第十話 私もまた、あなたを知らない
朝食を食べ終える頃には、アルーラの意識もすっかり覚醒しており、彼女は無防備なモーニングドレスのまま朝食に臨んでしまったことを恥じつつ、きちんとしたデイドレスに着替えるべく、そそくさと退出していった。
普段は一人で食事をしていたのだろう。フィデルの存在を意識せず、いつもどおりの振る舞いをしてしまったに違いない。
フィデルとしては、彼女の新たな一面を垣間見たことで、初めて受けた強烈な印象よりも、より人間らしさを感じ、年相応の親しみやすさを覚えた。二人の距離が、ほんの少しだけ近づいたようにも思えた。
再び一人になった彼は、場所を食卓から窓辺に設えられたローテーブルへと移し、食後の紅茶を嗜みながら、届いたばかりの新聞に目を通し始める。
貴族向けに刷られたものと、大衆に向けて刷られたものでは掲載されている記事の内容も異なるため、フィデルはそのどちらも購読していた。今回ばかりは、いずれの紙面にも、昨日から始まったヴェルナディア祝祭についての記事が数多く掲載されている。
貴族向けの新聞である『王冠新報』には、早くも昨夜の夜会の華やかな様子が雄弁に書き綴られ、王の祝辞とともに、美麗な挿絵がいくつも掲載されていた。
そのほかにも、春の話題にふさわしい女性たちの流行の装いから、祝祭に訪れた他国の要人に至るまで幅広く取り上げられており、新たな季節の幕開けや他国との交易交渉に関する報せなど、さすが国が主導する新聞社だけあり、その情報は実に多彩であった。
一方、大衆向けの『民衆通信』には、祝祭に沸き立つ王都全体の様子をはじめ、これから一週間続く祭りの露店紹介や、大広場で行われる大道芸の日時など、軽快で親しみやすい話題が多く掲載されていた。
しかしその中には、祭りに乗じた軽犯罪への注意を呼びかける報せもあり、スリや暴行、詐欺などが一時的に増加していると記されている。光あるところに影が生まれるように、祝祭の裏で蠢く者たちもいるようだ。
こうした事件への対処は、騎士団の中でも平民の出身者が多い第四騎士団が担当する。王都の警備や巡回、事件対応を主な職務としており、平民と接する機会が多いことから、摩擦を避ける意味合いでも平民が多く起用されている。
騎士団に入団すること自体が非常に難関であり、貴族と接する機会の多い騎士団に所属するためには、たとえ平民であっても騎士学園を卒業していることが必須条件となる。
もちろん、奨学生制度や剣術推薦なども設けられているため、志ある者たちはこぞって騎士学園を目指す。
学園では、貴族に対する礼儀作法などを一通り叩き込まれるため、卒業するころには、一見して平民とはわからないほど洗練されたものへと変わっていた。
かつて下世話な話で大いに盛り上がっていた平民の同級生たちも、今や各騎士団へ配属され、そうした話に興じていた面影を微塵も感じさせないほど、忠実に職務へと従事している。
ちなみに、第二騎士団は国境防衛および対外軍事を担当しており、主に対人戦を任務とするため、特に軍人色が強い。力こそすべてを体現する猛者たちの集まりであり、実力主義を重んじるエリート集団である。一時期、ルース伯爵家の出身であることから、フィデルにも執拗に引き抜きの声がかけられていたものだ。
しばらく新聞や手紙に目を通していると、支度を終えたアルーラが再びダイニングへと戻ってきた。
大胆な薄紫と白のストライプ柄のデイドレスは、フラウンスが幾重にも重ねられることで、美しく丸みを帯びたシルエットのスカートを作り出し、まるで釣鐘のような愛らしさを感じさせる。デコルテ周りを見せるデザインだが、その上から小花柄が編み込まれたレースのショールを羽織り、足元には白地に金糸で細やかな蔦の刺繍が施されたローヒールを合わせていた。
どれもが年相応の可憐さを保ちつつ、アルーラの持つ清純な魅力を引き立て、しっとりとした大人の女性としての気品をも感じさせている。
彼女は慣れた様子でフィデルの向かいへと腰かけると、すでに読み終えていた『王冠新報』を手に取り、軽く目を通した。
文字を追うその姿には、先ほど見せた無防備さは影も形もない。長い睫毛に縁どられた瞳が丹念に文字を追うさまは、幸福だけを見て生きてきたかのような甘やかな外見を、一転して理知的な印象へと変えていた。
侍女が手慣れた様子で、新聞に目を通す彼女の前に紅茶とジャムを用意する。ふわりと香り立つ紅茶の香りに、アルーラは新聞から目を離し、ジャムを落とした紅茶を口にすると、小さく息を吐いた。
フィデルがいてもいなくても変わらない、彼女の日課なのだろう。
食後、この窓辺のテーブルで紅茶を嗜みながら新聞に目を通し、静かに情報を得る――そんな穏やかな時間が、彼女の日常を形作っているに違いなかった。
「……旦那様、本日のご予定はいかがなさいますか」
アルーラは新聞から顔を上げないまま、フィデルにそう問いかけた。
ぼんやりと彼女を眺めていたフィデルは、その言葉に小さく動揺しつつも、自身の予定を思い起こす。ミラに呼び出されることを前提に組んでいた予定は、昨夜の出来事によってすべて白紙となり、今はまっさらな状態であった。
一週間にわたって続く王城での社交は、基本的に初日を除けば自由参加である。王家の主導のもと、茶会や晩餐会、狩猟会、舞踏会などが予定されているものの、そのすべてに参列しようとすれば、身体的にも金銭的にも負担は甚大となる。特に地方貴族にとっては、出席のたびにドレスやアクセサリーを新調することは容易ではなく、何より人手や手間も多大に必要となる。
そのため、連日参列するのは王都近郊に領地を持つ高位貴族が中心となる。その中でも各家の当主夫妻が顔を出せば、他の家族が必ずしも参列する必要はなく、王族からの招待状が届いた場合を除けば、比較的自由に過ごすことができるのである。
「昨夜、アーネスト殿下のお気遣いのおかげもあって、予定は特になくなったな」
「ああ、なるほど。ミラ殿下の護衛任務の予定が入っていらっしゃったのですね。そうですね……では、空いた時間をわたくしと過ごしましょう」
「君と?」
フィデルがそう聞き返すと、アルーラは静かに顔を上げ、彼をまっすぐ見つめた。
「昨夜、就寝前にあなた様からお聞きしたことを含め、今までのことを振り返ってみたのです。そして思いました。わたくしもまた、あなたのことを知る者たちに囲まれながら、あなたのことを何も知らないのだと」
フィデルがアルーラの内面を知らなかったように、アルーラもまた自身のことにばかり意識が向き、これまで様々な焦りから彼のことを知ろうともせず、不満ばかりを募らせてしまっていた。
この屋敷は彼が幼少のころより育った場所であり、それを見守り続けてきた者たちが多くいる。
だというのに、アルーラは彼らにフィデルの人となりを尋ねることもせず、何事にも諦めて無為な日々を送ってしまった。
アルーラの憤りに意味があったように、フィデルの行動にもまた意味があったのだ。本人に確かめられないのならば、周囲からそれとなく聞き出せばよかった。
それは、かつてアルーラがフィデルに告げた言葉が、そのまま自分に返ってきたかのようでもあった。
昨夜、ベッドの中で眠気を待つ間、彼女は自らの視野が狭まっていたことを痛感し、深く反省していた。
被害者意識ばかりが先行し、夫婦というものの形を一方的に決めつけていたのは、アルーラも同じだったのだと。
そして、やはり言葉を交わしたことで理解できたことがあった。
それは、目の前の男が決して悪い人ではないということだ。
「昨日は一方的に責めてしまい、申し訳ありませんでした。わたくしばかりがあなた様に誠実さを求めるのは違うのだと、話を伺ってそう思いました」
「……いや、私の方こそ、様々な事情が絡んでいたとはいえ、随分と身勝手な行動で君を傷つけてきた。だから、君がそこまで謝る必要はない。顔向けできないと弱気になり、君を避けてきたのは事実だ。だから、私も……すまなかった」
顔を合わせて話し合えば、こんなにも簡単に理解できることだった。
それを実感したのか、どちらからともなく笑みがこぼれる。
それは、昨日の朝とは違う空気感――少し前を向くことができたような、明るい気持ちから生まれた笑みだった。
朝からテーブルで向かい合い、真面目に謝り合う光景は、使用人たちの目にどのように映ったのだろう。
気がつけば、待機しているはずの使用人たちの姿はほとんどなく、唯一侍女長であるマイアだけが扉のそばで静かに佇んでいた。
彼女の目元がわずかに涙で滲んでいるのが見えたが、アルーラはそれに気づかないふりをして、努めて明るく彼女へ声をかける。
「マイア、出かける準備をお願い。旦那様と、少し街へ行くわね」
「はい、かしこまりました」




