57.王弟殿下がそこに居た
王弟殿下がそこに居た。廊下に立っていた。廊下の奥にちらりと目を向ける。廊下に人影があり、シェルフォードと同じ髪色の渋みのある男が、回廊の端に立っていたのだが、部屋からは見えなかった。しかし、王弟殿下は廊下を厳しい視線で射抜く。人がいるのは一目でわかった。何かのやり取りの後、駆けつけたのだと分かった。王弟は、ゆっくりと視線を部屋の中に戻すと、王に向かって続けた。
「これは大きな不祥事です。勅命一つで消せるような物ではないはずです。歌姫を連れて来た者へ厳重な処罰を科し、連なる者は連名で断罪。それが正しい処置のはずです」
と、まるで人ごとのように言った。バッセルは、意味が掴めなかった。言っている内容は聞きとれるのだが。王の為に歌姫を連れて来て、王の心を慰めたい、と言っていたのは王弟殿下のはずだった。王弟殿下は、自分を罰せよ、と言っているように聞こえた。こんな事をすれば処分されるのは当然で、だから、自分を処分すべきだと言っていた。まるで、自分を処分させるつもりで、歌姫を呼んだんだ、とでも言っているように聞こえた。それこそが、王弟殿下の心の闇だったのだが、バッセルには分からなかった。ただ、バセロン・オーンは視線を落とした。今一歩だったのに、邪魔が入って怒りを飲んだのかもしれない。しかし、バッセルの眼には、動揺しているように見えた。
バセロン・オーンは、アッフェル・フォルトが歌姫を止めると言った時には、慌てているようにも見えた。人の力を超えて、と言うシェルフォードの話の部分では顔が青ざめたようにも見えた。バセロン・オーンは、もしかしたら、それほど深く考えていなかったのかもしれない。この王弟殿下にしても、王弟なら何をやっても許されるはずだと思っていたのかもしれない。その思惑がはずれ、バセロン・オーンは動揺している。バッセルの眼にはそんな風に見えた。王弟は王へ続けた。
「イメージが映像化する国で、例外は危険です。映像での犯罪が増え、民が苦しむばかり、と言う話をしているのではありません。それなら監察者を強化すればいいだけの話です。そんな話をしているのではなく、もっと深刻な問題を浮き彫りにする、と言っているのです」
そう言って、王弟殿下は周囲を見た。そして、ぼそっと、
「妖精王がいない」
と呟いた。バッセルはぼんやりとしたまま聞き違いかと考えた。思いは歌に囚われている。何を聞いているのか分からなかった。妖精王なんか、いるかどうか分からない。なのに、深刻に、「いない」と言われても、深刻さが分からない。なのに、王弟殿下は最大の問題であるかのように言いだした。
「兄上は、日々、我が国の守護者たる妖精王がどこにいるのか分からない、と言う事実に苦しんでおられるではありませんか。公家が活気づいています。妖精王との不和は、王家の力不足のせいだと訴え、内乱にまで及びそうな騒動を、あなたは、妖精王の娘に恋文を送り届けることでしのいでおられる。この不安定さの中で、その書状にサインをされれば、王弟派はもちろん、公家が、活気づくだけです。彼らが、このイメージが具現化する国で、さらなる危険な要素を招き入れるような、民を思いやれない王は、王たる資格はない、と騒ぎだしたらいかがなさるおつもりですか。公家が動き、煩い王弟派まで動き出したら、なんとなさるおつもりか」
と、静かに語った。まるで、自分が王弟ではないかのように言った。王は、視線を弟に向けると、向けたまま、手を動かしてサインをしてしまった。王弟はぎょっとした顔をした。
「兄上。自ら退位なさるおつもりですか? 代わりに、私に王になれとでもおっしゃるか?」
「いや」
「ならば、なぜ!」
と言われて、王は、怒る弟を見て、それから、誰も居ない廊下を見た。そして、まるで廊下へ向かって話しかけているかのように声を上げ、
「王弟が歌姫を呼び、王が歌を歌う許可を与えた。この事実は重い。我が退位を測るならば、しかと心せよ! 王家の兄弟を敵にまわす事になると思え!」
と言った。
王弟は呆れたような顔をしていた。
「王国に、歌を入れるおつもりですか」
「おまえが呼んだ歌姫だ。歌姫一人くらい、おまえの力でさばくがいい」
と不機嫌そうな声で言ったのだった。そして、
「おまえが、私に継ぐ者だ。今、この国には、おまえしか私を継げる者はいない。公家ではなく、おまえが継ぐ。私に子ができるまでは、おまえは常に、私に継ぐ者だ。何者をも変えることはできない。サインはその証明だ。どちらかが欠ける事は、この王国のバランスを欠く事となる」
と言った。その言葉を聞いて、シェルフォードがバルコニーの傍から音もなく動き、廊下に出た。廊下の向こうに背を翻し、マントをたなびかせる姿があった。公家の一人、自分の父、シェルフォードの父親、アメール公爵の後ろ姿だった。
王弟派の筆頭とも、第二番目の王位継承者とも言われる男の姿だった。今回の真の首謀者だったかもしれない、その後ろ姿だった。バセロン・オーンを最後まで匿い続けた本人だったかもしれない。部屋の中から王弟の声が聞こえてくる。
「それでも、公家や長老派は、あなたを追い落とす方向で動くでしょう。王と弟、両方はずせるなら、こんなに嬉しい事はない、と思う者も大勢いるのですから。私のせいにし、私だけを廃嫡すべきです」
と言うと、王は、
「おまえ以上に能力がある者が出れば、廃嫡してやる」
と短く言った。王はそこで言葉を切った。
歌声は、悲しみに満ちた物から、いない人を探すような歌声に代わり、バルコニーの姿は左右に揺れ出していた。響きに震えが入りだし、バッセルは両手で自分を抱きしめていた。寂しくて怖くて、冷気が背中を這い上る。バセロン・オーンは、銀の小箱に、王のサインの入った書状を入れて、まっすぐにバルコニーへ近寄った。全員が、固唾を飲んで見守った。歌姫の、喜びに満ちた歌声を、心から待ち望み。二人を見つめた。バセロン・オーンは脇に立つと、横から、歌姫に囁きかけた。
バッセルの耳には届かなかったのだが、こちらを見て、手もとの小箱を指差す姿からは、もう、祖国に戻れるのだから、と言うような事を言っていたのだと思う。ここで歌っても良いのだ、と笑うように話しかけているのが見えた。
すると、歌姫の動きがぎくしゃくしだした。なめらかに伸びていた腕はわなないたようになり、バセロン・オーンが必死になって何か話しかけると、うつろな目を、室内に向けた。と、外では稲光がして、雨は大粒に代わりだす。バッセルは、慌ててバルコニーに近寄った。人々がどうしているのかと、見下ろした。見下ろしてぎょっとして半歩下がった。広場に立つ人々は目に雨粒を受けながら、バルコニーを見上げて立ちつくしていた。誰一人帰らない。誰一人騒がない。静かな、気味の悪い人々の群れだった。
歌姫の口からはかぼそい歌声が響き続けていた。豊かに響いた声はどこに行ったかと思うような、力のない声だった。なのに、監察者達の力のせいで、国中で、まるで、耳元で囁くかのような声で、悲しみを紡ぎ続けているのだった。
歌声が止まらない。銀の小箱を見たと言うのに、歌には、喜びどころか、絶望の響きが濃くなり始めていた。バッセルは呆然と歌姫を見つめていた。アッフェル・フォルトが、
「夫に捨てられた、と思ったか」
と呟いた。




