36.春の祭りに掛けているんです
食堂の通りに出ていたテーブルのクロスはまっ白で新しかった。二階の窓枠は塗りたてのように綺麗に輝き、伸びた庇は縁取りの金の飾りが光ってみえた。真新しい。この祭りの為に準備をしていた、と言うのはきっと嘘ではないのだろう、とバッセルは考えた。アルはさらに、
「旦那様は気の弱い方です。お嬢さんが全てを、必死になって切り盛りしているんです。この春の祭りに掛けているんです。どうかこの通り、お願いでございます。あの紐をどけるようにご指示をお願いいたします」
と再び言って、深く深く頭を下げた。
アッフェル・フォルトは考え込んだようにアルを見た。アルはすっと顔を上げてアッフェル・フォルトの目を覗き込むように見続けた。しばらく、そのまま動かなかった。アッフェル・フォルトはその目を見たまま、
「バセロン・オーンと言うのがいて、私たちが探している男なのだが。彼が捕まったのなら、紐を解こう」
と言った。アルは睨みつけるような目になった。アッフェル・フォルトはさらに、
「地下道にいた可能性がある。そこからどこに出て行ったのかが分かれば、すぐにも捕まえられるだろう。それまでは待ってほしい」
と言うと、アルは身じろぎ一つしなかった。
アッフェル・フォルトはふっと笑った。
「ま、あのお嬢様の事を思うと、いたたまれないのかもしれないが、慣れているんだろう? 嬉しいんじゃないのか、あの元気の良さが?」
と、どこのおやじだと言いたくなるような事を言う。しかし、アルは全く動じず、
「もしも、捕まらなかったら?」
と話を戻した。アッフェル・フォルトは静かに、
「祭りも中止になるかもしれないな。紐どころではなくなるだろう」
と答えると、アルの顔から血の気が引いた。
「そうならないように、祈っててくれ」
と言うと、アッフェル・フォルトは草原に目を向けた。
テントを張っている人々が煮炊きを始めたのだろう。細く煙の筋が昇り始めた。明るいうちに夕食の準備を始めたようだ。
「もちろん、そうならないさ」
とアッフェル・フォルトが低く言うと、アルは、
「そうでございますよね。天下の監察者様がいらっしゃる王都なのですから」
と乾いたような声で言った。
そして、アッフェル・フォルトは、ふいに、外壁のそって続く小道を歩きだした。アルは立ち止ったまま動かなかった。バッセルは、アルを見ていた。顔色が青ざめているように見えた。と、後ろからシェルフォードに肩を押されて、慌ててアッフェル・フォルトを追い掛けた。
アッフェル・フォルトは、斜面の上の細い小道を歩き、軽く手を振る。振った先には検証者が二名立っていた。バッセルが近づくと、街壁の下に黒々とした穴があった。地下水道の王都の出口がここにあり、灰色のフードを深くかぶった検証者が、人が入れないように見張っていた。振り返ると、裏口の木戸に手を掛けたままアルがこちらを見続けていた。
「もう、誰も出て来ないのか?」
アッフェル・フォルトが検証者達に聞くと、二人は姿勢をただした。が、特に緊張した様子もない。鎮静者達と違い、結果を確認しては記載文を書きあげていくせいか文官的で熱さが無い。声も動きも淡々としていた。
「来ていません。我ら検証者が出た後は」
と答えると、アッフェル・フォルトは脇に立って静かに下を見下ろした。
王都の下を流れて来た水は、つんと鼻を覆うような異臭がした。外壁の下に大きな穴が開いていて、草原の中を流れて行く。遠くに流れる大きな川に合流するのだが、今は下をちょろちょろと流れるだけだ。異常に浅い。くるぶしまでの深さしかない。上澄みは綺麗な水なのだが、縁に着いた汚れが酷い匂いを放っていた。
人一人立ったまま歩けるほどの大きな穴は、王都の地下への入口だった。アッフェル・フォルトは気軽に、その酷い匂いのする溝の脇へ立ち、水音を立てて飛び降りた。本当に、くるぶしまでの浅さだった。と、アルが慌てて近寄って来た。木戸をあけ、走り寄ると、検証者達に押さえられながら覗き込む。何か言おうとしたようだった。しかし、アッフェル・フォルトは、ただ、
「おまえは戻って店の準備だ」
「銀の監察者様」
と言いだす。しかし、アフェル・フォルトは片眉を上げる、と言う顔を作っただけで、
「お嬢様がお呼びじゃないのか。裏から呼び込みをするんだろう?」
とアッフェル・フォルトが本当に信じているのかどうか分からないのだが、しごく真面目な顔で言う。そして、
「あの紐は外せない。いつ、炎のイメージが出てきても不思議じゃない上、本物の火事との見分けがつかない。鎮静者なら分かるだろうが、普通の人では難しい。パニックを起こしたら、イメージはさらに荒れる」
アッフェル・フォルトが、話している間に、バッセルが、溝の中に滑り降りた。匂いが酷く鼻に腕をあてて浅い呼吸を繰り返す。その脇に、シェルフォードが水をほとんどはね上げないで、降り立った。まるで草原の中にいるような、乱れの無い姿で、アッフェル・フォルトの話しをよそに、真っ暗な横溝の奥を見つめる。王都の地下をめぐる、大下水道がそこにあった。
「あのご令嬢には、申し訳ないが、しばらく我慢していただこう。なだめてくれよ?」
と言ってアッフェル・フォルトはのほほんと微笑んだ。
さっきの様子とまるで違う。アッフェル・フォルト様は、女性に甘い、とバッセルは、腕を鼻にあてたまま考えた。二次災害を避ける為にも、多くの人が我慢していると言うのに、その上、まるで何もしていないかのように、監察者達を罵るのを見過ごすなんて。と思いながら。ふと、もしも侵食の危機がなければ、きっと今頃は、大勢の客があのテーブルを埋めているのだろうな、と思うとやるせない気分になった。
森の近くに住む人々も、祭りの前だと言うのに、出歩くのを制限されて、いつ終わるか分からない警戒の日々を送っている。これもそれも、バセロン・オーンが侵食の危機を作ったせいだ。と思ったところで、どうやって、侵食の危機を作ったのだろう、と考え込んだ。沢山の小説をどこかで書いた。でも、それを読んでイメージにするには大勢の人がいる。その小説はどこにあるのか分からない。
本当に、バセロン・オーンが犯人なのだろうか、とまで思えて来た。暗い下水の穴を見る。この奥に、もっと別の真犯人がいるとか? だから、アッフェル・フォルト様はここに降りて来たのだろうか? なんて事を考えた。
アルは何か言うのを諦めたらしい。しかし、それでも遠慮がちな声で、
「無理を承知でお願いにあがっただけです。なのに、わざわざ、足をお運びくださいまして、ありがとうございました。無理だと言えばいいだけのところを、わざわざ来て下さったのですから。きっと、お嬢さんも、感謝する事と思います」
とさっきの勢いと違って丁寧に言ったのだった。
バッセルは、アルの声を聞きながら顔を上げた。夕陽が見えた。空はオレンジ色になり、紫色の夜空に変わり始めていた。アルの顔に夜の帳の影が降り始める。アッフェル・フォルトが首を左右に軽く振って、何でもないと言うように、軽く片手を振っているのが見えた。と、その手の中には明るい火が乗っていた。穴の近くは薄暗かった。ぽっと照らされたアッフェル・フォルトの顔は、どこか人離れして見えた。
アッフェル・フォルトは怖いような微笑を浮かべ、
「それにしても、ラッキーだったな。ほんものの火事じゃなくて。裏から逃げれるとはいえ怖かっただろう。何もかも持って逃げるには狭い通路だ。イメージだけで良かったな」
と遠くにいる人のような声で言った。アルはしばらく沈黙した。下を見下ろす顔は暗がりになって表情が分からなかった。しかし、低い声で、
「本当に、幸運でした。お嬢様に叱られて、火事の為にバケツリレーをした程です。鎮静者の皆様がやってきて下さったので、踏ん張りも効いたと言うもの。みなさまのお陰でございます」
と答えた。アッフェル・フォルトは、喉の奥で笑うと、
「そうか、みなさまのお陰か」
と言って、アルが答えるのを待たずに、
「全てが終わったら、店に飲みに行こうか。祭りは盛大に、賑やかになる」
と言って、片手を上げた。そうして、アッフェル・フォルトは、バッセルやシェルフォードに、頷くと、地下下水道の中に目を向けて、
「また、会おう」
と言って、歩き出す。すると、アルが、
「本当に、ありがとうございました」
と言い、低くかぼそく音だけが、三人の背を追い掛けて来たのだった。
「ありがとうございます。そして、申し訳ございませんでした」
と臭みのある溝に消える監察者達に向かって、再びアルは、低く声をかけるのだった。低すぎて、聞こえないかのような声で。そして、灯りが溝の中で角を曲がったのか見えなくなり、明かりもぼんやりとして消えてしまうと、腰を起こして立ち上がった。
アルは検証者達に深々と礼をすると、裏の木戸へと戻って行った。そこには、店で開店の準備をしていたはずのお嬢様がいた。遠くに立つ検証者達を眺め、囁くような声で、
「あれが、アッフェル・フォルト様?」
と聞くと、
「そうだよ。あの方が、アッフェル・フォルト様だよ」
とアルが言い、さらに、
「もう全部分かっていらっしゃるかもしれない」
と不安そうな声を出した。
「何を弱気な」
と女性が、からっとした声で言うと、
「溝の事に気づいていらっしゃる」
「当然でしょ。何でも読む監察者なんだから」
「そうでもない、と言う話だよ」
「そんなはずないでしょ! だいたい、私達が何かしたわけじゃないわ。向こうが勝手に行ったのよ」
「でも、もし、すぐにオーンを捕まえてしまったら」
「大丈夫よ。オーンは天才なんだから」
と言ってから、
「店はしばらくは開けられないのね」
とがっかりしたように呟いた。アルは慰めるように、
「祭りが始まったら来て下さるそうだ」
と言うと、
「なら、大繁盛じゃない! アッフェル・フォルト様が見に来た店だと宣伝するわ! それをネタに、はやらせなきゃね」
と言って笑った。アルは苦い顔で、
「全てが分かったら、とてもじゃないが店は出せないんじゃないかな。たとえ許されたとしても、祭りができるとは思えないよ」
「許されるわよ。だって、これは、バセロン・オーンの仕掛けなんだから」
と女性は、きっとした声で言った。そして、空を見上げると、大きな月が掛っていた。顔に掛った月明かりに遠い目をして、
「祭りの日には奇跡が起きるのよ。そう決まっているんだから。上手くいかないはずないじゃない」
と呟いたのだった。




