Act2.「望んではならないもの」
帰りのショートホームルームが終わり、開放感に満ちた教室。ぼんやりしている夢子の前に、影が差した。
「まだ寝惚けた顔してるわね」
夢子を覗き込む少女。切り揃えられた長い髪がぱらりと揺れ、石鹸みたいな香りがした。紫の持つ涼やかで洗練された雰囲気は、いつも夢子を心地よくさせる。
「ん~」
「最近居眠りしすぎじゃない? その睡眠欲……まるでコアラね」
「ラッコ、コブタ、タヌキ。……なんか、最近すごく眠いんだよね。寝ても寝た気がしなくて。よく夢を見るからかな?」
「へえ」
「夢の内容はすぐ忘れちゃうんだけどね。目が覚めた時の気分がすごく……アンニュイっていうか」
「ふうん」
「うん、アンニュイなんだよ。アンニュイ」
「言いたいだけでしょ、それ。別に可愛くもなんともないわよ」
「なんともニュイわよ?」
「はいはいニュイニュイ。それよりほら、帰るわよ」
ポンと背中を叩かれ、夢子はのろのろ立ち上がる。
「ねえ、どこかに寄って行かない? 何か甘いものが飲みたい気分だわ」
「いいね、行こ行こ」
連れ立って歩く二人。幼い頃から、互いの隣が定位置だった。
一番の友達同士。紫にとっては、ただ一人の友達。
夢子と接する姿からは想像できないくらい、紫は極度の人見知りである。というより他者への興味が極端に薄い。話しかけられれば返事はするが、その返答はいつも会話を終わらせる為のもの。加えて少年的な凛とした声と鋭い瞳が、周囲に近寄りがたい印象を与えていた。
夢子はそれを心配に思うどころか、喜んでいる。
本当は情に深く、一度ツボに入ると笑い上戸で、辛いものが苦手で、新しいゲームが発売されると目の下に隈を作りがちで……そんな彼女を知っているのは自分だけでいいと思っている。
夢子は紫が、いつまでも自分だけの親友でいてくれるように願っていた。紫の他の誰にも見せない特別な顔が、夢子に強い執着心を抱かせるのだ。
*
馴染みのカフェでテイクアウトして、二人はカップを片手に帰路につく。
「紫はいっつもカフェオレだよね。飽きない? それで甘いもの欲満たせる?」
「飽きないし満たされるわよ。夏はアイス、冬はホットって変えてるしね。夢子は……期間限定モノに弱いわよね。なんだったかしら、それ」
「チーズケーキホイップフラッペだよ! もう、絶対美味しいよね」
「私はケーキはケーキでいいわ」
紫がストローを刺す。……秋はアイスなんだな、と思いながら、夢子も自分のドリンクに取りかかった。
チーズケーキホイップフラッペは、チーズケーキ味のフローズンドリンクに、マスカルポーネクリームがたっぷり乗せられた、デザート級のドリンクだ。ミルキーな甘さを若干の塩気が絶妙に引き立てている。ドロドロシャリシャリのフローズンの中には、細かく砕かれたクッキーやスポンジが入っていて、食感が楽しい。底にははちみつレモンソースが敷かれていた。
「どう?」
「うぬ、筆舌に尽くしがたい美味しさ」
夢子はこの味を共有したくなったが、“一口飲んでみる?”を紫は好まない。
同じ皿から食べるのはOKだが、ストローやスプーンなどの共有はNG。一緒に寝る、風呂に入るのもNG。じゃれ合いで抱き着くと、拒みはしないものの良い顔はしない。紫は同年代の女子と比べると、人に対して潔癖なところがあった。
夢子はそれを少し寂しく感じる時もあるが、慣れているし、今ではそれくらいがちょうどいいとも思っている。
食べ物や服装の好み。趣味や生活スタイル。二人の共通点は決して多くはない。にも関わらず、長年一緒にいられるのは、根本的に気が合うからなのだろう。それに、互いをよく知り分かり合っている。
だから、些細な変化でも気付かれてしまうのだ。
「……ねえ。さっきから、ずっと変よ」
「何が?」
「夢子が、よ。なんだかずっと上の空で、ぼーっとしちゃって。アンニュイにも程があるわ」
「そんなことニュイよ」
紫は“さっきから”というが、別に今に始まったことではない。最近ずっと、何かとぼーっとしがちなのである。変な病気だったら困るな、とも思うが、今のところ夢子は楽観視していた。
ただよく夢を見るだけ。ずっと眠いような、それだけ。
夢子はフラッペをストローでかき混ぜる。ドロドロ、ドロドロ。なめらかに溶けていくそれは、どこか見覚えのある情景の気がした。……すっと、隣を歩いていた紫が目の前に立ち塞がる。
「さては、また変なことでも考えてるんでしょう」
心の奥まで見透かすように、細められていく紫の瞳。
夢子以外の者に向ける無機質な冷淡さとは違う、一種の熱を感じる冷たさ。焼けつくような凍えるようなそれは、怒りなのか悲しみなのか。
紫が時々見せるこの目が、夢子は苦手だった。
「変なことって?」
「例えばそうね……あの雲が“何か”に見えているとか」
夢子は秋空を見上げ、夕陽に金色の鱗を輝かせ悠然と飛ぶドラゴンを見る。力強い息遣いが前髪をそよがせた。神秘的な生き物の、壮大な冒険への誘いに、夢子は目を瞑る。
「うん、層積雲に見えるね」
「……ならいいのよ」
紫は、夢子が現実にはあり得ない空想に耽ることを嫌った。夢子がそれを口にすると、つまらない冗談どころか、不謹慎な言葉でも聞いたかのような反応をする。
映画や漫画、ゲームといったフィクションの世界は否定しないが、夢子が空想を現実に重ね始めると、いつも『そんなもの、あり得ないわ』と即座に切り捨てた。
夢子は幼い頃から空想好きな少女だが、紫に反論したり、無理に理解を求めることは諦めている。紫が空想を嫌う理由は、彼女が育ってきた環境にあると解釈しているからだ。
詳しい事情は、紫が聞けば良い気分にさせないからと言うので聞いていない。つまり、話したくもない家庭環境だということ。高校三年生の現在、紫は小さなアパートで一人暮らしをしている。
紫は現実をよく知っているのだろう。夢を見ることで、痛みを伴う経験をしてきたのかもしれない。――そんな風に思うと、夢子はいつも彼女に合わせてしまっていた。
「変な空想をしていないなら、変な夢が原因かしら。夢子がおかしくなったのは、居眠りから目覚めてからだものね」
紫の白く細く冷たい指が、夢子の手首を捕まえる。爪が食い込む。
「もう、夢なんて見ては駄目よ。惑わされても、駄目」
睡眠時の夢なんて、自分の意思で見る見ないを決められるものじゃない。しかし夢子は、何も言えなかった。こういう時の紫は意味不明で、面倒で……少しだけ怖い。
夢子が頷けば、ようやく紫はいつもの彼女を取り戻す。その手はするりと離れ、秋風に舞った。
「大切なものは、いつも目の前の現実にあるの。ありもしない夢なんか追いかけて、見失わないで」
“ありもしない夢”
夢子はその言葉に息苦しさを覚えた。
(惑わしてくれるだけの夢があるなら、良いんだけど。かくもこの世は、紫の望み通りに退屈だ)
夢子はもうずっと、自分を騙し騙し生きてきたような気がする。
――そして、二人の間に歪な平穏が戻った。
「じゃあ、またね」
二人の分かれ道。互いに名残惜しそうに立ち止まって、もう少しだけ話をしてから「バイバイ」と手を振り背を向け歩き出す。時折振り返って、その行動に笑って、また前を向いて。まるで小さな子供みたいだ。
……子供。いつまでこうしていられるのだろう。自分達は半年後には高校を卒業する。例え二人が今のままでも、取り巻く環境は変わっていく。こんな時間はあと僅かかもしれない。
艶やかな黒髪が道の向こうに消えたのを見届けて、夢子は深い溜息を吐く。
まだ頭はぼーっとするし、全身の感覚も鈍かった。
(風邪でもひいたかな? 帰ったらすぐに寝よう)
のんびり歩く夢子を、見慣れた夕刻の景色が包み込む。黄昏に滲んでいく街。車のライトが金色の筋を描き、街灯が白く降り注ぎ、路地裏では赤が瞬いていた。
――路地裏の、赤?
道路の向こう、居酒屋とマンションに挟まれた狭い路地。その奥にちらつく赤色が、夢子を射た。
それは何かの……誰かの、瞳だ。暗く全貌はぼやけているが、真っ赤な双眸だけはハッキリと浮かび上がっている。夢子を見ている。こんなにも距離があるのに、瞳の色まで判別できることが不思議だった。
ふっ、と赤が見えなくなる。背を向けられたのだ。ぼんやり見えていた影が、路地の奥へ吸い込まれていく。
「あっ、ま、ちょっと、待って!」
自分の口から飛び出した大きな声に、夢子は驚いた。こんなところで一体何を……恥ずかしい。馬鹿みたいだ。
だがそんな理性を、本能が押しのける。
追いかけないと。
追いかけないと。
追いかけないと!
ぼやぼやと遠ざかっていた世界が、急激に鮮やかさを取り戻す。
夢子は気付けば、車の行き交う道路へと身を投じていたのだった。
……理由なんて、ただ一つ。
何かが起きるような、物語が始まるような、そんな予感がしたのだから仕方ない。




