Act1.「溶けだす世界と君」
突然、世界が溶けだした。
雲一つない青空が、ぼたり、ぼたりと色をこぼす。チューブから絞り出した絵の具みたいに、粘性のある滴が落ちてくる。色が抜けたそこはポッカリと穴が開いて、空はあっという間に水玉模様になった。
太陽が砕け散り、破片がキラキラ宙を舞う。目に入りそうになって、避けようとした。けれど身動きが上手く取れない。体を見下ろせば、既に膝上まで色の洪水に飲み込まれている。
固まる前のコンクリートみたいなドロドロのそれは、様々な色をしていた。空の青。森の緑。大地の茶色。全てが溶けて混ざり合い、世界の境界が失われていく。世界が一つになる。
――わたしも、その一部になる。
それでいい。もう、いい。
わたしがわたしである限り、わたしを苛むのなら、わたしなど要らない。もう要らない。
わたしは瞳を閉じる。世界と一体化する為に、わたしはわたしを溶かす。
けれど、溶けだしたわたしの意識を収束させ、輪郭を失いかけた手を掴んだのは――君だった。
「行かないで。きみだけが、ぼくの世界のすべてなんだ」
重力なんてまるで無視して、宙に浮いている君。
色の洪水に胸元まで浸かりきっていたわたしを、力強く引き上げる。
ばさりと広がる真っ白なレースの日傘。君の向こうで、お花の刺繍が咲いている。
繋がれた手は少し汗ばんでいた。その温もりが無性に愛しく思え、握り返す。すると君は嬉しそうに微笑んで、わたしの手を引いて一歩空へと踏み出した。ぬめりと、ドロドロから抜け出た足はそのまま宙を踏む。
わたしと君は、空を飛んでいた。
相変わらず上からは空が零れてくるし、下では色が洪水を起こしている。世界はまるで抽象画、もしくは子供の落描きのよう。その一色になれなかったことが寂しくて、でも本当は安心していた。
ふわり。傘が風に乗って、わたしと君をどこまでも運んでいく。笑ったままの君の横顔に、わたしは手を伸ばす。「ねえ、なかないで」って。
その手に、白く細い君の手が重ねられた。
「よく見て、ぼくはないてる?」
困ったように笑う、君。
涙なんて流れていないのに、わたしはその頬を拭った。
*
と、いうのがわたしの白昼夢。
――夢子はうつ伏せていた顔をゆっくり持ち上げる。睡魔に体を明け渡してから、分針は半周近くも回っていた。
視界にはぺらぺらよく動く大人の口と、それを眺める子供(というには成長しすぎている大人未満)の群れ。黒板はすっかり白い粉に埋め尽くされていたが、夢子はノートに板書を再開するでもなく、ぼうっと意識を漂わせた。
(不思議な夢だった……ような気がする)
目覚めた瞬間は覚えていた気がするのに、現実が目に入るほど、それはどんどん霞んでいく。夢子は消えゆくそれを捕まえようと、目を閉じた。
……ただ一つ、誰かの表情だけが、まだ瞼の奥に残っている。顔のない表情だけがプカリと浮いている。薄っすらとしていてよく見えないが、それはきっと笑っているのだろう。ガラスで出来たみたいな儚い表情に、夢子の中のどこかが痛んだ。どうしようもなく、ただ切なさに心がよじれた。
……どうしてそんなに悲しい顔で笑うの?
君に悲しい思いをさせているのは、わたしなの?
(もう一回寝たら、続きが見られるかな)
その時、ヴーッと控えめな振動がスカートのポケット越しに伝わってきて、夢子の意識は夢から断ち切られた。
夢子は机の下でそっと携帯電話の画面を確認する。相手はもう決まりきっていた。夢子の受信するメッセージは、この相手が七割。メールマガジン二割、他一割である。
『おはよう。お目覚めはいかが?』
桃澤 紫――夢子の幼馴染で、唯一無二の親友だ。親友などという陳腐な言葉で言い表すのもどうかと思うくらいだが、それ以上に自分達に適した言葉を夢子は知らない。(なので、世の中の陳腐な“親友”が滅びればいい)
夢子が画面から顔を上げると、いくつか離れた斜め前の席で、頬杖をついてこちらを見ている紫と目が合った。冷ややかに見られがちな涼しい顔が、夢子に向かって透明な微笑を浮かべている。夢子もそれに応えて口の端を持ち上げてみたが、彼女のように綺麗に微笑むことなど出来ない。きっと自分は腑抜けたニヤニヤ顔をしているに違いない、と思った。
返信しようかとも思ったが、気の利いた言葉が思いつかない。もうすぐ授業は終わるし別にいいか。と、夢子は携帯をポケットにしまう。
(……なんか、だるいな)
身体に力が入らない。目覚める前に、魂の幾らかを夢と現の狭間に忘れてきてしまったのではないかと思うくらいだ。
だから――ふと、得体の知れない何かがどこかで静かに蠢き始めたような、そんな気がしたのだけれど……寝惚けているだけだろう。気の所為。ただの“願望”。
だって、人生は大概得体が知れてしまっている。
(もうちょっと、夢、見てたかったな)
カーテンの向こう。四角い青空が、目に染みた。
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