Act22.「女王の白バラ(前)」
夕食後、夢子達は大広間に集められ、トランプ王国との会談に向けた話し合いをしていた。
会談は三日後、永白にて行われる。シャルロットの身柄という強力な切り札を手にした永白が、主導権を有しているためだ。
最も議論が白熱すると予想されるのが、夢子と紫に関する問題である。永白は“アリスを保護している”とだけ伝えており、詳細は一切伏せていた。会談でトランプ王国側の動揺を誘う狙いもあるが、不確定要素が多過ぎるためでもある。当日までに何がどう変わるか、誰にも読めない。
ヘイヤが思い描く落としどころは、虚無化という共通の脅威を前に、両国が手を取り合うことだ。今後の紫の出方次第にはなるが、夢子を介して彼女との和解を図り、同時に夢子の完全なアリス化を目指す。それと並行して、今一度アリスという存在の解明と、世界の恒久的な安定方法を探る。――常盤は一瞬だけ反論しそうな気配を見せたが、結局黙っていた。
(そんなに上手く、話がまとまるかな……)
夢子はグレンのことをよく知りはしないが、世界の危機を前に、そんな悠長な提案を呑むとは思えなかった。トランプ王国はまた、紫の処刑を前提に動くだろう。それを阻止するためには……。
バチッと夢子とヘイヤの視線が噛み合う。ヘイヤの冷ややかな目は“まだなのか”と言わんばかりだ。
そう、夢子が完全なアリスとなり、紫から虚無化の実行力が失われれば話はもっと簡単なのである。しかし今のところ何の変化も無い。アリスになるには鏡の呪いを解く必要があると分かり、そのための魔術の訓練を始めたのが昨日なのだから無理もない。
(ヘイヤさんは自分が出来るから簡単そうに言うけど、魔術なんてものが一日二日で使えるようになる訳ない。そもそも、異世界人のわたしには使えない可能性もあるし……)
そんな言い訳が、誰の為にもならないことは分かっていた。今はただ出来ることをするしかないのだ。
二人の静かな睨み合いは、誰も疑問を抱かない僅かな時間のことだった。ヘイヤは夢子に魔術の手解きをしていることを、皆に知られたくないのである。彼女を真実に近付けたくない、誰かからの邪魔が入らないように。
「ねえねえ、グレンがこっちに来ている間に、トランプ王国を乗っ取っちゃいましょうよ!」
シャルロットが、厳粛な話し合いにノイズを混ぜる。幼い女王は最初からずっとこの調子だった。その傍若無人ぶりには、当初彼女に興味を抱いていたヘイヤでさえ辟易としており、今は完全に無視を決め込んでいる。
無視を続けられたシャルロットは、とうとう我慢がならなくなった。
「もう、どうしてシャルの言うことが聞けないの? シャルはハートの女王なのよ!」
「……何でこいつを呼んだ」
「いやあ、だって、関係者中の関係者じゃないですかあ」
ラファルの悪気無さそうな返答に、ヘイヤは深い溜息を吐いた。
「――とにかく。会談まで、そう時間はない。常盤、黄櫨……お前達にも、準備を手伝ってもらうよ。あと、白ウサギもね」
ヘイヤはそう言うと、モスと共に広間を後にした。黄櫨はその後ろ姿を寂しげな瞳で見送る。
かつてのヘイヤは、こういう話し合いの場を仕切るようなことは滅多になかった。相談や共有という面倒な部分は省き、決める時だけ決める独裁者。それを傍らで援助するのが、黄櫨と常盤の役目だった。
(どんなにヘイヤにそっくりでも、今の君はヘイヤじゃないよ……ミツキ)
彼女には、彼女自身として生きて欲しい。
しかしそれが自分一人の勝手な願望であることを、黄櫨は理解していた。
黄櫨の隣で、夢子も同様に表情を沈ませる。トランプ王国との会談で、紫を逃がした自分は酷く糾弾されるだろう。それに対して毅然と立ち向かうには、紫が悪ではないという確証が欲しかった。
(紫……こんなに紫のことが分からなくなるなんて、思ってもみなかった)
彼女を想うと同時に、その隣にいるであろう青年の顔が浮かび、夢子は苛立つ。あいつなら紫のことが理解できるのだろうか、と。
「キーッ!」
夢子の過敏な神経に、甲高い声が突き刺さった。シャルロットが癇癪を起こし、ドスドスと地団太を踏んでいる。
(ほんと、可愛いのは見た目だけだな)
夢子はうんざりと横目で眺めた。
「失礼します……」
広間に使用人がおずおずと入って来る。夕食時にシャルロットが所望したケーキを運んで来たらしい。真っ白なクリームで塗られた大きなホールケーキの上には、瑞々しいフルーツがたっぷりと乗せられている。
夢子は苛立ちを忘れ、ご相伴に預かれるかな? とそわそわした。
「遅~い! もうシャル、気分変わっちゃったわ!」
「申し訳ございません……」
肩を落とし、持ち帰ろうとする使用人。じゃあわたしが! と挙手しかける夢子。だがシャルロットが呼び止める方が早かった。
「あ! 待って、下げなくていいわ。やっぱりそれ、ちょうだい?」
薄紅色の唇に、毒々しいまでに甘い笑みが乗る。機嫌を直したとも違う、表情だけの転換。その場にぴりっと嫌な空気が走った。使用人はテーブルにケーキと食器類を置くと、その場を足早に去っていく。
シャルロットは背後の白バラを振り返り、愛らしく小首を傾げた。
「あのね? シャル、小さくて可愛いから、ディナーだけでお腹いっぱいなの。白バラは大きくて可愛くないから、まだ食べられるわよね?」
「……はい」
「じゃあシャルが食べさせてあげる! 嬉しい?」
「有難うございます」
「嬉しい?」
「光栄に存じます」
「ふふっ。ほーら、早くここに跪いて?」
「……かしこまりました」
白バラは一瞬だけ顔を強張らせたが、大人しくその場に膝をつく。シャルロットはケーキの皿に触れながら、部屋に残る者達を楽し気に見回した。
――ハートの女王の認識が、この場の者を“観客”と定める。彼女の、悪趣味な遊びの観客に。
シャルロットはその非力な腕で、もたつきながらケーキを持ち上げた。白バラは何が起こるか分かりきっているように、静かに目を閉じる。できるだけ早く終わるようにと祈りながら。
シャルロットの白バラに対する加虐行為は、今に始まったことではない。常盤は眉を顰め、黄櫨は軽蔑の眼差しを向け、慣れていないラファルは息を呑んだ。流石に看過出来なかったピーターが何かを言いかける。夢子は既に、動いていた。
――べちゃ。
白バラの顔にぶつけられる筈だったそれは、夢子がシャルロットの腕を弾き返したことで床に落ちる。クリームがドレスの裾に跳ね、シャルロットは憤慨した。
「あーっ! ナイト様、何してるのよ!」
(……勿体ない)
無残に潰れたケーキを見下ろす夢子。罪悪感が更に怒りを高めていく。
「ねえどうするの!? シャルのドレス、汚れちゃったじゃない! ……ナイト様?」
夢子はシャルロットの言葉に一切の反応を示さず、その場にしゃがみ込むと、落ちたケーキを手で掬い取った。その奇行に誰もが言葉を失う。間近で目の当たりにしているシャルロットも、文句を言うのも忘れて呆然とした。
夢子はシャルロットにぐっと詰め寄る。
「食べさせてあげる」
「え!? あ、あの、シャルはお腹いっぱいで、」
――ぐちゃ。
シャルロットの小さな口にケーキが叩きこまれた。入りきらず溢れるそれを、夢子は力任せに顔に押し付ける。
「うぇ、げっ……う、」
鼻にまで入ったらしく、シャルロットは苦しそうに咽た。ケーキまみれになった顔がいちご色に染まり、クシャッとなる。大粒の涙がクリームと混ざり合った。夢子はそれを見て無感情に言い放つ。
「……甘いものは別腹でしょ」
「う、うわああああーん!」
床に落ちたケーキを無理矢理食べさせられるという屈辱。お気に入りのナイトからの裏切り。あまりの衝撃に、シャルロットは大泣きしながら部屋を飛び出していった。
「お待ちください、シャルロット様!」
すぐに後を追おうとした白バラを、夢子が止める。
「追わなくていい」
「あなた、シャルロット様に何てことを!」
「それはこっちの台詞。あの子、どう甘やかされたらああなるの? あんなことされて嫌じゃないの?」
「構わないわ。シャルロット様は慣れない環境でお疲れなのよ! シャルロット様の気が晴れるなら、私は……」
「ああそう。でもわたしは嫌」
夢子は助けた筈の白バラに怒られていること、皆の注目を浴びていること、クリームでべたつく手、その全てに耐えられなくなり、早足で部屋を出ていく。
「あ、ちょっと!」
白バラは一歩踏み出すが、どちらを追うべきか分からなくなった。
(私は何を迷っているの? どっちに行くかなんて、考えるまでもなく決まっているじゃない。私は……シャルロット様のバラなんだから)
これまで黙っていたラファルが、穏やかな声で彼女の背に話しかける。
「白バラさんは、夢子さんをお願いできますかあ? 女王サマは、僕が責任をもってお迎えに行きますので」
「……お前みたいな胡散臭い男に、シャルロット様をお任せする訳にはいかない」
「ひっどい言われようですねえ。でも女王サマもあなたも、今は離れて頭を冷やした方がいいと思いますよお?」
ラファルは諭すようにそう言うと、白バラの返答を待たずに歩きだす。その手に黄櫨を捕まえて。
「じゃ、行きますよう、黄櫨さん」
「え、なんで僕」
「僕だけじゃ圧迫感があるかなあと」
二人が部屋から出ていく。出遅れた白バラは、足元の潰れたケーキを見つめた。
白バラにとって先程の夢子の行動は、半分予想通りで半分予想外。善人ぶった彼女なら、シャルロットの行いを黙って見過ごすとは思えなかった。だがあんなにも、周囲の目を気にせず介入してくるとも思わなかった。
安全圏で悲しそうな顔をして、優しい子だと持て囃されていればいいものを、何故自らの手を汚したのか。それも、幼い少女を甚振るようなことをして、若干全員に引かれてまで。
(もう……何なのよ……)
王城で夢子に抱いていた、あの温かな感情が蘇る。
見られたくない相手の前で、恥をかかずに済んだ安堵が滲む。
クリームと涙でぐしゃぐしゃになった主の顔に、仄暗い快感が芽生える。
白バラは、とっくに姿の見えない少女を追いかけた。
ピーターは一瞬だけ白バラを呼び止めるべきか悩んだ。白バラの夢子への警戒心を知った今、二人きりにするのは危うく思えたからだ。しかし白バラが私情で誰かに危害を加えるとは思えず、二人の間に割って入るのも違う気がして、何もせずに見送る。
「ハートの女王は、夢子の精神衛生上よくないな」
部屋に残されたもう一人、常盤がぽつりと言った。
「彼女が誰かの精神衛生上いいことなんてないよ。……だからって、簡単にどうにかできる相手じゃないからね」
「まだ何も言っていないだろう」
(顔が言ってるんだよ)
常盤は冷静に見えて気が短い方だ。もし今回のことで夢子がシャルロットに虐げられるようなことになれば、どんな手を使っても阻止するだろう。
ピーターは相変わらずの過保護さに、やれやれと席を立った。そして潰れたケーキの元に行き、じっと観察する。
「……何をしている」
「床に接していない部分、まだセーフだと思う?」
「やめた方がいい。やめなさい」
「冗談だよ」
ここ最近、まともに常盤と顔を合わせていなかったピーターは、その他愛のないやり取りにほっとする。
だから常盤と夢子の間に何があるのか、それに踏み込むことは、やはりできなかった。
*
雲間を一向に満ちない月が泳いでいる。夢子は人気のない外廊で、洗った袖を夜風で乾かしていた。静かな夜に心は落ち着きを取り戻しているが、怒り自体は消えてはいない。
皆の前で、白バラの尊厳を踏みにじるようなことを平気で行うシャルロット。これまで積み重なっていた怒りが、食べ物を粗末にするという悪行を引き金に噴き出したのだ。……本当は、ピーターに彼女を助けさせたくなかったというのもある。
ギッ、と床の軋む音が響いた。夢子が振り返ると、そこには月光のよく似合う女が、何とも言えない顔で立っている。
「こんなところで何してるのよ」
「クールダウン。白バラは?」
「物分かりの悪いあなたに、忠告しに来たの。もうシャルロット様の気分を害するような真似はやめなさい」
「じゃあ、酷いことされないでいてよ」
「はあ……どうしてそんなに気にするのよ。私がどんな目にあおうと、あなたには関係ないでしょう?」
「……あるし」
夢子は聞き入れる気は無い、と唇を尖らせる。その意外と子供っぽい仕草に、白バラは思わず毒気を抜かれた。柱に背を凭れ、少しだけ和らげた声で続ける。
「普通はね、誰も気にしないのよ。私みたいな醜いバラが、いくら踏み荒らされたって」
当たり前のように自虐を口にする白バラ。その顔は“そんなこと無いよ、綺麗だよ”と褒められるのを待っているようには見えない。彼女は本気でそう言っているのだ。
「あのさ、その醜いって何のこと? 外見の話をしてる?」
「外見も、内面も、存在自体よ」
「それって自己評価?」
「自他共によ」
「……この世界の美的感覚って狂ってるの? 左右で均整の取れた顔立ち、真珠みたいに澄んだ瞳、髪はふわっとしてて可愛いし、スタイルは良いし……どこをどうすれば、醜いと?」
鋭い目、鍛え上げられた体、女にしては背も高く、威圧感があるのは否めない。万人受けする美人とは違うかもしれない。だが醜いなどという言葉は、彼女とはあまりにもかけ離れている。
夢子と白バラの初めての出会い、血濡れた戦場に純白のバラが咲いたあの瞬間から、夢子は彼女の美しさに魅せられているのだから。
夢子の熱視線と口説き文句のような言葉を受け、白バラはフン、と鼻を鳴らしそっぽを向いた。
「私をからかって楽しもうだなんて悪趣味だわ。あなたが何と言おうと、私は醜いのよ。シャルロット様がそう仰るのだから」
「あの子の言うことが正しいとは限らないでしょ?」
「正しくなるのよ。シャルロット様の感覚が、周囲の基準になるの」
「……それ、どういうこと?」
「意識エネルギーのヒエラルキーよ」
白バラが言っているのは、単なる盲目的な崇拝ではない。言葉通りの意味だった。
アリスネームを持つキャラクターの中でも、とりわけ強力な力を持つハートの女王の言動は、意識エネルギーの弱い者達の価値観に影響を及ぼす。
だからシャルロットが醜いと言えば、この世界の大多数のモブにとって、それが正となる。シャルロットが白バラを馬鹿にすれば、皆がそれに倣った。白バラをそういう対象だと認識した。
不思議の国の残酷な構造に、夢子の背筋が冷える。認識が世界を作るという仕組みは知っていたが、こういう危険性を孕んでいるとは思っていなかった。
「じゃあなんであの子の傍にいるの? 離れた方がいいんじゃない?」
「……どうしてあなたに話さないといけないのよ」
「うーん……先に、わたしと紫のことを教えてあげるからさ」
「別にいらないわよ」
白バラは突っぱねるが「まあまあ」と宥められ、いつの間にか夢子の隣に腰を下すことになっていた。内心、夢子とアリスの関係が気になっていたというのもある。
「えっと。紫とは、小さい頃からの幼馴染でね……」
夢子は、紫との思い出を語った。誰かに紫の話をここまで深くするのは初めてだった。紫のことは自分だけが知っていればいいという独占欲から、話したいと思うことさえなかったのだ。
しかし今は聞いて欲しい。紫が危険なアリスではなく、普通の女の子で、ただの自分の親友であるということを、知って欲しい。夢子自身もそれを確認したかった。
夢子の宝物を扱うかのような話し方に、白バラは真剣に聞き入っていた。視線の揺れ、表情、言葉と言葉の間の沈黙。その全てが、夢子にとっていかに紫という存在が大切であるかを物語っている。
一国を敵に回してまで守ろうとした理由も腑に落ちた。その在り方に共感を覚えた。
夢子にとっての紫も、自身を確立させるために必要不可欠なものなのだろう。
「ふう。いっぱい話しちゃった。なんか恥ずかしいね」
「……シャルロット様と初めて出会ったのは、もうずっと前になるわ」
「え?」
まさか本当に話してくれると思っていなかった夢子は、目を丸くした。




