11 ただそこにある日々(ロシータの初デート)
○月×日
匿名X:俺、見てしまったんです・・・。王宮の女官と第六部隊長が密会しているのを。浮気なんでしょうか。そこは見なかったふりをしたものの、言いたくてたまりません。
匿名A:結婚した途端、浮気とは・・・。男だな、第六部隊長。
匿名B:密会って言うが、・・・単に立ち話してただけじゃねえの? あの男が今更浮気するかねえ?
匿名X:いや、それが二人きりで王宮の一室に消えてったんですよ。しかも、しばらく出てきませんでした。
匿名C:浮気なんて誰でもするだろ。だけど、それなら俺が後釜に名乗りをあげたいね。最近、将軍も可愛くなった気がしねえ?
匿名D:そうだろ。可愛くなっただろ、将軍も。お前、分かってるな、C。だけど手は出すなよ。命が惜しければな。
匿名E:第六部隊長なら、たしか王宮の女官に髪の手入れ方法から衣装の見立て方などを教わっている筈だが。・・・そこで扉を開けてみたら、きっと肌の手入れ方法とかを教わってる様子を見られたことだろう。
匿名X:E、そっちの事実を知るぐらいなら、浮気だと信じていたかったです。
匿名B:ああ、やっぱりそんなオチかよ。
何でもない日々にこそ幸せは存在するのだと、カロンは思った。
「針と糸も見たいわ」
「かなり駄目にしたからな。布も買っていくか?」
「そうね。いいのがあればいいんだけど」
少し遅めの朝食を済ませ、二人は徒歩で買い物に出てきていた。
しかし、カロンは何かと街を見回っているので顔が知られている。私的な買い物で店に行こうものなら、「いつもお世話になってますから」と、無料で品物を渡されてしまう可能性が高かった。
ケリスエ将軍に至っては、最初から買い物に来るとも思われていないが、カロンといれば誰かだなんてすぐにバレてしまう。
それを話すと、ケリスエ将軍は「なるほど。こっちは教えていなかったか」と、面白そうに笑うと、カロンを浴室に引っ張り込んだのである。
「まずは髪だな。お前なら褐色にするだけでも違うだろう」
「・・・何もこんなことまでしなくても」
「いいから。ほら、髪を染めたら、今度はこっちの染料を油と混ぜて肌に薄く馴染ませていけ。少し赤銅色がかるから」
「はあ」
そうして出来上がった姿は、ちょっと色を変えただけなのに、かなり印象を変えていた。
日焼けしているのは同じだが、カロンの肌質的にこういった赤みがかった色に焼けることはあり得ない。少し異国の血が入っているのだろうと思わせる肌になっている。染めた褐色の髪も相まって、どこかくだけた、明るく近寄りやすい雰囲気が生まれていた。
髪型も分け目をいつもと違う位置に変えさせられ、更に一部を撫でつけられる。
「服装も街の人間っぽくしてみろ。お前はいつも濃い色を着ているからな。たまにはこういう優しい色合いにしてもいいだろう。あ、剣は提げるなよ。その代わりに腹と靴に小剣を仕込んでおけ」
「・・・そりゃ普段、こんな水色のシャツとかは着ませんけど」
だが、知り合いに見られたら何と思われるやらである。一通りコーディネートされたカロンは、目の端に映る髪の色に違和感を感じながらも、小剣を仕込んだ。丸腰というのはやはり落ち着かないのだ。
その後、ケリスエ将軍も着替えると言いだしたので黙って待っていたのだが、やがて現れた姿に、カロンは顎を落っことしそうになった。
「って、何、女装してるんですかっ」
「失礼な。私は男じゃないんだぞ」
「そりゃそうですけど」
髪を女性らしく結い上げてしまえば、いつもの流しっ放しの髪型とは全く違う姿になる。きっちりと結い上げるのではなく、あくまでふんわりとした感じにまとめているせいだろう、きりっとした顔立ちなのに柔らかい印象が生まれていた。
更に街娘らしく模様のある布を襞が出来るように頭にヘアピンで固定させてしまえば揺れる布で顔の輪郭は隠れやすい。頭から掛けた布が、どこか清らかなものを醸し出す。
将軍の方は、色合いなど全く変えていないのに、それだけでガラリと印象が変わっていた。そうと見るのでなければ、これがケリスエ将軍とは気づかれないだろう。
丈の長いスカートと、反対に丈の短い上着は、同じ濃緑色の揃いで出来ている。白いシャツの上からその上着を羽織ってしまえば、背の高さこそ誤魔化しようがないが、鍛えられた体は分からない。
「似合わないか?」
「いえ。というか、そういう格好も出来るんなら普段も屋敷でしてください。かなり似合っているので驚いてます。そんな服も持っていらしたんですね」
「面倒だから普段は断る。・・・だが、男でも女に見せかけられないわけじゃないんだぞ。やってやろうか?」
「遠慮します」
「みんなそう言うんだな。北の国でも、小柄な奴に女装させてやろうかと思ったんだが、半泣きになって嫌がられた」
「当たり前です」
ケリスエ将軍は「まあ、口を開いたら男とバレるから、仕方ないと諦めざるを得なかったがな」と、ぼやいている。
(これじゃ普通の女性にしか見えない。・・・だが、言葉づかいで眉を顰められそうだ)
普段は凛々しい格好なのでそういう口調も似合っているのだが、女らしい格好でのそれは、かなり違和感がある。
花咲くような印象も、可愛らしい印象もないが、元々の目鼻立ちは整っている。これなら王宮の女官クラスは十分いけるだろう。少し化粧をすれば、・・・そう言えばどうして化粧をしていないのだろう。
「ところでライナ。そこまでしたなら、どうして化粧もしていないんです?」
「ああ。化粧はな、・・・目立ちすぎる」
「は?」
成人女性が化粧をしない方が目立つ気もするのだが。そんなカロンの疑問は顔に出ていたのかもしれない。
「あー・・・。お前には分からんかもしれんが、化粧ってのはするだけで一気に印象が変わるタイプや、してもあまり印象が変わらないタイプってのもあるんだ。たとえばどう見ても男なのに、化粧をした途端に女にしか見えなくなる奴もいる。これはもう、どこがどうというのではなく、そういうものなんだ」
「はあ、そうなんですか」
「で。私の場合なんだが、化粧を顔にのせただけで、人の心に残りやすい顔になるんだ」
言われてみれば、あの肌を褐色に染めていた時も別人かと思ったぐらいだ。あの時は、頼りなさと妖艶さを足したようなものがあった。どこか手折りたくなるような。
「化粧映えがするってことですか」
「ああ。だから必要がない限りしないことにしている」
「なるほど。・・・どこでそんなことを?」
「師匠から教わったに決まってるだろう。お前に教えなかったのは、お前が男だからだ。・・・さすがに変装を教えていなかったことに気づいたのは今さっきだが。何なら化粧も教えようか?」
「いいです。俺の体格では無理です」
「だよな。だから私も忘れてたんだ」
「・・・・・・」
やっぱりこの人って戦うこと以外は欠陥人間なのではないかと、改めてカロンは思った。真面目そうな顔なので騙されてしまうが、実はかなり適当な性格をしている。いや、そういうところも好きだけど。
「じゃあ、行くか。もうすぐ兵士達も昼の休憩をしに帰宅するだろう。その時にさっと出ればいい」
「はい」
「お前、その言葉づかいは外ではよせよ。かなり浮く」
「分かりました」
そうして、まさに誰にも気づかれず、二人は屋敷を出てきたのである。
特に何を変えたという程ではなかったが、イメージが変わるとこんなにも気づかれないものかとカロンは思った。ましてや女物の服を身につけたケリスエ将軍は、普通の女性にしか見えない。
見回りの兵士とすれ違いもしたが、全く気づかれなかった。それでも声で気づかれてはと思い、二人とも互いに聞こえる小さな声でしか会話していなかったのだが、そうなると余計に寄り添うわけで、カロンはかなり感動していた。
(面倒でもいい。これからもこうやって買い物に行けるなら喜んで肌でも髪でも染める。・・・ついでに染め粉も買っていっておくか? いや、今度街を見回る時にでも買っておこう)
二人きりで暮らすとなると、カロンとて副官や従者に買い物を頼んでおくというわけにはいかない。それでも、それを不便と思うどころか、(ずっと二人暮らしでいい)という結論に達するのは早かった。
何よりも人混みの中、離れ離れにならないようにと、その腰にずっと手をまわしていても怒られないのだ。
普段なら「べたべたするな」と追い払われるだけだが、女性の格好をしている時は女性らしい仕草と言葉づかいをケリスエ将軍は心掛けていた。
(やるとなったら完璧にしたい人なんだろうな)
普段なら水たまりなど自分でよけるなり跨ぐなりするくせに、この時だけはカロンの腕に体を預けながらそのまま一緒によけていくのだ。いつものように背後を守るのもいいが、こうして連れだって一緒に歩くのはかなりいい。
「お、ヨイネ」
「サフィヨール殿のお使いかしら」
「かもしれないな」
目の前にあった鍛冶屋にヨイネが入って行った。互いの距離は大して離れていなかったのに、ヨイネはカロンにもケリスエ将軍にも気づかなかった。二人はクスリと笑う。
「本当に気づかれないんだな」
「そうよ。だから堂々としてればいいの。あと、あまり背筋を伸ばさないで。軍人っぽい歩き方や姿勢はとらないのよ」
「ああ」
仲の良い恋人同士のように二人は互いを見交わしながら微笑み、鍛冶屋を通り過ぎた。
布も針も買った。野菜と果物、今日焼き上げたばかりというパンも買った。新鮮な鱒が売られていたので、今夜の夕食にすることにした。後は肉だろうか。
「いい脂が入ってるわね。この豚で作りましょうか」
「そうだな。これならいい味になるだろう。猪も混ぜるか?」
「そうね」
肉屋でも二人で話し合いながら買うものを決めていく。肉を野菜と共に叩いて刻み、深めの容器に入れて焼き上げれば、その脂が肉の上部を覆い、やがて冷えれば蓋の役割を果たして腐りにくくなるのだ。いい脂がさしている肉だった為、その豚と猪で明日以降でも食べられる保存食を作ろうと即決した。余ったら、燻製にしてもいい。
そんな二人の様子を見て、肉屋の店主も話しかけてくる。
「二人とも見かけねえ顔だが、旅の人かい?」
「いや。これでもロームに住んでいるんだ。この豚をこれ位と、あと猪はその半分位で」
「あいよっ。・・・兄さんもわざわざ奥さんの買い物につきあってやるなんざ、いい男じゃねえか」
「やっぱり結婚してるって分かるもんかな。恋人同士に見られたかったんだが」
そこでチッチと、店主は指を振った。
「そりゃ無理だ。花ならともかく、一緒に肉を買っていって恋人同士ってのはねえだろうよ。それにお宅らは、最初から相手への信頼感があり過ぎる。恋人同士ならそこまでの呼吸はねえ」
「なるほど。・・・これは一本とられた。やはりたまには花を贈るべきか」
「いやいや。別嬪な奥さんじゃねえか。しかも料理上手ときたなら尚更だ。大事にしてやんな」
「ああ、そうするよ」
別嬪と言われてにっこり微笑んだ姿に店主も舞い上がったのだろう、おまけにと鶉の肉も入れてくれた。それは一緒に刻んで混ぜ込めばいいだろう。味に複雑さが出る。
カロンが代金を払ってその場を一緒に離れると、何故かケリスエ将軍は恨めし気な顔で見上げてきた。
「どうかしたか? お前の愛想笑いのおかげで、鶉も得したのに」
「自分でも自分へのダメージに驚いているのよ。考えてみればどうして潜入しているわけでもないのに、私は笑顔を安売りしているのかしら。なぜ、大事にしてやれとあなたが言われてるのかしら」
普通、言われるのは私じゃないの? と、ぼやくのは、どうも自分の方がカロンを庇護する立場だと思っているかららしい。カロンは将軍に気づかれないようクスリと笑った。
(普段は笑顔すら人前では計算して作っていることが多い人だからな。・・・人を動かすといった理由でなく、結果として鶉肉の為に笑顔というのは、ちょっとない経験だったんだろう)
あとは屋敷に帰るだけだ。買った物は全てカロンが担いでいるが、鍛えられた人間にとっては大した重さではなかった。
店のあるエリアを抜ければ、道の両側はまばらな商店や民家、そして空き地などである。歩いている人はいるが、ぶつかる程ではない。
「目的がなけりゃ笑わないと決めたものでもないだろう。店の親父だって喜んでたじゃないか。普段だってもっと笑えば、皆喜ぶだろうに」
「そういう問題じゃないわ。大体、こんな格好をして女性らしく振舞っていたのは鶉の為だったのかしら。普通、もっと戦略的なものの為にすることじゃないの。そう考えてみれば、あなた一人で買い物に行かせても良かったんじゃないかしら」
少し唇をとがらせて拗ねている様子のケリスエ将軍は、どうして自分が鶉の為に愛想笑いをしているのかと、己の存在意義について考え始めているようだった。
「俺は一緒に出掛けられて嬉しいけどな。いつものお前なら、こうして横を歩けない。買い物よりも、そのことが俺には特別だ。一人で来てたら、こんな時間なんて知らないままだ」
「別に歩けばいいじゃないの。私は前でも横でも気にしないわ」
不思議そうな顔になる所を見ると、本当に気にならないことなのだろう。今は演技する必要もないからだ。
(この人、自分が三人しかいない将軍の一人って分かってるんだろうか。分かってはいるんだろうけど)
どうせ誰がどの位置にいようがどうでもいいと思っているのだろう。部下達に規律を求めているから誤解されがちだが、本人に関係することでは規律もへったくれもないことが多い。この人の師匠とやらは、どんな教育をこの人にしたのだろう。
「冗談。俺達が序列を崩したら終わりだ。それに・・・」
「それに?」
「お前の背中を守るのはいつだって俺でありたい」
「・・・・・・真面目な顔で何を言うかと思えば」
虚を突かれたか、その顔がかぁっと林檎のように赤く染まる。
ケリスエ将軍にしてみれば、騎士団の人間は自分こそが守り導く存在である。カロンも然りだ。戦の時は「将軍を守れ」という掛け声もかかるが、それでも自分で自分を守り続けてきた。まさか背中を守りたいなどと、言われるとも思わなかったのだ。
(え。嘘。何、この反応)
昼日中、思いがけない言葉に純情な娘の如き反応をした将軍の姿は、普段とあまりにギャップが大きすぎた。まるで付き合い始めた恋人を思わせる反応である。
「えっ、・・・ちょっとっ」
「ごめん。先に謝る」
ちょうど建物の陰があったのを幸い、カロンは発作的に腰に腕をまわして少しその体を持ち上げると、そこに連れ込んで口づけた。
「って・・・こらっ」
こんな誰に見られるとも分からぬ屋外でこういったことをするなど、普段のケリスエ将軍ならば許さない。それこそ、鉄拳制裁が入るだろう。
なのに、その手がやめさせようとカロンの腕や肩を叩いてくるが、本当にこういう時はなりきるのか、威力が小さかった。しかも全くもって急所を外している。・・・どこまで完璧主義なのだろう。
(俺はおかしいんだろうか。こういうか弱いこの人も嬉しいけど、あの拳が来ないのが寂しいとか思うだなんて)
それでも白昼堂々と屋外で口づけるだなんて二度と巡ってこない機会かもしれない。そう思えば、貪るようにしっかり堪能してしまったカロンだった。
人通りがないわけじゃないが、恋人同士ならそんなことはよくある。街角で口づけている恋人達の邪魔をするような野暮な人間などいやしない。
互いの唇が離れた時、それこそ涙を滲ませて睨みつけてくるケリスエ将軍は、思った通り怒っていて・・・。
(怒ってる怒ってる・・・。やはり人目があって抵抗できなかったのが悔しかったんだな)
普通、女が体格差のある男を殴り飛ばしてしまえる筈もない。まだ抵抗しながらも口づけられている方が目立たないと判断したのだろう。ただ、判断はしたものの・・・不本意だったに違いない、かなり。
「ごめん。つい・・・」
「つい、じゃないでしょっ」
「本当に悪かった。だけどあれで何もしないってのは、ないと・・・」
「何もしちゃ駄目でしょっ」
「・・・努力する」
極まりが悪いのか、スタスタと歩いていってしまうケリスエ将軍に、カロンは慌てて駆け寄って並んだ。このままだと置いて帰られてしまう。
「あまり早歩きが過ぎるとおかしいだろう。普通の女性はそんなに早く歩かない」
「・・・誰のせいよっ」
「俺のせいだ。全ては俺が悪い。すみません、ごめんなさい」
よほど恥ずかしかったのか、泣きそうな顔になりながら下を向いてさっさと歩いていく。その腰に手をまわして、カロンは同じ歩調へと緩めさせた。
「本当にすまない。まともに抵抗できないと知っててすべきじゃなかった。反省する」
さすがにそこまで言われると、あまり怒るのも大人げないと思ったのだろう。きゅっと唇を噛んでから、漸く横にいるカロンを見上げてきた。
「全く、一体何なの、もう」
「え? そりゃだって・・・。好きな人が自分の言葉で赤くなってくれたら誰だって嬉しいし、理性が飛ぶのも仕方ないんじゃないかと思うんだが」
「何を恥ずかしいことを」
再び赤くなりながらも、馬鹿じゃないのという表情で大きく息をつく。(あ、これなら許してくれそうだ)と、カロンは胸を撫で下ろした。ちゃんと理由を言えば許してくれることが多いのだ、この人は。
「反省の気持ちを込めて、お詫びに帰ったら林檎と小麦粉を混ぜて焼いたのを作るよ。あれ、好きだろう?」
「何よ。食べ物で誤魔化す気?」
「誤魔化されてくれないか? 蜂蜜もちゃんと入れる」
少し考えている様子である。カロンの腕を手で握ると、コツンとその頭をカロンに当ててきた。
「端っこはカリカリに焼いてくれる?」
「勿論」
どうやら、変装している時はこういうことすら振る舞いを変えるらしい。普段なら、こんなおねだりなんて絶対にしない。何かを作って持っていっても「ああ、美味いな」で終わりだ。
(あのカリカリした部分が好きとは知らなかった。今度から少し長めに焼こう)
なんにせよ交渉は成立した。ケリスエ将軍はこれで人に任せっぱなしにしない人だ。きっと一緒に作ってくれるだろう。この人となら料理も楽しい作業になる。
「だけど早くうちに帰りたいよ。こういう話し方は落ち着かない」
「そう? だけどその格好ならそういう話し方じゃないと不自然よ?」
「お前に対して偉そうに話すのはどうも・・・」
「情けないこと。それじゃどこにも入り込めないわよ。・・・そうだ、今度は変装した姿で地方に行きましょうか、別人になりきって。何事も慣れよ」
「その場合、お前の格好は?」
「私、男にも化けられるのよ」
「絶対に嫌だ。その際は女装で」
「スカートで長く馬に乗れるわけないでしょ。何を言ってるのかしら、このお馬鹿さんは」
「いや、本当に勘弁してくれ。それだけは嫌だ」
たとえお馬鹿さん呼ばわりされても、それでもこうして並んで歩ける時間はとても楽しくて。
普通の恋人や夫婦であれば連れだって歩くことなど当たり前のひとときなのだろうが、カロンはそんなささやかなことに、じーんと喜びを噛みしめていた。
そして帰宅後には。
約束通りカロンが林檎を刻んで作り始めようとすると、ケリスエ将軍もそれを手伝ってくれたものだから、かなり手際よく調理も終わる。
「はい、どうぞ」
「ん」
水や材料の量を加減して、全体的にカリッと仕上げたそれはかなりお気に召したらしく、黙って食べている。
「それぐらいで良かったですか? もうちょっと焦げ目がついた方が?」
「いや。これぐらいがいい。・・・カロン、お前も」
ケリスエ将軍がそれを摘んでカロンの口元へと差し出す。その手を掴んでぱくりと食べながら、ついでにそれを挟んでいた指にもキスする。
「人の指まで食べるな」
「すみません。じゃあ、こっちを舐めさせてください」
カロンがケリスエ将軍の唇をついばむと、彼女もまたついばむようにカロンの下唇を軽く食んでくる。
「ライナ・・・」
「おい、カロン。お前、自分が髪と肌を染めてること忘れてるだろ」
「・・・・・・」
「ちゃんと浴室で落とさないと」
「・・・はい」
いい雰囲気になったついでに押し倒そうとしたが、人生は甘くなかった。
しかし、そこでカロンの顔が情けないものに見えたのだろうか。浴室で染め粉を落とそうとしたら、ケリスエ将軍は、カロンの頭を洗う手伝いをしてくれた。
「珍しいですね。いつもなら勝手に洗って来いというクチなのに」
「何でも、頭を洗うのはコミュニケーションとしていいらしいんだ。そう聞いた」
「・・・何のコミュニケーションか訊いても?」
「親子だったと思うが?」
「・・・・・・」
子供が悪さをして叱られた時など、泣きそうになっていたり、失敗して弱気になっていたりする時、頭を洗ってやるだけでかなり心が落ち着くと聞いたのだそうだ。
いささか思うことはあったものの、そこで苦情を言うよりも、一緒に入浴してくれるという一点を重視してカロンは口を閉じた。
世の中は、思いがけない流れになることがある。
ケリスエ将軍は、先程リガンテ大将軍から聞いた話を披露した。
「まさかの第四王子が王位に就いたそうだ」
北の国においては、前王妃の産んだ第一王子、現王妃の産んだ第二王子が王位争いをしていた筈だった。第一寵姫の産んだ第三王子ですら、正室腹ではないという理由で脱落していた。なのにどうして、王妃の侍女であった側室腹の第四王子が王位に就くことになったのか。
誰もが、「おやまぁ」である。
「では、第一から第三王子はどうなったんです?」
「三人とも亡くなったそうだ」
「・・・・・・」
クネライ第一部隊長の質問に、あっさりとケリスエ将軍は答えた。しかし、あっさりと答えられても内容はかなり怖い。
処刑か、暗殺か、病死か、事故か。どれであっても恐ろしい話である。
が、怖いからこそ聞きたいことはあるもので、ソチエト第五部隊長が質問する。
「どなた様もお若いのにお気の毒なことですな。で、死因をお尋ねしても?」
「暗殺なのだろうが、どれも病死となってはいる。ただ、第三王子はとばっちりというか、どうも自分達の担ぎ上げていた王子が亡くなったことから自棄になった第一か第二の取り巻き貴族がやったらしいな。第四王子はあまりにも問題外すぎて王宮にいなかったらしく、・・・つまり地方に都落ちさせられていたのが、命拾いした理由だそうだ」
「いや、何とも凄まじい話ですなぁ」
ハイゲル第二部隊長がしみじみと呟いた。権力争いとは熾烈なものだ。
「第四王子が王位に就いたは良いのだが、ここでもしも第四王子が亡くなったら、王妃の産んだ王女達の王位争いとなるらしい」
「・・・・・・」
まだ殺しあう気かと、それこそ聞いていた皆はうんざりした顔になる。うちの王宮は平和で良かった。
「第四王子は育った環境からも控えめな性格らしく、今回も兄王子がロームとやり合った賠償金はきちんと払うおつもりらしい。だが、もしもここで第四王子が亡くなられたら、第二王子と同腹の王女が王位に就く可能性が出てくる。そうなると同じ愚行を繰り返す可能性もある。・・・第四王子には長生きしてもらいたいものだ」
ただ、そこでふと何かを思い出したかのように、ケリスエ将軍は口角を上げる。
「おかげでエイド将軍が同情していたがな」
「なぜ、エイド将軍が?」
「北の国は、冬は氷で閉ざされる。従って暗殺が行われるとしたら、この冬だろう。内々で済ませられるからな。そうなると、今後どうなるか分からないというので、この冬はロメス殿をどこにも遊びに行かせてやれないらしい。うちを警戒しすぎて他国と手を結ぶ可能性もあるからな。つまりどこの国が北の国と協力してうちを攻めてくるか分からない」
あー、なるほどと、全員が納得する。
あのヤキモチ焼きなロメスは、ロイスナーのカレンに会いにもいけないということか。さすがにカンロ領ともなると、日帰りや一泊程度での往復は無理だ。
―――うん、ざまあみろ。
将軍の前なのでそんな気持ちがあることを誰もが顔には出さず、神妙な顔で言葉を紡ぐ。
クネライ第一部隊長「愛しい妻に会うこともできないとはお気の毒ですな」
・・・・・・けっ、ざまあみやがれ。調子こいてんじゃねえよ。
ハイゲル第二部隊長「全くですな。あれ程、奥方の為に張り切って武勲をあげられたのに」
・・・・・・はしゃぎすぎなんだよ、こっちよりも先に突撃なんぞしくさりやがって、あの小僧。
カリスフ第三部隊長「あの可愛らしい妖精もさぞ寂しい思いをなさっていらっしゃるでしょう」
・・・・・・実はかなりせいせいしてるかもな。
ソメノ第四部隊長「そうですな。あのとんでもない北方での戦いぶりを見たなら、きっと奥方も感じ入ることがあったでしょうに」
・・・・・・そして、そのまま捨てられちまえ。あの美女なら十分、違う男が名乗りをあげるさ。
ソチエト第五部隊長「ほう。そんなにも凄まじかったのですか」
・・・・・・限度っつーのを知らんガキはこれだから困る。一度痛い目に遭ってこいや。
サフィヨール元第六部隊長「そうですな。あんな悪魔と結婚していることを即座に解消しようとしたかもしれないくらいに凄まじかったそうですぞ」
・・・・・・いつまでも猫かぶりがバレねえと思って好き勝手やりすぎなんだよ、ガキが。
さすがに親友として、カロンは言わずにいられなかった。
「いや、あの皆様方、実は全然同情していないですよね? ・・・カレン殿がお戻りになっても、言わないで差し上げてくださいよ? あれでロメス殿も奥方には細心の注意をはらって内緒になさってるんですから。カレン殿は、ロメス殿なんてそれこそ剣はあまり・・・って思っていらっしゃるんですよ?」
誰しも全くロメスには同情していないのは、カロンでなくてもその口調で分かっただろう。
自分より若い者に、年長者は厳しいのである。「若い者は働け。若い者は苦労しろ」だ。
それが男社会というものである。
(俺も、実はこういうことを思われているのかもな)
ちょっと切ない気持ちになるカロンだった。
幸せとは長く続くものではない。どれ程、永遠に続いて欲しいと願ったとしても。
フィオナ達が作ってくれていた夕食を済ませて皿を片付けると、カロンは麦を脱穀して挽いたものを取り出した。
「どうするんだ、それ?」
「干した果物と脂を小さく刻んで、この麦と混ぜ合わせ、少量の湯と混ぜます。少し蜂蜜も混ぜておきましょう。で、薄く伸ばしてから焼くんだそうです」
「へえ、誰に習った?」
「王宮の女官です。どうも俺が全くロームに係累がいないというので、気楽に頼めるらしいですね。街での買い物を時々お願いされるんです。あなたは貴族の派閥争いと無縁ですし、俺もそうですから。他の騎士だと、女官の伝手で王族に取り入ろうとする可能性が出てくるんだそうですよ」
「買い物ねえ。道理でお前、たまに変なことに詳しいよな。女が使う小物とか」
「その代わり、色々と教えてもらってるんですよ。例えば、肌や髪の手入れの仕方とか、こういった変わった料理とか」
「女官と木陰にしけ込むんじゃなく、そんなので仲が良いとは情けない」
「放っといてください」
今度は料理に目覚めたんだろうか、暇な奴と、ケリスエ将軍は思った 。
人の趣味にどうこう言うつもりはないので放置しているが、カロンは裏庭だけでなく屋敷内の設備もかなり改良していた。
(何でもかんでも手を出さないと気が済まないタイプなのかね。たまにいるよな、そういう全てが気になってやってしまう奴って。こいつ、性別間違えて生まれてきたんじゃないのか)
ただ、その興味の矛先は家の中のことに特化しているようなので、それこそ女に産まれていてくれれば、いい婿を探してやったものをと、ケリスエ将軍は思った。
カロンにしてみれば屋外のことも屋敷内のことも、あくまでケリスエ将軍の使い勝手や状況を考えてのことであり、調理すら彼女に食べさせる為だったりする。ケリスエ将軍があまりにも周囲に対して無頓着でなければ、カロンもそういったことに手を出そうとは思わなかっただろう。
カロンの将軍に対するそんな思いは、肝心の本人に全く届いていない。
しかし、面白そうなのでケリスエ将軍はその手順を見学することにした。
(普段は偉そうなんだけど、こういう時は好奇心満々な子猫みたいだよな)
カロンはつい、後ろから覗き込んできたその焦げ茶色の頭を撫でた。
おかげで、「お前な、この私を子供扱いか」と、不本意そうな顔で少し眉間に皺を寄せているが、気づかなかったことにする。どうしても体格差はあるのだ。仕方ないだろう。
そんな興味津々なケリスエ将軍は、ちょこまかと手伝ってくれるし、変わったことをする時はカロンをじっと見ている。どんな知識が役立つのか分からないというので、自分が知らないことにはすぐに食いつくのだ。
「香草も入れましょうか。入れない方がいいですか?」
「どっちも」
「はい」
脂身は全体にまわるようにかなり叩いて小さくしていく。香草と干したイチジクやプラム等は果実感が残る程度の大きさだ。
やがて焼きあがったそれに切り込みを入れてから粗熱を取る。冷えたらパリパリになるが、切れ込みを入れておけば割りやすいのだ。
その冷めるのに要する時間を見計らって、湯浴みを済ませ、夜着に着替える。
湯を沸かしていたら、そこへケリスエ将軍がやってきた。
「髪を洗ったらブラシをかけろとあれ程言っているのに」
「気にするな。私は気にしない」
「俺が気になるんです」
「お前、本当に神経質だな」
「いや、まず自分を反省してください」
いつものことなので、台所の隅にはブラシと香油も設置済みだ。諦めの境地でカロンが背後にまわって髪を梳いていたら、さすがに悪いと思ったのか、将軍も沸いた湯でハーブや生姜を煮出した茶を淹れ始めた。
味見用に一片ずつと、茶が台所の机に置かれる。
「なかなかいけるな。うん、香草が入っている方が美味い」
「そうですね。これ、それなりに日持ちするそうですよ」
「腹にもたまりそうだな」
「執務室に置いておきますか。小腹が空いた時にいいでしょう」
「それもいいがな。お前、たまに執務室の棚に食べ物を入れてあるだろう。アレな、新年行事の打ち合わせに来る王宮の文官が『食事する暇もない』って嘆くから分けてやってるんだが、うちの部下が作ったと言ったら、『女騎士でしたら是非ご紹介を』と言われたぞ。男だと答えたらかなり残念がってた。お前が女だったら嫁にもらってくれたらしい。従者なら兄弟がいないかとも言われたが、まさかうちの部隊長と言うわけにもいかんしな。イメージが壊れたらお前も嫌だろ?」
「別に俺だとバラしても気にしませんけど、嫁は遠慮します」
それこそカロンの将軍に対する執着を示すエピソードが一つ増えるだけだ。何も変わらないだろう。
しかし、食べ物で釣っておきたかった本人ではなく、何故にどうでもいい男の餌付け用として食べられてしまっているのか。
「そうなのか? だが、食べ物を与えれば結婚できると噂を流したら、きっと明日から差し入れに困らないだろうな、あいつ。あれでも働き者で見た目も悪くないんだ」
「そんな来客いましたっけ? なら、そんな噂でも流してあげましょうか? 王宮の女官ルートならすぐに広がりますよ」
「お前が訓練指導に行く時間帯に来ることが多いから会わないんだろ。だが、本当に噂を流されたら嫌がりそうだ。あくまで下心なしにそういったことが出来る女性がいいらしい。商家出身で、貴族とかの駆け引きにはうんざりしているらしくてな」
「なるほど」
そういうことならと、「じゃあ香草が入っている方はあなたが食べて、入っていない方をその図々しい文官に与えるようにしてください」と言いながら、それでもそんな二人きりで他愛ないことを言い合える、今の幸せな生活が続くものだとカロンは疑いもしなかった。
悪魔は悪魔の形をしていない。善良な市民の幸せな日々を壊す時、油断を誘おうと黒い尻尾も角も巧妙に隠してやってくるのだ。そう、目の前にいる男爵家の小娘のように。
「聞きましたわ、ケリスエ様。養子だけで飽き足らず、更に配偶者にまでなろうだなんて、どこまで図々しい男なんでしょう。・・・いいえ、まだ遅くはありませんわ。そんな婚姻話、すぐさま叩き潰してみせます。どうぞお待ちになっていて」
「いえ、ルーナ姫。もう結婚してしまったのですが。それにカロンとの結婚は私が望んだのですよ」
王宮にある軍部のローム国騎士団の棟。その執務室に、小麦色の髪と薄茶色の瞳をしたルーナが訪れていた。いや、押しかけてきていた。
同行している乳姉妹であり侍女でもある黒髪に黒い瞳のロシータは、(すみません、本当にすみません)と、ルーナの後ろで、ケリスエ将軍とカロンに謝る仕草を続けている。
ルーナはロームにおける通常の貴族女性の普段着だが、ロシータは侍女の格好ながらも短いベールを頭からかぶっていた。フィツエリとロームの服装文化をかんがみて中間をとったらしい。
(猪のように突き進む主人を持つと苦労するんだな。ロシータ殿も大変だ。何にしても、今頃そんな話をしてくるということは、兄君が隠していたってことか。・・・まあ、この小うるさい妹になら黙ってるよな、誰しも)
そうカロンは思った。ロシータはルーナに忠実な侍女だが、考え方は謙虚だし礼儀を心得ている。そんなロシータはカロンに対して好意的だった。カロンもロシータには好意的である。
きっと今も、それでも一人で行かせて暴走されるよりはマシと思ってついてきたのだろう。・・・ついてきても止められないのでは意味がないが。
「ま、おいたわしい。・・・いいえ、ケリスエ様。流されてはいけませんわ。一生共に暮らす相手は、きちんと選ばねばなりません。考えてもみてください。どうせお仕事では傍にいるんですもの。生きた盾として使う分に、わざわざ結婚する必要はございませんでしたわ」
「本当に相変わらずですね、ルーナ姫」
「ねえ、ケリスエ様。やはりあんな粗野な男と暮らしているのは心配ですわ。あなた様に何かあったら大変ですもの。私もケリスエ様のお屋敷で一緒に暮らしたいのです」
「それはいけませんよ。由緒正しき貴族の姫に変な噂が立ちます。・・・ルーナ姫、あなたには幸せになっていただきたいのです」
「まあ、ケリスエ様。私の幸せはあなたと共にありますのに。ええ、あの盾がさっさと壊れてくれれば、全て解決しますわね」
ぴとっとケリスエ将軍に抱きつくルーナは、自分に将軍が甘いことを十分知っている。やっていることは「ケリスエ様好き好き」だが、言ってることは「カロン邪魔邪魔」である。
(誰が生きた盾だ。俺に死ねってか。この小娘)
そこへ、第一部隊長の副官であるキヤン・ハイリが、ひょいと顔を出した。
「おや。将軍お気に入りの太陽の乙女がいらしていたんですか。今日は侍女殿もご一緒とは、両手に花ですね、将軍。・・・ところでうちの部隊長、見ませんでしたか?」
「第一部隊長なら、先程、第二部隊長と一緒にいらしたのを見かけたが」
「ありがとうございます、第六部隊長。なら、ご自分で言いに行かれたんですね。じゃあ、いいか。・・・ところで将軍に浮気されてますよ。いいんですか、あれ」
キヤンに示されるまでもなく、全身の力を使って押し倒さんばかりのルーナがケリスエ将軍にしがみついているのは、見れば分かる。カロンとしては、将軍の背後には机があるので、仮にバランスを崩しても机が支えてくれるだろうと思うしかない状況だ。
「こんにちは、ハイリ様。私、今、ケリスエ様と愛を語らっているところですの。そこの鬱陶しい男、目障りなので連れ出してくださいません? 本当にどこまでも気が利かないったら、自分がお邪魔虫なことすら自覚していませんの」
「ルーナ様っ、何てことをっ。言っておきますが、お仕事中のケリスエ様とカロン様の邪魔をなさりに来たのはあなたなんですよっ。何よりもカロン様はケリスエ様のご夫君ではないですかっ」
「うるさいわね、ロシータ。やっとお兄様の隙を見て抜け出してきたのよ。この時間を大事にしなくてどうするの。人が愛に生きるには人生は短いわ。・・・・・・ねえ、ケリスエ様。私、そんなにお邪魔でしたか?」
「そんなことはありませんよ。ちょうど休憩でもしようかと、カロンとも言っていたところでした。姫の笑顔があれば、疲れも吹き飛ぶというものです」
この返答に、カロンとキヤンの間には、何とも言えない空気が漂った。(駄目だ、こりゃ)というものである。
それこそ相手が男なら少年兵でも「鬱陶しい」と蹴り倒す人だろうに、どうして色仕掛けにもならないような、あの程度の甘えた言葉一つで譲ってやるのか。まるで娘に甘すぎる父親のように、ルーナの我が儘を何でもかんでもきいてやるのだからどうしようもない。
ケリスエ将軍がルーナのおねだりできいてやらなかったのは、それこそ、結婚してくれということと、将軍の屋敷に住みたいということと、恋人にしてくれということの、三つぐらいだ。
「キヤン、お前も一緒にどうだ? ちょうど今なら挽き肉入りのパイがあるが」
「ご相伴にあずからせていただきます、将軍。では何かお飲み物をお持ちしましょう」
「悪いが頼む。ついでにあと数人分ならあるから、腹が減っていそうな奴らがいれば・・・」
「分かりました」
将軍の要請に気づかぬキヤンではない。ましてや机の上に書類があるのを見れば尚更である。
ルーナのおねだりを無下にはできないが、現実問題として仕事がある以上、ルーナの話し相手になりそうなのを見繕って来いということなのだろう。
(だが、何人連れてきても、この姫は将軍にしか目もくれないだろうがな)
見れば、カロンもやれやれといった風情だ。二人はそのまま執務室を出て飲み物の用意をしに行くことにした。ロシータが「手伝います」と、申し出てきたが、「いえ。そこの暴走している小娘を見張っておいてください」と、それは断った上で。
「第六部隊長も大変ですね。あそこまで喧嘩を売られたらさすがに嫌にならないですか? いや、あの姫もまっすぐで可愛らしいですが、俺ならあそこまで言われたら問答無用で叩き出しそうです」
「はは。まあ、ムカつかないわけじゃないが、あっちも本気で俺を排除できると思ってるわけじゃないみたいだからな。それに、・・・どうしようもなく諦めきれない想いがあるのは分かる」
「そうかもしれませんがね。だけど将軍もヘタに情けを見せない方がいいと思いますがねぇ。大体、あり得ない組み合わせなんですから」
「まあな」
そう言いながら、キヤンは普段自分達が飲むようなビールよりはワインなどの方がいいかと悩む。貴族の姫は無駄に口が肥えているのだ。ビールでは吐き出してしまうだろう。同じ貴族出身でも、キヤンは騎士団に属しているだけに庶民の味も平気だ。
「別にハーブを煮出した湯か、果汁でいいんじゃないか? ああ、レモンがあるか。なら、それを水で割ればいいだろう。そうしたら誰でも飲める。あの挽き肉パイ、保存的なことを考えてよく焼いてあるから、ノドが渇くだろうしな」
「相変わらずマメですね、第六部隊長」
一気に全員分をまとめて作っていくカロンを見ながら、キヤンは呆れたようにコメントした。ついでに、そこを通りかかった第三部隊副官のロン・スレイトを捕まえ、事情を話してゲットする。
「俺はありがたいですけど、それって第六部隊長が将軍の為に用意していたものじゃ・・・」
「別にいいさ。良かったら食べて行ってくれ。何より、あの小娘と一緒にいるのは疲れる。いや、いつもなら席を外すんだが、今日は書類がまだ残っててな。将軍のサインが必要なんだ」
「いい人すぎますよ、第六部隊長。言わせていただきますが、あなた、あの将軍の隣に立てる唯一の方なんですよ。どうして遠慮するんですか」
「ロンもそう思うだろ? なのに第六部隊長は、『あの姫も諦めきれないんだろう』で許すんだから、どこまでいい人なんだか」
「はぁ? マジか? いや、怒っていいと思います、第六部隊長」
二人の副官達に同情の目で見られながら、カロンは幾つかのピッチャーに、軽食の味を邪魔しないようわざと薄めに作ったホットレモネードを入れていった。余裕を持ってカップも用意する。途中で人が増えるかもしれないからだ。
「持って行くのは俺達がやります。な、キヤン」
「勿論です。第六部隊長に作らせておいて、更に持たせるわけにはいきません」
「ありがとう。じゃあ頼む」
そんな三人が戻った執務室には、もう一人来客が増えていた。
「お邪魔しております。王宮に勤めておりますキルケイドです。本日は出席者の確認のお願いに参りました」
そうニコニコと笑って挨拶する若者は、ケリスエ将軍が時々食べ物を分けてやっているという王宮の文官だった。
文官と軍人は水と油であまり仲は良くない。だが、キルケイドは初めて立ち入った軍部での訪問先がケリスエ将軍だったそうで、しかもそこで腹の虫を鳴らしてしまって将軍に食べ物を分けてもらったことから、かなり将軍に懐いていた。
将軍の無表情は気にならないらしい。笑顔で人を陥れる王宮に比べれば、感情があまり表面に出ないだけで親切な方じゃないですか、いつも食べ物をくれますし、ということだそうだ。
何より、王宮と違って人間関係のどろどろがないのが落ち着くと言う。
ケリスエ将軍の執務室には、部隊長達などが集う為、大きなテーブルと複数の椅子が常に置かれている。皆はそれに座って挽き肉入りの小さなパイを食べだした。
「いやあ、正直、軍っていうと怖いイメージがあったんですよね。だから俺に行くよう押しつけられたって言うか・・・。いや、こういうの、言ってもいいのかな、アハハ」
「まずいだろう。よその騎士団では言わない方がいいと思うぞ、キルケイド。うちはともかく、よそなら将軍の前で私語なんて許されないこともあるからな」
「やっぱり? いや、よその騎士団だとすぐ剣を抜かれそうですよね。だけどロンもそういうことを忠告してくれるあたり、いい人ですよ。いや、こちらは皆さん、いい人で良かったなって思ってたんです。他の騎士団に行った奴なんて、蒼白になって帰ってきてますからね」
「ロンもあまりよそのことは言うな、聞かれたら厄介だ。てか、こんなに文官のキルケイドがうちに馴染んでる方が怖いんだが。どれだけ将軍の所に入り浸ってたんだ、お前?」
「かれこれ毎日、三週間ぐらいですかねえ。今日で一通りの確認作業は終わりなんですけど。なぜか俺がこちらにうかがう時は将軍しかおいでにならなくて・・・。今日は珍しく色々な方がおいででびっくりしちゃいましたよ。だけどそういうキヤンも有名ですよね。あなたでしょ? 近衛騎士団からいきなりローム国騎士団に異動したって語り草の人」
キヤンとロンは、そのキルケイドと気が合ったのか、既に呼び捨てになっていた。
さすがのルーナも、カロンはノーカウントで無視するとしても、あまり親しくない男が三人もいる室内でケリスエ将軍に迫ることは出来ない。大人しくケリスエ将軍に甘えながらパイを齧っていた。
「嬉しいですわ。ほら、こっちって一日二回しか食事が出てこないでしょう? 体を動かすとお腹が空くんですけど、お父様に鍛錬しているのは内緒なので、こっそり外に食べに行くしかありませんでしたの。料理人から報告が行ったら面倒なんですもの」
「外ですか。・・・きちんと安全な店に行ってらっしゃいますか、姫? 何でしたら兄君にお話しして、きちんとお食事をとれるようにお願いして差し上げますよ?」
「まあ。ケリスエ様は何て優しいんでしょう。けれども大丈夫ですわ。兄はあれでケリスエ様がお好きなんですの。私の愛しい方を兄に取られてはたまりませんもの。絶対に近寄らないでいてくださいましね。男なんて全てにおいて害虫ですわ」
「えーっと、いや、それはただの好意的というものであって、恋愛感情はありませんよ、兄君に」
「そんなことありませんわ。口を開けば、何かとケリスエ様がいかに人間的に素晴らしいかとか、そんなことばかりなんですもの。・・・ケリスエ様の良さを知るのは私だけでいいのに」
それでもルーナはルーナである。椅子をくっつけてケリスエ将軍に寄り添っている。大人しくしていても独占欲は丸出しだ。大体、ルーナの兄であるロカーンは、確実にケリスエ将軍に恋愛感情など抱いていない。ただ、剣を持つ人間として尊敬し、人となりをも認めているだけだ。
そんな主が恥ずかしくて顔を上げられないが、それでもロシータはいつものように下を向きながらカロンに謝罪していた。
「本当に申し訳ございません、カロン様。うちのルーナ様がどこまでも図々しいばかりに・・・」
「ロシータ殿がお気になさる必要は全くございませんよ。あなただって珍しく王宮までいらしたのは、心配してついてきてくださったからなのでしょう? ところでそのベールはロームのものでしょうか? フィツエリの薄いベールもお似合いでしたが、そうしているとロームにもすっかり馴染まれましたね」
「ええ。やはりこういう服装は恥ずかしいのですけど、フィツエリの服では目立ちますから。ただ、こういうロームっぽいベールを売っている場所がよく分からなくて・・・。こちらではこんな短いベールすらなさる方も少ないようですし」
「ああ、なるほど。・・・・・・キヤン、ロン。ロームでベールを扱っている店を知ってるか?」
すると、キルケイドが返事をした。
「ベールですか? それならいい店を知ってますよ。市場の大通りから少し入った所なんですけど、可愛い柄の布を中心に扱ってて、ベールも置いてあるんです。うちの姉もお気に入りでして。良かったら案内しましょうか? そちらのお嬢さんはいつがお休みでしょう? ・・・ああ、俺と二人じゃ、ちょっとアレですよね。なら他の方もご一緒にいかがですか?」
「え? あの、その、ありがたいんですけど、男の方とご一緒だなんて・・・。もしもご迷惑でなければ場所だけ教えていただけますか?」
「え。そりゃあ、騎士団の方と違って剣に自信はありませんけど。それでも女性を守れない程、弱くはないつもりですよ?」
「いえ、あの、その・・・」
ロシータが真っ赤になって下を向いてしまう。カロンとはロームに来る時にも世話になった。だからまだ緊張せずに話せるが、そうじゃない男性とはベール越しならばともかく、会話などどうしていいか分からない。こちらのベールは自分の顔が見えてしまうから尚更だ。
ましてや一緒に出掛けるなど、破廉恥とされてしまう。行きましょうと誘われて、はいと言える筈がない。
そんなロシータの状況を察したのだろう。カロンが助け船を入れてきた。
「キルケイド殿。ロシータ殿はフィツエリのご出身でな。こちらではローム風の格好をなさっているが、フィツエリでは通常、体の線を全て覆い隠す衣裳をまとい、顔も髪もベールで隠し、家族以外の男性とは結婚するまで、まず直接会話もしないという文化でお育ちだ。・・・男性と一緒に歩くことなど、それを誘われただけでも恥ずかしくてお返事できる状態ではないとお見受けする」
「・・・え? あ。はあ・・・」
そこでキルケイド、キヤン、ロンの目がケリスエ将軍に寄り添っているルーナに向けられる。ならば自分達の存在を無視して、いちゃついているその主は何なのか。
「そこのフィツエリ男爵令嬢は、いささか規格外なんだ。フィツエリの未婚女性は、ロシータ殿のように恥じらいのある慎み深いものと決まっている。本来、貴族の姫ともなると、結婚するまで家族以外の男性の姿すら見たことはないことも多い」
「ちょっと、そこのヘタレ男。さりげなく人を貶すんじゃないわよっ。言っとくけど、ロシータが恥ずかしがり屋なだけで、私は普通よっ」
「嘘つけ、この小娘が。これでもちゃんとフィツエリの文化は確認済みだ。人が知らないと思って適当なことを言うな」
これに関しては、フィツエリ文化を知るロシータもルーナではなくカロンを全面的に支持するところだ。しかし顔を上げるとキルケイドと目が合いそうで、顔が上げられなかった。個人的に若い男性から話しかけられるなど初めての経験だったのだ。
そんなロシータに、キルケイドが席を立って近づいてくる。
「なるほど。それでしたら緊張しますよね。だけどロームでは男と話さないわけにもいかないでしょう。決して怖がらせることはしませんし、それはこちらの将軍にお誓いしますよ。これも経験と思って、一緒に出掛けてみませんか?」
ロシータは手の先まで真っ赤になっている。仕事のやり取りならばともかく、私事で男性との会話など、何をどうすればいいのか想像もつかない。そんなロシータの返事を待っているキルケイドに何か言わなくてはと思うと、焦って何を言っていいやらである。
断り方が分からないのだ。
漸く返事できたものの、断り方が分からないから了承したというだけのその声は、とても小さかった。
「あの、・・・その、でしたら、ご迷惑でなければ」
「ええ、全然迷惑なんかじゃありませんよ。ならば明日はどうですか?」
「え、ええ」
「では明日。フィツエリ男爵邸の裏口に、明日の朝、お迎えに参ります」
「え、そんな。そこまでしていただくわけには・・・」
「慣れないロームで待ち合わせする方が迷子になりますからね。では、明日の朝ということで」
にこにこと、キルケイドは話をまとめてしまう。
「良かったわね、ロシータ。あなた、自分で作ろうにも可愛い布が少ないって嘆いてたじゃない。こっちの布ってあまり模様もなくて地味なのよね。いいのがあったら私の分も買って来てね。私、明日はお兄様と約束があるから行けないわ」
「勿論、侍女殿は責任もって私が送り迎えをさせていただきますよ、姫君」
愛想よく話しているキルケイドだが、カロン、キヤン、ロンも男である。三人とも、(今日知り合って、明日には出かけるのか。電光石火の早業だな)と、感心せざるを得ない。
キルケイドがロシータを気に入ったことなど誰でも分かる。分かっていないのはルーナとロシータだけだ。こうも堂々と皆の前で誘ったということは、遊びではないということか。なら邪魔すまい。
男ならではの連帯感で、彼らは沈黙を守った。何か言おうものならロシータが気絶しかねない。
「キルケイド殿ならば安心だ。ロシータ殿も、あまり外出はなさっていらっしゃらないのだろう? 色々と案内していただけば良い。勿論、私に誓うと仰有ったのだから、あなたに不埒な真似もなさるまい」
「勿論です。元々、俺は無節操な真似は嫌いですので」
「そうだろうな」
最初は他の人も一緒にとキルケイドは言っていた。しかし話をまとめた時には二人きりで出かける流れになっていることにも考えが追いついていないロシータを置き去りに、キルケイドは将軍に感謝の眼差しを向ける。
(男を利用するタイプの貪欲女性は遠慮したいんだよな、俺。まさかこの軽食を作っていたのがケイス第六部隊長と知った時にはショックだったが。・・・やはりここに来て良かった。こんなにも無垢な女性が存在していたなんて)
キルケイドは心の中でガッツポーズをとっていた。
今時、男に声を掛けられただけで全身を真っ赤にして恥じらう女性など、ローム中を探してもいないだろう。こんな女性、さっさと捕まえておかねば誰かにすぐとられてしまう。
ましてやキルケイドの理想の女性像を知っているケリスエ将軍が止めようともしないどころか、背中を押してくるということは、ロシータはかなり自分の好みに近いのだろう。
明日の休日をもぎ取る為にも今日済ませておくべきことは沢山あるが、こういうご褒美があるとなれば話は別だ。
「それでは私はそろそろ失礼します。美味しいパイをご馳走様でした」
そう辞去するキルケイドの笑顔は、自分比率として通常の1.5倍増しだった。
裏庭を歩きながら懐かしい日々を思い返すカロンの頭上に、月が輝いていた。晴れ渡った空に星も煌めいている。
深夜とあって、人気は全くない。屋敷も暗く静まり返っている。ただ、ホーッホーッというフクロウの声が、時折響いていた。
(目を閉じていても歩ける庭だ。・・・だが、子供達が草で罠を作っているのはどうしたものか。壊したら泣くだろうから、そこは踏まないように気をつけておかなきゃな)
こんな所に草を結んで罠を作っても、引っかかる兎は存在しないだろう。せいぜい作った自分達が転ぶ程度だ。そんな子供ならではの可愛らしさに、カロンは微笑んだ。
あのルーナとの間に自分が子供を作ることになるとは、あの頃、全く思いもしなかった。
エルセットが弟妹を欲しがらなければ、そんなこともなかっただろう。
(だが、自分達は同じだった・・・)
互いに一目見た時から気に入らない存在だった。
なぜなら自分達が欲しがっているものは同じで、それは分けられるものではなかったからだ。
二つとして存在しないものを、二人の人間がそれぞれ独占しようとしたらどうなるか。
争うしかないだろう。勝者は常に一人だ。
(それでも俺がいい人でいられたのは、あなたを手に入れられたからにすぎない)
この屋敷にあの人が己の意思で引き取り、住まわせたのは自分一人。
大切な歌も、受け継がれた技も、あの人の心も体も、あの人が全てを渡したのは自分一人。
皆が呼んでいたというサーラではなく、ライナと呼ぶことを許したのも自分一人。
そしてあの人が子供を産んでくれた相手も自分一人だった。
(今なら分かる。ルーナに嫉妬するまでもなく、あなたがどんなに俺を愛してくれていたのか)
対等な男として愛してもらいたくて足掻いていた自分はどんなに愚かだっただろう。
あの人は、そういった関係性を重んじていなかった。ただ、カロンに対する愛情がそこにあっただけだった。
あの人にしてみれば、それが親だろうが、師匠だろうが、上司だろうが、妻だろうが、それこそどうでもいいことだったのだろう。関係性など全て無視して、カロンの存在そのものを愛してくれていたのだから。
(こんなにも深く愛されることなど、あるものじゃない)
人はよく、カロンはケリスエ将軍に対して愛と献身を捧げ続けたと言うが、それこそ見る目がないというだけだ。
あの人ほど、深く優しい心の持ち主など存在しない。
どこの誰が、「息子でも弟子でも部下でも夫でも構わない。どんな関係でもいい。ただ愛してる」というような、無私の愛情を持てるというのか。
(あなた以上の女性などいない。会いたい・・・)
あの人が亡くなった時、空が落ちてくれればいいのにと願った。
誰でもいいから殺してほしかった。
この国すら滅びてしまえばいいと考えた。
こんなにも大きな虚無感を抱いて生きていける筈もないと思ったのに・・・。
―――死ぬのはいつでも出来る。お前がそう言ったんだ。だから生きてくれ。なあ、カロン。いつか死んだら私に教えてくれるんだろう? お前が一人で知った全てを。世界は醜いが、時に美しいものもある。・・・大丈夫。今のお前は無力な少年じゃない。ちゃんと人を、物を、世界を、愛していける。
(それでも全てを見通せるあなたが見通せなかったことが一つだけある)
いつか自分が死ぬ日を迎えられたら・・・。あなたに伝えられるだろうか。
(ライナ。あなた以上に愛せる存在など全く出来なかったということを。あなたが産んでくれた息子ですら、あなたには遠く及ばなかったということを)
あれから長い時が流れ、笑うことも出来るようになった。
楽しいと感じることもある。嬉しいと思うことも。
ルーナが産んでくれた子供達も可愛かったし、喜びがあった。
子供達の成長はカロンの生き甲斐でもある。
けれど・・・。
(それでも、それらはあの日々の残滓にすぎない)
二人で一緒に過ごしたあの時間が胸を締め付ける。
思い出せば泣きたい位に幸せな時間は、あなたと暮らした日々にあった。
(ライナ。永遠にあなただけを愛している)
カロンの焦げ茶色の瞳に映る月が、その姿をぼやかせていった。
【ロシータの初デート】
その日の朝、フィツエリ男爵邸の裏口に、キルケイドはやってきていた。
陽光を弾いて煌めく金髪に、木の葉のような緑色の瞳を持つ彼は、たくましいわけではないが、人好きのする笑顔がある為、女性の心に残りやすい容姿である。
普段は王宮で働いているので制服なのだが、今日は白いシャツに焦げ茶色のズボン、そしてマントとあっさりした格好をしている。肩に掛けられたカバンは少し大きめだったが、特に物が入っているという程ではない様子だった。
「まあ、もういらしてくださっていたんですね。申し訳ございません、気がつかなくて」
そこへ黒髪に黒い瞳を持つロシータが小走りにやってくる。今日は髪を編み込んで一つにまとめ、ピンク色のリボンを結んでいた。着ているのも白いチュニックの上にピンクのワンピースを重ねた可愛らしい装いだ。
「実は今来たばかりなんです。ロシータさんこそ、大丈夫でしたか? まだご用事があるようでしたらお待ちしていますよ」
「お気遣いをいただきましてありがとうございます。ですがお仕事は終わっておりますので大丈夫です、キルケイド様」
そこでキルケイドは面白そうに笑った。「行きましょうか」と、促して歩き出す。並んで歩くつもりだったキルケイドだが、ロシータは一歩か二歩遅れてついてきた。
「だけど俺は普通の商家出身なんです。様付けで呼ばれたら、こっちが困ってしまいますよ」
「え。・・・まあ、・・・そうしたら、・・・どう、しましょう」
そこでロシータは涙目になって下を向いてしまった。仕事だと思えば会話もできるが、個人的な会話となると、どうしていいのか分からないのだ。様付けで呼んではいけないのなら何て呼べばいいのか。
(うわっ、何これ。この程度でも恥ずかしいんだ? 今時、貴族のお姫様でもこんな純粋培養なんて存在しないだろうに。やっぱりさっさと誘っておいて良かったぁっ)
昨日知り合って、今日にはデートに持ち込むキルケイドである。しっかりロシータの情報は今日一日で収集する気満々だった。
「普通に、さん付けで構いませんよ。・・・勿論、できれば、いずれはキルスって呼んでほしいですけど。親しい人間はそう呼ぶんです」
「あ、じゃあ・・・、キルケイドさん、で」
赤くなりながら見上げてくるロシータは、それでもキルケイドと目が合ったら耳まで赤くなって目を逸らしてしまった。
「もしかして緊張させてしまってますか? 俺が怖い?」
「いえ・・・。ケリスエ様とカロン様が信頼なさっている方ですもの。怖がる理由なんてありません。ただ、・・・すみません、私、こんな顔を隠すベールもなしに男性とお話するだなんて・・・」
「怖くないなら良かったです。やはり女性を怖がらせるのは男として恥ずかしいことですから」
そう言ってキルケイドはにっこりと笑う。見てなくても笑ったのが気配で伝わったのだろう、ロシータが肩の力を抜いたのが分かった。
「普通に話すのが緊張するなら仕事で話すようなものだと思えばいいですよ。ほら、女性同士で普通に色々とお喋りする感じに思ってもいいでしょうし。・・・うちも姉と妹がいますけど、話し始めたら止まりませんね、本当に」
「まあ。羨ましいです。私にも姉がいるのですけど、妹も欲しかったのです」
仕事だと思えばいい。そう言われたら、ロシータも緊張を解いた様子だった。(なるほど、仕事なら会話もできるんだな。・・・本当に仕事以外は全くすれてないのか)と、キルケイドは思った。
「そうなんですか? ではご両親もお姉様もご心配なさってらっしゃるでしょうね。遠いフィツエリから王都までいらしてるんですから」
「いえ。ルーナ様の行く所でしたらどこまでもお供します。親も覚悟の上ですわ。姉は・・・姉は違う土地に嫁いでおりまして、フィツエリにはいないのです」
そこでキルケイドはちょっと考え込む。なかなか忠実な女性らしい。とはいうものの、ルーナは貴族の姫だ。結婚するとしたら貴族相手だろう。
「そういう契約なのですか?」
「いえ。・・・私の母もルーナ様のお母君と乳姉妹でしたの。姉も私もロカーン様、ルーナ様、カルロ様方と乳兄妹になるので、私も母と同じようにルーナ様の侍女となったのですわ。姉は、・・・お仕事でフィツエリを訪れた他領の方と知りあい、嫁ぎまして・・・。ですから契約とかじゃなく、・・・そうですね、放っておけないんです、あの方」
だってルーナ様ったら本当に困った方なんですよと、それでも優しい顔で微笑むロシータは、ルーナのことを主とする使用人というよりも、やんちゃな妹に手を焼いている姉といった風情だった。
(この人、どんなに困らされても許しちゃうクチか。母性愛が強いんだな)
ますます好みだ。しかし、そうなるとルーナがたとえば領地を持つ貴族の元に嫁いだらロシータもくっついていってしまうだろう。だが、そういう契約をしているわけではないと言う。
同じく乳姉妹だった筈のロシータの姉は全く違う所へと嫁いでいるのだから、特に強制された侍女の仕事というのでもないのだろう。ただ、一緒に育ったから放っておけない、そういうことだ。
(なら、どうにでもなるということか)
キルケイドにしてみれば、声を掛けられただけでも真っ赤になる初々しさもさることながら、ルーナを困った方だと言いながら、それでも愛情のこもった顔で語る様子に胸を射抜かれていた。
「そういえばロシータさんはどんな食べ物がお好きですか? フィツエリはこちらと食文化も違うと聞きますが」
「ええ、全く違います。ですがロームに来て驚いたのが、食べ物の種類そのものが違うことです。調理法がかなり異なるんです。好きな食べ物は、・・・どれも珍しくて、実は名前が分からないんです」
「そりゃそうですよね。ですが調理法、ですか」
「ええ。フィツエリは温かい地方なので食べ物が傷みやすいこともありますが、お肉も串に刺して直火で炙ったものを削ぎ落としていくスタイルで手際よく済ませていきますの。けれどこちらだとじっくり焼き上げますでしょう? そしてよく塩漬けにしていますわね。ですがフィツエリだと湿度もあって塩漬けでも保存には向かないのです。それにこちらはあまりお魚がありませんわね。ですがお肉の種類は多いと感じています」
話し方を見れば分かる。彼女は自分でも料理をするのだろう。
「へえ。串に刺して焼く、ですか。面白そうですが、想像がつかないですね。今度教えてくれますか?」
「ええ、勿論。作り方を書いて差し上げましょうか? キルケイドさんはお肉料理が気になります?」
「それもありがたいんですが、・・・作ってもらうっていうのは出来ますか?」
ロシータは目を見開いた。まさか作ってほしいと言われるとは思わなかったのだ。
「え。ああ、そうですわね。味付けも違いますもの。食べてみなくては分かりませんよね。・・・けれど、どうしましょう。作る場所が・・・」
「言われてみればそうですね。・・・じゃあ、いつか機会があったら作ってくださいね?」
「ええ。機会がありましたら」
二人はそうにこやかに笑いあった。ロシータも、社交辞令だろうと思えばキルケイドのそういった言葉にも身構えずに対応できる。
何よりも笑顔を絶やさないキルケイドは、あまり男性を知らないロシータでも話しやすかった。
「あ、着きました。ここですよ」
キルケイドは、様々な布が溢れた店を示した。
「布地は右側にあるんですけど、頭にかぶるベールやスカーフは左側です。小物もおいてありますよ」
「まあ。本当に沢山あるんですね」
家から出られない分、屋内での楽しみに特化するフィツエリは布地も鮮やかなものや華やかなものが多い。しかしロームに来てからは、思ったよりも質素なものが多く、こんなことならばフィツエリから色々と持ってくるのだったと悔やんでいたロシータだった。
(これならルーナ様にも可愛い布飾りとか作ってあげられるわ)
目を輝かせるロシータは可愛らしかった。
顔見知りの店主には、ロームに慣れていないお嬢さんを連れて行くと話をしてあった。恥ずかしがり屋で、育った地方の風習で家族以外の男と話すこともまずないのだと言ったら驚いて、普段は忙しい時しか店に出てこない店主の妻を店頭に出してきてくれた。
店主の妻も、自分の主人のお供で家族とも離れてきていると言ったことから同情したのだろう。
自分の娘よりも年若いロシータにかなり親切だった。
「お嬢さん。そちらのベールもかぶってみて? ほら、あなたには明るい色が似合うわ」
「まあ、素敵。あ、あの・・・。小麦色の髪に薄い茶色の瞳をした人には、どんなベールが似合います? 可愛い印象の人なんですけど」
「それなら、こっちなんてどうかしら。ほら、薄い水色に見えるでしょう? だけどちょっと角度を変えると、織り込まれた青紫色の糸がこうやって浮かび出るのよ」
「まあ、綺麗。あの、これ、ください」
自分のベールを見に来た筈が、ルーナの物を選んでしまっているロシータである。つい、キルケイドが「ロシータさん、自分のは?」と声を掛けると、はっと気づいて、赤くなっていた。
「つい、ルーナ様に似合う物を探してしまう癖がついていて・・・」
そう言い訳して、次は自分の物を探し始めるロシータに、キルケイドはどんどん惹かれずにはいられない。どれだけ面倒見が良いタイプなのだろう。しかも主人の前で取り繕っているのではなく、本質的なものなのだ。
(まさに理想そのものじゃないか。同じ侍女でも、王宮にいる、誰に取り入るかとか、誰に貢がせたとか、そんな話で盛り上がっているのとは大違いだ)
が、全ての買い物が終わった時、つい、キルケイドは言わずにはいられなかった。
「あのー、ロシータさん、凄い量ですね」
「実はベールを買いに行くと言ったら、他の人達からも頼まれてしまいまして・・・。お邸にはフィツエリ出身者も多いものですから、やはり皆、困っていたようなのです」
それを聞いて、店主が豪快に笑う。
「いいってことよ。こんなにも買ってくれたんだ。そのお邸へはうちが配達しておくよ。夕方になるがいいかい?」
「まあ。ありがとうございます。助かります」
最初は店主に話しかけられても、恥ずかしがって店主の妻の後ろに隠れて答えていたロシータだが、そんな様子に、余計に店主も妻も構いたくなったらしい。何かと更に声を掛けるようになっていた。
やがてロシータも慣れて、夫婦とあれこれ相談しながら、ベール以外にも綺麗な布などを買い求めていたのだが、どうやらロシータは自分で布を縫って布飾りも作るらしい。
この布で花弁の模様にするとか、芯はこれとか、そんな話をしていた。
キルケイドにしてみれば、どんな飾り物を男に贈らせるかなどと話し合っている女官に比べて、自分で花飾りを作ろうとするロシータがいじらしくも可愛く感じられて仕方がない。
「ふふ。本当に可愛らしいお嬢さんだこと。ね、これもかぶってみて」
「なんて綺麗。初めて見ました、こんな素敵なの」
真っ白な糸で編まれたレースの、大き目なベールがふんわりとロシータに掛けられる。その編み目に手をやり、ロシータは感動の声をあげた。
「これはね、結婚式の時に花嫁さんがかぶるものなのよ。本当によくお似合いだわ。黒髪だから余計に白いレースが似合うのね。・・・ね、いつかあなたがお嫁さんに行く時には、是非これを買いに来てね」
「えっ・・・」
瞬く間にロシータが真っ赤になる。頬を染めるどころではなく耳まで真っ赤にして俯く様子に、店主も妻も、(本当になんて純情な・・・)と、キルケイドの言っていた言葉を実感した。
「だけど、今のあなたなら、こんな薄桃色のベールがお似合いね。ほら、今の服にもぴったり」
「綺麗。何か光ってるわ」
「貝の粉が混じっているのよ」
レースのベールは仕舞い直し、着ている服よりもやや薄い桃色のベールを、店主の妻は掛け直した。
そこへ店主が、買い物の金額が計算できたことを知らせてくる。店主の所に行きながら、ロシータは店主に話しかけた。
「あの、この桃色のベールはかぶっていきたいんですけど、これもいただけますか?」
「いいってことよ。そっちの桃色はおまけだ。こんなに買ってもらったんだからな。あ、ちょっと待ってな、お嬢さん」
そう言ってがさごそと店主が棚から小さなピンを取り出してくる。
「これもおまけだ。ほら、これで髪にベールを留めるといい」
手際よくロシータのベールの位置を整え直して綺麗に留めていく。そんな様子を見ながら、キルケイドは店主の妻に話しかけていた。
ロシータはまさか男性にベールを留めてもらうだなんて初めての経験に、まさに茹で蛸のように真っ赤だ。
そんなロシータに、店主は満足して笑いかけた。
「あれでキルケイドも王都には詳しいんだぜ、お嬢さん。色々と案内してもらいな。ロームを好きになってもらえると嬉しいな」
「はい・・・」
もう、それしかロシータは言えなかった。
せっかくだからと穴場の景色のいい場所、そして名物などを案内しながら、疲れたら公園の休憩場所を使って二人は歩くのを楽しんだ。
「なんて綺麗な建物なんでしょう。こんな綺麗な石を使って造られているだなんて」
「遠い山から切り出してきた石だそうですよ。ここの会場が使われる時には閉鎖されますが、普段はこうして誰もが入れるんです。ただ、足元が悪いので気をつけて。この床石の隙間に足を挟みそうになる人が多いんです」
「えっ、きゃっ」
「ああ、ほらね。ほら、手をだして。周囲もそうしてるでしょう?」
どさくさに紛れてキルケイドが腕を貸すと、転ばないようにと思ったせいなのだろう、ロシータも素直にキルケイドの腕をとる。
今日は天気もいい。外の明るい光に慣れた目には、屋内は余計に暗く映り、ロシータも自分の腰に右手をまわして支えてくるキルケイドの左手に自分の手を重ねてエスコートされることにした。
周囲にはそういう人達ばかりだったこともある。
そういうものなら、自分もロームの風習に合わせるべきだろうと思ったらしい。話すだけでも真っ赤になるロシータだが、周囲が暗く、自分の勝手が掴めていなかった為、キルケイドに促されるままその腕の中に納まっていた。
キルケイドにしてみれば、周囲は恋人同士だからエスコートしているだけだと分かっていたが、そんなことはおくびにも出さない。
王都で生まれ育ったキルケイドは、そういう恋人同士がいちゃつく為の場所など十分に把握している。
「ここを見たら、公園へ行きましょうか。小さな湖があり、散策している人も多いんです。軽く食べられる物も売られていますから、そこで買って食べましょう。お店の中よりも、そういう外の方が緊張しないでしょう?」
「はい・・・。あの、ありがとうございます、キルケイドさん」
「いいえ」
ロシータはなんてキルケイドは思いやりがある人なんだろうと感動していたが、木々やベンチがあちこちにある公園の方が、実は誰もが見て見ぬフリをするのが暗黙の了解となっており、邪魔する人間もなく二人きりになれるのだ。
同じベンチに腰掛けるにしても、ベンチの長さはまさに二人分である。買ってきた軽食を、手際よくナイフで切り分け、キルケイドはロシータに差し出した。
「どうぞ、ロシータさん。こういう油漬けにした魚を挟んだものはお嫌いですか?」
「ありがとうございます、キルケイドさん。・・・あ、美味しい。こうしただけでかなり味が変わるんですね。覚えておかなくちゃ」
「こっちの肉を挟んだのはどうですか?」
「まあ、かなりあっさりした肉ですね。何の肉なんでしょう。これならもう少し羊の脂とかを使って癖を出した方がおいしくなるかしら。今度、試してみなくちゃ」
「なるほど。もう少し癖のある方が好みなんですね。じゃあ、こちらのチーズはいかがです?」
その日だけでキルケイドはロシータのほとんどの情報を集めきっていた。
楽しい時間は矢のように過ぎ去るものだ。今日一日で、一気に王都の名所を観光したと実感しているロシータだった。
フィツエリ男爵邸の裏口で、二人は別れの挨拶をしていた。
「本当にありがとうございました、キルケイドさん。私、こんなにも王都のことを知らなかったんだなって、知りました」
「楽しんでもらえたなら何よりです。・・・また、お誘いしてもいいですか?」
「え。・・・あの、その、・・・はい、・・・・・・ご迷惑でなければ」
「迷惑どころか、かえって俺の喜びです。本当に今日は楽しかった」
「あの・・・、私も、・・・あの、楽しかった、・・・です」
手を取られるのには慣れても、やはり少ししたら恥ずかしがり屋に戻るロシータである。
キルケイドは笑顔のまま、目を細めた。なんて可愛らしい人なんだろう。
「ロシータさん」
「はい?」
「今度、またお誘いします。その時は一緒に出掛けてくださいますか?」
「え、ええ。・・・はい、喜んで」
キルケイドの口調に流されたか、ロシータが下を向きながら答える。
「良かった」
そう言って、キルケイドはカバンから白い物を取り出し、ふわりとロシータの頭に掛けた。
「え?」
「ああ、やっぱりよく似合いますね」
それは、店で見た白いレースのベールだった。薄桃色のベールの上に重ねられ、まさに清純な花嫁のようだ。
「ロシータさん。今は返事を欲しいとはいいません。ですが、俺はあなたが好きです。いつかそのベールを身につけて、俺に嫁いできてくれませんか?」
ロシータの顔が赤く染まったのは、その身を照らす夕焼けのせいだけではなかっただろう。自分に掛けられたベールを指先で握り、目を丸くしてキルケイドを見ている。
その指先を手に取って、キルケイドは口づけた。
「それでは俺は失礼します。今度出かける時も断らないでくださいね。約束ですよ、ロシータさん?」
じゃあと言って、手を振って帰るキルケイドを、ロシータは呆然として見ていた。
キルケイドの姿が街角に消えても、それは変わらなくて・・・・・・。
「あら? どうしたの、ロシータ? こんな所で立ち尽くして」
次に帰ってきた使用人に声を掛けられるまで、ロシータは初めて尽くしの一日の終わりにもたらされた、初めてのプロポーズに固まっていた。




