Act2.「望んではならないもの」
帰りのショートホームルームが終わり、教室には解放感とざわめきが満ちていた。ぼんやりしていた夢子の前に、ふと影が差す。
「まだ寝惚けた顔してるわね」
夢子を覗き込む、優しい呆れ顔の紫。切り揃えられた長い髪が、彼女の動作に合わせてパラリと揺れる。紫の持つ涼やかで洗練された雰囲気は、いつも夢子を心地良くさせた。
「おはよ、紫」
「おはよう。そうそう、さっきの居眠り中、イビキかいてたわよ」
「えっ! う、嘘でしょ……」
深刻な顔をする夢子に、紫は小さく笑う。
「ふふ。嘘よ。でもお陰で目が覚めたんじゃない?」
「どうもありがとう」
「夢子、この間も居眠りしてたわよね。その睡眠欲……コアラ?」
「ラッコ、コブタ。……なんか、最近すごく眠いんだよね。よく夢を見るからかな? 寝ても寝た気がしなくて」
「へえ」
「夢の内容はすぐ忘れちゃうんだけどね。目が覚めた時の気分がすごく……アンニュイっていうか」
「ふうん」
「うん、アンニュイなんだよ。アンニュイ」
「言いたいだけでしょ、それ。別に可愛くもなんともないわよ」
「なんともニュイわよ?」
「はいはいニュイニュイ。それよりほら、帰るわよ」
ポンと背中を叩かれ、夢子はのろのろ立ち上がる。
「ねえ夢子、どこかに寄って行かない? 喉乾いたわ」
「いいね、行こう行こう。いつものカフェにする?」
連れ立って歩く二人。幼い頃から、互いの隣が定位置だった。
一番の友達同士。紫にとっては、ただ一人の友達。
夢子と接する姿からは想像できないくらい、紫は極度の人見知りである。というより、他人への興味が極端に薄い。話しかけられれば当たり障りのない返事はするものの、その返事でさりげなく会話に終止符を打つものだから、会話が続かない。加えて、少年的な凛とした声と鋭い瞳が、周囲に近寄りがたい印象を与えていた。
夢子はそれを心配に思うどころか、好都合だと喜んでいる。
本当は情に深く、一度ツボに入ると笑い上戸で、辛いものが苦手で、ピアノが上手で、新しいゲームが発売されると暫く目の下に隈を作りがちで……そんな紫を知っているのは、自分だけでいいと思っている。
夢子は紫が、いつまでも自分だけの親友で居てくれるように願っていた。紫の、他の誰にも見せない特別な顔が、夢子に強い執着心を抱かせるのだ。
*
帰り道にあるいつものカフェは、席が混んでいて座れなかった。仕方なくテイクアウトにして、歩きながら飲むことにする。
「紫はいっつもカフェオレだよね。飽きないの?」
「飽きないわよ。夏はアイス、冬はホットだし。夢子は……期間限定モノに弱いわよね。なんだったかしら、それ」
「チーズケーキホイップフラッペだよ! もう、チーズケーキって時点で絶対美味しいよね」
「私は、ケーキはケーキでいいわ」
紫がストローを刺す。……秋はアイスなんだな、と思いながら、夢子も自分のドリンクに取りかかった。
チーズケーキホイップフラッペは、チーズケーキ味のフローズンドリンクに、マスカルポーネクリームがたっぷり乗せられた、デザート級のドリンクだ。ミルキーな甘さを、若干の塩気が絶妙に引き立てている。ドロドロシャリシャリのフローズンの中には、細かく砕かれたクッキーやスポンジが入っていて、食感が楽しい。底にははちみつレモンソースが敷かれていた。
「美味しい!」と感激する夢子に「良かったわね」と慈愛に溢れた顔で返す紫。夢子はこの美味しさを共有したくなったが“一口飲んでみる?”を、紫は好まない。
同じ皿から食べるのはOKだが、ストローやスプーンなどの共有はNG。一緒に寝る、風呂に入るのもNG。じゃれ合いで抱き着くと、拒みはしないものの良い顔はしない。紫は同年代の女子と比べると、人に対して潔癖なところがあった。
夢子はそれを少し寂しく感じる時もあるが、慣れているし、今ではそれくらいがちょうどいいとも思っている。
食べ物や服装の好み。趣味や生活スタイル。二人の共通点は決して多くはない。にも関わらず、長年一番距離の近い友人として付き合っているのは、根本的な気が合うからなのだろう。それに、互いをよく知り分かり合っている。
だから、些細な変化でも気付かれてしまうのだ。
「さっきから、ずっと変よ」
「え? 何が?」
「夢子が、よ。なんだかずっと上の空で、ボーっとしちゃって。アンニュイにも程があるわ」
「そんなことニュイよ」
紫は“さっきから”というが、別に今に始まったことではない。最近ずっと、何かとボーッとしがちなのである。変な病気だったら困るな、とも思うが、多分そんなに大ごとでもないと夢子は楽観視していた。
ただよく夢を見るだけ。ずっと眠いような、それだけ。
夢子はフラッペをストローでかき混ぜる。ドロドロ、ドロドロ。なめらかに溶けていくそれは、どこか見覚えのある情景の気がした。……スッと、前に影が差す。隣を歩いていた紫が立ち塞がったのだ。
「さては、また変なことでも考えてるんでしょう」
心の奥まで見透かすように、細められていく紫の瞳。
夢子以外の者に向ける無機質な冷淡さとは違う、一種の熱を感じる冷たさ。焼けつくような凍えるようなそれは、怒りなのか悲しみなのか。執着なのか依存なのか偏愛なのか。
紫が時々見せるこの目が、夢子は苦手だった。
「変なことって?」
「例えばそうね……あの雲が“何か”に見えているとか」
夢子は秋空を見上げ、夕陽に金色の鱗を輝かせ悠然と飛ぶドラゴンを見る。力強い息遣いが前髪をそよがせた。神秘的な生き物の、壮大な冒険への誘いに、夢子は目を瞑る。
「うん、層積雲に見えるね」
「……ならいいのよ」
紫は、夢子が現実にはあり得ない空想に耽ることを嫌った。
夢子がそれを口にすると、つまらない冗談どころか、不謹慎な言葉でも聞いたかのような反応をする。そして理不尽なまでに、頑なにそれらを否定するのだ。
紫は映画や漫画、ゲームといったフィクションの世界を楽しむことには抵抗が無い。それらは、限られた時間や空間の中で完結する“娯楽”でしかなく、自身の現実を侵さないからだ。しかし夢子のように空想を現実に絡めたり、現実世界の延長線上にあり得ないものを語ったりすることには、嫌悪感を抱いていた。
『そんなもの、あり得ないわ』と、いつも即座に切り捨てる。
夢子は紫とは真逆に、空想に生きているような少女だったが、紫に反論したり無理に理解を求めることは諦めていた。紫が空想を嫌う理由を、彼女の育ってきた環境にあるのだろうと解釈しているからだ。
詳しい事情は、紫が聞けば良い気分にさせないからと言うので聞いていない。つまり、話したくもない家庭環境だということ。高校三年生の現在、紫は小さなアパートで一人暮らしをしている。
紫は、現実をよく知っているのだろう。夢を見ることで、痛みを伴う経験をしてきたのかもしれない。――そんな風に思うと、夢子はいつも彼女に合わせてしまっていた。
「変な空想をしていないなら、変な夢が原因かしら。夢子がおかしくなったのは、居眠りから目覚めてからだものね」
紫の白く細く冷たい指が、夢子の手首を捕まえる。爪が食い込む。
「もう、夢なんて見ては駄目よ。惑わされても、駄目」
睡眠時の夢なんて自分の意思で見る見ないを決められるものじゃない。しかし夢子は、何も言えなかった。こういう時の紫は意味不明で、面倒で……少しだけ怖い。
夢子が頷けば、ようやく紫はいつもの彼女を取り戻す。その手はするりと離れて、秋風に舞った。
「大切なものは、いつも目の前の現実にあるの。ありもしない夢なんか追いかけて、見失わないでね」
“ありもしない夢”
夢子はその言葉に息苦しさを覚えた。
(惑わしてくれるだけの夢があるなら、良いんだけど。かくもこの世は、紫の望み通りに退屈だ)
夢子はもうずっと、自分を騙し騙し生きてきたような気がしていた。
――そして、二人の帰路に平和が戻る。
空になったカップをこっそりコンビニのゴミ箱に捨て、身軽になった夢子は道路と歩道の間の平均台に乗り、少しだけ空に近付いた。橙色が混じる薄藍色の空には、鬱屈な電線が走っている。教室の窓枠に飾られた空の方が、完璧で綺麗だと思った。綺麗な部分を切り抜いた、絵本の絵みたいで。
「夢子、危ないわよ。歩車道境界ブロックなんかに乗って」
「え、なに、もう一回言って」
「歩車道境界ブロック」
「これ、そういう名前だったんだ」
平均台の方が分かり易いのに。と、夢子はぼやく。
「……日が落ちるのが早くなってきたわね」
「そうだね、モンブランの季節だ」
「……ねえ、夢子」
紫が、静かに夢子の名を呼ぶ。どこか弱弱しいその様子に、夢子は黙って次の言葉を待った。しかし紫は「なんでもないわ」と言って、秋の味覚、イモ栗カボチャの話題に移ってしまった。
「じゃあ、またね」
二人の分かれ道。互いに名残惜しそうに立ち止まって、もう少しだけ話をしてから「バイバイ」と手を振り背を向け歩き出す。時折振り返りながら、その行動にまた笑って、また前を向いて。それを繰り返し別々の道を進んでいく。まるで小さな子供みたいだ。
……子供。いつまでこうしていられるのだろう。自分達は半年後には、高校を卒業する。例え二人が今のままでも、取り巻く環境は変わっていく。こんな時間はあと僅かかもしれないのだ。
艶やかな黒髪が道の向こうに消えたのを見届けて、夢子は大きな溜息を吐く。
まだ頭はぼーっとするし、全身の感覚も鈍かった。
(風邪でもひいたかな?)
帰ったらすぐに寝よう。そう思っているのに、帰ることさえ億劫で足が重かった。
のんびり歩く夢子を、見慣れた夕刻の景色が包み込む。黄昏に滲んでいく街の色。車のライトが金色の筋を描き、街灯が白く降り注ぎ、路地裏では、赤が瞬いていた。
――路地裏の、赤?
道路の向こう、居酒屋とマンションに挟まれた狭い路地。その奥にちらつく赤色が、夢子の目を射た。
それは何かの……誰かの、瞳だ。暗く全貌はぼやけているが、真っ赤な双眸だけは闇に隠されることなく浮かび上がっていて、夢子を見ている。こんなにも距離があるのに、瞳の色がハッキリ見えるのが不思議だった。
ふっ、と赤が見えなくなる。背を向けられたのだ。ぼんやり見えていた影が、路地の奥へ吸い込まれていく。
「あっ、ま、ちょっと、待って!」
自分の口から飛び出した大きな声に、夢子は戸惑った。こんなところで一体何を……恥ずかしい。信じられない。
だがそんな理性を、本能が押しのける。
追いかけないと。
追いかけないと。
追いかけないと!
ぼやぼやと遠ざかっていた世界が、急激に鮮明さを取り戻し始める。
夢子は気付けば、車の行き交う道路へと身を投じていたのだった。
……理由なんて、ただ一つ。
何かが起きるような、物語が始まるような、そんな予感がしたのだから仕方ない。