1.
いつからだろう。佐伯は茂みの中でカメラを構えながら思った。
いつからだろう、藤倉教授の使いっ走りのような仕事をするようになったのは。少なくとも、最初は実験助手だった。あの小さな研究室で行われる危険で独創的な実験の準備をし、そのデータをまとめたり、後始末をするのが主な仕事だった。しかしいつからか、教授は教員としての仕事から離れていった。 そうしているうちに、大学に籍を置いたまま、教授は構内に寄り付かなくなった。変に名声が高いせいで、誰も文句をつけられなかった。
佐伯の仕事も変わった。
最初は資料整理だった。次に現地調査の手伝いを頼まれた。写真を撮り、録音をし、古い文献を探し、教授の代わりに役所へ行った。気がつけば、教授が「ちょっと行ってきてくれ」と言った場所へ行き、「これを調べておいてくれ」と言われたものを調べるのが仕事になっていた。
今では、自分が何を調べているのかさえ、佐伯にはよく分からない。 ただ、藤倉教授が「面白い」と言ったものなら、調べる価値はある。そう思っている自分が、一番まずいのだろうと佐伯は思った。
島の広場の中心では、巫女服の少女が男根を模したと思われる奇妙な祭具を振り回している。美しく、どこか儚げな表情の少女だった。島の祭りには不釣り合いなほど整った顔立ちをしている。長い黒髪が灯籠の明かりを受け、妙に都会的に見えた。 あんなものを持たせるのはなぜなのだろうか。子宝祈願だろうか。いや、無病息災かもしれない。どちらにしても、あの祭具と巫女の取り合わせだけは説明がつかない。
佐伯はそれを無心で撮った。シャッター音がしないのは、デジタル一眼レフカメラに搭載されているサイレントモードをオンにしているからだ。フラッシュの光が漏れないのも、内蔵ストロボ機能をオフにしているからだ。空に張り付いた月と、無数の灯籠で照らされた祭りの中心だけが、夜の暗闇の中に浮き上がって見えた。半裸の男たちがそのオレンジ色の光に照らされ、まるで火の粉を纏った妖精のように踊り狂っている。その中心で巫女役の少女が、優雅に祭具を振って祈りを捧げた。真っ暗な茂みの中に身を隠しながら、佐伯はそれを夢中で写真に収めた。
―――許可はない。
この祭りに参加する許可は、島外の人間には与えられない。島は祭りの期間中、渡航禁止エリアとなる。近くの漁師ですら配慮して近づかない。その秘められた祭りは、決して島外の者を受け入れない。そういう伝統だった。無許可で立ち入ったテレビ番組クルーが、袋叩きに遭ったという噂も耳に入っていた。では、どうやって調べるのか。
佐伯はシャッターを切った。
これが何の研究に使われ、何を解明する資料になるのか、佐伯には見当もつかなかった。もしかしたら、藤倉教授の興味を引いた。ただそれだけのことなのかもしれない。
教授の指示は、時に不明瞭で曖昧だった。これをやってほしい。あれをやってほしい。目的だけははっきりしているが、それを何時、どのように、なぜ行うのかは、ほとんど説明された試しがない。はっきりしているのは、誰がそれを行うのか、それだけだった。
だから佐伯はシャッターを切る。
今まさに秘められた祭りは佳境に入ろうとしていた。島に一つだけある神社の境内から、広場まで石段が伸びている。石段に設置された鳥居の下部には、灯籠が設置されており、天へ昇る火の道のような風情だった。その石段をしめ縄で作ったヘビがのたくるように降りていく。オロチを模したと思われるその祭神は、広場に辿り着くと少女を中心に円を描き、少女は厳かに祭具を天に突き上げた。まるで何かの物語を再現しているかのような光景だ。邪竜退治と言えばヤマタノオロチだが、それとは少し違う。少女の手に握られた祭具だけが、どうしてもその物語の中に収まらない。
佐伯がもう一度シャッターを切った時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。すぐに頭から防寒用のブランケットを被り、その中で電話に出た。
「どうだ?」教授の声。
「撮れました」
佐伯が短く答えると、しばらく沈黙があった。もしかしたら、安堵のため息でも吐いていたのかもしれない。佐伯がその沈黙に耐えられず、「教授?」と呼びかけると、短いねぎらいの言葉が返ってきた。
「よくやった」
佐伯はブランケットを頭から外してスマートフォンを覆い、もう一方の手でまたカメラを構えた。
「まだ途中ですよ。今、蛇みたいなのが出てきました」
「ふむ、興味深いが、少々まずいことになっている」
「まずいって、何がです?」
そう聞きながらも、佐伯はシャッターを切った。ファインダーの向こうに興味深い光景が広がっていた。島の広場から、細い煙の筋が立ち上っている。先ほどまで少女を脅かしていた巨大なヘビは退治され、村人たちによって火を付けられていた。ただの作り物だったはずなのに、まるで苦しむようにヘビはうごめいて見えた。その神秘的な光景に魅せられていると、スマートフォンから声が届いた。
「バレたかもしれない」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。佐伯がカメラを下ろすと、レンズの向こうにあった祭りの光景が消え、代わりに暗い茂みと、ブランケットの中で光るスマートフォンだけが残った。その光に引かれて飛んできた羽虫が、ブンブンと視界の端でうるさかった。
「バレた?」
「ああ、今そちらに向かっている」
向かっている? 佐伯は耳を澄ました。―――パシャリ。―――パシャリ。スピーカーの向こうから、何かが水面を叩く音がしている。
「……教授。今どこにいるんですか?」
「東の海岸へ向かえ」
「え?」
「聞こえるか?」
聞こえている。しかし言っている意味がわからない。佐伯が視線を上げると、広場の様子がおかしかった。カメラをもう一度覗き込む。すると巫女役の少女が祈祷をやめていた。物憂げな表情でじっとこちらの方を眺めている。気のせいかと思ったが、なにか嫌なものを感じて、佐伯は少しだけ移動した。ファインダーの中の少女の視線が間違いなくこちらに動く。おい、嘘だろ。見えるはずがない。そう思ったが、見られているような嫌な感覚は強くなった。怖くなって望遠機能の倍率を少し下げた。すると今まで見えていなかったものが見え始めた。踊っていた男達が、燃え上がるヘビから離れて、一箇所に集まっていく。何が起こっているのか気になって、佐伯はカメラを別の場所に向けた。何人かの村人が松明を手に、森の方を指さしている。それは最初、佐伯が居る辺りとはまったく違う方向を向いていた。しかし、年嵩の男に若い男が何事か耳打ちすると、指が真っ直ぐに佐伯の方を指した。
「教授」
「どうした?」
「見つかったかもしれません」
「まずいぞ、急げ!」
走り出すのと同時に、遠くで怒号が響くのが聞こえた。ここ数日のあいだ苦楽を共にしてきた寝袋と背嚢のことが頭によぎる。しかし、それを拾っていく余裕はなかった。カメラだけを大事に胸に抱え、茂みの中を突き進む。枝が顔に当たり、服の袖が何かに引っかかって破れる。しかし足だけは懸命に動かし続けた。
「なぜバレたんですか!」スマートフォンに向かって怒鳴る。するとすぐに返答があった。
「本島にも村の関係者がいた。彼らは港を監視していたようだ」
「もしかして、分かってたんですか?」その可能性に気づいて、教授への疑念が湧いた。そもそもなぜ教授が島の近くにいるのか。それが分からなかった。最近は任せたきり、放ったらかしにされることのほうが多かった。信頼されているのかとも思ったが、危険度の低い仕事ばかりだった。だから今回は少し油断があったのかもしれない。
「いや」教授は短く否定した。「嫌な予感がして、君が心配になったんだ」
それが本当かどうかは分からない。だが嫌な気持ちはしなかった。
「あとで話してあげるから、今はとにかく逃げるんだ」
教授が言うと、スピーカーの向こうで派手な水音が響いた。そのまま通話は切れた。思わずスマートフォンを見る。画面の光が煌々と輝き、真っ暗な森をぼんやりと照らしていた。ブランケットがなかった。まずい。咄嗟にズボンのポケットへ仕舞う。しかし手遅れだった。暗闇の中で、スマートフォンの光はずいぶん目立ったに違いない。松明の炎が揺れながら、しかし迷いなく、こちらへ向かって進んでいた。
こんな日本の片田舎に、食人習慣なんてあるはずはない。見つかってもせいぜい殴りつけられ、豚箱に放り込まれて終わりだろう。それが法治国家というものだし、佐伯もその安全性を信じている。しかしそれでも尚、彼らはまるで人を狩りたてる悪魔のように見えた。たかが不法入島しただけで、ちょっと過剰ではないだろうか。佐伯は走り続けた。
頭の中に島の地図は入っていた。縦長のジグソーパズルのような島の形。その周囲は低くても五,六メートルの崖が囲んでいる。しかし、島の南端の湾港施設周辺と、東側の一部だけが、砂浜になって海につながっていた。南の港から漁船をかっぱらうのが一番確実に思えるが、怒り狂った村の住人が一番密集している地域でもある。たぶんこっちが東だろう。佐伯は当てずっぽうで進む方向を決めた。
月は見えなかった。整備されていた村の周辺とは違い、踏み入った森の中は繁生した植物が視界を遮り、自分がどこにいるのか分からない。それでも前に進まなければならない。
酸欠と焦りで意識が狭くなり、すぐ背後まで迫る荒い息遣いを何度も聞いた気がした。迫りくる恐怖の中で、佐伯はなぜか過去のことを思い出していた。
教授の助手を務めるようになってから、誰かに追われることは初めてではなかった。
海神教の口伝をこっそり録音した時は、警備の僧兵から槍を突きつけられた。
モスク内の集団儀礼を撮った時は、女性イスラム教徒を装っていたのがバレて、もっとまずいことになった。高位聖職者と思われる老人にヒジャブを引っ剥がされ、何人もの男に囲まれた。ほとんど死を覚悟して、胸で十字を切ったのも致命的な間違いだった。
その時も教授は同じように言った。―――走れ!
怒り狂った男達に追われ、モスクを飛び出して逃げ回った 。手回しよく裏手に待たされていたタクシーに乗り込んだ時には、教授の用意周到さに舌を巻かされた。しかし今回はあの時のように近くに教授はいない。
森を走るうちに、方向を見失いそうになっていた。しかし止まるわけにはいかない。暗闇の中で足音が迫ってくる。松明の光が森を照らし、木々のシルエットが燃えるように浮かび上がって見えた。息切れが激しくなり、足がもつれる。佐伯がそろそろ観念すべきかと考え始めた頃、ぜえ、はあと漏れる呼吸の合間に、遠く潮騒の音が混ざった気がした。 教授の言葉が蘇る。「東の海岸に向かえ」そう言っていた。意識が覚醒し、血が沸騰する。きっと何かを用意してくれている。そんな確信があった。肺から出てくる空気が燃えるように熱かった。しかし波の音を追って走り続ける。そのまま進むと、木々の切れ目を抜けた。砂浜がある。波打ち際には何も見えない。本当にここで良いのだろうか。疑問がいくつも浮かび、思わず足を止めたくなる。しかし佐伯はそれを踏み越えて走った。そしてとうとう何かが海の中で光るのが見えた。
「教授!」と大声で叫ぶと、光がブンブン振り回された。
「ここだ、早く乗れ!」
波打ち際に黒いゴムボートが乗り上げていた。教授はペンライトを手に、その上で緊迫した表情を浮かべている。後ろを見ると、浜辺に続く森の中に松明の光がいくつも見えた。佐伯がよろけながらゴムボートにしがみつく。教授が脇を掴んで引っ張り上げた。ボートの中に転がり込むと、教授が船外機のワイヤーを引く音と、それに続いてポンポンと小気味よいエンジン音が響いた。
海岸から声が上がる。「おんどりゃーコラァ」そんな感じのほとんど意味をなさない怒号だった。松明の灯りが直ぐ側まで迫り、男たちの姿がはっきり見えた。上半身をはだけた男達は、斧のような武器を持っている。教授は何をしているんだ。「早く出してくれ!」そんな言葉が口から飛び出しそうになった時、 ボートはようやく発進した。男たちの姿が遠ざかる。急速に小さくなる松明の光。砂浜の全景が夜の中に見え、月の光でぼんやり浮かぶ島影がそれに取って代わる。それすらもどんどん遠ざかり、そして何も見えなくなった頃、佐伯はようやく息をついた。
「今日が人生の最後かと思いました」真顔で教授に告げると、例の皮肉げな笑みを浮かべていた。
「君が死ぬとしたら、それは私がいないときだ」
本島にたどり着いたのはそれから三日後のことだ。教授が決め台詞を言った後、船外機がエンストしてもう二度と動かなかった。原因は燃料切れだった。ボートに積んであった大きなパドルを持つと、教授と佐伯は必死でそれを漕ぎ、三日後の昼過ぎにようやく地元の漁船に助けられた。
申し訳ありません。方向性を大きく変えました。学芸員をしている佐伯も好きでしたが、エンタメに寄せるならこっちという判断です。




