Act6.「嘉月会」
頬に押し付けられる冷たい石の感触。手足の拘束と目隠しをされた夢子は、どこかに転がされ放置されていた。
夢子をここへ担ぎ込んだお面の男達は、着いて早々にどこかへ行ってしまい、今は夢子一人である。周囲は静かだったが、耳を澄ませばどこか遠くで、足音や人の声が聞こえた。この建物内には複数の人間がいるらしい。
(ここって、街の中心にあった嘉月会本部かな? だったら常盤さん達が助けてくれるかも。……一人では逃げられない、か)
後ろで両手両足を縛られている体勢は辛く、少し身じろぎするだけで体中が軋む。口の中に詰め込まれた布が唾液を吸って、気持ち悪い。吐き気が込み上げるが、猿轡をされている今は自由にえずくことすらできなかった。布が口の端に擦れて痛い。
(ここに連れて来られて、どのくらい経ったんだろう。このままトイレに行きたくなったらどうすればいいんだろう)
夢子は生きた心地がしないまま、ただ恐怖を募らせた。
――キイ、と蝶番の擦れ合う音がする。
視界を覆う布の向こうに影が差して、夢子はビクリと身体を強張らせた。その影と体温が迫り、夢子は思わず目を瞑る。……瞼の向こうが、明るくなった。どうやら目隠しが解かれたらしい。
夢子は、垂れ下がった自分の髪を振り払うように顔を上げる。そこにいたのはオウム面の男だった。ワシ面の男の姿はない。
「おはよう! って、ずっと起きてたかな?」
男の声は朗らかで、敵意は感じられなかった。
夢子は何とか上体を起こし、助けてくれるよう目で訴える。表情のない鳥の面がクルッと首を傾げた。
「ん? 何かな? ああ、それじゃあ喋れないよね。ちょっと待ってて」
オウムはそう言うと、夢子の顔の後ろに手を回して猿轡も解いた。夢子は一刻も早く苦しさから解放されたいと、急いで口の中の詰め物を吐き出す。そしてようやくえずき、咽ることが出来るのだった。
「うっ……えっ、げほ、」
「大丈夫?」
オウム面は唾液に塗れた夢子の口元を、解いた布の乾いた部分で優しく拭う。夢子はとりあえずそれを受け入れながら、自分が落ち着くのを待った。
(この人は……危ない人では無い?)
それは夢子にとって、というよりは、ヒトとしてである。
彼らは私利私欲のために夢子を攫ったのではない。永白の国の治安維持のために危険人物を連行しただけ。悪人どころか善人の筈である。ワシ面には話を聞いてもらえなかった夢子だが、友好的なオウム面には期待が持てた。
夢子は咳がおさまり、目の前の男や周囲を観察する余裕を取り戻す。
オウム面の男は、面は不気味だが中肉中背の普通の人間に見えた。部屋は狭く、壁も床も冷徹な灰色をしている。家具らしき物は何も無く、檻も無いものの、牢獄じみた場所だった。
「あの、話を聞いていただけませんか?」
「うん、話を聞いていただけるよ。俺、女の子と話すの久しぶりだからテンション上がっちゃう! あ、手、痛いよね。赤くなってる……これも解いてあげようね。他の人には内緒だよ」
オウム面は子供をあやすような口調で、夢子の背後に回り彼女を拘束している縄も解いた。せき止められていた血液が一気に先へと流れジンジンする。
夢子は、やっぱりこの人はマトモで優しい人なのだとホッとして「有難うございます」と肩越しに振り返った。そして、至近距離から見てしまったその二つの孔の奥にゾッとする。
その目は少しも笑っていない。興奮気味に見開かれ血走っている。
「ああ、可愛い丸い爪だねえ。ポロっと取れそうじゃない?」
「ひ、」
男の爪が、夢子の爪先をくすぐった。カチカチとぶつかり合う音に、夢子は自分の爪が次の瞬間には剥がされてしまうのではないかと気が気ではない。男の方に向き直り、相手を刺激しないよう穏やかな動作で、自分の手を後ろに隠す。
それから「話を、」ともう一度試みた。
「話を? うん、いいよ好きに話してて。俺もそうするから。そうそう、俺、縄より首輪が好きなんだ。ねえ、付けてみていい?」
オウム面の手には、ジャラッと長い鎖の付いた皮の首輪。夢子は連行される前に彼が言っていた『最近新しいペットが欲しかったんだ』という言葉を思い出した。
後退る夢子の顎を、無骨な手が捕らえる。そして抵抗の間を与えず、それを首にかけた。
「中々似合うねえ。可愛がってあげるからねえ」
オウム面はクァックァッと喉を鳴らす。
(この人……危ない人でしか無い!)
夢子はこれから何が起こるのかを想像し、自分の逞しい妄想力を呪った。その時、バンと扉が開け放たれ、ワシ面の男がズンズン入って来る。そして、オウム面の頭をガンと殴った。
「いったあーい!」
「ったく! また勝手にお前はっ! いつも勝手に尋問を始めるなと言っているだろう!」
「うん、言ってるね。でも尋問なんてしてないよ。ただ遊んでただけ」
「やめておけ! ……彼女は、お前の玩具にするには高くつく」
「ん?」
オウム面が、またクルッと首を傾げた。
二人の男は、夢子から少し離れた場所で小声で話し始める。夢子にはそれが、彼らが自分を痛めつける算段を立てているように思えてならない。
もう一刻の猶予も無かった。拘束が解かれ、監視の目も離れている今が、最初で最後のチャンス。
(逃げるしかない!)
夢子は心を奮い立たせ、オウム面の手にゆるく握られた鎖を思いっきり引っ張り、自分の手綱を奪い返した。そして跳ねるように立ち上がると、思い切り走る。
「あ」「おやまあ」とどこか間の抜けた二人の声を背に、夢子は廊下へ飛び出した。そして――その光景に圧倒される。
暖色の照明に煌々と照らされた、艶やかな木の壁と床。廊下は建物内をぐるりと一周する作りで、中央は吹き抜けになっていた。遥か上にある天井。下には色とりどりの幕が幾重にも張られ、床は見えない。ここがそれなりに高い位置にあることが分かる。
広大な屋内のいたるところに泳ぐ、赤ちょうちんの海月。壁の絵や欄間の彫刻が華やかな珊瑚のように輝いている。
(竜宮城ってこんな感じかもしれない……なんて、見入っている暇はない!)
夢子は廊下を突き進み、最初の階段を駆け下りる。しかし必死な彼女を小馬鹿にするかの如く、二羽の鳥は軽々と階段を飛び降りて彼女の前に立ち塞がった。
(速い……逃げきれない!)
「あー、ちょっと落ち着いて。もう君に何かする気は……」
ワシ面が宥めるように声を掛ける。が、夢子には彼の言葉が別の言葉に上書きされて聞こえた。
『逃げても無駄だ。手間を掛けさせる足を、奪ってしまおうか?』と。
それが先程かけられた“鏡の呪い”の所為だと、この時の夢子はまだ知る由もない。
夢子は廊下の手すりに身を乗り出し、吹き抜けの下を覗いた。そして――三、二、一と心の中でカウントダウンを刻む。
下に広がる天幕がしっかり張られていれば、落下の衝撃を吸収してくれる筈だ。楽観的すぎる考えだとは分かっているが、彼らへの恐怖が背中を押す。
「何をしている? まさか」
(……ゼロ!)
夢子は、バッとそこから飛び降りた。
「おい!?」
ワシ面が慌てて手を伸ばすが間に合わない。夢子は下へと落ちていく。
――小学生の頃……いや、高校生になってからもだが、夢子は何度も妄想したことがあった。授業中の教室にテロリストが乗り込んで来たらどうするか。窓から飛び降り、茂る木の葉をクッションにして、枝から幹へ伝って着地するシミュレーションを無駄に重ねてきた。
紫に話すと『絶対にやめなさいよ』と言われたが……形は違えど、実践することになるとは思ってもみなかった。
マンホール。時計塔。この世界での落下体験が、また一つ増える。
*
街中での騒動は、一軒の酒場から始まった。突然客の一人が暴れ始め、手あたり次第に物を壊し、周囲の者に殴りかかっていったのである。正気を失ったその男は、店を出たところで通りがかったジャックに捕らえられたが、狂っていたのは彼一人ではなかった。最初に殴り飛ばされた男、そして店から続々と出て来た男達も同様に、まるで理性の無い獣になっていたのだ。
駆け付けた嘉月会の者と、ジャック達一行により騒ぎは鎮静化されたが、その時そこに少女の姿は無かった。
「ごめん……僕のせいだ」
黄櫨が消え入りそうな声で言う。
自分が離れた場所にいなければ、巻き込まれさえしなければ、常盤が夢子から離れることは無かったのだ。
常盤は夢子の安否に気を取られ、黄櫨を責める余裕すらない。黄櫨にはそれが逆に辛かった。
(書斎の時もそうだ。あの時、僕は夢子から目を離すべきじゃなかった。今度こそ夢子を守ろうと思ったのに、僕はまた……)
黄櫨は唇を噛み、俯く。黄櫨は夢子を案じてもいるが、何より夢子のことで傷付く常盤を見ていたくなかった。落ち込む黄櫨を、ジャックは慰めようか迷ったが、逆効果だろうとやめておいた。とりあえず、今は夢子を探すのが最優先である。
夢子はどこかへフラッと行ってしまいそうな雰囲気はあるが、周囲を顧みないほど軽率にも愚かにも見えない。何かに巻き込まれたのは明白だ。
「俺はあっちを探すから、お前達は――」
その時、街中にサイレンが響き渡った。暴動の後始末をしている嘉月会の者達が、その音に面を見合わせる。耳障りな音に、何事かと顔を歪めるジャック。その横を、常盤が通り過ぎていった。
「おい、常盤」
「この街のことなら奴らに聞くのが早い」
常盤はそう言って嘉月会の集団に向かっていく。表情の変わらない狸面が、にこやかに常盤を迎えた。
「おんやあ、お久しぶりですねえ。あなたは僕達モブのことなんて、覚えてはいないと思いますけどお」
「昔話はどうでもいい。我々と共にいた少女が、今の騒動で行方不明になった」
「少女?」
「すぐに探してくれ。彼女は“白ウサギ”だ。もしこの国で何かあれば、国際問題に発展するぞ」
「へえ! 白ウサギですかあ。白ウサギが役替わりしたというのは、本当だったんですねえ」
狸面はわざとらしく間延びした声で、悠長にフムフムと頷いていたが、既に一ミリの余裕もない常盤に掴みかかられ睨まれると、ただ事ではないと察したのか「分かりましたよう」と両手を上げた。
――永白の国は、端から端まで嘉月会の監視下に置かれている。あらゆるところに設置された手の平サイズの水晶体が目となり、遠隔から常に見張っているのだ。その他にも、強力な魔力(トランプ王国では“意識エネルギー”と呼ぶもの)を感知するセンサーが張り巡らされている。先程のサイレンは、それが反応したものだ。
目に見えるもの、見えないものまで、国内のあらゆる情報が集約されている場所こそ、嘉月会本部である。この国で起きたことを知るには、探し物をするには、そこに尋ねるのが最適解。
夢子の居場所もすぐに分かった。というより、彼女はその本部にいた。どういう訳か、サイレンの原因となった魔力発生地点で発見され、重要参考人として身柄を拘束されているという。
黄櫨と常盤、ジャックは本部の中に案内された。通されたのは、地上四階建ての最下層。地下三階の、中央にある広間。騎士団員達は立ち入りを許されず、外で待たされている。
黄櫨は、自分がいた頃から大きく様変わりした建物の内装に驚いた。かつては落ち着いた趣のあった館内は、今や目がチカチカするほど派手な空間になっている。
真っ赤な敷物。ぽつぽつ置かれた行燈は、赤、緑、青と原色を巡らせている。衝立式の着物掛けに飾られた、赤地に金刺繍の艶やかな着物。壁一面に派手なピンク色で描かれた桜。壁際には大きな水槽があり、丸々太った金魚が数匹泳いでいる。蛍光灯に照らされた金魚達は、血の気の失せた不気味な顔に見えた。
吹き抜けには天幕が幾重にも重なっており、サーカステントを彷彿とさせる。黄櫨は落ち着かない気持ちで、皮張りのソファに座ることなく立ち尽くしていた。
部屋の奥、主顔で黄櫨達を迎えるのは、アリスネームを冠するキャラクターの一人。以前は定住せずにあちこちを放浪していたというその男は、今は永白に居ついているらしい。
引きこもりがちな黄櫨はその男と面識がなかったが、何度か会ったことがあるという常盤からは“関わるべきではない相手”と教えられていた。そして今、その意味がようやく分かった。
「まアまアまア、とにかく落ち着きなさいヨ。お茶でもいかが?」
サングラスをかけた男は胡散臭い口調でそう言うと、まるで子供が悪ふざけするかのように、ソファのひじ掛けに腰掛ける。彼が指をパチンと打ち鳴らすと、広間中央の漆塗りの長テーブルには、鯛の尾頭焼きやら、手毬寿司やら、絢爛豪華な食事が出現した。お茶という感じではない。
常盤は苛立ちを隠さず、食ってかかるように言う。
「早く夢子を返せ。ここにいるんだろう」
「ウーン。いると言えばいるし、いないと言っても、いるネ。安心安心」
「お前の悪ふざけに付き合っている気分じゃない。もっと話が通じる奴はいないのか? ……ヘイヤはどうした」
常盤は、男の後ろで控えているお面達に訊くが、彼らは置物のようにうんともすんとも言わなかった。黄櫨は常盤の口から出たその名前に、心臓をヒヤリとさせる。久しぶりに聞く名前だった。
あの頃は毎日、何度も何度も、口にしていた名前。
永白を出てからは、一度も呼んでいない名前。
「ヘイヤは……そうだネ、ウン。渋いお茶がスキだけど、ボクはネ……」
男はそう言って、ひじ掛けからぴょんと飛び降りると、物色するようにテーブルへ近付いた。
その時、上から誰かの「おい!」という叫び声が響く。
驚き、息を呑む人々の気配。
天幕を破り、何かが、弾丸のようにテーブルの上に撃ち込まれた。
ガシャーン! とけたたましい音を立て、食器が割れ、料理が飛び散る。ひっちゃかめっちゃかになったテーブルの上では、千切れた天幕を羽衣のように纏った――夢子。
宙を舞った鯛のお頭が頭にぶつかり、夢子は「いたっ」と声を上げた。
……誰も、何も言えない。黄櫨も唖然と彼女を見ていた。




