第1話:雨やどりと古時計
「うわっ、最悪……! 天気予報の嘘つき!」
大学の講義が終わった途端に降り出した雨は、土砂降りとなって街を白く煙らせていた。
雨宮葵(あまみや あおい・20歳)は、ビニール傘すら買えない懐の寂しさを呪いながら、濡れたバッグを抱えて古い商店街のアーケードを駆け抜けていた。
(絶対、今日の面接だけは遅刻できない……!)
地方から上京して2年。大学生活にも慣れてきたものの、物価高と奨学金の返済プレッシャー、そして「自分は将来何になりたいのか」という将来への漠然とした焦りが、常に葵の胸を押し潰しそうになっていた。
そんな時に大学の掲示板で見つけたのが、一枚の求人紙だった。
『住み込みバイト募集。老舗喫茶店でのホール業務。賄い・住居提供。要・元気な挨拶』
家賃と食費が浮くならこれ以上の条件はない。藁にもすがる思いで応募したのが、この商店街の路地裏にあるという店だった。
「あっ……ここだ」
路地を曲がった突き当たり。雨の雫が滴る木製の看板に、味わい深い文字が刻まれている。
【珈琲喫茶 古時計】
息を整え、意を決して重厚なドアを押す。カランコロン、と澄んだ真鍮のベルが鳴った。
ドアをくぐった瞬間、鼻腔をくすぐったのは、深みのある珈琲の香ばしい匂いと、古い木造建築特有の落ち着いた空気だった。外の激しい雨音が、一瞬で遠くの波音のように和らぐ。
「すみません、面接のお約束をしていた雨宮ですが……!」
ずぶ濡れの前髪を抑えながら声を張ると、カウンターの奥から足音が近づいてきた。
「やあ、いらっしゃい。すごい雨になっちゃったね」
奥から現れた男性を見て、葵は思わず息を呑んだ。
エプロンをつけたその人は、30代半ばほどに見えた。
整った目鼻立ちに、どこか哀愁を帯びた穏やかな目元。仕立ての良いシャツの袖を軽くまくり上げ、手に清潔なタオルを携えている。
大人特有の包容力と、触れれば壊れてしまいそうな儚さが同居したような……言葉を選ばずに言えば、胸がキュッとなるほど「男前」な人だった。
「ほら、まずは拭いて。風邪引いちゃうから」
「あ、ありがとうございます……!」
渡されたタオルの温もりに救われながら、葵は頭を下げた。
「マスターの時任です。まあ、そこに座って。温かい紅茶でも淹れるから」
「すみません、押しかけちゃって……」
葵はカウンター席に腰掛け、濡れた鞄からクリアファイルに入れた履歴書を取り出した。少し端が濡れてしまっているのを申し訳なく思いながら、カウンター越しに差し出す。
「あの、履歴書です! よろしくお願いします!」
「うん、ありがとう」
時任薫は柔らかく微笑み、丁寧に履歴書を受け取った。
そして、何気ない手つきでその紙面に目を落とした——次の瞬間。
ピキ、と空間の時間が凍りついた。
「……マスター?」
葵は首をかしげた。
さっきまで穏やかだった時任の顔から、すべての血の気が引き、表情が消え失せていたのだ。
彼の視線は、履歴書の「お名前」の欄に完全に釘付けになっている。
握りしめられた彼の手が、微かに震えていた。カチリ、と彼が手にしていた万年筆が手元から滑り落ち、カウンターに甲高い音を立てた。
時任は息をするのも忘れたかのように、見開かれた目で履歴書と、葵の顔を交互に見つめている。
その瞳の奥にあるのは、驚きというよりも——「恐怖」と「絶望」、そして「激しい愛おしさ」が混ざり合ったような、形容しがたい感情だった。
(な、なに……? 私、何か変なこと書いた……!?)
たまらず、葵は身を乗り出した。
「あの! 時任さん……? 私の顔に、何か書いてありますか……?」
「……っ」
ハッと我に返ったように、時任は大きく息を吐き出した。
彼は必死にポーカーフェイスを作り直そうとしたが、その目元にはまだ隠しきれない動揺が揺れていた。落ちたペンを拾い上げると、引きつったような、けれどどこか切ない笑みを浮かべる。
「……ううん。ごめんね、びっくりさせて。……ただ、すごく綺麗で、良い名前だなと思って」
「え? あ……『雨宮 葵』です。雨に宮殿の宮、花の名前の葵って書きます」
「……そうだね。あまみや、あおい、さん」
時任はその名前を、まるでガラス細工を扱うかのように、慎重に、そして苦しそうに音にした。
「……採用だよ」
「えっ!?」
「君さえ良ければ、今日からここに住んで、働いてほしい」
あまりの即決に葵は目を丸くした。「あの、志望動機とか、まだ何も話してないですけど……!」
「いいんだ。君の……うん、君の元気な声を聞いたら、十分だって分かったから」
時任は目を細め、静かに微笑んだ。
けれど、その笑顔の奥にある「何か」に、葵の胸は理由のない胸騒ぎを覚えていた。
『古時計』の2階と3階は、かつて店舗の客室だった場所を改造したシェアハウスになっていた。
時任に案内されて2階のリビングに足を踏み入れた瞬間、葵の「大人の落ち着いた喫茶店」という幻想は木っ端微塵に打ち砕かれた。
「あら〜〜!? マスター、なにその可愛子ちゃん! 誘拐してきたの!?」
真っ昼間からスウェット姿で缶チューハイを煽っていたのは、Webデザイナーの近藤凛子(31)だった。
「ちょっと凛子さん、人聞きが悪いよ。今日から入るバイトの雨宮さんだ。みんな、仲良くしてあげてね」
「雨宮ちゃん!? キャー可愛い! 若いピチピチの女の子大歓迎〜〜!」
「これこれ、凛子ちゃん、若い子を脅かしちゃダメでしょ。雨宮ちゃん、私お惣菜屋のたまき(48)。ご飯足りなかったら何でも言いなさいね!」
「やあやあ、はじめまして。私は隣の部屋の神保(年齢不詳)という者でね。困ったことがあればいつでも私の部屋の壁を叩くといい、穴が開いているからね」
「穴開けてんじゃねえよ壁に!!」
一癖も二癖もある住人たちに囲まれ、葵は一瞬で圧倒された。しかし、彼らの遠慮のない温かさに、上京して以来感じていた孤独がすっと和らぐのを感じてもいた。
「マスターが若い女の子入れるなんて珍しいじゃない! 一目惚れ? ねぇ一目惚れでしょ!?」
凛子がニヤニヤしながら時任の肘をつつく。時任は困ったように苦笑いし、葵の頭にそっと手を置いた。
「まさか。ただの『バイトちゃん』だよ。みんな、あまり困らせないように」
「バイトちゃんって、冷たーい!」
(……バイトちゃん)
その呼び方に、葵は小さな違和感を覚えた。
時任は、一度だけ「あまみや、あおいさん」と呟いたきり、決して彼女を名前で呼ぼうとしなかったのだ。
「じゃあ、僕は下に降りるから。荷物が届いたら教えてね」
時任はそう言って、どこか逃げるようにリビングを去っていった。
その夜。
引っ越し作業を大体終えた葵は、喉の乾きを覚えて共有スペースのキッチンへ向かった。
時刻は深夜1時。シェアハウスの住人たちはすでに静まり返っている。
コップに水を汲み、ふと1階へと続く階段を見やると、かすかに暗闇の中に光が漏れていた。
(あ、鍵の閉め忘れかな……?)
気になって静かに階段を降り、『古時計』の店舗へと足を踏み入れる。
昼間の賑わいが嘘のように静まり返った店内。
カウンターの奥、月明かりだけが差し込む暗がりの中に——時任薫が立っていた。
彼はエプロンを外し、白いシャツ姿で、ただじっと壁の一角を見上げていた。
葵は声をかけようとして、その言葉を喉の奥で飲み込んだ。
時任が見つめていたのは、カウンターの壁に掛けられた、大きなネジ式の古時計だった。
振り子はピタリと止まり、長針と短針は「11時15分」を指したまま動いていない。
時任の背中は、昼間に見せた優しさとはまるで別人のように、耐えがたいほどの孤独と痛みを纏っていた。
彼は止まった時計にそっと手を伸ばし、愛おしそうに、そして今にも泣き出しそうな顔で、その文字盤を撫でていたのだ。
(マスター……?)
なぜだろう。
彼が誰を想い、何に絶望しているのか、葵には何も分からないはずだった。
なのに、その横顔を見た瞬間、葵の胸の奥が、痛いほどに「ギュッ」と締め付けられた。
——この人の心は、どこにあるんだろう。
——この人の時間は、どうして止まっているんだろう。
ガラス越しに差し込む月光の下で、止まった古時計と、孤独なマスターの背中。
それが、雨宮葵が恋に落ちた、最初の瞬間だった。
(つづく)




