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第五話 狂気

「あの刑事さん……、どこですか? ここ?」


 刑事が寄り道をすると言って連れてきたのは警察関係の施設ではない。そんなところからは遥かにかけ離れた廃れに廃れた朽ち果てた倉庫だった。所々壁が剥がれ下材がむき出しになっている上に古すぎて今にも崩れそうである。葵はなぜこんなところに連れてこられたのか不思議だった。


「さぁ、降りてください」


「でも、刑事さん……」


「いいから……降りろ!」


 刑事は嫌がる葵の腕を掴み強引に車から引き吊り出す。刑事は次に葵の口を手でふさぎ叫ばれないようにした。その行為に驚いた葵は必死に抵抗するが、男と女では力に差がありすぎてとてもとても敵わなかった。ましてや葵は小柄な体型なのでまったく抵抗することができなかった。


 葵を無理やり引っ張り倉庫の中へと連れてきた刑事は、倉庫の支えのために立てられている柱にロープを使って葵を縛り付けた。そして話せない様に口にガムテープを何重にも貼る。


 葵はそれでも必死に叫ぼうとするが、息をするのも苦しいほどにガムテープを巻かれそれすら叶わなかった。葵は仕方なく刑事を睨みつける。刑事はそれに気が付いたのか薄っすら笑いながら葵の眼を見た。


「安心しろ。お前になにかをするつもりはない。お前はただの囮だ」


 葵は刑事の口から出た発言に驚きを隠せない。


「ハンスは必ず、お前を助けにくる。俺が心の中でお前がここにいると知らせてやる。ハンスが現れれば捕まえて俺の大手柄だ」


 刑事の考え……作戦はハンスと関わった葵を囮として利用し、ハンスが現れたところを捕まえるつもりらしい。


 この作戦を思いついたのはハンスが葵に言った言葉”心が読めない”。ハンスは心が読めると信じている刑事にとって心が読めない存在の葵にはハンスは必ず興味を持つ。興味を持った人間が捕まったとなれば助けざるを得ないだろうというのが刑事の考えだった。


 これは長年ハンスを捕まえることを仕事とし、ハンスのこと細かいプロファイリングを組んでいた刑事の勘……いや、確信があった。ハンスは必ず葵に興味を持ち、そして必ず助けにくる。その確信があってこその今の状況。刑事の頭の中にはハンスを捕まえ、大手柄を得て一気に昇進する。その考えでいっぱいだった。


 葵のことなど少しも考えてはいない。ただ自分の利益になる。それしか考えていなかった。


「さぁ、早くこい……ハンス。来たらこの自前の拳銃で仕留めてやる」


 葵は、刑事の眼を見て、素直に狂ってると思った。


 ハンスを捕まえるためには手段を問わない。いかなる犠牲を払ってでも目的を達成しようとするこの刑事に葵はハンス以上に恐怖を感じていた。


 そして、もう一つ――。


 この刑事の作戦は失敗だと葵は思った。なぜなら、ハンスが自分を助けにくるはずなど有り得ないことだと思ったからだ。確かにハンスは葵に興味を持ったといった。ハンスがどういった人間なのかはまだ良く知らないが確かに興味をもった人間がこのような目に遭っているなら助けにこようとするのは普通の感情だろう。


 ただそれは、その人との間柄の問題だ。


 家族でもなければ、長年連れ添った友人でもない。ただ少しすれ違っただけの存在。


 例えば道ですれ違った人が翌日ニュースで亡くなったと言っていてもそれに気が付くことはない。ましてや葬式に行くことも有り得ない。今の葵とハンスの関係はそのような状態だ。ただ偶然会って少し話をしただけ。


 どこの馬の骨かも分からない人間を危険を犯してまで助けにくるメリットなどどこにもない。


 しかも相手はあの世界的大犯罪者なのだから当然だ。そう思うとやはりこの刑事はそこまで頭が回らないほど狂っているということ。葵にとっては脅威でしかなかった。


「ん? いつまで睨んでいるつもりだ? 小娘……」


 葵は気がついたら刑事を睨んでいた。というのも自分をこんなくだらない作戦に巻き込んだ刑事に対する怒りと、素直に信じてついて来てしまった自分に対する怒り。どこにもぶつけることのできない怒りは自然と刑事に向けられていて刑事を睨むしか葵に抵抗する方法はなかった。


 刑事はゆっくりと葵に近づいてきて葵の髪の毛を鷲づかみにする。葵は驚きと痛みで声を上げるがガムテープに遮られ声は空気を振動させることなくかき消される。


「俺は、お前ら市民を守ってやってるんだぞ? ハンスという世界的大犯罪者を捕まえて世の中を平和にしてやろうとしてるんだ。そんな俺を睨むなんて貴様何様のつもりだ?」


 顔が近い。異常な正気。正気でない雰囲気。狂った人間だけが放つ気配。殺気以上の恐怖。葵はあまりの恐怖に刑事の眼を見ていられなくなり顔を背けた。


「くくっ……、それでいい。睨みつける相手は俺ではなくハンスのはずだ。それにしてもなかなか来ないな。少し痛めつけなければ現れないつもりか?」


 そう言うと刑事は、葵を睨みつけた。


 ――狂気。


 この刑事を纏っている狂気は凶器となって葵に襲いかかろうとしていた。葵は恐怖で刑事のほうを見ることができない。それでも刑事の拳は高く振りかぶられ葵の頬に焦点を絞り今まさに振り落とされようとしていた。


 葵はその気配を感じて恐怖に身を固める。歯を食いしばることすらできない恐怖に襲われながら。


 


 突如鳴り響く轟音――。


 葵が殴られた音ではない。それよりも遥かに大きな音。


 刑事はその音に驚き、葵を殴るのも忘れ、音のした自分の後方を見る。後方を見ると倉庫の扉がひしゃげて折れ曲がり今にも倒れそうになっている。一体どこの誰がやったのか。自然に起きたことではないだろう。


 しかし刑事には確信があった。こんなことができ、いまここに囮である葵を助けにこれる人間など世界にたった一人しかいない。そして刑事は絶対的な確信を持ってその名前を呼ぶ。


「ハンス……」


 扉は倉庫の内側にゆっくり倒れ、地面に着くと同時に大きな音を放つ。倉庫であるがためにその音は反射し共鳴しエコーを伴い倉庫全体に鳴り響く。


 そして、扉が倒れ外の景色が見え、先ほどまで扉のあったその場所には――。


 ハンスと呼ばれる一人の青年が立っていた。


読んで頂きありがとうございます。第一部は次で終わりです。

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