54.どの物語がいつ動き出すのか
バッセルが顔を上げると、アッフェル・フォルトは走り出していた。早足が、駆け足になり、王弟の館の高い塀の下に立つ。そこで、ぼそっと独り言を言った。
「この視野の中、バセロン・オーンが見当たらない。今、この瞬間、動かないで、どうやって、街を出る? この混乱の中、動くなら今だ。王宮に向かっていたなら、戻るだろうか? 王宮の傍は警備兵がうじゃうじゃで、王の許可が欲しくて行ったのか? 王は王宮にはいないのに? バセロン・オーンは、なぜ動かない? 出入国の門にもいない。都を出る気配ない。この混乱で、どこにだって行ける。どこにだって戻れる。なのに、なぜ、どこにもいない? どこへ行った?」
と言ってから、塀を平手でたたきつけ、
「バセロン・オーンにだって、どの物語がいつ動き出すのか分からない。だから、陽炎が歌い始めて驚いたんだ。やつの目的は物語の力を見せつける為か? 王へ力を見せて認めさせる為か? 暴走する、コントロールの効かない、危険な能力だと、周知させる為に来たのか? いいや違う。自分の力は関係ない。暴走させて、混乱させる為に使っただけだ。やつは、たった一つの為に来たんだ。妻の為に。祖国を忘れられない妻の為に。妻を祖国に帰す為に、無事、安全に帰っても大丈夫な状態にさせる為に、王への直訴ができるようにと銀の小箱を盗みまでして、妻の安全を測る為に、戻って来たんだ。その妻が、歌を歌わされようとしている。歌を歌って罪を被る危険を避けたかったから、妻が歌う物語を書かなかった男が、妻が歌うと聞いて安心しているはずが無い。やつは来る。歌わせまいとする。歌わせようとする王を見付けて止めるか? 王を殺そうとするか? イメージで王を自分と入れ替える物語があるのではないか? 妻に読ませなかった物語があれば、王を刺殺する方法があるとすれば」
アッフェル・フォルトは塀沿いに門へ駆けた。バッセルは、二人の後ろを走って追いかけながら、大丈夫、と湧き上がる不安を、ぐっと抑えた。塀際沿いの、細い砂利石を敷き詰めた歩道を門へ走った。高いねずみ返しがある塀の上は、暗い雨の中で闇に溶け込んでいるように見えた。
門について、シェルフォードが通用口を手荒く叩き、小窓から中を覗き込む。
バセロン・オーンは必ず来る、とアッフェル・フォルトは思った。妻が歌を歌えば、幽閉だった。ルフェンへ戻る自由もない。バセロン・オーンなら、今、どこに居たっておかしくないし、何だってできるだろう、とアッフェル・フォルトは考えて、扉をガンガン大きく叩いた。バセロン・オーンが出たところを見た者はいなかった。奴が逃げた時には、本当に館から出ていたのだろうか? と不安になった。これほど見つからないのにはわけがある。この安全な場所で、ずっと潜んでいたのではないか?
とその時だった。声が響いた。
「アッフェル・フォルト様! 妙なメモがありました。物語ではありません。手紙に紛れていたようです」
アッフェル・フォルトが伝送者達の声を、バッセル達にも聞こえるように切り替えた。声は次々と続いた。アッフェル・フォルトは、短く。
「読まずに眺めてくれ」
と言うと、大門にぽわっと白い明かりが灯り、そこに掲げるようにして持つメモが見えた。メモと手の指が見えるだけで、奇妙な感じだ。中のメモには、
「さすがです」
と書いてあった。街の新聞の端に書かれた文字だった。子供の書いたカクカクした文字だった。アッフェル・フォルトはその字を睨んだ。何が出てくるのか、睨むように見ていた。門にぽぽぽっと絵が灯る。他の場所でもかざして見せたのだろう。その絵の中で、文字が躍る。
「見付けたんだ、すばらしい!」
「すごいね」
「全部、見付けられたかな?」
とある。と、アッフェル・フォルトはじっと文字を眺めていた。そして、ふと気が付いたように顔を上げた。と思ったら、口の中で何かを低くののしりだしていた。かなり汚い言葉で、いったい、女性がどこでこの言葉を覚えるのだろう、とバッセルが思ったほどだ。でも、バッセルにはののしる理由が分からなかった。この言葉は、意味がない。たんなる厭味だと思った。優越感に浸っている犯罪者だ、と思っただけだ。が、アッフェル・フォルトは短く言った。
「失敗した」
バッセルが、疑問を顔に載せてアッフェル・フォルトを見上げた瞬間、遠くから不思議な音色が響き渡るのが聞こえた。この雨の中だと言うのに、澄んだ音色で、心にすとんと落ちてくる。「鐘の音?」とバッセル思った。街に響くのは、鐘の音くらいしか思いつかない。
バッセルは、夜なのに、と思った。そして、思った瞬間、鐘の音ではない何か響く物を聞いた。聞いたと思った瞬間、胸に迫り来るような歌声が辺りに響きわたっていた。まるで、鐘のように歌声が街中に響き渡っていたのだった。
「これは?」
と言うバッセルの呟きに、アッフェル・フォルトが静かな声で、
「歌姫の歌だ」
と答えた。バッセルは、信じられない、と言う顔で、暗い雨の落ちてくる夜空を見上げながら、
「歌声って、こんなに響くものなんですね」
と言うと、
「こんなに響く人の声などあるものか」
とアッフェル・フォルトが怒ったように言い、恍惚と歌を聞くバッセルに、イライラしながら言った。
「あのメモを全部見ると、歌声が鐘の音のように響きだす、と言う物語があった。推理物で書きかけだった。妻のアイファーレに詰まらないと言われて途中で止めた話だ。それが動いた。子供のメモだ。物語じゃないせいで、捨てずに残っていたのだろう。あの四枚を見た人間が、疑問を持ってこの意味は? と思った途端に、歌が辺りに響きだす、と言う引っ掛けがあったんだ」
そう言ってから、息を吸うように笑った。皮肉と苦みがある笑いだった。
「まさか、あのメモを、全監察者達が同時に見るとは思わかなっただろう。そして、全監察者の力のおかげで、こんな風に、歌声を街中に響かせる事になるとは、思ってもいなかったのだろう。いいや、街中なんてレベルじゃない。今や国中に歌が響き渡っている。普通の人間が見ていれば風音くらいにしかならなかったかもしれない。能力のあるものが見たら、遠く空から降ってくる音、と言う程度だったかもしれない。それが、これだ。世界は歌で溢れている。今の奴は、真っ青さ。いいや、ある意味、大喜びかもしれない。国で歌うと言う、妻の望みを叶えているのだからな」
大々的に耳元で鳴り響くように歌声が聞こえていた。バッセルは、吐き出すようなアッフェル・フォルトの声が耳に入っていなかった。低く優しく響く歌声は、高らかで、活気を響かせる歌声に変わっていた。人を励まし、陽気にさせる。歌声を夢中になって聞いていた。と、その時、
「アッフェル・フォルト。通用門が開いた」
とシェルフォードが固い声をかけた。バッセルのように恍惚とした顔はしていないが、心がどこかに彷徨うのを、アッフェル・フォルトを見ることで、必死に食い止めているようだった。アッフェル・フォルトは顔を引き締めて、
「この歌が、陽気なままだと良いが。全てを許し、帰宅を即す、優しい歌のままなら良いが。もしも、悲しみと絶望の歌になれば。バセロン・オーンが妻を歌わせた腹いせに、王都を滅ぼそうとしていたら。悲しみと絶望の歌になるよう、イメージを被せるような物語を書いていたら。この国はどうなる」
とつぶやくと、恍惚としたままのバッセルの耳をしっかり引っ張った。痛い、と言う顔をした、バッセルに、
「聞いていたか?」
と言うと、バッセルは目をぱちぱちしてから、
「悲しみの歌で国が滅んでしまうのを防ぐんですよね」
と言う。が、歌声が胸に迫り、歌を追いかける心のままに、ぼんやりとした目でアッフェル・フォルトを見上げていた。と、アッフェル・フォルトはちょっと笑った。その笑い顔に、バッセルはすっと現実に意識が戻る。戻った途端に青ざめる。これは危険だ、と感じた。こんなに心を奪われてしまっては、今、何が起こっても対処できない。が、アッフェル・フォルトはバッセルを見下ろしながら、
「歌を聞いていても、普通に言葉は聞こえるんだな」
と言うだけだった。




