第二話 夫という名の他人
今の流行は、この国の末娘であるミラ・オルエ・シルヴァーノ王女殿下が愛する、花が綻ぶようにふわりと広がる形のドレスだ。
スカートには、最近国内で生産され始めた軽くて光沢のあるベルシフォンの生地が幾重にも重ねられている。歩くたびにふわり、ふわりと広がるその様子は、まるで大輪の花が咲き誇るかのように華やかで愛らしい。
ヴェルナディア祝祭の夜会でも、その形のドレスを纏った令嬢たちが会場に溢れ、さながら花畑のような光景になるだろう。
しかし、すでに嫁いだ身となれば、そのような可憐な華やかさよりも、貞淑さや妖艶さなど、別の魅力を求められる。
この日のために衣裳部屋に用意していたいくつかのドレスをトルソーに着せ、侍女たちと相談しながら、ヴェルナディア祝祭にふさわしい一着を選んだ。
ルース領の特産であるエラシルクをふんだんに使った、滑らかでしっとりとした質感の濃紺のドレス。
染色で有名なオルティス伯爵領の染色工に依頼し、特殊な染料を使ってルース侯爵家の特徴である濃紺の髪色をイメージした特別な布地で作られた至高の品である。
肩や腕は見せつつも首元を隠し、体の線に沿うよう仕立てられたそれは、流行とは真逆ながらも特別な夜会に相応しい、落ち着いた気品と妖艶さを併せ持っていた。
袖とスカートの裾にはベルシフォンがあしらわれ、申し訳程度に金の差し色が施されている。
夫の瞳を思わせるその金糸は、繊細な刺繍となってドレスを静かに飾っていた。
この国では、特別な日のドレスは夫や婚約者から贈られることが通例だ。
だが、屋敷にすらまともに帰らない男に、そのような甲斐性があるはずもない。
アルーラはさっさとルース侯爵家御用達の仕立て屋に連絡を入れ、自ら注文を出した。
出来上がったドレスの差し色の少なさは、不甲斐ない夫へのささやかな当てつけである。
***
女性の身支度というものは、とにかく時間がかかる。
侍女たちが何人も慌ただしく部屋を行き来する中、アルーラはひたすら入念に、美しく磨き上げられていた。
そうしてすべての支度を終える頃には、すでに夜会の時刻が迫っており、あとはエスコート役であるフィデルを待つだけとなった。
そもそも、ちゃんと屋敷に帰ってくるのだろうかと思いつつも、ドレスが型崩れしないよう気を付けながら居間で夜会までの時間を過ごしていると、屋敷がにわかに騒がしくなる。
「旦那様がお帰りになられたようです。支度がございますので、奥様はこちらでもうしばらくお待ちください」
今度は仕事帰りのフィデルの身支度を整えるらしい。
主人の帰宅を待っていた侍女たちは、アルーラに一礼すると、波が引くように部屋を後にした。
残った侍女はマイアだけとなり、室内は一気に静けさに包まれる。
アルーラは、夜会までの時間を彼女が淹れた紅茶を嗜みながら、本に目を通すことにして、マイアに私室にある読みかけの本を持ってくるように言った。
そうして、しばらくの間物語の世界へと没入していると、ノックの音が聞こえてから居間の扉が開いた。
「すまない。……待たせた」
「いいえ、構いませんわ」
そう言いながら入ってきたフィデルは、すでに近衛の騎士服から貴族らしい正装へと着替え終えており、髪も隙なく整えられていた。
久方ぶりに目にする彼は、相変わらず女性たちの視線を奪うほどの美青年だった。
ルース侯爵家を象徴する濃紺の髪を軽く後ろへ流し、鍛え上げられた体躯に合わせて仕立てられた正装を身に纏うその姿は、近衛騎士として王族の傍に侍る時よりも、幾分華やいで見える。
身体の線を美しく拾う燕尾服は、男性らしい精悍さにわずかな優美さを添え、彼の魅力を余すことなく引き立てていた。
おそらく今宵の夜会でも、多くの令嬢たちが、ただ一度でも彼の視線を得たいと願うことだろう。
アルーラは、手元の本ぱたりとそれを閉じると、マイアの手を借りて椅子から立ち上がり、ゆるやかな所作でフィデルのもとへと歩み寄る。
「では、参りましょうか」
「……ああ」
アルーラがそう言って手を差し出すと、フィデルはぎこちなくその手を取り、ゆっくりとエスコートを始めた。
こうして二人で歩くのは、いったいいつぶりだろうか。そもそも前に顔を合わせたのがいつだったのかさえ、曖昧なほどだ。
こうして並んで歩いていても、言葉が交わされることはない。
もとより他愛のない会話を楽しむような間柄ではないし、何よりアルーラの方から口を開くつもりもなかった。
屋敷の前に横付けされていた馬車に乗り込むと、少しばかり狭い車内で向かい合う形で腰を下ろす。
アルーラは無言を貫くフィデルと視線を交わすこともなく、暗く先の見えない窓の外へと顔を向けた。
しばらくして馬車はゆっくりと動き出し、石畳を蹴る馬の蹄と車輪の音が、祝祭で賑わう夜に響く。
それとは対照的に、沈黙とともに仄かな緊張感が漂う車内は、夫婦という関係性を疑うほどに冷え切っていた。
その重苦しさに耐えかねたのは、フィデルの方であった。
彼は向かいに座る妻から視線を外したまま、呟くようにぽつりと口を開く。
「そのドレスは、自分で用意したのか」
「えぇ、そうですが。何か問題がおありですの?」
アルーラが視線を向けることもなくそう答えると、フィデルは少し口ごもり、言いにくそうに言葉を続けた。
「問題はないが……あまり、派手な格好はしないでくれないか。露出が多すぎる」
――この男は、いったい何を言っているのだろう。
アルーラは思わず眉を顰めた。
このドレスの、どこが露出が多いというのだろう。
体の線を拾うデザインではあるものの、布地は首元から足首まできっちりと覆われている。
ドレスに合わせたロンググローブまで付けているのだから、出ているのは肩と二の腕くらいのものだ。
色もデザインも決して派手なものではない。むしろ貞淑さと妖艶さを兼ね備えた、特別な夜にふさわしい美しいドレスである。
仕立て屋の者たちと幾度も話し合い、作り上げた一着だ。
それを「派手な格好」という一言で片付けようとする目の前の男に、淑女として失格ではあるが、アルーラは苛立ちを隠せなかった。
「そうおっしゃるのであれば、初めからわたくしに、あなたの言う“露出の多くないドレス”とやらを贈ってくださればよろしいのに」
「そ、それはそうだが……ドレスのことなど、今まで誰にも贈ったことがないから、どうすればよいのかわからなくてな」
「……だから贈らなかったんですの? 本当に、信じられませんわ。わからなければ誰かに聞けばよろしいじゃない。お義母様やご友人など、相談できる相手はいくらでもいるでしょう?」
わからなければ聞けばいい。
そう、たったそれだけのことである。
彼の中のプライドが誰かを頼ることを邪魔しているのか、それとも単に思い至らなかったのか。
男性ばかりの職場で女性に疎くなってしまう環境であることは理解できるが、妻子を持つ者も多くいるはずだ。
家族や異性に聞きにくいのであれば、職場の同僚にそれとなく尋ねることもできただろう。
それをしなかった理由が、アルーラにはどうにも理解できない。
正面から放たれる冷たい空気に、フィデルは小さく肩を跳ねさせると、さらにとんでもないことを口にした。
「その、女性のことは女性に尋ねた方が良いかと思って、君と年頃の近いミラ殿下に……。そうしたら『奥様にも好みがおありでしょうから、ご自分で選んでいただけばよろしいのでは?』と言われて、確かにその通りだなと……」
「旦那様、あなた……いくらミラ殿下とは幼少のころからの親しい間柄とはいえ、家庭内のことを護衛対象に相談するなど、いったい何をしているのです!」
フィデルの口から出た衝撃の言葉に、アルーラの淑女の仮面があっという間に剥がれ落ちる。
ミラとフィデルの噂が真実味を帯びる理由は、こういうところにあるのだろう。
いくらフィデルの母が王家の血筋で、幼いころから側にいた従兄妹の関係にあるとはいえ、いつまでも子供の頃のように、何でも話せる距離のままでいられるはずがない。
しかし、そんな親しげな様子を何度も見れば、王城で働く者たちの誤解も生まれ、噂に尾ひれがついて社交界を飛び回るのも仕方がないといえた。
それに、ただでさえそのような良からぬ噂が立つ中で、実に個人的な夫婦間のことまで軽々しく口にするなど、身内の恥を晒しているも同然だ。
アルーラは、これから待ち受けているであろう余計な苦労に、思わず頭を抱えたくなった。
ミラの言葉も、言い方を変えれば『あなたがわざわざ贈る必要などありません』と、そう言っているようなものだ。
フィデルがミラに特別な感情を抱いているかどうかは、ほとんど関わりを持たない飾りの妻であるアルーラにはわからない。
だが、少なくともミラがフィデルに心を寄せていることだけは、確かなように思えた。
それにしても、この男の頭には干し草でも詰まっているのだろうかと、アルーラは心の中で悪態を吐く。
それとも訓練のし過ぎで筋肉を鍛えすぎ、思考する器官すらも筋肉になり替わってしまったのか。
侯爵家ともなれば、高位貴族として相応の教育を受けているはずだというのに、何もかもがどこか中途半端で、アルーラの神経を逆撫でする。
「とにかく、これ以上ミラ殿下の前ではルース侯爵家の内情を漏らすことはなさらないでくださいませ!」
こんな時でさえしょんぼりと項垂れたまま目を合わせようとしないフィデルに、最後通告のようにアルーラの口調が荒くなった。




