2.
8/5 少し加筆しました。
店の暖簾をくぐると、薄暗い店内は細かく仕切られたパーティションで、奥まで見通せない造りになっていた。天井部は大きく開き、オレンジ色の照明が梁から吊り下がっていた。高級感のある木目調の壁の向こうから、人の話し声がガヤガヤと響き、食器の触れ合う硬質な高い音がそれに混ざる。
しばらく入口で待っていると、まだあどけない顔をしたアルバイト店員が、小走りでやってきた。予約があると伝えると、お名前を伺います、と急き立てるような返事があった。
「鹿井チカで予約が入っていませんか?」
「えーと、ないですね」困ったような表情の奥で、忙しい、と目だけが訴えていた。チカはいつも予約名を変える。三〇にもなって、なぜそんな学生の悪ふざけのようなことを続けるのか、佐伯には分からない。ただ、予約名の傾向だけはだいたい予想がついていた。
「それじゃあ…...ポンペイウス、カエサル、クラッスス。たぶんこのどれかじゃないですか?」
店員は一瞬だけ固まった。だが、すぐに何かを察したように端末を確認する。さっきまでの切羽詰まった様子がやわらぎ、面白そうな笑顔が浮かんだ。
「ああ、『護民官ティベリウス』さんですね。……珍しいお名前ですね」
またか、と佐伯は思った。急に態度の良くなった店員の案内に従い通路を進むと、ボックス席に取り付けられた短冊状の仕切り戸の隙間から、楽しげな客の顔が見えた。通路の奥にちらりと見えたカウンター席の方も、ぎっしりと人影で埋まっている。
店の一番奥に近いボックス席に通されると、まだチカは来ていないようだった。「お待ちになっている間、お飲み物だけでもどうですか?」と少し親しみのある声をかけられ、しばらく迷って烏龍茶を頼んだ。ほどなくして、氷の音を立てながらグラスが机に置かれた。
前にもこんな事があったな、と佐伯は思い出した。
三年ほど前、チカと一緒に街を歩いていると、男女のカップルの修羅場を目撃した。繁華街のド真ん中で女は泣き叫び、男は怒鳴っていた。出し抜けにチカが「あああ!!」と大声を出して、男の顔を指差した。男は怒鳴るのをやめ、チカの顔を凝視した。
しばらくチカは考え込み、すぐには結論を出さなかった。かなり長い間、男を指さしたまま動かなかった。そして、「あれ? すいません、人違いです......」そう言うと男は「ぇえ…?」と声を漏らした。もう怒る気力を失ったようだった。佐伯とチカが歩き去ると、泣いていた女が、しばらく遅れて大きな声で笑っているのが聞こえた。
どういうわけか、チカが少しでも関わると、人々は少し前向きになれるらしかった。自分もそうかもしれない。チカとの思い出はほとんどが馬鹿馬鹿しい記憶で、思わず鼻で笑ってしまう。佐伯はスマートフォンを取り出した。
2026年5月28日木曜日・19:17
『もう着いたよ。烏龍茶飲んでる』
すぐに返信が来た。
『ずるい!』
そのちょっとズレた返事が、いかにもチカらしかった。烏龍茶に口をつけ、手持ち無沙汰になって天井を見上げると、コンクリートの天井の下に配線の絡んだ梁が見えた。それと一緒に、周囲の声が自然と耳に入った。少し遠い場所から、家族連れと思しき子どもの声。隣のボックス席では、大学生らしい男女が研究室の話で盛り上がっていた。
「―――どうすんだよ研究テーマ」
「まだ教授にOKもらってないんだぞ」
「普通こんな実験やらないだろ」
何気ない会話だった。それなのに、その言葉だけが妙に耳に残った。研究テーマ。教授。実験。その三つの言葉が、九年前のある日の研究室へと佐伯を連れ戻した。
それは藤倉教授だけがいない研究室でのことだった。5月の盛りを過ぎて、乾いた空気は少しずつ湿り気を帯び始めていた。キャンパス内にひっそりと植えられた梅は、鈴なりになった青い実をつけ、研究室の格子窓に触れそうなほど枝を伸ばしていた。少しだけ開いた窓の隙間から、独特の甘い匂いがかすかに香った。
研究室の黒板には、大きく『聖地』とだけ書かれており、議論の進行役として院生の藤堂さんが立っていた。長い髪を後ろで一つにまとめ、夜の盛り場で注目を集めるホストのようにも、真面目に仕事に打ち込む芸術家のようにも見える、そんな人だった。彼は後ろでまとめた髪をかき回すと、真面目くさった表情で静かに口を開いた。
「それでは、家で考えてきた聖地を、一人ずつ発表してくれ。終わったら皆で評価し、次の発表に移る。最初の一人目に立候補するものは挙手を」
しばらく誰も手を挙げなかった。藤堂さんは時計に目をやり、イライラした様子で一人を指さした。
「それじゃあ時田。お前やれ」
「ええ? なんで俺なの?」
「どうせ全員やるんだ。早く終わらせたほうがたぶん楽だぞ」
「なんだよそれ...」そう言いながら、時田は渋々といった感じで席を立った。全員が視線を集めると、恥ずかしそうに横を向いた。
「えー、それじゃあ、自分は聖地イバラギを提案します。これはネット上でイバラギがイジられてて、未開の地だという冗談があるので、面白そうだと思って選びました」
教室に面白がるような笑顔は浮かんだが、笑いは起きなかった。藤堂は黒板に『茨木』と書き込むと、研究室を見回した。
「では評価に入る。何か意見は?」
「危険です」熊島が声を上げた。「実在の地名は避けた方がいいと思います。もし本当に信じる人間が現れた時、冗談では済まなくなる可能性があります」
遠い未来―――、聖地イバラギに、粗末な腰布を巻いた集団が涙を流しながら殺到する。そんな光景が頭に浮かんだ。いや、まさか。佐伯はそう思いつつも、完全に否定することは出来なかった。しばらく待っても誰も口を開かなかった。藤堂は黒板の文字を消すと、次の名前を呼んだ。
「そうだな。面白い発想だがこいつはボツにしよう。それじゃあ次は宇部」
四回生の宇部が席を立った。目を閉じればパチリと音がしそうな長いまつげと、キラキラと光る装飾された爪。東響大学のミスコンで三年連続上位をかっさらった美女が、面白そうに微笑んだ。
「やー、ごめんなさい。自分もあんまり真面目に考えてなかったんで、聖地シブヤって言おうと思ってました」
今度は研究室に小さな笑いが起きた。これも当然ボツとなり、その後、何巡か回って数十の案が出た。馬鹿げたものもあれば、妙に完成度の高いものもあった。候補は三つにまで絞られ、そのうちの一つが、絶妙なラインだった。
「地元に安達太良山っていう山があるんですけど……地元の人間は昔からアバタラって呼ぶことがあるんですよ。調べた限り、正式な名前としては出てこないみたいです」
慎重に議論が交わされ、他の二つの候補は黒板から消された。そして聖地『アバタラ山』が仮採用となった。
本当にアバタラ山は現実に存在しないのか。その後、念のためにGoogleマップや国土地理院の地図まで調べた。古い地名辞典も確認した。それでも、「アバタラ山」という名前はどこにも存在しなかった。その時は、それがただの遊びの名前だと思っていた。
スマートフォンが鳴った。
2026年5月28日木曜日・19:25
『お待たせ』
ボックス席の入口がカラカラと静かに開き、チカが嬉しそうに微笑んだ。佐伯はその姿を見てどこか安心した。隣のボックス席から聞こえていた学生たちの声も、いつの間にか店の喧騒に溶けていた。
「ごめんごめん。仕事で遅くなっちゃった」
「そんなに待ってないよ」
チカは佐伯の対面に座り、烏龍茶のグラスを勝手に引き寄せて飲み始めた。半分ほど飲み干すと、ぷはぁと気持ちよさそうに息を吐いた。そして佐伯を見ると、人を食ったように片頬を吊り上げて笑った。
「よく中に入れたね? 受付で立ち往生してるところに颯爽と現れる予定だったのに」
彼女は学生の頃と殆ど変わらない。笑みが深くなると、シャイな第一印象が薄れて、開けっぴろげな性格が垣間見える。そのくせどこまでが本音で、どこからが打算なのか、まったく分からない。チカはいつまで経っても謎のままだった。
「頭の硬い店員だったら、計画通りになっただろうね」
チカは漫画の擬音をそのまま口にした。
「チッ。今度から予約するときにきつく言っとかないと。一語でも間違ったら中に入れるなって」
そこからしばらく、互いの職場の愚痴や、今度公開される映画、それから好きなバンドのライブの話を取り留めなく続けた。といっても、チカがほとんど話して、佐伯は聞き役になることが多かった。話しているうちに料理は次々と運ばれ、皿が机いっぱいに並んだ。目当ての餃子を五人前も頼んだせいで、結局、チカが満足した頃には、残りの餃子はほとんど佐伯の胃袋に収まっていた。
そろそろ出ようかと時計に目を落とすと、チカが新しい話題を提供した。
「そういえば、ゼミのグループL◯NE見た?」
「ゼミの?」
チカが来るまでその事を考えていたはずなのに、すぐには繋がらなかった。
「あー、そっか。佐伯くんグループもう抜けてたっけ。ほら、藤倉先生のゼミのやつ」
心臓が一拍だけ止まった。ゼミ。藤倉教授。三木谷との会議。アバタラ山。今日起きたことが一つの線につながった。
「チカ、まだゼミのL◯NE残してたんだ」
佐伯が呟くと、チカの少し困惑した顔が、下から佐伯を覗き込んだ。
「え、どうしたの? 佐伯くんと熊島さんくらいだよ。抜けたの」
チカは大げさに息を呑んだ。
「佐伯くん......まさか熊島さんを......」
「そんなわけないだろ」
ケタケタと表現するしかない子どもっぽい笑い声をあげると、チカはスマートフォンを取り出して操作した。
「これこれ、今日の昼頃にこんなのが届いた」
渡されたスマートフォンを佐伯が覗き込むと、上の方には日付がかなり古い雑談が並んでいた。2022年ぐらいに会話が途切れ、それ以降は一年毎くらいに、『みんな生きてる?』のような他愛もない断片的なメッセージが並んでいた。そして一番下にそれはあった。
『ねえ、誰かあのサイト更新してる?』
あのサイト。藤倉ゼミに参加していたなら、どのサイトを指しているのかは明白だった。皆で半年がかりで作った宗教サイト。
「もう見た?」
佐伯が問いかけると、チカは首を振った。
「まだ。だってなんか怖いじゃん。佐伯くんと一緒に見ようと思ってた」
「......」
「もしかしてビッてる?」
自分から怖いといったくせに、笑顔で挑発してきた。
「おたがい様だろ。正直怖い」
「じゃあ今日は見るのやめとこっか」
佐伯は答えなかった。チカもなんとなく察したみたいだった。約束通りチカに奢らせて、一緒に佐伯の家に向かった。その日は久しぶりにチカは泊まっていった。
そして翌朝、二人は九年前に作った、誰も存在しないはずの宗教サイトを開いた。
「なんだこれ......」
「こっわ......」
佐伯とチカは、同じ画面を覗き込んで、それぞれ感想を口にした。乱れたベッドの上にノートパソコンを置いて、二人で肩を寄せながらそれを見つめていた。
画面いっぱいに表示されていたのは、見覚えのある宗教サイトのトップページだった。達筆な筆文字で『源流真教』と書かれた見出し。その背後には、紫を基調に金と銀の花文様が敷き詰められている。バックグラウンドには、藍染を思わせるくすんだ藍色が敷かれ、白抜きの文字が整然と並んでいた。テキストを囲う白線も、機械的な直線ではなく、手書きのようにわずかに揺れていた。
「これ……私たちが作ったサイトだよね?」
佐伯は返事をしなかった。見覚えのある画面ではある。しかし、記憶にある『源流真教』とはまるで違っていた。明らかに記事とリンクの数が増えていた。ざっと見ただけで『寄付ページ』『支部一覧』『聖典ダウンロード』『聖歌』『問い合わせフォーム』などの見慣れないリンクがあった。どれも学生の悪ふざけで作ったサイトには、本来あるはずのない項目だった。最下部には更新日と更新内容のお知らせが記されたテキストボックスが配置されていた。
『2026/05/28 12:31更新 巡礼記録 』
テキストボックスを下に辿ると、途中で更新が止まった形跡はなかった。一週間前、一か月前、三か月前――さらに一年、二年、三年前へと遡っても、更新は途切れていない。まるで誰かが九年間、一日も忘れることなく管理してきたようだった。
―――いったい誰が?最初に頭に浮かんだ疑問はそれだった。
8/4 博物館学芸員による宗教サスペンス。ニッチなジャンルの物語が、とうとう始まります。




