Act3.「路地裏の白ウサギ」
擦れるようなブレーキ音。タイヤがアスファルトを削る。鳴り響くクラクションと、混乱混じりの怒声。小さな子供でもない女子高生が突然道路に飛び出すなんて、自殺志願か、よほど頭がどうかしていると思われただろう。そして正解は、後者である。
その時の夢子は正気ではなかった。
ただ彼女は、見つけた影を追わなければならなかったのだ。それが決められた世界のルールであるように、ようやく自分の役割を思い出したかのように、正体不明の義務感、衝動に突き動かされた。
夢子は車と車の間をすり抜け、暗い細道に飛び込む。走る、走る、路地の裏。
そこに“彼”はいた。
再び赤い瞳に取り込まれる。気怠さなんて、もうどこかへ吹き飛んでしまっていた。
「君、なんで僕を追ってきたの?」
「……え?」
低い声に問われ、夢子ははっと我に返る。それと同時に体中から冷や汗が噴き出した。
なんて危険な真似をしてしまったのだろう。すれ違った死の恐怖が今になって追いかけてきて、心臓がドクドク暴れ出す。視界がぐらつき、夢子は思わず手で顔を覆った。
(わたしは何を……)
全身に余韻を残す、憑りつかれたような感覚。瞬間的で鮮明な夢遊病。最近よく夢を見ていたのは、やはり病気の兆候だったのだろうか。
「ねえ、聞いてる?」
「あ、えっと……」
目の前にいるのは、見知らぬ他人に突然追いかけられた不幸な被害者。夢子は何と答えていいか分からず、気まずそうに彼を見上げた。そして、息を呑んだ。
――恐らく二十代前半くらいの、長身の男だった。白い肌に、日本人のようにも外国人のようにも見える顔立ち。
飾り鎖の付いた片眼鏡をしており、その奥の気怠げなガーネットの瞳は、赤という色に似つかわしくないほど冷たく無機質だ。くるくるフワフワと柔らかな癖のある真っ白な髪は、路地の影を吸って青みを帯びている。
赤い瞳、白い髪。それだけならまあ、あり得なくはない。
しかしソレだけは、確実にあり得ない。
夢子の目を釘付けにしたのは、彼の頭上に聳える長い二本の物体。ソレは血の通ったウサギの耳のように見える。
「……白ウサギ?」
長い耳が、夢子の言葉にピクリと跳ねた。どこか眠たげな目が僅かに見開かれ、すぐに訝しむように細められる。
「まあ、そうだね。僕は白ウサギだよ」
「えっ、ああ、そうなんですね、ハハ……追いかけられるなんて、不思議の国の白ウサギみたいですね」
「……そうだけど」
“そうだけど?”
夢子は彼を凝視した。
――『不思議の国のアリス』
有名なその童話は、少女アリスが、服を着た白いウサギを追いかけていくところから始まる。
もし彼がその白ウサギだというのなら、自分はアリスになれるのだろうか? 夢子の胸が高鳴る。だがその一方で、“待て、現実がそんなに面白い展開になるとは思えない、期待するな”と自分に言い聞かせていた。
(けど、でも、もしかしたら……)
彼は夢子の視線を無視して、顔を背けて歩きだす。
夢子は、逃げてしまう! と、まるでそれこそ本物のウサギでも相手にしているかのように、早足で追いかけた。
夢子はこの非日常的な出会いに、すっかり舞い上がっている。
だから『知らない人に付いて行っちゃいけません』という耳にタコの忠告を無視した。
(知らないウサギに付いて行っちゃいけないとは、誰も言わなかったもんね)
そう言い訳をしながらも、隅に追いやられた理性は、何かあった時の逃走路を確認している。
「あの……本当に、不思議の国の白ウサギさんなんですか?」
「うん、まあ」
どうでもよさそうに肯定した白ウサギは、一定の歩調で、人気のない暗い道を進んで行く。
返ってきた返事がいかに濁っていようとも、否定でないならば、夢子にはどうでもよかった。重要なのは真実ではなく可能性。例え彼が超リアルなウサギの耳を付けたコスプレイヤーであろうと、幻覚であろうと、今この瞬間に少しでも非日常を楽しませてくれるのなら、何だってよかった。この一時冗談に付き合ってくれるなら、それで十分だった。
そして、できればそのまま、謎を残して去ってくれればいい。そうすれば夢子は夢を見続けられる。
「チョッキは着てないんですね。懐中時計は?」
彼の格好は、童話の白ウサギのイメージとは異なっていた。暗い深緑色のシャツに橙色のネクタイ、黒のサスペンダーとスラックスである。ちょっと独特なセンスだ。
彼は夢子の方を見ずに、ぽつりと言う。
「緑とオレンジ」
「え?」
「ウサギって、にんじんが好きなんじゃないの?」
「……なるほど?」
夢子は突っ込みたい衝動を抑えた。彼の中のウサギのイメージがその色の組み合わせだということなのだろうが……なんだか、ズレている気がする。
懐中時計についての回答は得られなかったが、夢子は話題を変えることにした。
「でも不思議の国って、本当にあったんですね。良かった!」
「良かったね」
「ようこそ世界の反対側。何一つ不思議じゃない世界へ」
「うん」
白ウサギはどこまでも適当だ。しかし夢子も大概に適当なので、人のことは言えない。
「あ、でも、不思議の国からしたら、こっちの世界の方が不思議なんでしょうか?」
「そうかもね」
「いいですね。わたしはすっかり慣れきってしまって……ああ、わたしも不思議の国へ行けたらなあ」
不思議の国。常識の通用しない、自由で愉快な世界。もしもそんな場所がどこかに実在しているなら一度でいいから行ってみたい。不思議の国には、どうすれば行ける?
アリスは穴に落ちて、不思議の国へと辿り着いた。だとすればワンダーランドは地下にあるのだろうか。ワンダーランドがアンダーランドだなんて、なんて面白いのだろう。
「あの、不思議の国への入り口って、どこにあるんですか? 差し支えなければ、是非教え――うっ、」
突然白ウサギが歩みを止めた。後ろにいた夢子は、その背中に勢いよく鼻をぶつけてしまう。反射的に「すみません」と謝ってしまうが、痛いのは自分だけで、彼はびくともしていない。
謝るべきは、突然立ち止まった彼ではないだろうか? 夢子は不満そうに白ウサギを見上げる。出会った時から思っていたが、彼はとても背が高い。近い距離ではよりそれを痛感する。そう、痛感。見上げる首が痛い。打ってしまった鼻も痛い。
「ここだよ」
「え?」
何が? と問う暇は無かった。
白ウサギが見てもいない背後の夢子の腕を捕らえ、強引に前に引っ張り出す。
「……え?」
夢子の一歩先の足元には、丸く切り抜かれた暗闇。それは、十二分に人が入り込める大きさの穴だった。これから何が起こるのか察した時には既に遅く、白ウサギの手が夢子の背を押し出している。
抵抗する間もなく、夢子は穴へと落ちていった。
「わっ、」
キャアー! とか、ヒャアー! とか。ジェットコースターでしか出したことの無い悲鳴が、上に吸い込まれていく。いや、違う。自分が下に吸い込まれている。
落ちながら振り向くと、穴の“入口”には、丸い空。表情の無い白ウサギ。
(なんだこれ……夢?)
*
嫌な予感がした。いや、正確には――ずっとしていた。
ここ最近、様子のおかしかった彼女。それに気付いていたというのに、何もできなかった。平和な日常に入った皹を、はっきり認めるのが怖かったのだ。この平穏が続くものだと信じていたかった。
しかし彼女と別れた後、小さな予感は胸騒ぎに変わり、警鐘が頭に鳴り響く。
だから道を引き返して、必死に彼女を追いかけた。
けれど……一歩遅かった。
そこに辿り着いた時、残っていたのは彼女の悲鳴の名残だけだった。そして、彼女を突き落とした男はこちらの存在に気付きもせずに、自身も穴へと飛び込んでいく。
間に合わなかった。
間に合わなかった。
間に合わなかった!
生きた心地がしない。よろよろと覚束ない足で縋るように、彼女を飲みこんでしまった穴に近付く。それはもう、ただの蓋の開いたマンホールで、人があんなに簡単に落ちていく大きさでもなく、底には仄暗い水の気配があるだけだった。
誰もいなくなった路地裏で、車や人の行き交う音を遠くに聞きながら、ただ目の前の現実に愕然とする。日常が壊れる音がする。なぜ、どうして。
強く噛みすぎた唇から鉄の味が滲んだ。
――ああ、ずっと大切にしてきたものが、再び奪われようとしている!
紫は長い髪を振り乱し、懺悔するように地に伏して、彼女の名を叫んだ。厚く重く息苦しい、怒りと悲しみと絶望。それは少女の声帯を通り、高く細い悲鳴となって、灰色の空気に虚しく溶けていった。




