ざるものとして、他の領主を襲った罪にも追って問われよう。他領の者達も速やかに離脱せよ。新しき領主の沙汰を待つよう、勧告する」


 貴族らしさであればリンデライの方が、はるかに貴族らしかっただろう。だが、ジルファスはかなり体格も良く、肺活量もあった。その大きな声は隅々にまで届き、イアプト領軍に組み込まれていたハインツ領出身者達に大きな動揺を与えた。


「何を小癪(こしゃく)なっ。ハインツ領は既に我が物となった。何がカロリーナだ。そんな女の名を出して何を恥ずかしげもなく・・・」


 激昂(げきこう)したリンデライが、そう(わめ)こうとした時である。


「ハインツ男爵が娘、カロリーナが、新領主として命じます。我がハインツ領の者は速やかにその野盗一味から離脱し、我が夫ジルファス・キニーツの元へと投降することを。平和で穏やかなハインツ領を踏みにじり、戦いの場へと引き出す逆賊リンデライ・イアプトにこれ以上従う必要はありません」


 戦場に似つかわしくない、女の声がそこに響いた。

 誰もが驚いて周囲を見渡す。誰よりも驚いたのはジルファスだった。


「あ、あそこに・・・」

「まさか、こんな所に女人(にょにん)が・・・」


 やがて声の持ち主に気がついたのだろう。皆が指さしたのは、クネライ第三部隊長が仕切っている崖の上だった。

 その一番イアプト寄りになる場所に、淡い金髪を持ったドレス姿の女性が馬に二人乗りした状態で彼らを見下ろしている。

その周囲を第三部隊の精鋭が守っているからだろう、それは騎士達に守られた高貴な女性といった重厚な雰囲気を醸し出していた。

 それを認め、リンデライが(あざけ)るように笑い出す。注目を集めようとしたのはいいが、どこの女を雇って来たのか。


「何がカロリーナだ。偽物のくせに。・・・エルザッ、来いっ」


 リンデライの意を受けた兵士が、侍女のエルザを引っ張り出す。


「言えっ、エルザ。ハインツ男爵夫人に仕えていたお前なら知っている筈だ。あれは偽物だろう。・・・そんな猿芝居をうってでもハインツが欲しいか、ジルファス・キニーツッ」


 だが、エルザはほろほろと涙を流した。


「カロリーナお嬢様っ! ・・・間違いありませんっ、あの方は正統なるハインツ男爵家令嬢、カロリーナ様ですっ」

「何っ!? エルザッ、ハインツの姫は・・・、お前が言ったのだろうがっ」


 その声にカロリーナも反応する。というのも、いくら揺れが少ないようにと厚手の布やら何やらを馬上に重ねて更にケリスエ将軍が抱きかかえてくれていても、あまりに体に負担が掛かり過ぎて、実は全く状況が見えていなかったのだ。

 先程の口上にしても、後ろからケリスエ将軍に言われるままに大きな声で言っただけで、目は開いていない状態だった。・・・見えていないし、分かっていないから言えたのだ。

 見えていたら、剣を持った兵士達が睨み合っている恐ろしさに、カロリーナは気絶していただろう。


「・・・エルザ? その声は、エルザッ?」

「カロリーナお嬢様っ。ああっ、あなた様がこんな所にまで。・・・どうぞお逃げくださいましっ、お嬢様っ。こんな所へ来てはなりませんっ」

「エルザッ、無事だったのねっ、エルザッ!」

「お嬢様っ!」


 その様子を見れば、誰もがそのカロリーナの真偽を疑う必要はなかった。せめて本来の主人の所へ少しでも近づこうと、エルザが崖に向かって走り出す。


(もういい、もういいんです、カロリーナ様。せめてあなたのお近くで・・・)


 後ろからそんなエルザを追いかけ、兵士が斬りつけようとした。

 ピシーンッ。

 カリスフ第三部隊長の指示で、その兵士に矢が刺さる。

 

「武器も持たぬ、か弱い女性に背後から剣を向けることこそ、野盗であると証明したようなものであろうっ。少なくともまともな騎士や兵士ならばそんなことはすまい。私は騎士として、その女性を保護するっ。自分が人攫いであり、盗賊であるという自覚のある者はかかってくるがいいっ!」


 サフィヨールの怒声が空気を震わせる。ゆっくりとした動きで馬を走らせると、サフィヨールはエルザの所まで行き、彼女を馬へと乗せた。

「あ、ありがとうございます。騎士様」

「よくぞ頑張られた。後程、カロリーナ殿の所へお届けしよう」

 さすがにそう言われてしまうと、女一人に対してみっともない真似を皆の前で出来るものでもない。

 リンデライとて、サフィヨールの存在感に飲まれてしまっていた。本来は自分の方にいた女を持ち去られてしまっていいものではないのだが、そこで何かしようものなら、男としていい笑いものだ。


「すみません、カロン様。叔父を止めそこないました」

「いや。仕方がない、リールス。・・・一番の見せ場を持っていかれたな」

「ちゃっかりしてるんですよね、あの人」


 そんなこそこそとした会話も一部ではあったのだが、無事にエルザが保護されたらしいと知ってカロリーナが安堵する。


「よく頑張りましたね、カロリーナ殿。これでハインツ領出身の兵にも動揺が走るでしょう。これはあなたにしか出来ないことだったのです。それにあなたがいたから、あのエルザ殿も保護できたのですよ」

「将軍、様・・・」

「気持ち悪いでしょうから、まだ目は閉じていていいですよ。大丈夫、あなたを落としたりはしません。そしてあなたの身は、ここにいるカリスフ第三部隊長達が必ずお守りします」


 自分を支えてくれるケリスエ将軍にカロリーナはもたれかかった。

 これでジルファスの助けにはなれたのだろうか。こんな自分でも、あの人を支えられたのだろうか。


「カロリーナッ。何故来たっ。城で待っていろと言っただろうっ!」


 ジルファスが怒っている声が、カロリーナの耳に届く。


(ごめんなさい、ジルファス様。お願い、怒らないで)


 いつものカロリーナなら恐ろしくて泣いてしまうのだが、今は疲れ切っていて、泣く根性もなかった。それに、目を閉じているからだろう。その声の恐ろしさよりも、その中に含まれた思いが分かる。


「ジルファス殿。カロリーナ殿は、正統なるハインツ領の新領主としてこの場にいらしておられる。奥方はこちらがお守りしよう。奥方のものであるハインツ領はあなたが治める領地でもある。どうぞご遠慮なくご自分のものを取り戻されるがいい、・・・そこの野盗からな」


 ケリスエ将軍の声が響き渡る。カロリーナよりもはるかに力強く、全ての耳に届く声だった。

 さすがに野盗だの盗賊だのと言われ続けると、誰もが自分に自信を失うものだ。ましてや正統性があちらにあるとなっては尚のことである。誰だって、それならばあの美女の元へ集いたい。

 イアプト軍にはかなりの動揺が広がっていた。

 それは、エルザと呼ばれた女一人であっても保護されたことが影響していただろう。誰だって本意ではない戦いよりも、平和な暮らしが良いのだ。


「人を野盗だの盗賊だのと、どこまで虚仮(こけ)にする気だっ。もういいっ、奴らを皆殺しにしろっ」


 リンデライが命じる。

 そして戦いの火ぶたは切って落とされた。






 イアプト軍の中でも、戦いたくない人間は、剣こそ振り上げてはいたが、前進せずに後退したり、敗走したりといった動きを見せていた。


「だが、リンデライ・イアプトは足掻くつもりのようだな」

「そのようですね。そうなると生け捕りも難しい。どうなさいますか、将軍?」

「まあ、死んでしまったら仕方ないが、・・・手間のかかる男だ」


 ケリスエ将軍とカリスフ第三部隊長がのんびりと戦況を見ながら会話している。馬上でケリスエ将軍にもたれながら一眠りしたカロリーナは、やっと目が開けられる状態になった。


「お目覚めか、カロリーナ殿?」

「あ、私・・・」

「水は飲めそうか? 良かったら一口飲んでおかれるといい」


 ケリスエ将軍が近くにいる騎士に目配せすると、カロリーナに水が差し出された。それをコクリと飲むと、カロリーナも周囲を見渡す余裕が出てくる。


「ご覧になれますか、カロリーナ殿? イアプト軍の奥に円を描くようにしている集団がいるでしょう。彼らは一塊になって周囲に剣を向けることで、自分達を襲ってこようとするイアプト兵達から身を守っているのですよ」


 そうカリスフ第三部隊長がカロリーナに指し示す。


「あのままならば、彼らもイアプト軍の一人として戦いに参加しなくてはなりませんでした。ですがあなたが新しい領主として呼びかけられた。だから彼らは戦いから離脱したのです。そうして一丸となって自分達の身を守っているのですよ。・・・あなたが、彼らの命を救ったのです」

「え。・・・ああ、神様・・・っ」


 カロリーナは、必死になって自分達の身を守ろうとしている一団の意味を理解した。嬉し涙が溢れる。

こんな自分でも、誰かを救える、・・・そんなことが出来ただなんて。


「あっ、ジ、ジルファス様、ジルファス様はっ?」


 だが、そうなると心配になるのは自分の夫である。意識がはっきりしてくればしてくる程、剣を打ち合う音や悲鳴、そういった怖い音が響いてくる場所だった。


「・・・どこかにいらっしゃるとは思いますが。見ていらっしゃいましたか、将軍?」

「どこかには居るだろう。第一部隊長も誰かをつけてはいるだろうしな。まあ、ご無事だろうと思うし、そう心配なさることもあるまい」


 しかしジルファスの動向に全く興味のない二人はそんな反応だった。諦めてカロリーナは目を凝らす。上から見るだけでも怖かったが、それでも夫の無事を確認せずにはいられなかった。

 けれども、人が入り混じりすぎていて、どこにいるのか全く分からない。


「だが、あまり長引きすぎるのもな」

「何ならこちらも出ましょうか」

「そうだな、そうするか」


 カロリーナの目も覚めたことだし、誰かに彼女を守らせておいて自分達も参加するかと、ケリスエ将軍とカリスフ第三部隊長の意見が一致した時である。


「いや、その必要はなさそうだ」

「おいしいところを持っていくのだから、さすがソチエト殿」


 土煙をあげて、キニーツ側からかなりの兵が押し寄せてくるのが見えた。


「どうも見せ場に関しては、若い奴らが負けすぎてないか? 不甲斐ない」

「亀の甲より年の功って奴ですかね。いえ、ご本人方の前では絶対に言えませんが。どうも我が騎士団はその傾向があるようですな」


 ケリスエ将軍がぼやく。カリスフ第三部隊長も苦笑いするしかない。

 まさに嵐のような勢いで到着した彼らに、敵味方の区別なく注目が集まる。

 その先頭に立つソチエト第五部隊長は、堂々と注目をかっさらって叫んだ。


「ローム国騎士団、トル・ソチエトここに在り。死にたい奴はかかってこいっ!」


 名乗りをあげたのは一人だけでも、その後ろから続々と騎士や兵士達が追いついてくる。

 圧倒されずにはいられない気迫が、そこにあった。心得ているローム国騎士団の人間は、巻き添えにならぬよう、中央の街道を空けていく。

 今から一暴れしてくれようと言わんばかりのソチエト第五部隊長は、周囲を睨みつけながら進んだ。

 イアプト軍にしても、今の時点でも戦況は厳しかったのに、更にキニーツには援軍が到着したのだ。

 彼らは、敗北を認めた。


「降伏、いたします」


 その言葉を発したのはリンデライではなかった。

 けれどもそれをきっかけに、イアプト軍は次々に剣を手放していく。


「いやぁ、カッコイイじゃないですか、第五部隊長。まさに主役って感じで」

「それが総大将を任された上司を前にして言う言葉か、キヤン」


 副官の言葉に、クネライ第一部隊長も何だか複雑な気分だ。こんなことならば、大将としてジルファスについているよりも、カロンのように斬り込み隊として陣取っていた方が大暴れできたような気がしてならない。不完全燃焼もいいところだ。


「真打ち登場ってか。ソチエト殿もやってくれっじゃねえか」

「そのようですね。だけどサフィヨール様にだけは言われたくないです」


 向かうところ敵なしだったカロンも、苦笑してサフィヨールに同意する。年寄りの冷や水、そんな言葉はあくまで心の中に飲み込むことにした。しかしと、カロンは思う。

 なるべく無理や無茶をさせないように配慮しているつもりなのに、どうしてサフィヨールといい、ソチエトといい、自分の思惑を乗り越えてやってくれるのだろう、と。

 トップがトップだからだろうか。誰もが、スタンドプレーがすぎるような気がしてならない。


(しかも、どうして肝心のあの人もキニーツ城から人攫いなんてしてきてるんだろう。まあ、役立ってくれたからいいんだが)


 やがて、リンデライ・イアプトも捕らえられた。






 キニーツ城では、勝利の宴会が催されていた。

 朝、カロリーナをケリスエ将軍が馬に乗せた時には、泣き続けるカロリーナを慰める為に少し周囲を走らせてくるのだろうと、城では見ていた。昼になっても帰らないので大騒ぎになっていたのだが、誰があのカロリーナを国境まで連れて行くと思うのか。

しかし、あの泣いてばかりのカロリーナが戦場で堂々と振る舞ったと聞き、誰もが驚きの声をあげていた。

 そのカロリーナ本人は、ジルファスがケリスエ将軍と合流して無事であると知るや否や、いつも通りに泣き出してしまった。泣きながらも、馬上からジルファスへと腕を伸ばして抱きつこうとするのだから、

「うわっ、カロリーナ。動くなっ」

「ジルファス殿。押さえておくから奥方を早く受け取りに来ていただけないか」

と、あと少しで落馬の危機だ。

さすがのジルファスも、そうなると戦場へとやってきた妻の無謀を叱るどころではない。猫のように首根っこをケリスエ将軍に掴まれたカロリーナを受け取ると、自分の馬に乗せて城へと連れ帰った。

 もっとも城に帰りつくなり、部屋で寝込んでしまったカロリーナだったのだが。そんなカロリーナにはエルザもついている。宴会のご馳走も、カロリーナ達の分は部屋に運ばれていた。


「だが、そうなるとジルファス。カロリーナ姫はハインツ領に戻るということなのか?」

「そこは・・・どうなるのでしょう。それこそ両国に問い合わせるべきかと思います。あくまで戦いの都合上、そういうことにしただけだと思っておりましたが」


 キニーツ伯爵に尋ねられ、ジルファスもクネライ第一部隊長に助けを求める視線を投げる。


「主張に正当性を持たせる為、カロリーナ殿、つまりジルファス殿を領主とするようローム国は持って行くと思います。それに領主不在ではどんな混乱が起きるか分かりません。まずはジルファス殿とカロリーナ殿がハインツ領に出向き、王都ロームからの指示をお待ちになった方が良いかと。早馬が王都には向かっておりますし、すぐに対応してくると思います」

「だが、ジルファスはキニーツの後継者だ。・・・まさかハインツをそのままジルファスに治めろと言われたりするのだろうか」


 クネライ第一部隊長がそう話すと、ジルファスの父であるケイファスも複雑そうな表情になった。


「さて、それは・・・。それこそカロリーナ殿が更なる跡取りをお二人産んでくださればすむことかと存じますが、どうなのでございましょう」


 クネライ第一部隊長はそう逃げた。いつもならこういう時は、ケリスエ将軍がお相手を務めてくれるものなのだ。戦いを見物で済ませるとは聞いたが、宴会も見物で済ませるとは聞いていない。一体、どこでサボっているのだろう。

 こうして代理を完全に任されてしまうと、将軍の位とは面倒なことばかりのような気がしてならないクネライだった。




 宴の喧騒が響いていても、それは地下へと足を進める度に小さくなっていく。

目立たぬよう、少し厚手の大きな布を頭からかぶって体に巻きつけてきた。


(ここだったと思うのだけど。以前、案内されたのって、ここだったわよね)


 やがて地下へ到達すると、大広間の騒ぎは完全に聞こえなくなった。壁に埋め込まれた灯りがあるからどうにか歩けるけれど、かなり恐ろしい。この灯りが消えたら真っ暗闇になってしまう。


(どこにいるのかしら。一番奥? それとも・・・)


 長く使われていなかったらしい地下牢は、かつて案内してもらった時には乾いた空気が漂っていたものだ。けれども今日は人がいるからだろう、汗臭さがある。

 牢には灯りが入っていた。

 扉からそっと覗くと、一番手前の牢に入っていた男は、石壁に固定された鉄の鎖に繋がれている。次の牢に入っている男も同様だ。


(どうしよう。誰が誰だか、分からないわ)


 どの男達もイアプトの人間なのだろうが、下を向いている上、自分は考えてみれば誰の容姿も見ていなかったのだ。こうなると途方に暮れるしかない。


「何かお困りでしたらお手伝いしますよ?」


 そこへ後ろから声が掛けられる。カロリーナは、びくっとして振り返ろうとした。

 しかし、その声の持ち主がカロリーナの肩を抱いてくる方が早かった。


「そこの右側の牢にいるのが、リンデライ・イアプト子爵。その左側にいるのが側近の男ですよ。さて、何がお知りになりたい?」

「あ、あの・・・」


 どうしよう、怒られる。

 そう思って、ぎゅっとカロリーナは目を瞑った。その隙に、握っていた短剣がカラーンと石床に落ちる。その音は高く跳ね返り、地下牢に反響した。


「ああ。こういうものはきちんと握っておかなくては。・・・はい、どうぞ」


 短剣を拾い上げ、ご丁寧に鞘から抜いてケリスエ将軍はカロリーナの右手に握らせてきた。

頭からかぶった裾の長いマントでは、顔を覗き込まなくては誰か分からないだろう。けれどもこうやってカロリーナを見下ろしてくる黒い瞳、マントから零れた焦げ茶色の髪を見るまでもなく、その声をカロリーナが間違える筈もなかった。


「あ、あの・・・」

「お忘れですか? 私はあなたの願いを尋ねたでしょう? ・・・大丈夫、怖がらないで。私の手を取ったのはあなただ」


 ああ、そうだ。この人だけが自分に手を差し出してくれた。

 こんな自分でも出来ることがあるのだと。

そして願った通りに、ジルファスの所へと連れて行ってくれ、更には自分にジルファスを助けさせてくれた。


「さあ、そこの右側の牢です。大丈夫、鎖をつけられていますから。扉は簡単に開きますよ」


 その言葉の通り、カロリーナが閂を抜くと、扉はギギイッと大きな音を立てて開いた。

 その扉の奥で、訪れたカロリーナ達を睨みつけてくる男、それがリンデライ・イアプト子爵、その筈だった。


(思ったより、細身な人なのね)


 第一印象はそんなものだった。戦場では気持ち悪くて目が開けられる状態ではなかった為、見ていなかったのだ。ジルファスの堂々とした体格に比べて、どちらかというとひ弱な感じだ。

 カロリーナが黙って見ていると、リンデライは口を開いた。


「ハインツ男爵令嬢カロリーナ姫、か。・・・はっ、エルザには騙されたもんだ」


 リンデライはカロリーナを見知っているようだった。

 その苦々しげな口調に、カロリーナは目の前にいる男への憎しみが燃え上がるのを感じた。


「カロリーナ姫、いいことを教えて差し上げましょう。あのエルザ、よほどあなたが憎いらしい。忠義者の顔をしているかもしれないが、あなたのことを不細工でみっともない令嬢だと私達には言っていたのですよ。実際はこんなにも美しかったのに」


 カロリーナは何も言わなかった。エルザがそう言ったというのであれば、それはカロリーナを守る為だ。

ケリスエ将軍に支えられながらも、縋る気持ちを表すかのように左手でその将軍の腕を掴んだカロリーナに、リンデライは違う解釈をしたようだった。

そう、自分の言葉に動揺しているのだと。


「カロリーナ姫。そこの侍女と一緒に私を逃がしてくださいませんか? そうすればあなたを助けて差し上げましょう。あんな熊のような男、あなたのようなたおやかな女性には恐ろしいばかりでしょう。私ならばあなたを守って差し上げられる。本来、あなたは私の妻になる筈だったのです」


 あまりのおぞましさに、カロリーナは一歩よろけた。

 どの口がそんなことを言うのか。あんなにも優しくて自分を守ってくれる人はいないというのに。

 リンデライは、裾の長いマントをかぶっているケリスエ将軍を侍女だと思っているようだった。

 カロリーナは長い時間をかけて自分を落ち着かせた。


「あなたは、・・・私の両親と兄夫妻を殺しました」


 カロリーナの鈴を振るかのような声は小さかったが、だからこそ息をひそめて様子を聞きとろうとしていた地下牢全てに響いた。


「そ、それは・・・。私は殺せなどとっ。それは部下が勝手にやったことですっ。私は殺せなどと命じてはいませんでした。ただ協力してもらいたかっただけなのです、カロリーナ姫っ。信じてくださいっ、私はあくまで民衆を救う為に立ち上がったのです」


 カロリーナの水色の瞳に、涙は浮かばなかった。

 両親達が殺されたと知った日から、この胸を離れない思いがある。

 一生、自分を責め続けるであろう思いが。


「では、誰を救ったというのですか? あなたが救った民衆とは誰ですか?」

「そ、それは・・・。これから救うのです。あなただってお分かりの筈だ、カロリーナ姫。王位争いでラファイ王国はガタガタだ。民衆は終わりのない国王争いに巻き込まれ、誰もが苦しんでいる。それを救う為に私は立ち上がったのです」


 いつものカロリーナなら、こんなにも見知らぬ人とは話せない。

 けれども心が遠く乖離(かいり)していた。

 リンデライに問いかける自分の声も、まるで夢の中のことのようで現実感がない。


「その為に、私の家族を皆殺しにしてまで?」

「そ、それは・・・、ですから部下がやったことだと・・・」

「エルザをハインツから連れ去ってまで?」

「あ、あれは・・・、エルザは自分からついてきたのです。大方(おおかた)、私に取り入ろうとしたのでしょう。本当に恥知らずな侍女でしたよ」


 カロリーナはしばらく押し黙った。


「エルザには、大きな怪我を負った家族がいるのです。侍女の仕事をしながらも、その家族の世話もしなくてはなりませんでした。だから、・・・だからエルザはハインツだけは離れるわけにいかなかったのです。その為、私についてキニーツに来るのも、エルザは諦めなくてはなりませんでした。・・・・・・エルザがいなくては生きていけない家族から引き離してイアプトに連れ去ったあなたが、誰を救っていると言うのですっ」


 雷に打たれたような衝撃が地下牢に走った。

 どれ程の理想論に燃えていたとしても、そして領主たちの殺害はまだ必要な犠牲だと言えても、エルザに関してそれは言えなかった。美しい侍女を連れ去ることが、どうして国家の大事と言えようか。


「そ、そんなこととは、・・・知らなかったのです」


 しばらくしてから、小さくリンデライが呟いた。

 今になっても涙が出ないことにカロリーナは驚いていた。いつもの自分ならとっくに泣いている。


(ああ、だけど、どれ程に時間を延ばしても同じことだわ。どんな会話をしても、どんな説明をしても、私の心は変わらないもの)


 右手に握った短剣を持ち直す。

 その手にそっと背後にいた将軍の手が掛けられた。どうも柄の持ち方が違ったらしく、一度手を開かされて持ち直させられてしまう。そして剣を握り込んだカロリーナの手の上から将軍の手を重ねてきた。きっとカロリーナの手が滑っても補助してくれる為なのだろう。


「あ、ありがとうございます」

「いいえ。誰だって初めてのことは分からないものですよ」


 殺したいと、ずっと思っていた。憎いと、呪わずにはいられなかった。

 けれどもその恐ろしく強い筈の男は、こんなにも卑怯で自分勝手な男だった。

 カロリーナは、その短剣を振り上げて、怖さの余り目を閉じて袈裟懸けに下ろした。


「ぎゃあああっ!」


 大きな悲鳴があがる。血しぶきが、カロリーナへと飛び散った。

 カロリーナは、肉を切り裂くという感触を初めて知った。

 

「うわあああっ!」


 目の前でのたうちまわる男がいる。

 あれは自分がやったのだろうか。その顔が血にまみれているのを、まるで現実感のないままカロリーナは見つめる。

 がくがくと震えて腰が抜けてしまったカロリーナを、背後の将軍が黙って支えた。


「連れて行って手当てをしておけ」

「はっ」


 背後の扉から入ってきたカリスフ第三部隊長が部下達に命じると、手際よく縛り上げた上で壁の鎖からリンデライを外し、彼らは喚き続けるリンデライを運び去った。

 カロリーナはしばらく立ち尽くしていた。将軍も、何も言わなかった。宥めるように髪や肩を撫でてくれてはいたけれど。


「わ、私・・・私は、罪に問われますか・・・」


 カロリーナは覚悟を決めて背後にいるケリスエ将軍を見上げた。捕虜がいる牢に忍び込み、勝手に斬りつけたのだ。自分も牢に入らなくてはならないだろう。


「罪? どんな罪があなたにあると言うのです?」

「だって、・・・私は、あの人、を・・・・・・」


 ケリスエ将軍は目を丸くして言った。


「お忘れかもしれませんが、あなたはハインツ領の領主です。前領主一家を襲った賊共を退治する立場にあります。ですがあなたは抵抗できぬように軽く斬りつけただけで、その賊を我らに引き渡してくださった。・・・違いますか?」

「え・・・?」


 ケリスエ将軍は、カロリーナの頬についた血を軽く拭ってその指を見せてきた。


「この血をお忘れにならぬよう、カロリーナ殿。あの男が斬りつけられた時、あなたを憎々しげに見たことはお気づきになりましたか?」

「え、ええ。はい」


 そう、先程までの甘言が嘘のように、カロリーナをリンデライは睨みつけてきた。


「そのリンデライ・イアプトが、あなたに斬りつけられた時、他の自分の家族、たとえばリンデライの弟や妹、そういった存在を憎んだと思いますか?」

「・・・いいえ? 私を憎むのではないですか?」


 けれども、憎まれるのも恨まれるのも覚悟の上だった。罪人になるのだとしても。

 ずっと苦しんでいたのだ。

 家族の無念がこの胸を今も締めつける。


「そういうものです。・・・いいですか、カロリーナ殿。あなたのご両親と兄君達が殺された時、憎んだとしたらそれはリンデライ・イアプトです。それ以外、あり得ない。生き残った愛しい家族をどうして恨むことがあるでしょう。・・・あなたは、もう、それを知っている。そうですね?」


 何が言いたいのか、カロリーナは分からなかった。何回か、その言葉を反芻する。

 ケリスエ将軍の言いたい意味が分かり、カロリーナは体を反転させて縋りついた。

 そんなカロリーナの体を、将軍は優しく抱きしめてきた。ジルファスと違う、女性の体だ。それでも優しく温かい。

 その首筋に顔をあてて、カロリーナは泣きじゃくった。


「ずっと・・・、ずっと、声が聞こえていたんです」

「ええ」

「父と、母と、兄と、義姉の声が・・・。私が、助けられなかった、あの人達の・・・」

「ええ。ですが、それはあなたの良心の呵責による声。本当の亡くなられたご家族の思いではない」


 ケリスエ将軍は、そこでカロリーナの短剣を示した。


「ご覧なさい、カロリーナ殿。あなたの腕はこの剣を振るい、この剣はその仇の血を流した。・・・あなたの一振りを手始めに、リンデライ・イアプトには次々と違う剣が振るわれることでしょう。それでも、あなたが最初にそれを成し遂げたのです」


 この短剣は、ちゃんと洗って手入れしてからお返ししましょうと、ケリスエ将軍はカロリーナに言った。

どうも将軍から見て、駄目な手入れだったらしい。・・・カロリーナは剣の手入れなどしたことはなかった。ただ引き出しに仕舞っていただけだ。

 不謹慎なのだが、カロリーナは涙に濡れた頬のまま、ふふっと笑ってしまった。


「まるで夢のようなんです。・・・きっと、ジルファス様には嫌われてしまいましたけど」

「どうしてそう思われるのです?」

「だって、もう、私はあの方の知るカロリーナじゃありませんもの。・・・牢に忍び込んで、こんなことをしただなんて、きっと嫌われてしまう・・・」


 だって、あの人が好きになってくれたのは、泣くことしかできないカロリーナだったのだから。

 こんな血しぶきを浴びた姿を見たら、二度と口もきいてもらえないだろう。


(けれどもいいの。お父様、お母様、お兄様方の仇に斬りつけることができたのだから。・・・それに、戦場でもジルファス様を助けることが出来た・・・)


 肉を裂く感触を思い出すと震えが走る。自分の手で殺せはしなかったけれども。ケリスエ将軍は、リンデライ・イアプト子爵はいずれ処刑されるだろうと教えてくれた。

 だからいい。もう二度と会えなくても、自分はずっとジルファスを好きでいるから。

 幸せだった日々を思い返しながら生きていこう。


「・・・ケリスエ将軍様」

「何ですか?」

「私、どこに行けばいいのでしょう。・・・私、もう、ジルファス様にお会いする勇気がないのです」


 ぷっとケリスエ将軍が噴き出した。


「そうですねえ。あなたご自身はハインツ領主ですからハインツ城はあなたの物ですが・・・、その前にジルファス殿に、自分を嫌いになるかと、お尋ねしても良いのでは?」

「・・・そんなの、怖くて、出来ません」


 優しいと思ったのに、変な所で意地悪な将軍である。自分は本気で困っているのに。

 カロリーナは自分の格好を見下ろした。至る所に血が飛び散っている。一度部屋に帰って着替えるにしても、これを誰かに見られたら悲鳴をあげられてしまうだろう。


「仕方ありませんね。まずはこの汚れを落としましょう。明日、私達は出発しますが、もしもあなたがその時でもどこかに行きたいと願っていらしたら、どこへでもお連れしますよ。・・・まあ、あり得ないでしょうけど」


 今日一日で、ケリスエ将軍が約束を守ってくれる人だというのは分かっていた。

 どうせ今日は宴会でジルファスも朝まで付き合わされることだろう。ならば明日、このままケリスエ将軍に連れて行ってもらえばいい。

 カロリーナはそう思い、目を閉じた。

 それでも生きていける。あの人との幸せな日々を思い返せばそれだけで・・・。


「どうぞ。水と手巾をお持ちしました」

「ありがとう、第三部隊長」


 カロリーナが頭からかぶっていた布を取り払い、ケリスエ将軍は手際よく、その顔や手に飛び散った血を拭っていく。みるみるうちに、全く先程の気配など残らぬ姿になった。そして第三部隊長が渡してきた違う布をカロリーナにかぶせてくる。


「・・・まあ」

「こちらの布は駄目にしてしまいましたが、これで誰にも怪しまれずにお部屋に戻れますよ、カロリーナ殿。ただ、血の臭いは残っている筈なので、お部屋に戻ったら湯浴みなさった方が良いでしょう」


 言われてみればその通りである。


「あの、明日、本当に・・・?」

「ええ。あなたがそう望むのであれば」


 その約束に力を得て、カロリーナは微笑んだ。

 将軍もやはり血を浴びているのでと、部屋まではカリスフ第三部隊長ともう二人の騎士が付き添ってくれた。

 部屋に戻ると、エルザがどこに行っていたのかと心配して問い詰めてきたが、何をしてきたかを話すと絶句して、その後、抱きついてきたので二人で泣いた。

 そうしてカロリーナは夜の内に簡単な旅支度をエルザと済ませることにした。と言っても、

「お嬢様はいいですからお休みになってください。ええ、必要ありませんから」

と、エルザに寝台へと寝かせつけられてしまい、エルザが用意してくれる運びになった。

 そう、その筈、だった。






 結論から言えば、カロリーナはケリスエ将軍と旅立てなかった。

 エルザも旅支度をしておいてくれると約束していたのに、必要がないというのはカロリーナの手伝いが必要ないという意味だけでなく、荷造りも必要ないという意味で言っていたらしい。


(・・・・・・何故、こんなことになったのかしら)


 カロリーナは自覚していなかったが、人見知りで家族と限られた侍女としか話すこともできず、しかもその弱々しさから皆が心配して見守らずにいられないカロリーナは、人間同士の駆け引きにも疎かった。

 そして、今まで人を騙すこともしたことがなかった。その必要がなかったからだ。

 そんなカロリーナが周囲に悟られず、何かを出来る筈がなかったのだ。

 戦場にまで行けたのは、ケリスエ将軍が全てを手配したからにすぎない。


「あのリンデライ・イアプトに斬りつけたかったなら、俺に言えばちゃんともっと深く斬りつけてやったのに。大体、ハインツ城だって俺が一緒に行くんだから、将軍にねだることはないだろう」


 そう言うジルファスは、全くもってカロリーナがリンデライに斬りつけたことなど気にしていないらしい。あくまでどちらもカロリーナが頼ったのがケリスエ将軍だったことが気に食わないようだ。

 ベッドから起き上がれないカロリーナの横でぶつぶつと文句を言っている。


(どうしてジルファス様がそれを知っているのかしら)


 それはエルザに話していたのを、他の侍女達が扉の外から聞いていたからだ。驚いた彼女達はジルファスへと注進した。そうなると、ジルファスとて駆けつけるに決まっている。

 ジルファスにしてみれば、すぐ泣いてしまうカロリーナが恐ろしさに耐えて地下牢にまで出向いたことを思うと、それこそ自分が付き添ってやりたかったとしか言いようがない。

 寝室で休んでいたカロリーナを起こして問い詰め、そのまま夜明けまで寝かせなかった。

 ただでさえ色々なことがあり過ぎて疲れきっていたカロリーナだ。目が覚めたら既に夕方で、ケリスエ将軍は出発した後だった。

間抜けなことに、「だから言った通りだったでしょう」という伝言は、ジルファスから受け取った。


「あの・・・ジルファス様」

「何だ、カロリーナ?」

「私、・・・人を斬りつけてしまったのです」

「それなら聞いたが?」


 そこで、カロリーナは意を決して言った。怖くて、瞼を閉じてしまったけど。


「私は人を傷つけられる人間なんですっ。あなたに、・・・あなたに愛される資格なんてっ」


 ぎゅっと固く目を閉じて下を向いていたからだろうか、しばらく沈黙があった。

 やがて恐る恐る目を開けると、そこにはジルファスの濃緑色の瞳があった。


「どうしてそんなことを思うのかは分からないんだが、初めて見た時からずっとお前を愛しているよ。たとえお前が誰を傷つけようとも、誰も傷つけられなくても」


 その意味を理解してから、カロリーナはジルファスにおずおずと抱きついた。

 大きな体が、優しく抱きしめ返す。


「ところでカロリーナ。お前の短剣は誰に用意してもらったんだ?」

「え? お父様に」

「なんて言って、もらった?」

「えーっと、・・・使える方が危ないから使うなと」


 だから万が一の自害用なのだと思って、引き出しに仕舞っておいた。


「あの短剣、刃を潰して切れないようにしてあるそうでな。将軍から返してもらったんだが、『わざわざ切れないようにしてあるのなら意味があるのでしょう。もっと切れないようにしておきました』とのことだ」

「え?」

「だから・・・お前がリンデライに斬りつけた時、将軍が手伝ってくれなかったら、全く斬れなかった筈の剣だ、あれは」

「・・・え?」


 じゃあ、もしかして。

 あの場に将軍がいなかったら、自分は仇に斬りつけるどころか・・・・・・。

 カロリーナは呆然としてしまった。

 ひどい、お父様・・・。


 嫁ぐことなど期待されていなかった自分に渡されていた短剣。それは万が一、城が襲われた時に自分の身を守るものでもあったのではなかったか。


―――生き残った愛しい家族をどうして恨むことがあるでしょう。


 ああ、そうだ。あの優しい家族が、どうして自分に仇を討つことなど望むだろう。

 あの人達が望むとしたら・・・・・・。


「ジルファス様」

「何だ?」

「私、短剣の持ち方がおかしかったらしいんです」

「お前に教えようと思う人間はいないだろう」

「お父様とお兄様は、どうして私に教えてくれなかったんでしょう」

「お前に使わせたくなかったからだろう」


 ああ、やっぱりそうなのだ。

 ジルファスが言ってくれたことで、カロリーナも納得する。

 それでも後悔はしていない。

 ケリスエ将軍は言ってくれた。自分のこの一振りを手始めに、リンデライ・イアプトには他の剣が振るわれるのだと。


―――覚えておいでなさい。あなたの望みを叶えられるのはあなただけだと。


 私の望み、私の望みは・・・。


「ジルファス様」

「何だ、カロリーナ?」

「あなたとずっと一緒にいたい時、私はどうすればその望みを叶えられるのでしょう?」


 さすがのジルファスも驚いた。なんと一日で、この泣くことしかできなかった妻は、ずいぶんと変わったようだ。


「それなら俺にも教えてくれないか、カロリーナ?」

「はい?」

「俺はずっとお前と一緒にいたいんだが、どうすればその願いを叶えてくれるんだろう? 何と言っても俺の愛する妻は、俺ではなく将軍と一緒に戦場に行くし、俺をほったらかしにして将軍と一緒に地下牢にも行くし、更には俺を捨てて将軍と一緒にハインツ城へ行こうとするんだが?」


 カロリーナは真っ赤になった。まるで嫉妬されているかのようだ。


「ご、ごめんなさい」


 俯いたカロリーナの手を取り、ジルファスはその指に口づけた。


「二度とお前に剣など持たせない。次は必ず俺を呼んでくれ」

「はい、ジルファス様」

 

 殺されたと聞いた日から、家族を思い出せばいつも悲しそうな、恨めしそうな、怨嗟(えんさ)漂う姿だった。けれども今、カロリーナの心に浮かぶ家族の顔は笑っている。

 カロリーナは微笑んだ。

 そうだ。いつだって自分に微笑んでくれていた家族は、あんな恨めし気な顔などしたことなんてなかった。

 自分が勝手に囚われていたのだ。いもしない幽霊に。


(お父様、お母様、お兄様、お義姉様。それでも仇に斬りつけることはできました・・・)


 もう二度と泣かない。

 泣いていても何も叶わないのだと知ったから。

 けれども今だけ、今だけは・・・・・・。


 そんな嗚咽(おえつ)(こら)えきれなかったカロリーナを、そっとジルファスは引き寄せてくれた。

【ジルファスとカロリーナ】


 ラファイ王国ハインツ領。

 そのハインツ城において、隣国ローム王国キニーツ伯爵の孫息子、ジルファス・キニーツが、領主としての仕事を行っていた。

 妻であるカロリーナは先代領主ハインツ男爵令嬢でもある。

 引っ込み思案で人見知りなカロリーナは、ハインツ城で生まれ育ったが、城に勤める人間ですら滅多にその姿を見ることがない深窓の姫君だった。

 だがジルファスに嫁いだのが良かったのだろうか。ハインツ城に戻ったカロリーナは、用事がなくても部屋の外に出るようになり、知らない人とも話すようになっていた。


「ジルファス様、ジルファス様」

「どうした、カロリーナ」


 自分を探していたらしいカロリーナがぱたぱたと駆け寄ってくるのを、ジルファスはその腕を広げて受けとめた。ふんわりと、小さな体が大きな腕の中に納まる。

 とりあえず転ばないでくれて良かった。

ジルファスは真面目な顔の裏で、壊れ物のような妻の体をチェックし直した。履き物も脱げてはいないようだ。

 そんなジルファスをカロリーナは紅潮した頬で見上げてくる。


「大変なことを聞いてしまったんです」

「そうか。それは大変だ」


 今まで人付き合いというのをしたことがないにも等しい妻である。最近、色々な人と話すようになってはきたものの、根本的に人を疑うことを知らず、また誰からも守られてきたカロリーナの言うことに関しては、ジルファスも子供レベルだと思っているところがあった。


「・・・? まだ私、何も言ってはおりませんわ、ジルファス様?」

「ああ。今から部屋で聞こう。ちょうどカロリーナの顔を見たいと思っていたんだ」


 カロリーナを追いかけてきたらしい侍女にジルファスが小さく頷いてみせると、侍女もジルファスと一緒ならば大丈夫と判断したのだろう、安心した様子になる。

 ジルファスは、自分に会いに来ようとしていたと聞いて目を輝かせる妻に微笑んだ。

 救いは、このハインツ城で生まれ育っただけあって、ハインツ城にいる使用人達がカロリーナの味方だということだろうか。そうでない侍女などは排除されていくらしい。


(どの使用人にとっても、男爵一家の非業の死は負い目でしかないのだろう。せめてカロリーナだけでも守りたいのだ)


 ハインツ男爵家令嬢カロリーナといえば、雷が鳴っても怖がって泣き、男の姿を見ただけで侍女の後ろに隠れる深窓の姫君である。ジルファスと初めて会った時も、いきなり求婚したが為に気絶したのは語り草となっていたとか。

ハインツ城に勤める男達も、カロリーナに関しては、「見るな・聞くな・声を掛けるな」的な扱いをしているところがあった。その姿を見かけたら即座に侍女へ通報すべしという暗黙の掟もあったらしい。最弱なのに、誰の手出しをも許さないという意味では最強かもしれない存在だ。

だが、それもキニーツ家に嫁ぐまでの話であり、キニーツ家からジルファスと共に領主夫妻として戻ったカロリーナは、人見知りはするものの、人との交流をすべく努力するようになっていた。

そんな彼女の努力を、城中の人間が絶賛応援キャンペーン中である。「ただし、相手が城の人間である限り」だが。


「実はですね」


 とても重大なことを教えるのだと言わんばかりに、カロリーナは真面目な顔で言った。


「夫婦というのは似てきてしまうものらしいのです」

「・・・・・・」






 風にも折れそうな儚いカロリーナに一目惚れしたジルファスだったが、こうして少しずつ、それこそ恐々(こわごわ)とした手さぐり状態でも世間を知ろうとしているカロリーナもまた可愛いと思っている。

 少しだけ積極的になったカロリーナは、子猫のように愛くるしい。ついでに子猫のように目が離せない。・・・何を自縄自縛(じじょうじばく)レベルでやらかしてくれるか分からないという意味で。

 そういうわけで、ジルファスもカロリーナが部屋を出てきた時にはきちんと行動を把握するよう心掛けていた。所詮、カロリーナにかこつけて自分が一緒にいたいだけだろうと、周囲にバレてはいるけれど。


「私も本当かなって思ったから、他の人にも訊いてみたのです。そうしたら、誰もが『ええ、そうですよ。夫婦は似てくるものなのです』って言うんです」

「まあ、よく言われることだな」


 ジルファスはソファに腰掛け、妻の波打つ髪を撫でてやりながら話を聞いていた。

 カロリーナもジルファスの横にちょこんと腰掛け、甘えるように寄り添いながら話している。

 夫婦二人きりの室内といえど、こんな日中から同じソファに腰掛けてベタベタしているだなんて、何とも自堕落なことだと言えよう。それでもジルファスは、愛しいカロリーナに昼日中(ひるひなか)でも触れていたくて、

「二人きりの室内ならこうやって傍にいていいのだ。ただし、誰にも内緒で」

と、教えてしまったのだ。するとカロリーナは、

「まあ、そうなのですか」

と、微笑んできた。それ以来、二人きりになると、一緒にいちゃいちゃしている。

ジルファスも、結婚当初はカロリーナの儚いイメージが大きすぎて騙されていたのだが、どうもカロリーナは人間付き合いが希薄だったせいで、普通の行動を知らないところがあった。

 その為、「こういうものだよ」と教えたら、「分かりました」と、鵜呑みにしてしまう。


(問題は、俺以外にカロリーナに変なことを吹き込む人間がいてはならないということだ)


 従って、誰かに何かを聞いたとしても、ちゃんと他の人にも意見を聞いて総合的に判断するようにと、懇々(こんこん)と言い聞かせる羽目になった。主にケリスエ将軍のせいで。


(戦場にいる俺の所に連れて行ってあげるからと、一回しか会ったことのない将軍に言われてそのままついていくだなんて・・・。あれが他の人だったらどういうことになっていたと思っているのか)


 警戒心など子犬以下ではないか。話にならない。

 こんなにも頼りない妻など、自分が全てにおいて守ってやらないと生きていけないだろう。

 ジルファスからその話を聞かされたハインツ城の侍女達も、「絶対お嬢様を城にやってくる人間と話をさせるわけにはいかない」と、気合を入れなおしたらしい。もうお嬢様ではなく奥様なのだが、・・・ハインツ城の侍女達には、まだお嬢様なのだろう。


「そうなると、私もジルファス様のように大きくなっていくのですね」

「うん、違うな」

「じゃあ、ジルファス様が私のように小さくなるのですね」

「それも違うな」


 迷子になった子供のように、途方に暮れるカロリーナだった。


「それは、見た目ではなく、心の中身が似てきてしまうということだ。たとえば、同じ物を好きになるようになったり、似たような考え方をしてしまうようになったり、・・・そういうことだな」


 するとカロリーナは水色の瞳を大きく見開いた。


「・・・まあ、どうしましょう。私がジルファス様のように頼りなくなってしまったら、私、どうやってジルファス様を守って差し上げたらいいのかしら」

「・・・・・・」


 カロリーナは、自分の何を守ってくれているつもりだったのだろう。

 ジルファスは大いに考え込んだが、しかし、そんなカロリーナの可愛いところも自分が守ってやらねばと思うことで、聞かなかったことにした。

 





 ハインツ城におけるカロリーナは、女領主という立場になる。

だが、そんな領主としての仕事など誰もカロリーナに期待していない。ジルファスがいてくれて助かったと、城中の皆が思っている。

 では女主人として采配(さいはい)(ふる)っているかといえば、それもない。

思い詰めたりした時には変な行動力を発揮するカロリーナだが、普段は部屋の外に出る時でもこっそり扉の陰から廊下を覗いて、なるべく誰もいなくなってから出て行こうとするぐらいに人見知りな性格だからだ。

 人と話すようになったと言っても、未だに失敗も多い。 


「あら? カロリーナ様が」

「まあ。危ないから引き離しておかないと」


 何を考えているのか、カロリーナは武器庫で、槍をつんつんと触っていた。

 すかさず侍女の一人が、

「カロリーナ様。ちょうど果物をお部屋にお持ちしようと思っておりました。カロリーナ様がいてくだされなくては、果物も困ってしまいますわ」

 と、声を掛けて部屋に連れて行き、もう一人の侍女はジルファスの所へと行き、

「先程、武器庫でカロリーナ様が槍をお触りになっていらっしゃいました。危ないので武器庫を閉鎖するか、槍を固定しておいてくださいませ」

と、苦情を申し立てた。素晴らしき連係プレーだ。

 カロリーナに「危ないから触らないでください」と注意しないのは、彼女のやる気を挫かない為でもあった。否定的な言葉を口にしないよう、侍女達も侍女達なりに配慮している。

 早速、ジルファスは使用人に命じて武器庫を閉鎖させた。


「ところでカロリーナ。先程、槍を触っていたそうだが?」


 部屋に行くと、カロリーナは姫林檎(ひめりんご)(かじ)っていた。ジルファスを見ると、嬉しそうに、それを口元へと差し出してくる。


「ふふっ。美味しい、ジルファス様?」

「ああ」


 姫林檎を口に押し込まれたジルファスを見てカロリーナが笑ってくるので、ついジルファスも笑ってしまうのだが、別に姫林檎を食べに来たわけではない。

 そんなジルファスの気持ちに気づいたのだろう、カロリーナは真面目な顔になって言った。


「そうそう。私、槍をお部屋に置いておこうと思うのです」

「・・・どうしてだ?」

「何が起こるか分かりませんもの。せめてお部屋に槍を置いておけば、誰かがいきなり城を襲ってきても戦えますでしょう?」

「・・・・・・」

「何も出来ずに泣いているのは、・・・もう嫌なのです」


 ジルファスは何も言えなかった。

 高台にあるハインツ城から、墓地の方向へ向かってカロリーナが毎日祈っているのは知っている。

 先代領主であるハインツ男爵夫妻、そしてその長男夫妻の部屋にしても、ジルファスは今しばらくの間、手をつけずにそのままにしておくよう命じていた。

 愛する家族が亡くなったことを受け入れても、心の折り合いなど簡単につけられるものではないのだ。

 せめて彼らの部屋だけでも生きていた時のままにしてやりたかった。カロリーナの為に。

 

「カロリーナ」

「もう二度と・・・奪われないって、決めたんです。だから・・・」


 はらりと、カロリーナの瞳から涙が落ちた。

ジルファスは黙って彼女の体を抱きしめた。

 人の心など、こうやって何度も揺さぶられてしまうものだ。乗り越えたと思っても、その恐怖に何度も捕まり、同じ苦しみを繰り返す。

 人の体も心も同じことだ。大きな傷は月日の経過と共に塞がっても、何かの折にはすぐに痛みがぶり返す。時には身動きすらとれない苦痛を伴って。


「お願い、ジルファス様。・・・私、もう、あなただけは・・・っ」

「分かった。分かったから・・・、カロリーナ」


 ジルファスの背中にまわされた手は震えている。

 明るく振る舞っていても、こうして時折、彼女の心は過去に囚われ、血を噴き出すのだ。

 それで落ち着くのであればと、ジルファスは受け入れてやるしかなかった。






 結果として、周囲にぼろくそに(なじ)られたジルファスだった。


「そこは『俺が守ってやるよ』と仰有(おっしゃ)ればいいだけのことでしょうに」

「全くですわ。槍だなんて、そんな物をお部屋に置いておいて、カロリーナ様が倒して怪我なさったらどうしてくださるんです」

「本当に。カロリーナ様は怖がりなんです。目を瞑って槍を突き刺そうとするに決まってます。同士討ちになるだけではありませんか」

「ちょっとおねだりされたら全て受け入れるんでは、ただのヘタレですわ、旦那様」


 実質的な領主としてハインツ城で一番偉い立場だと思うのに、どうして自分は侍女達にここまで言われなくてはならないのだろう。

 ジルファスは遠い目になった。

 

「そうは言うが、あんなにも震えているカロリーナを放置もできまい。それで落ち着くならいいではないか。槍の先端は、危なくないように丸めておこう。・・・お前達もなるべくカロリーナについていてやれ。男爵ご一家の話だと、カロリーナも気が紛れるらしい。ご生前の楽しい話をしておいてくれないか」


 侍女達も、カロリーナが望んだことである以上、仕方がないと思ってもいたらしい。


「かしこまりました」

「なるべく数名、常にカロリーナ様につくようにしておきます」

「臥せりがちだとお客様も断っておりますので、どうぞご安心くださいませ」


 ひとしきりジルファスに苦情を言って気が済むと、それぞれに持ち場へと散っていった。元より、ジルファス自身が自分よりもカロリーナを優先しろと命令しているからなのだが、人というのは難しいと、ジルファスは思った。

 それはどんなにキニーツ領に近くても、ハインツ領はラファイ王国の中にあったことも影響していたかもしれない。細かい感覚は、やはりキニーツとハインツでは違うことがあった。






 カロリーナは満足そうに、部屋の入り口近くの壁に太い紐で固定された槍を眺めた。

 できれば紐を解いて手に取ってみたいのだが、それは禁止されている。


「お嬢様。そんなに気に入ってしまいましたの? 槍だなんて、危ないではございませんか」

「だけどエルザ、これで安心でしょ?」


 そう言って、カロリーナはエルザに振り返った。


「これでジルファス様も私が守って差し上げるんだから」

「ま、ご馳走様でございますこと。本当にお嬢様ったら旦那様がお好きですのね。ジルファス様も、お嬢様にそこまで愛されていらっしゃるんですもの。とてもお喜びでしょう」


 カロリーナ付きの侍女は全員、ジルファスがカロリーナと出会った当時を知っている。女性に対するアプローチは落第点だったジルファスだが、カロリーナへの想いは本物だ。そしてカロリーナも。

 エルザは、カロリーナの手を取ってソファへと促した。


「どうぞお座りなさいませ、お嬢様。卵と木の実で出来たお菓子ですわ。お好きでしょう?」

「ええ、ありがとう」


 カロリーナにしてみれば、エルザは気のおけない侍女だ。何かと相談もすれば、内緒話もしてしまう。

 菓子を齧りながら見上げてくるカロリーナの表情だけでエルザは会話を望まれているのだと察し、自分から話の糸口を探した。


「ですがお嬢様。槍ならば、それこそお嬢様よりもジルファス様の方がお得意だと思いますわ。そういうことは殿方にお任せしておくべきですわよ」

「そうかもしれないけれど。・・・これは、・・・そう、これは気合いの問題なのよ」

「気合い、ですか」


 いらぬ気合いは持たないで欲しいものである。エルザはそう思った。

 しかしカロリーナは大きく頷いた。


「だってジルファス様って私が守ってあげなきゃどうしようもないでしょ?」

「・・・・・・」


 産まれたばかりの赤子ならいざ知らず、カロリーナに守ってほしいと思う人間は、この城に一人として存在しないだろう。

 エルザはフッと吐息を漏らし、それから慈愛と寛容に満ちた笑みを浮かべた。


「お嬢様。ちょっとお疲れなのですわ。・・・きっとご自分が何を仰有っているのかもお分かりではないのですね」

「何よ、エルザったら信じてないのね。言っておくけど、ジルファス様って私が守ってあげなきゃどうしようもないぐらいに世間知らずなのよ」


 カロリーナは、むぅっと頬を膨らませた。ジルファスの前では一途で純真な妻だが、エルザの前では、ちょっと甘えん坊な妹のように気兼ねなく振る舞うカロリーナだ。


「まあ、そうですの」

「そうよ。だってジルファス様って本当に何も知らないのよ。だって私に、他に人がいなければ、夫婦はソファで横に並んで座るものだっておっしゃったのよ。そんな筈ないのに」


 その通りである。いくら仲が良くても、そんなことを堂々と言っても認めてもいけない。それが常識だ。ただし、キニーツならば。

 けれどもエルザにとっては、大事なお嬢様が愛されているかどうかが全てだった。


(本当にジルファス様ったら、カロリーナ様しか目に入っていらっしゃらないのね)


 ハインツ領、イアプト領、キニーツ領、それぞれで侍女として働いてきてしまったエルザは、その三つの領内における文化や風習、価値観はきっちり把握済みである。領主一家に仕える者である以上、それができなくては下働きに落とされてしまうからだ。

 とりあえずエルザは、カロリーナに喋らせてみた。


「普通、夫婦っていうのは、誰もいない室内なら一緒に体を重ねて座るものよね」

「・・・・・・」


 カロリーナは城の奥深くで女性だけに囲まれて育っただけあって、人見知りではあったが女性同士の噂話には詳しかった。

 キニーツよりも南西にあるハインツでは、昼間でも夫婦で膝枕をしたり、互いの体を抱きあったりと、かなりベタベタしていても許される。尚、キニーツでは夫婦であっても、日中は慎みをもって行動するものであった。

 ジルファスはカロリーナが何も知らないからと少しいちゃつきたくて嘘を言ったのだが、カロリーナにしてみれば、夫婦というものはもっといちゃいちゃしているものなのだ。何て世間知らずな旦那様なのかしらと、本当は目が点になっていた。ジルファスを傷つけたくなくて言わなかったが。

 ここで部外者であるエルザだけが正しい状況を把握したが、何と言うべきか、かなり迷う。


「それにね、ジルファス様ったら、ハインツ家の親戚が会いに来ても、愛想がいいでしょう? 全く、危機感がなくて困るわ。あれって、ジルファス様と私を別れさせて、このハインツ領を乗っ取ろうとしているだけなのに」


 ジルファスとカロリーナの間に子供はいない。離縁というよりも婚姻自体をなかったことにして、うやむやにしてしまえばどうにでもなる。カロリーナにはハインツ領がついてくるのだ。

ジルファスのような大柄な外国人など怖いだけだろうと、カロリーナを口説き落とそうとする遠縁の男女が、ちらほらとハインツ城には現れていた。

さすがのカロリーナも彼らの思惑を察し、なるべく彼らをジルファスには近づけたくなくて、自分が会うようにしていた。

が、しかし。ジルファスは、そんなカロリーナの思いも知らず、彼らが来ていると知るや否や、カロリーナ達の所に現れて、にこやかにしながら彼らを酒盛りの席へと誘って連れていくのである。・・・カロリーナにしてみれば、あんな人間達に愛想よくするジルファスが信じられないとしか言いようがない。


「全く、ジルファス様ってば、私と結婚生活できなくなるって分かってるのかしら。最近、あの人達、来なくなったからいいけど」


 ジルファスにしてみれば、カロリーナにこそ、そんな人間を近づけたくなどない。

 最近、そういった輩が来なくなったのは、侍女達がジルファスに彼らの思惑を伝えた結果、体の弱いカロリーナは臥せっているという話をでっち上げ、キニーツで静養させていると、面会を断るようになったからである。勿論、カロリーナには彼らの手紙も渡していないし、来訪の事実も教えていない。


「しかも、私が短剣の使い方を教えてくださいって言っても、ジルファス様ってば大きな剣の持ち方しか知らないって仰有るのよ? 私じゃ大きな剣は重くて持てないもの。普通、短剣の持ち方ぐらい知っていてもいいと思うでしょ? なのに、ジルファス様ったらあんなにたくましくていらっしゃるのに何も知らないんだから」


 短剣の使い方など教えて振り回されたら危ないではないか。護身用だからと枕の下に入れて休むようになったりしたら、ふとした拍子に鞘が外れた剣でカロリーナが怪我してしまう。

 ジルファスだけでなく、この城の人間がカロリーナに短剣の使い方を教える日は来ないだろう。

 エルザはそのまま退室したい気分になった。


「だからね、あんな頼りないジルファス様、私が守ってあげるしかないじゃない」

「・・・・・・」


 うん、それで幸せならどうでもいいのではないだろうか。

 エルザは匙を投げることにした。

 ジルファスだって妻にこんな評価をされているのは不本意だろうが、どうせ聞いたところで、そんなところも可愛いなとか言い出す程度のことだろう。


(・・・夫婦って似てくるものなのね)


 かつてキニーツのジルファスといえば、真面目で仕事熱心だが、女に媚びることもなく、どちらかというと女には冷淡でもあったとか。

 そしてハインツのカロリーナといえば、儚げで美しいものの、男と口をきくこともできない、それこそ両親ですら嫁がせるのを諦めていた姫である。

 しかし、今やどうだろうか。

 どちらもぬけぬけと、自分の配偶者は、自分が守ってあげないと駄目な人なんだからと、惚気てみせるときたものだ。


(恋愛は、嘘と誤解と思い込みの上に成り立つものだとは言うけれど・・・)


 出会った当時は全く違う二人だった筈なのに、今となっては二人でワンセット、まさによく似た二人になったものだと、溜め息をつくエルザだった。

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