42.腕を縛られていた女性
囚われ腕を縛られていた女性の姿は、今はかすんだ影のようにしか見えない。腕を掴んで引きずられているようにも見える。群衆に棒で殴られ続けているようにも見える。そして、その姿から血しぶきのような物がぱっと散ったようにも見えた。
「おのれ」
アッフェル・フォルトの地を這うような声に、バッセルは身体が震えるような恐怖を覚えた。見ると、こちらに向かって倒れかけた柵をものともせずに、アッフェル・フォルトが一歩踏み出す。シェルフォードが優しいとも言えそうな穏やかな声で、
「助かったのだろう」
と話しかける。
「陛下の軍がここへ到着する前に、妖精王の軍隊がやって来て、おまえの母上を攫って行ったのだろう」
シェルフォードの声がするのだが、目の前の群衆は小さな悲鳴に群がり、真っ黒い影の固まりになっていく。悲鳴が徐々に聞こえなくなる。もともとかぼそかった声が、殴るような打撲音に掻き消されて行く。
「おのれ、バセロン・オーン」
と火のような怒りの声で、アッフェル・フォルトが再び口を開く。バッセルが見上げていると、アッフェル・フォルトの両眼から流れるような涙があふれ出ていた。そして、
「おのれ」
と再び囁くような声で言うと、はっきりした声で、
「バセロン・オーン!」
と言った。かと思うと、アッフェル・フォルトが睨んでいた、街の群衆はまっ白い光に包まれていた。そして、その中央にいた小さな女性の姿は光の球にくるまれて、膨れ上がった、と思ったら一瞬のうちに消え失せた。と、同時に、街の群衆も消えていた。
びりびりしていた空気も瞬時に消えて、バッセルは腕の鳥肌を両手でこすった。目の前には、大通りがあった。風で砂が舞う、無音の街外れがあるだけだった。月明かりに照らされた公園の向こうに、まるで絵画のように街の高層の建物が明かりを灯していいるのが見えた。
バッセルが、今のが、アッフェル・フォルトの過去だったんだ、とぼんやしながら道を見ていると、目の前の柵が目に入った。ついさっきまで倒れかけていた柵は、美しい真新しい蔓草模様の鉄柵に代わっていた。優美な柵には左右に開く扉があって、今は、大きく開け放たれていた。そこは大通りに面した入口で、振り返ると、低木の茂る彫像が美しい庭があった。奥に続く回廊が、整った木々に見え隠れし、その奥へと続いている。廃墟はどこかに消えていた。バッセル達の出て来た場所は、小さな池の端だった。脇には見えない窪みがあって、昔の排水溝があるのだろう。そこから出て来たのだった。
そう言えば、とバッセルは、王宮の使者のアルヘルストが言っていた言葉を思い出した。アッフェル・フォルトの住んでいた屋敷に、王弟殿下が歌姫を匿っている、と言う話を。もう、何日も前に聞いたような気がするが、昨日の夜に聞いた話だ。だからこそ、アッフェル・フォルトはここへ向かって地下水道を歩いたのだ。そして、たぶん、もともと排水溝があると知っていたから、無事にここに出て来れたのだ。知っていたから、アッフェル・フォルトは駆け足で、ここに向かって来たのだろう。目の前の、王弟殿下の恋人のお屋敷は美しかった。あの、荒れ果てた屋敷の様子は微塵もない。小さな子供と共に王家に囚われた女性が住んでいた、荒んだ屋敷は、くずれかけたあの建物は、どこにもなかった。
と再び、群衆のざわめきが聞こえて来た。バッセルが驚いて振り返ると、繁華街の方から人がやってくるところだった。バッセルがはっとして横のアッフェル・フォルトを見上げるのだが、アッフェル・フォルトは堅い声で、
「今の気配に驚いて出て来ただけだろう」
と言った。つまりは、本物だと言うことだった。バッセルは、目を皿のようにして人々を見る。松明の変わりに覆いのある蝋燭を手にしている。バッセルはそれでも、その中央にあのかぼそい声の女性がいないか、必死になって探してしまう。殴られる前に助け出して、アッフェル・フォルトが悲しみに怒り狂う前に、と目を皿のようにして見ていると、脇で、シェルフォードが、冷静な声で言った。
「おまえの母上は、風が運んで行ったんだ、と聞いてた」
アッフェル・フォルトに話しかけていた。アッフェル・フォルトは、苛立った、でも、理性のある声で、
「さっきの通りだ。光と共に全部が消えた」
群衆も、とバッセルは気がついた。街の人々は何であんなに狂ったようになってしまったのだろう、と思いながら、徐々に、さっきの緊張が肩から抜けて、いろいろ頭が回り始めた。が、アッフェル・フォルトが、
「母上だけを森の奥へと思っていたら、全部が行ってしまったんだ」
と低く嫌な事を思い出したと言うような声を聞いて、思考が止まった。
イメージはイメージにすぎない。とバッセルは習った。実際、恐怖に胸がつぶれるような思いをすることがあっても、殴るイメージが自分を強打することはない。けがもなければ、痣もない。
「妖精王の力だろう」
と言うシェルフォードの声に、アッフェル・フォルトは皮肉な声で、
「未だに、森のどこを探しても、母上はおろか、街の人も見つからない」
「奥の妖精の王国で、お母上を痛み付けた罪を贖っているんだよ」
「冗談でも、妖精の王国があると言うなよ」
「あるんだよ」
「おとぎ話だ」
「本当にあるんだよ」
「シェルフォード、おまえは」
と何か諭すような事を言おうとしたのだろう。が、シェルフォードはその先を言わさず、
「おまえは信じたくないのだろう。自分が人外の力を使っている、と。だから、妖精の王国が見えない。妖精の王国を信じられるようになれば、向こうから、妖精王の使者が訪れるんじゃないのか」
と言った。アッフェル・フォルトは何も言わなかった。シェルフォードは、
「おまえの『妖精はおとぎ話だ』と言う信念が、おまえの母上と妖精の王国を、人間から護っているのかもしれない。森の奥の妖精の王国に住むおまえの仲間を、おまえは無意識に、人々の目からおおい隠しているのかもしれない。そして、近来まれに見るほどの、妖精の被害が無い日々を、我々は享受しているのかもしれない」
最後は言い聞かせるような言い方だった。
「消えたんだ」
と言うアッフェル・フォルトの執拗な声に、バッセルは、慌てて言った。
「あんなに怖い人々なら、森から出てこない方が良いかもしれない」
あの目の赤い、狂ったような姿は、見ているだけで怖かった。だが、アッフェル・フォルトは、
「あれは、子供目線だ。ああいう風に見えた、と言うだけだ」
「でも、あんな、よってたかって女性を痛みつけて咆哮を上げるような人達ですよ! 狂っていないはずが無い!」
とバッセルが言いきると、アッフェル・フォルトが悲しそうな目で、
「病を呼んで街の子供を死なせた女に、街中の人々が、怒り狂っていただけだ」
と言った。バッセルは、はっきりした声で、
「病を呼べる人間はいません」
「だが、病を誘うような事はできるさ」
「できません」
横で拳を握りしめて見上げるバッセルを見て、
「そうだな、できなかったのかもしれない」
と言った。そして、
「ただ、悲しみの歌を歌っただけで、心を病んだ人々を造っていったんだ」
とはっきりした声で言った。バッセルは、おぼろげながら思い出した。
歌は人々の心をむしばむ、と言う話だ。かつて、王都を騒がす美女がいた、と言う話で始まる逸話があった。妖精王を惑わすほどの美貌に、人々の心をとろかすような声を持つ女性がいたと。その、おとぎ話は、声が人々をむしばんで、病に伏せるようになり、王が軍を持って追い払う、と言う風に結ばれるのだが。
「森で暮らしていればよかったんだ。娘の為とかなんとか言って、街に戻ってきたりしなければよかったんだ。あのまま逃げ続けていれば」
と言う、アッフェル・フォルトの声を聞いた。
バッセルは再び後ろの森を見た。ついさっきまで、そこには樹海があって、その向こううに崩れかけた回廊があった。鬱蒼としていて人気が無かった。忘れられた、壊れた館のようにしか見えなかった。アッフェル・フォルトはこの屋敷にいた。柵の中に。囚われていた、とバッセルは思った。
「ここは、王弟殿下の御屋敷ですよね?」
と言うバッセルの言葉に、アッフェル・フォルトが、
「その前は、前王の街の離宮だったそうだ」
とだけ答えた。
バッセルは、前王に幽閉されていたんだ、と思った。そして、それなのになぜ、人が大事だと言えるのだろう、と怖いような気持ちになった。アッフェル・フォルトはあんな人間達を見て、なんで、監察者になって、人間を護ろうなんて思ったんだろうと思うと、その気持に恐怖を感じた。優しさや、暖かさではなく、何か暗いものがあって、監察者になったのでは、と思えてくる。アッフェル・フォルトを信じる心が歪んで行く。自分の気持ちが怖かった。報復のためではないか、と言う気持ちが湧きあがってきて、人間を好きになるはずがない、と思ってしまう。
そして、ふと、シェルフォードが横にいる意味に気がついた。この事実を知っている人間が、アッフェル・フォルトの心を信じられるはずがないと思ったのだ。優しさや、暖かさが、人間に向かうはずだないと思ってしまう。シェルフォードが四六時中横で見張っているから、みんな安心しているんだ、と思った。
その時、ふいに「宝なんだ」と言うアッフェル・フォルトの声が脳裏によみがえってきた。怒って、怒りもあらわに真っ赤になって、何で、自分の命が一番大事だと思わなければならないんだ、と怒鳴ったアッフェル・フォルトの声を思い出した。バッセルは、心がしぼんで行くのを感じた。光と共に人が消えたのを見た。怒りと共に人を消したのを見た。アッフェル・フォルトは、あの狂った人間の憎悪を乗り越えたと言うのに、そのアッフェル・フォルトを信じられなくなっていく。そう思うと、悲しさよりも、痛さを感じた。痛さを感じるほど、アッフェル・フォルトの優しさが信じられない。それがとても辛かった。どこかで心が怯えていた。随分前に聞いた、「自分なら、恐怖の神を造るだろう」、というアッフェル・フォルトの言葉を、何の脈略も無く、こんな時に思い出さなくても良いのに、と言うようなタイミングで思い出す。
バッセルが、自分の思いに途方に暮れていたのはほんの瞬きするほどの間だった。アッフェル・フォルトとシェルフォードは、気づかないのか、周囲を見て、話していた。
「この柵の様子じゃ、この中には、誰もいないな」
とアッフェル・フォルトがぼやくように話している。王弟の下にいる歌姫の事だった。シェルフォードが、もっともだ、と言うように頷いて、
「やはり、広場の方なんだろう」
と言い、さて、と言うように二人は顔を見合わせた。その時だった、
「あの、銀の監察者様ではありませんか?」
と言う声がした。




