58.声はさらに透きとおりはじめ
バセロン・オーンが必死になって説き伏せている。歌姫はその言葉を聞きながら、目を見張り、そして、目からぽろりと涙を落した。涙は、歌を弱めてはくれず、声はさらに透きとおりはじめ、誰もが胸にぽっかりと何かが開いてしまったような感じになった。痛さもなく、冷たさもない、悲しさもなく、ただ、そこに穴が開いてしまっているような感じになり、そっと胸に手をあてた。そこでやっと、歌姫の歌が止み、歌姫はしゃがみこんだ。泣いているというより、涙もない乾いた顔で、ぼんやりと宙に視線を彷徨わせていた。
バセロン・オーンが脇に膝まずいて、懸命に話しかけているのだが、その声も聞こえていないようだった。王は、胸に手をあて、
「この虚無感と共に生きるのは辛い」
と呟いた。それを聞いて、アッフェル・フォルトがバルコニーに飛び出した。
広場はざわめきだしていた。中にはしゃがみこみ、今の、歌姫と同じように、空虚な視線を彷徨わせている姿もあった。稲光がした。人々が影絵のように浮き上がり、その中で、互いの首に指を巻き付けている姿が映った。再び稲光して光が走った。すると、中央の一人が、仕立屋の前掛けをした男が、前掛けに突っ込んでいた手を出して、ハサミを振り上げ自分の首に当てて息を吸う姿が見えた。
「死にたい」
その言葉が、広場に広がっているように見えた。アッフェル・フォルトはもっと多くを見ていた。都中で雨も気にせずしゃがみこむ人々がみえた。そして、剣士の一人が何かを叫びながら剣を振りかざす姿が見えた。虚無感を追い払おうと動いたのだ、と思ったが、その目の前で、腕に刃が当たり倒れる男の姿が見えた。倒れた姿は痛がりもしなければ、恐怖に震える事も無い、ただ、歌姫と同じように横たわったまま、激しい雨の落ちる水たまりで、ぼんやり雨を見ているだけだった。
国の外れの小さな村で、向くりと起きあがった子供がいた。ぼんやりとした顔つきのまま、ぼろぼろと泣き出した。親が隣で起きだすが、子供をなだめることもせず、紐を探して天井の梁に紐を掛けだしていた。祭りに向かう街道で、野宿中の男達が火の落ちかけた焚火のそばで、俯き加減にしゃべりだす。一人は焚火に頭を突っ込むように倒れかけ、一人は首を左右に振りだすとがむしゃらに駆けだした。行き先は、川か谷か。
アッフェル・フォルトの脇で、懇願するような声がした。
「アッフェル・フォルト様。お願いです。お願いです」
しゃがみこんでいたバッセルだった。バルコニーに出て、広場を見て、ハサミを振り上げる姿を見て、恐怖して、動けなくなっていた。必死の表情で、脇に立つアッフェル・フォルトを見上げ、
「お願いです。助けてください。こんなのはおかしい。あんなに幸せを感じていたのに、あんなに活気に満ちていたのに、こんなのはおかしい!」
バッセルは叫んでいた。
「悲しければ慰め会えばいいんです。孤独なら、みんなで手を差し伸べて掴めばいいんです。みんな一緒にいればいいんです! こんな、悲しさでだけで全てを終わらせるなんて間違っている。生きているんだから、感じているんだから、こんなのはおかしい! たった一人なんて、ありえないんだから! 手が届くところに、こんなに仲間がいっぱいいるんだから!」
アッフェル・フォルトは、バッセルに手を差しのべて、巻き毛の頭をそっと掴んで引き寄せた。目を大きく見開いて、涙を流しながらアッフェル・フォルトを見つめるバッセルの額に、そっと小さなキスをした。そして、そのまま、低い声で歌い始めた。
優しい歌声だった。小さな子供を慰めるような、暖かい愛情に満ちた歌声だった。その歌声が、バルコニーから広場に落ちた。バセロン・オーンが呆然とした妻の横で、同じように呆然とした顔でしゃがみこんでいたのだが、はっと気がついて立ち上がる。慌てて、シェルフォードの側へ行くと、低い声で、
「四つの全ての言葉が一つに集まる時、奇跡は起こる。意味を思う心を糧に、その歌声は国中に鳴り響き、人々の心に落ちて、揺さぶり始める」
まるで何かを読み上げるように呟いていた。シェルフォードは、はっとして、王が落したペンを手に取る。と、銀の小箱から紙を引っ張りだして裏に四つの言葉を書きなぐった。そして、それを、見つめながら、
「全監察者達よ、これを見よ」
と低く言った。集中しているのか、シェルフォードが目をつぶる。今、この時、全監察者の館の者達に、同時に文字を送り出していた。視線の先に浮かぶ文字を見て、誰もが、文字の意味を考え始める。青銀の監察者であるシェルフォードが、この危機的な状況で、全員、と言ってまで見せた文字に、一体どんな意味があるのかと。
すると、アッフェル・フォルトの歌声は暖かく周囲に広がり始めた。王の耳にもはっきりと聞こえだした。ざわめいていた広場の人々の耳にも優しく響き始めた。都の西で、剣を手に虚無を追い払うかのように振り回していた男が、唐突に動きを止めた。そして、足元でうめいている自分が切りつけてしまった男を見付けて顔色を変えてしゃがみこみ、手当を始める。街道沿いに駆け始め、橋を見付けた男は、途中で唐突に止まった。そして、同じようにどこからか駆けてきて橋から飛び降りようとしていた女性を、羽交い絞めにして止める。焚火脇の男は火の熱さに悲鳴を上げ、側にいた男が慌てて水を掛けてやる。むっくりとベットに起き上がって泣いていた子供は、母親は梁からつるした紐に首を駆けようとしていたのだが、ぱっと手を放して、子供を必死に抱きしめていた。
王弟の屋敷から、裏の扉を開けさせて、外へ馬を出そうとしていた男がいた。シェルフォードの父親のアメール公爵だった。その男が、歌を耳にして顔を上げ、胸を抑える。しばらく、身じろぎもしなかった。だが、まるで、こんな気持は要らないと言うように、苛立たしいような顔をして、フードの下で目をつぶる。雨の滴が涙のように目の縁を流れて落ちていった。
国中に、響き渡る声は、暖かさと優しさが触れてくるような歌声だった。まるで、その声が天に届いたかのように、雨が止んだ。雨雲が流れ、夜空の星が見え始めた。立ち止まり、胸に手をあて、涙が流れるままに任せている者もいた。何か、暖かさに胸が掴まれ、不思議なほど涙がこぼれお落ちて来た。涙がこぼれおちるに任せて、歌声に耳を傾けている者達もいた。
広場では、ハサミを振りかざしていた仕立屋が、濡れた広場に座り込み、頭上から聞こえる歌声を見上げるようにして目をつぶって耳を傾けていた。同じように、首を絞めあっていた者達が、抱き合って低く笑い声を上げていた。馬鹿な事をしていた、と言いあっているように見えた。広場では人々が、しゃがみ、座りこみ、静かにバルコニーを見上げ、歌声に身をゆだね出していた。雨が上がり、真っ黒い雲が消えると、夜空に白い光が広がりだした。真新しい朝の光が、一筋入り、そして、街全体に金の光が広がった。
バッセルは、側で膝まづき自分に囁くように歌うアッフェル・フォルトから顔をそらした。照れくさくなって、もじもじとバルコニーの外を見た。すると、今、まさに、建物の向こうから、金色に輝く朝日が昇り始めたのだった。
「すごい!」
とバッセルが息を飲むと、アッフェル・フォルトが歌いながら、同じように外を見た。そして、バッセルが、
「ああ、あたたかい」
と呟くと、アッフェル・フォルトは、歌声に、暖かさと陽気さを交え、優しさを軽快さに換え、朝日が建物の向こうから顔を出したところで、そっと歌を止めた。




