赤に染まる
ひとしきり運動を終えて帰路につく。
私はポケットの縁から顔を覗かせて、行き同様に辺りを見渡していた。
木剣を置き場に返却するため、クロは訓練中の騎士たちの方へと歩を進める。私もそろそろ隠れたほうがいいだろうとクロを振り返った、そのとき。
見上げた視界の端で、何かがギラリと光った。
「クロ——!」
私が声を発するより早く、クロは動いていた。
私の入ったポケットを庇うように向きを変え、自身目掛けて飛来する物体を木剣で薙ぎ払う。
「っ——」
ガランと音を立てて地面に叩きつけられたのは、金属刃のついた真剣だった。
クロの振り下ろした木剣は剣身の半分が削ぎ落とされたかのように失われ、木剣を握った腕はだらりと下がったまま動かない。
突然のできごとに脳の理解が追いつかず、ただ鼓動だけが事態を飲み込んだかのようにバクバクと騒ぎ立てる。
耳鳴りのような鼓動を頭の中に聞きながら、僅かな刺激を与えることさえ恐れて慎重に、そろりそろりと視線を這わせてクロを仰いだ。
「————血が!」
右の肩口。この位置からでは傷口は見えないけれど、裂けた服の周りが恐ろしい速さで赤に染まっていく。
「どうしよう! 誰か! クロが死んじゃう……!!」
「大丈夫、大した傷ではない。——人が来る。ヒナ、隠れていてくれ」
頭を撫でた指先にそっと押し込まれ、ポケットの中でうずくまる。
外はにわかに騒がしくなり、集まった人々が医者だ犯人だなんだと指示を出しているようだったけれど、今の私には何一つ意味をなして届かなかった。
血が、たくさん出ていた。
たくさん、血が……。
大した傷ではないとクロは言ったけれど、本当に?
私に心配をかけまいと、優しい嘘をついたのでは?
平然と自己犠牲を選択するクロの『大丈夫』は、当てになりそうにないから……。
首の近くだ。もし動脈が傷ついていたらどうしよう。
もしも、クロが………………。
思い出されるのは一年前の、ある春の日。
春分を過ぎてようやく寒さが和らいできたというのに、その日は薄曇りの肌寒い朝だった。
いつも早起きなおじいちゃんが朝食の準備を終えても起きてこないので、体調でも崩したのかと心配になって寝室を覗きに行った私は————
その『心配』が、もう二度と届かないことを知ったのだ。
自分はなんて無力なのだろう。
こんなとき、ただ泣くことしかできないなんて。
それでもクロが、隠れていてくれと言ったから。両手できつく口元を押さえ、狭いポケットの中で必死に嗚咽を殺す。
押さえる手のない目元からは大粒の涙がぼろぼろと零れ、音もなくポケットの内布を濡らした。
「——もう出てきて大丈夫だ」
クロが重なりあった枕をどかせば、シーツの上にうずくまって泣きじゃくる私に眩しい部屋明かりが注いだ。
自分の足で部屋へと戻ったクロは、血染めの上着のポケットから私を抱き上げて、そっとベッドの枕元に隠れさせたのだ。
その後慌ただしく人が出入りしてクロの治療も終わり、今は広い寝室にクロと私の二人だけ。
「ひっく……、クロっ! クロぉ……っ!」
堰を切ったようにしゃくり上げながら、ベッドに座るクロの腕にひしとしがみつく。
少し顔色がよくないけれど……それ以外はいつも通りだ。
険しい表情も、穏やかな瞳も、温かな体温も、ちゃんとここにある。
血の気配は跡形もなくなり、今は真っ白な寝衣を着ていた。
「クロ……、無事で、よか……っ……」
安心と共にまた新たな涙が込み上げてくる。
緩みきった涙腺はとどまることを知らず、あとからあとから涙をあふれさせる。
「傷はもう治癒魔法で塞がっている。失った血は戻らないので数日間安静にしている必要はあるが……。ヒナ、心配をかけてすまなかった。万が一俺に何かあったときには、ヒナの生活を保障するよう書き置いておくから安心してほしい」
「——!」
「執務室の隠し扉も、主を失えば普通の扉として姿を現す。中に閉じ込められる心配はしなくて大丈夫だ」
「なに……それ……」
涙跡の残る顔で唖然とクロを見上げる。
「ああ、先んじてヒナ専用の部屋を用意しておいたほうが——」
「バカっ!!!!!」
私の急な怒鳴り声に、クロはぱちくりと目を瞬いた。
「ヒナ……?」
「私のことなんてどうだっていい! 私は『クロの』心配をしてるの!!! ひどい怪我だったらどうしようって……、血がたくさん出て、しっ、死んじゃったらどうしようって……、怖くって、心配で、私……、……っ」
眼球ごと溶け落ちてしまいそうなほどにぽろぽろとあふれ出る涙を、太い親指の腹が遠慮がちに拭う。
「……俺の身を?」
「あっ当たり前、でしょっ! クロのことっ、好き、だから……っ! 心配するに、決まっ……、うぅぅ……っ」
心配と、安心と、八つ当たりめいた怒りと。
今ようやく気付いたのだ。
見知らぬ異世界に放り出されたにも関わらず、『飛ばされたのがここでよかった』と思えたのも、前向きでいられたのも、全部——クロのおかげだ。
クロが私を受け入れてくれたから。一緒に過ごしてくれたから。何の繋がりもなくなった元の世界より、ここで生きてみようと思えた。
クロのいる、この世界で————。
ぐしょぐしょに泣き暮れる私を、クロがそっと顔の高さに抱き上げる。
「ヒナ、すまなかった……。俺の身を案じてくれてありがとう」
「っ、でもっ、なんにもできなっ……から……」
ぶんぶんと首を振る。
お礼を言われるようなことなんて、何一つしていない。
ただ泣くばかりの自分の無力さに、腹が立ってしょうがないのに。
「そんなことはない。こんなにも心から心配してもらったのは初めてだ。地位でもない、責任でもない、他ならぬ俺自身を」
「でも……っ」
「嬉しいよ」
目尻に溜まった涙を、ちゅっとやわらかな熱が吸い上げた。
「…………へ?」
突然の出来事にぱちぱちと瞬けば、反対の目尻からころりと雫が零れて、またちゅっと吸い上げられる。
離れていく唇を、真っ赤な顔で見つめ……。
頭の中では、先日聞いた『食べてしまいたい』というクロの言葉が俄然現実味を帯びて再生されるのだった——。
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次回更新は~、また明日の夜!٩( ᐛ )و




