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プロローグ
雨の日は、いつもあの匂いを思い出す。
濡れたアスファルトの匂いと、サイフォンから昇る深煎り珈琲の香ばしい気配。
15年前の土砂降りの日、俺は逃げ込むように入った小さな喫茶店で、彼女と出会った。
濡れた髪を拭きながら「冷えちゃいましたね」と柔らかく笑った少女。
それが、俺の青春のすべてであり、生涯でたった一人愛した妻——雨宮葵だった。
彼女と過ごした時間は、あまりにも眩しく、そしてあまりにも短かった。
あの日、病院のベッドで彼女の脈拍が途絶えた瞬間、俺の人生の時計もまた、静かにネジを巻くのをやめたのだ。
カウンターの壁に飾られた、大きなネジ式の古時計。
あの日から針が1秒も進んでいないその時計を見上げるたび、俺は自分に言い聞かせる。
俺の時間は、もう二度と動き出すことはないのだと。
あの「もうひとりの雨宮葵」が、ずぶ濡れの姿で『古時計』の扉をこじ開けてくるまでは。




