1 始まりの初め
ああ、なんて終わり方なんだろう。
平 隼人は、いつも通り研究を進めて、いつも通りに経過を観察し、いつも通りに報告書をまとめあげ、いつも通りの時間に切り上げ、帰路につく。
ここまでは日常、何も変わらず、そこに思考の余地はないかのようなルーティーンであった。
夜風が涼しく、心地よい。
街灯がポツリポツリと等間隔に佇んでいるいつもの路地裏を通り抜け、小さな横断歩道に差し掛かる。
不意に眠気が襲ってくる。
何気なくふわりと欠伸をした。
どうせ夜だから人目もあるまいと、遠慮をしない大きな欠伸。
一日の疲れとストレスが欠伸とともに抜けていくのを感じると共に、薄く明いた左目にふと物体――不意だった為わからない――が飛び込んできた、否、衝突してきた。
気づけば視界は地面にあり、風船から空気がジワリと抜けていくかのように自身の体が脱力していき、地面のひんやりとした感覚と、なんともいえないような鈍痛を全身に感じる。
不意に衝突してきた物体はキッとブレーキ音をたてて停止したようであった。そしてそのまま走り去る音だけが耳に残った。
(あー……死ぬのか、これ。あ、死ぬな)
単純な思考しかできない、何が起きたのかはいまいちわからないまま、地平線を見つめる視界は急速にブラックアウトしていく。
平 隼人は、これからその身に降りかかる出来事を予測できるはずもなく、現在のたただただ不運な事故に己の『終わり』を感じ、意識は天も地もわからない感覚で暗闇へと堕ちていった。
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「……!……!」
墨汁を一面にぶちまけたような暗闇の中で、声が聞こえる。
聞こえはするものの、はっきりと何を言っているのかわからず、声の主の姿も見えない。
その声は耳障りな金切り声ではなく、どこか懐かしいような、それでいて恋しくなるような低音の優しい響きである。
聞き覚えがあるその声の主を探すために、塗り潰された漆黒の中に意識を集中する。
そうしていると、微かに、本当に微かではあるが、パチパチとした光のようなものが目前に現れる。
まるで記憶を思い出し、つなぎ合わせるようにパチパチとした光は徐々に強く光りだしていく。
――ああ、この声、君は……
そう思ったのも束の間、活発になりだした光は急速に小さくなり、集中していた意識が散っていく。
まるで世界が自分から離れていくように声は遠くなり、天地が無くなるような浮遊感に襲われ、元の暗闇に溶解するかのように深く深く意識が落ちていくのを感じる。
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暖かな日光の気配を瞼越しに感じると共に、鳥の囀りや、木の葉擦れの優しい音がじんわりと脳に広がっていくのを感じ、少年は目を覚ました。
今日も良い天気であることを、目を開けずとも感じ取ることができる。
薄手のブランケットに包まったままの少年は、寝返りを打つかのようにうつ伏せになり、そのままのそりとその小さな体をベッドから起こした。
まだまだ寝足りないのであろう、眠たそうにとろんとした目が、いまいち焦点が合っていないようだ。
(……久々にあの夢みたなぁ……)
あの夢。
目が覚めると同時に、直前までみていたであろう夢のディティールは、大海に墨汁を一滴だけ垂らしたかのように、時間を経て曖昧なものとなり、一体どんな夢だったのかはっきりとは思い出せない。
それでもなお、『あの夢』とわかるのは、胸に残っているモヤっとした粘着質な感覚が残っている為である。
(すぐ忘れちゃうけど、何故か目覚めは良くないんだよなあ、できれば見たくない夢だよ)
眠気も幾許か抜けたのか、後頭部を無造作にわしゃわしゃと掻いている。
黒ですっきりとしたショートカットの髪は、コシがあることがわかるように、若干の寝癖がついている。
そして頭頂部付近の黒髪から覗かせている犬のような耳をピコピコと動かしている。
彼は犬人の血を引いた種族。
程よい肉付きの体は、短いグレーの体毛に覆われており、ハスキー犬のような配色をしてる。
犬のような特徴をもちつつも、身長は人間のそれと似ているようで、まだ少年のような成長途中を思わせる。
140cm前後といったところだろうか。
もう一度伸びをすると共に、己の意思とは無関係に空腹を訴える音が、己の体からぐうと音を鳴らしてアピールしてくる。
グレーの体毛をした犬人の少年は、訴えかけてきた空腹感を満たすため、身を包んでいたブランケットから身を剥がし、朝の食卓へと向かうのであった。
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ああ、なんて目覚め方なんだろう。
平 隼人は、ひんやりとした朝の空気を感じ、目を覚ました。
体に残る若干の気だるさと、微かに残る鈍痛が思いのほかすぐに、意識を覚醒へと向かわせた。
(俺、車に轢かれたよな?夢か?いやでも微妙に体痛いし)
いまいち纏まらない思考をしつつ、体を起こし周りを見渡す。
見慣れない部屋だ。ひんやりとして落ち着かない。
別に無機質なわけではない。むしろ温かみのある部屋である(隼人基準だが)。
木を基調にしたコテージのような部屋。
テーブルや椅子、家具と思われるもの、ほとんどは手作りを感じさせるウッドインテリアで揃っているようである。
隼人の知る範囲――知る限りの範囲の知人ではあるが――では、木が主体の家というのは記憶にない。
今時コンクリートに壁紙を張ったような、いかにも人工的なフローリングが関の山である。
ここはどこだ?知人の家ではないし、そもそも布団やベッドでもなく、床に直に寝そべっている時点で事故後の看護の扱いではないのも確かである。
一瞬拉致か誘拐を連想もしたが、部屋の間取りや雰囲気を見る限り、その考えはあっという間に霧散した。それならもっと脱出できないであろう部屋に放り込まれるか、動けないように拘束するはずである。
思考そのものは混乱しつつも、頭の芯は妙に冷静でシャッキリとしていた為、とりあえず今自分が置かれている状況把握の為、この空間の探索をしてみようという答えに行き着いた隼人はよっこらせいを息を漏らしつつその場から立ち上がろうとするのであった。
そしてその行動は、平 隼人が目覚めたこの世界で、大きく混乱することになる始まりであった。
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グレーの体毛に覆われた犬人の少年は、目覚めたばかりとは思えない衝撃と恐怖に支配されていた。
ベッドから出て、寝室をでればすぐのリビングキッチンで朝食を済ませ、その後のスケジュールをボーっと考えるつもりだったのだ。
それが、これは一体何なのか、いや、誰なんだ。いつから??
犬人の少年の目線の先には、まさに今立ち上がろうとしている人影がテーブル越しに写っている。
朝のゆったりとした空気の流れが、更に遅く、どろりとした粘着質な空気に変質したかの如く、スローモーションで再生されていくように感じる。混乱の極みである。
ズボンから垂れ下っている少年のふかふかとした尻尾は、緊張でやや角度を持った状態で硬直している。
不意に鼓動が早くなるのを感じ、脂汗のようなじっとりとした湿り気が犬人の少年の背中を覆っていく。
そして意図せず、テーブル越しのその『人影』と目が合ってしまった。
何気ない、いつも通りと思っていた朝に、一軒のコテージのような家からこの世の終わりかのような悲鳴が響き渡ったのは言うまでもない。その悲鳴に追従するかのように、悲鳴がコーラスのように重なり合う朝。
ただの人間であった平 隼人と、グレーの体毛を持つ犬人の少年、ルーカ=ドギニクス=フスキの衝撃的(且つ恐怖と混乱に塗れたであろう)出会いであった。
まったり更新です(´`)勢いで生きています、許してくだせえ!




