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46.侵食の危機の犯人

バセロン・オーンは、ここに戻ってくるずっと前から準備をしていたのだ、と思う。だからこそ、物語は大量にある。どの物語も精緻で細かく、豊かな映像に満ちていた。それを事前に書きあげて、今日と言う日に備え、大勢に配って読むように頼み、読ませ続けているはずだ。なのに、いつ、どこで読むかを、どうやって指定しているのかが分からない。入国の手助けをしてくれと言う申請書を受け取ったら、読みはじめると言う約束があったのかもしれない。が、それがあったら、とっくに、監察者の館の人間にばれているはずだった。調べれば分かる。心を追って行けばすぐにばれる。なのに、誰にもばれてはいない。誰が読んでいるのかはもちろん、どこに物語が隠されているのかさえも分からない。なのに、読まれ続けて、要所要所で、鎮静者達が映像に苦しめられる。


今の今も、群衆がこの広場めがけて集まり続けていた。集める理由があるはずだった。理由はなんだ? 自分がいないなら、あれは歌にならない歌になるはずだった。民衆は、きっと酷い歌を聞いていたはずだ。歌の良さを知っている王弟が、これなら、本物の歌を歌わせようとするかもしれない、と思ったのだろうか? 王弟の許可を得て歌ってしまえば、なしくずくで許されて、この国で歌姫ができるようになるとでも思ったのだろうか? しかし、歌は極刑なんだ、とアッフェル・フォルトは呟いた。 


そして、嫌な事を思い出した。

「ルフェン国の大使に顔向けができない」

と。それから、苦い声で、

「歌姫が歌ったら、その瞬間、王の権威は失墜し、王弟は歌姫を歌わせて次期国王の資格をはく奪となると、公家が声高に王位の移譲を訴えだすぞ」

と言い足した。


廊下は誰もいなかった。ここにくるまで、不思議なほど人気が無かった。衛兵がいるはずだった。なのに姿かたちも見えない。なぜだ、と思いつつ、次の開いた扉を見て、中を覗こうとして、アッフェル・フォルトは、扉の脇で、壁に背を張り付けた。部屋の中で、慌ただしい衣ずれの音を聞いた。がたがたっと家具の倒れる音がして、うめき声が聞こえ。アッフェル・フォルトが部屋を覗こうとすると、扉から男が飛び出して来た。バセロン・オーンだ、ととっさに手を伸ばして止めようとして、男が剣の柄で手荒く跳ねのけた。と、身をよせて肉薄し、顎の下に剣の柄を刃先のようにひやりとあてて、動きを止める。

「シェルフォード」

と呟いたのは、喉を押されたままのアッフェル・フォルトだった。ゆっくりと手をどけたのは、シェルフォードで、剣を掴んでいない手では、背後に廻すようにして、フードを被った女性の腕を掴んでいた。エスコートしていると言うより、逃げないように掴んでいるように見えた。シェルフォードはゆっくりと構えを解いて、

「アッフェル・フォルトか」

と言うと、

「誰だと思ったんだ?」

「バセロン・オーンかと」

と言った後に身を引いた。シェルフォードは、裏からこの建物に入ったらしい。王弟の歌姫、と聞いたからだろう。王弟の後見をしている公爵家ならではの強引なやり方だった。

「この女性は?」

と言う、アッフェル・フォルトの問いに、シェルフォードは、

「歌姫だ」

と言った。

「王弟殿下は?」

「中でお休みになられている」

と言うシェルフォードの静かな言葉に、アッフェル・フォルトは慌てて部屋の中へ踏み込んだ。


中は、兵士が蒼白になりながらも片膝をついて立ち上がろうとしていた。その向こうにソファーに仰向けになって倒れるように腰掛けている王弟殿下がいた。アッフェル・フォルトが入口に見えたのだろう。こちらを見ながら、手を口元に当て、苦笑いをしていた。アッフェル・フォルトは、後ろに立つ、シェルフォードに低い声で聞いた。

「王弟殿下に手を上げたのか?」

「いや」

「どうやって、倒した?」

「御自らソファーにお座りになられた」

としれっとした顔で答えた。


アッフェル・フォルトは苦い顔になって、ソファーの王弟殿下を再び見た。護衛がごろごろしていた。廊下にいた兵士も、シェルフォードを見て飛びこんで来たのだろう。廊下が空っぽだったはずだ。その衛兵が、全員床に伸びている。監察者の館の者が、王族の護衛兵を倒すだけでもかなりの苦情が来る。そんな事ができる監察者はまれだが、監察者といえども、言い訳がかなり苦しい。それが、王族に手をかけ倒したとなると、どうなることか。シェルフォードはアメール公爵家の出だ。王弟殿下を擁護する家だが、シェルフォードとアメール公とは、つまりシェルフォードと父親はそりが合わない。これを、どう公爵が利用するか。王陛下への嫌がらせとして使うか、監察者の館にまで手を伸ばしてくるか、一族の問題だとして、不敬を理由にシェルフォードを屋敷に監禁、と言う事だってありうる。嫌な問題になりそうだった。とはいえ、シェルフォードの脇には女性がいた。かの歌姫がそこにいた。広場は静かで、陽炎は浮かんでこない。シェルフォードが歌姫を捕まえたからこそ、静かになったのかもしれない。


これを、老師に訴えて、監察者の仕事の一環で片づけてしまえば、陛下がなんとかしてくれるんじゃないか、とアッフェル・フォルトが、他力本願に切り替えようとした時だった。歌姫だ、と言われた女性が、あっけらかんとした声で、

「そりゃ、すごかったわ。殿下がハンサムさんを押し倒そうとして手を伸ばした途端、一歩下がって、勝手にソファーに倒れていただいちゃったんだから」

と言った。


深みも気品も無い声だった。アッフェル・フォルトは、驚いたように振り返る。にかっと笑った女性の目を見た。からっとした目で笑っている。アッフェル・フォルトは、つまりは、と考え続けた。シェルフォードは、上手い具合に立ちまわったのだと思いつつ、自分のイメージとはまったくかけ離れている歌姫をまじまじと見た。さっき見た陽炎の方が、ずっと歌姫らしく見えた。

 と思ったところで、とっさに聞いた。

「あなたか。あなたがきっかけで、動き出したのか! なぜ、バルコニーに立った? 目的はなんだ?」

女性は首をかしげて見せた。アッフェル・フォルトはくるっと向きを変えて、部屋の中へ踏み込んだ。バルコニーに続く扉は開け放たれ、カーテンが左右で踊っている。また、その陰に人が隠れている様子はなく、バルコニーに人が立っているような気配もない。立ちあがって殺気だった兵士達がこちらを見ているくらいで、華やかな花柄の壁や、その前に飾られた飴色の羽目板の彫刻家具も、その脇で震えながら立っている女性と見まごうばかりの美しい侍従達も、酷く普通に、王弟殿下の屋敷ならではの普通に見えた。異様な物と言えば、鮮やかな絨毯に転がっている茶器くらいで、何も無かった。アッフェル・フォルトは見まわしながら、

「殿下、紙は? 物語はどこです? 誰に読ませました? どこにあります?」

と、挨拶も、押し入った謝罪もなく言った。王弟殿下は、苦々しい表情はしていたが、とがめる様子はなく、いつものフォルセットの声を出そうと、失敗した。代わりに、軽く咳込んだ後、テノールの声で、

「読んだとは?」

「物語です。小説を読まれましたよね? それで、イメージが動き出した」

「物語でイメージが動く? なんだそれは」

「それが、バセロン・オーンの力です。今、この都で起こっている侵食の危機の元になるものです。物語を読む。すると、書かれた場面がイメージになって見えてくるのです」

と言うと、王弟はソファーの上に座りなおして、

「バセロン・オーンの仕業? 嘘ではないか」

と言った。

「なぜ、そうお思いになりますか!」

「奴は読んではいない。と言うよりも、誰も、誰ひとりとして、ここで、物語を読んだ者はいない」

「では、イメージはなぜ」

とアッフェル・フォルトが呟きながら考え込むと、王弟は、

「彼女が祭りの灯りが灯った広場を見下ろしたいと言うから、バルコニーを開けさせた。それから、陽炎が踊り始めた。それだけだ。強いイメージの力を持つ者がいたのだろう。監察者」

と最後はとって付けたように言った。憮然としているのは、無礼な態度に向かってと言うよりも、声が出なかったり、倒れて着衣が乱れたからのようだった。王弟殿下は上着の袖を引っ張り、侍従に上着の顎の下のリボンを整えさせると、

「犯人がいるのだったら捕らえなさいな、監察者」

とフォルセットの掛った声で言った。声と違って、男っぽさの残った顔でにやっと笑うと、

「バセロン・オーンが来ていたのよ。奴が犯人だって言うなら、捕まえなさいな」

と言って袖を口元にあててふふと笑うと、

「ああ、怖い。あれが侵食の危機の犯人だっただなんて」

とわざとらしく呟いた。


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