プロローグ
二作目です。色々と見苦しい点はあると思いますが、お付き合い下さい。
素人作家のしょうもない作品ですが。楽しんでいただけると幸いです。
九年前――東響大学人文学部・宗教学研究室。
「皆さん、宗教を作りませんか?」
思えば、研究室と呼ぶにはあまりにも小さな部屋だった。十三人の生徒が机と椅子を並べれば、もう自由に歩き回ることが出来ないほどに。
大正時代の遺物のような格子窓から、隣の比較的新しい三号棟校舎が見えた。その手前の舗装路には、春季キャンパスで訪れたと思しき、野暮ったい格好の学生が、楽しそうに談笑しながら歩いていく。そんな平和な風景の中で、教授の言葉だけが異質だった。
ほんの数メートル先には壁の半分、といってもせいぜい小さめの展示ケースくらいの使い古された黒板があり、そのすぐ手前に、藤倉教授が小さく口の片側を吊り上げて座っていた。かつては頑固者だったと思わせる眉間の小さなシワと、柔らかな表情を作る深い笑いジワ。その二つの特徴が、目を離し難くさせる奇妙な魅力につながっていた。
教授の問いに返事はなかった。三回生はまだ教授の事をよく知らず、これがこのゼミのやり方なのかなと暢気に考えていたはずだ。一方で四回生と院生の藤堂さんの反応は違った。彼らの間で交わされた素早い視線は、まるで見えざる大きな力を恐れる太古の村人が、”神様はなんと仰ってるんだ?”と互いに確かめ合うような光景だった。
その沈黙の中で、一人の女学生が、別の考えを持つ者のように小さく手を上げた。
「それはこの教室の中でということですか。思考実験のような…?」
教授は小さく首を振った。
「じつはもう少し違うものを考えています」
静かに席を立つと、あまり大きくはない教授の体がテレビの画面から一センチ飛び出したように、少しだけ大きく見えた。
「これから時間の許す限り、皆さんの手で一つの新しい宗教組織をこの世界に作ってみませんか?」
最初の提案よりさらに具体的で危険な提案だと思った。これが許されるなら、そこらの道端でさらってきた通行人を監禁して、毎日鏡に向かって「お前は誰だ?」と言わせることも許されてしまう。教室の中で、その危険性に最初に反応した者がいた。
「教授、それは―――」
四回生の熊島は勢いよく話しだしたが、次の言葉を考えあぐねるように口が上下に動いた。そして、
「―――許されません」
ようやく絞り出した言葉はそれだけだった。
揺れ動く甲板に船乗りは驚かない。教授は笑みを深めながら、学生たちの反応を楽しんでいるようだった。
「もちろん。やるやらないは皆さんの自由です。有名な研究者の著作を購読して、見識を深めながらそれぞれの意見を出し合う。あるいは、独特な形態の宗教や、面白おかしい儀式を扱ってもいいでしょう。ですが研究者として言わせてもらうなら、それはすでに出来上がったものを掘り返すだけの作業に過ぎません」
まるで、危険に飛び込むのは自分じゃないとでも言いたげに、少し白くなった眉が挑戦的なアーチを作る。
藤倉教授は少しずるい。まるでいつも通りにやると、退屈になりますよと言っているように聞こえた。だから、研究室の中に逡巡の声が上がったのも、自然な反応だったと言える。
「どうする...私は面白そうだと思うな」
「でもちょっと危なくないか?」
「いやどう考えても社会学とか心理学の領分っぽいけどな」
「お前なら狂ったカルト教団の教祖になれるよ」
教室に笑いが起こる。
研究室の雰囲気が少しだけ緩んだ。教授が追い打ちをかけるように、言葉をつなぐ。
「今まで宗教を研究する人は多くいました。でも宗教が始まる瞬間を実際に見て、それを研究する人はいませんでした」
教室の雰囲気が肯定寄りに傾いたのが分かった。
もしも、世界に名だたる詐欺師たちがこの時の藤倉教授を見たのなら、その人心掌握術の手際の良さに、自分たちと通じるものを感じただろう。しかしどこの時代にも、詐術的なトリックに気づく人物はいるものだ。
熊島はちゃんと自分の頭の中を整理したようだった。
「大学はこの研究を認めるでしょうか?」
「そんなわけないでしょう」
教授はあっさり認めた。じゃあ無理じゃないかと思わないでもないが、学生たちは教授の次の言葉を待っていた。
「だから大学にはお願いしません。研究会にしましょう。むしろその方が自然です」
熊島は食い下がった。
「では同意をどうやって取るんです。もし実験であれば、被験者に同意を取ります」
「取れないでしょうね」
研究室がざわついた。
「さすがにそれはマズイんじゃ……」
「俺ら逮捕されないよね?」
否定的な感情が育っていく中、ひとり、藤倉教授だけはまだ面白そうな笑顔を浮かべていた。
「では、あなたたちは今まで見たことのない宗教の誕生を、どうやって観察しますか?」
それは少しズレた返しに聞こえた。しかしなぜか納得してしまいたくなるような、不思議な熱量があった。タイムマシンに乗るしかないですねとでも言えば、きっと藤倉教授は「じゃあ作りましょう」と笑ったに違いない。
知識欲が悪だとするならば、さながら学生がアダムとイブで、教授はりんごを差し出すヘビのような存在だろう。だが教授はヘビとは違い、内なるヘビを飼ったもう一人のアダムだった。
「みんなで見てみませんか?」
教授はとうの昔にりんごを口にしていた。そして今、その実を皆にも差し出している。
研究室全体が、教授という一人の個性に引き込まれていくのが分かった。
だから佐伯は、ここで初めて口を開いた。
「教授。どうやって終わらせるのか。その話を聞きたいです」
「終わらせる?」
「はい。もし宗教を作ったとして、本当に信じる人が現れたらどうするんですか?」
初めてその可能性を想像して、学生たちが表情を固くした。
それでも教授はまだ笑っていた。
「わかりません。でも百年後の未来に私たちの作った宗教が残っていたら、それはとても面白いでしょうね」
名前が似ていたので修正。
この物語を語っている佐倉が藤倉と似ていて混同します。佐倉→佐伯




