後編
数日後、伯爵家の従僕がチェルルを訪ねてきて、次の週の木曜日に伯爵邸に来てほしいと告げた。道具もチェルル自身も、伯爵家の馬車で運んでくれるという。
従僕はさらに、こう付け加えた。
「先日、エドルウルフ様がこちらでコーヒーをお飲みになりましたが、お客様にお出しするのも、その時と同じものが良いとのことです」
「わかりました。そのつもりで準備しておきます」
返事をしたチェルルは、従僕が帰った後で日誌を開いた。
石臼が一つしかないので、中くらいの粗さで豆を挽くことしかできないが、煎り方と湯の温度、抽出にかける時間で味は変わってくる。常連の中にはそういったことにこだわる人もいて、希望を聞いて淹れ方を変えていた。
エドルウルフが来た日に使ったコーヒー豆は、やや深煎り、と日誌には記されている。特に希望はなかったので、湯の温度は高め、抽出速度は普通。
「まあ、同じっていうなら、なるべくそうなるようにするけどね」
チェルルは肩をすくめた。
馬車から降りると、チェルルは息を吸い込みながらその建物を見上げた。
ウィウムレッド伯爵邸。大階段の上に赤レンガの建物がそびえ立ち、いったいいくつ部屋があるのか窓がずらりと並んでいる。屋根の上にも、洒落たひさしつきの窓がずらりと並び、中央のてっぺんには円柱の形の塔がつき出していた。立派な大庭園を上からぐるりと眺めるためのものだろう。
仕事で来たにすぎないチェルルは、脇の方の使用人用入り口から中に入る。後ろから、商売道具を入れた箱を抱えた従僕がついてきた。
厨房には、昼食の準備をしている料理人たちがいて、チェルルが入っていくと一斉に彼女を見た。
貴族のお屋敷で働いているような人々は、町で商売している自分とは気構えも苦労も違うだろう……と、チェルルは緊張してぺこりと頭を下げる。
「初めまして。クグリスでコーヒー・スタンドをやっている、チェルル・アルダと申します。一日だけ、失礼します、皆さんのお仕事を邪魔しないように気をつけますので!」
「ああ、君が」
料理長らしき男性が何か言いかけた時、執事が厨房に顔を出した。
「伯爵がお呼びです」
彼の指示で応接室に行くと、そこのソファにエドルウルフが腰掛けて待っていた。彼は挨拶もそこそこに、口を開く。
「来たな。従僕から指示は聞いたか」
「あ、ええ。この間と同じコーヒーを、ということだったので、同じくらいの煎り具合の豆を今朝挽いてお持ちしました」
「よし。ミルクも砂糖も花蜜も勧めるなよ。あれ、そのままだ。あれよりもっと苦くてもいい」
「はあ……わかりました」
わけがわからないまま、チェルルはうなずいた。そして尋ねる。
「お客様って、お年寄りだとあまり強い飲み物をお出しするのは心配なんですが」
「俺の年上の従兄弟だ、まだ若い」
「そうですか」
「昼食は使用人たちと取れ。お前の分も用意させてある」
「ありがとうございます」
それで会話がとぎれ、チェルルは頭を下げて扉に向かう。
扉が閉まる直前、エドルウルフが笑い含みにこうつぶやくのが聞こえた。
「あいつがどんな反応をするか、楽しみだ」
以前会った時の強引な言動、それに今の様子に、何となく釈然としないものを感じながら、チェルルは再び厨房に行った。料理人やその助手たちがテーブルに昼食を並べている。
「コーヒー屋さん、こっちに座って」
助手らしい女性が椅子を引いてくれ、チェルルはあわてて駆け寄る。
「あっ、ありがとうございます。どうぞ名前で呼んで下さい」
他の使用人たちが次々とやってきて、席に着いた。メニューはチキンのクリーム煮にスープ、そしてサラダとパンだ。
「美味しい……」
面倒で一品料理しかしていないチェルルは、カラフルに並んだ皿やその多彩な味に感動する。
(貴族のお宅だと、使用人さんたちの食事も違うなぁ。それとも、雰囲気でそう思うのかしら)
「なあ、どうしてここに来ることになったんだ?」
使用人たちしかいない気安さからか、さっきの従僕が砕けた口調で尋ねてきた。チェルルは苦笑いする。
「どうもこうも、伯爵に強引に決められてしまいまして」
「強引?」
「強引?」
皆が驚いた顔をして、顔を見合わせた。チェルルはあわてる。
「え、あの、何か変なこと言っちゃったかしら」
「いや、とても大人しい方だから。エドルウルフ様は」
料理人が言う。
「大人しい?」
今度はチェルルが驚く番だ。
「いきなりメイドになれっておっしゃいましたよ。私がお断りしたら、じゃあ必要なときに呼ぶ、領主のためなのだからそれくらいはやれ……みたいな」
「へぇーっ?」
皆がざわざわし、従僕が言う。
「寄宿学校からこの屋敷に戻って以来、そんな風に言われたことないな。父の時はどんな風にやったんだ、と尋ねられて、こうこうでした、とお答えすると、じゃあその通りにやれ、って。ほとんど俺たちの言うがままっていうか」
「ごほん」
執事が咳払いをすると、従僕は話すのをやめて食事に戻る。
「……まあ」
執事が静かに、口を開いた。
「エドルウルフ様はまだ十三歳。偉大なお父上の存在に、萎縮しておられるのかもしれない。我々もあまり、『以前はこうだった』と押しつけないようにせねばな。皆、心に留めておくように」
「はい」
使用人たちが答える。料理助手が、チェルルに笑いかけた。
「でも、チェルルにそんな風におっしゃったなら、何か変化を求めてらっしゃるのかもしれないわ。ここの使用人は全員、エドルウルフ様のお父様の代から変わっていないんだけど、そこへ新たなメイドを雇おうとしたことになるでしょ? お父様のことを知らないメイドを」
「しかし、それで何か変わるか? メイドが直接、エドルウルフ様のお世話をするわけでもないのに」
料理人がつぶやく。確かに、伯爵の世話をするのは従者だ。
「私みたいなのの方が、お声をかけやすかったのかもしれません」
チェルルは適当に返事をしたが、もしかして本当にそうかも……と考えた。
貴族男性の従者には、それなりに年齢も行っていて、人生経験も積んでいるような人物がなるはずだ。まだ十三歳のエドルウルフがそんな従者を新しく雇っても、気後れみたいなものを感じるだけだろう。
コーヒー・メイドと勝手に名付けてチェルルを雇い、コーヒーに関して命令し放題という方が、少なくとも彼の自由に振る舞える。若い町娘な上に、天涯孤独の身だ。すぐに話に乗ってくると思われたのかもしれない。言い方は悪いが、店で会ったときは完全に見くびられている感じがした。伯爵邸では大人しいという話とはえらい違いだ。
「……あの。今日いらっしゃる、伯爵の従兄弟の方って、どんな方ですか?」
尋ねてみると、皆が一斉に顔をしかめた。
代表するように、従僕が口を開く。
「厳しい方だ。わざわざここにいらっしゃって、『エドルウルフの父の時の通りにせよ、何も変えるな。私が時々、確認に来る』ってな」
「領主はエドルウルフ様なのにな……。あ、いや、お若いから自分が助けようとお思いなのかもしれないが」
料理人が首を振る。
そんな従兄弟に、おそらく飲み慣れていないコーヒーを。しかも、苦いものを、という指定。
「…………」
チェルルはスープを口に運びながらしばらく考えを巡らせると、ふと顔を上げて、隣の席の料理人に尋ねた。
「あの……コーヒーと一緒に、ちょっとしたものをお出ししたいんですが、良かったら少し厨房をお借りしてもいいでしょうか?」
チェルルがワゴンを押して入っていった時、応接室には重苦しい雰囲気が立ちこめていた。
「余計なことはしなくていい。お前はまだ学ぶこともあるだろう、家庭教師の言うことを聞いて勉強していろ」
二十代後半くらいの、貫禄のある紳士が、厳しい目つきでエドルウルフに言っていた。エドルウルフは少し視線を下げて、それを黙って聞いている。
「コエンワルド家のパーティには私が一人で出る。お前は当主に手紙を書いておけ。文面は……ん?」
言葉を途切れさせて、紳士が顔を上げた。
コーヒーの香りに、気づいたようだ。部屋の片隅で、チェルルはケトルの湯を粉に注いでいた。
「何だ、この香りは」
「コーヒーです。珍しいので、セネバにも飲んでもらおうと」
エドルウルフが淡々と答えている。この紳士の名がセネバというらしい。
エドルウルフは続ける。
「私が事前に味を試しました。港町の方では流行り始めていると聞きましたが、それだけのことはある飲み物だなと」
「ふん。聞いたことはあるが、そんなに美味いのか」
チェルルは二つのカップを運び、エドルウルフとセネバの前に置いた。 二人は同時に、カップを手に取って口に運ぶ。
セネバが、眉間にギュッとしわを寄せた。
「……これが、流行っているだと? こんな苦」
「美味いでしょう。少し、果実のような香りもしますね」
エドルウルフは表情を変えない。セネバは黙り込んだ。
やっぱりな、と、チェルルは思う。
エドルウルフは、「こんな美味いものの味がわからないなんておかしい」と、セネバにほのめかしたいのだ。自分はこの美味さがわかる、しかしセネバはわからない、自分の方が上だ、と。
父を亡くして後を継ぎ、年上の従兄弟に頭を押さえつけられるようにして暮らしている、十代の若き伯爵。ひとつくらい上に立ってやりこめたい、という気持ちはわかる。
(それで少しはすっきりするかもしれないけど、それは伯爵の事情だわ。私は困るのよ。このセネバという人に、余所で『コーヒーはまずい、苦くて飲めたもんじゃない』なんて言われたら)
セネバが自分で味を調整できればいいのだが、ミルクも砂糖も花蜜も勧めるな、あのままのコーヒーを出せと言われ、自分はそれを了承してしまった。
が、コーヒーそのものに手を加えなくとも、手はある。
チェルルは小さな皿を、二人の前に置いた。
「……これは何だ」
エドルウルフが眉を上げ、チェルルを見る。
チェルルは澄まして言った。
「異国では、コーヒーと一緒にこういったものを食べるそうです。どうぞ」
皿の上には、丸くふわりとしたものがいくつか載っていた。こんがりと油で揚がっている。
セネバはむっつりした表情でコーヒーカップを置き、乱暴にその丸いものを一つ、フォークで突き刺して口に入れた。
「……ん?」
眉間のしわが、ふと消える。
「コーヒーも一緒にどうぞ」
チェルルは控えめに言うと、すぐにテーブルから下がった。
セネバが再び、カップを手に取った。エドルウルフが少し目を見開いて、それを見る。もう飲まないだろうと思っていたらしい。
「……うん。合うな。面白いものが流行り出したことだ」
セネバはうなずいた。
エドルウルフがいぶかしげに、揚げた丸いものをフォークで刺すのを横目で見ながら、チェルルはワゴンを押して応接室を出た。
しばらくして、チェルルはエドルウルフに呼ばれた。セネバはすでに帰り、応接室にはエドルウルフだけが残っている。
「どういうつもりだ」
彼はソファから、じろりとチェルルを見上げた。
立ったままのチェルルは、当たり前のように答える。
「ドーナツのことですか?」
「ドーナツ?」
「庶民の食べ物で申し訳ありません。でも、深煎りの、苦みが強いコーヒーには、揚げ菓子が合うんです。最近ずっと、店で出すお菓子を研究していたので……。貴族の方のお手を汚してはいけないと思って、小さく丸めました。本当はもっと大きいです」
「俺は指示していないぞ」
「コーヒーは、ご指示の通り何も変えていません。伯爵をお助けしたくて」
「俺を? そんなことを俺がいつ」
何か言い掛けたエドルウルフに、チェルルは失礼ながら、指を一本ぴっと立てて見せた。彼が黙る。
「伯爵はなぜ、うちにコーヒーを飲みにいらしたんですか?」
「……執事が持ち帰ったコーヒーが、美味かったからに決まっている」
「逆、ではないですか? 美味しくなかったから、では?」
エドルウルフの視線が逸れた。チェルルは続ける。
「うちの店でコーヒーをお飲みになったとき、半分以上残してらっしゃいましたね。コーヒーの噂はご存じだったんだから、苦いと言うこともきっと知ってらっしゃったはず。どのくらい苦いか確かめて、さっきのお客様に飲ませようとなさった。美味しいものの味がわからない人、っていう風にしたかったんですか?」
「…………」
「苦手なものが飲めないのは、恥ずかしいことじゃないでしょう? でも、コーヒーの評判が落ちたら私が困ります。ミルクも砂糖も花蜜も勧めるなということでしたので、ドーナツを一緒にお出ししました。一緒に食べると、コーヒーも美味しく感じると思うので」
チェルルは一気に言う。
彼女は少し、怒りを感じていたのだ。チェルルのコーヒーを利用しようとしていた、この伯爵に。
そして同時に、従兄弟に言われるまま受け入れようとしている彼に、少し同情して一言言ってしまいたくもあった。
だから、こう言った。
「苦手なまま飲み込もうとしたって、それを嫌いになるだけです。伯爵も、そのままじゃなくていいんです。元の味は生かして、ひと工夫して変えたり、他のものと合わせたりして、自分に合うようにすればいいんです。私はそう思います」
エドルウルフは、少々呆然とした様子で、立ったままのチェルルを見上げていた。
そして、ソファの肘掛けにひじをつき、むすっと言った。
「お前、それは俺のことを言ってるのか?」
「何のことでしょう。コーヒー・スタンドの店主として、コーヒーの話をしただけです」
しらを切ると、エドルウルフは黙りこくる。
怒らせたか、とチェルルが思っていると、彼はやがて視線を合わせないまま、ぶっきらぼうに言った。
「今日はご苦労だった。執事に報酬を渡してある、受け取って帰れ」
「……ありがとうございます」
チェルルはぺこりと頭を下げると、応接室を辞した。
十日が過ぎた。
『チェルル・コーヒー』では、長い棒状のドーナツがメニューに加わった。評判は上々で、深煎りのコーヒーとともによく売れる。
週明けのその日も、チェルルは昼食を簡単にすませて、午後の分のコーヒー豆を石臼で挽いた。そろそろ開店時間か、と、カウンターの向こうのカーテンを引くと――
店の前のテーブルに、金髪の少年が足を組んで腰掛けていた。
「……っ伯爵……!?」
チェルルはあわてて、窓を開ける。
「ど、どうなさったんですか!?」
「どうも何も、客だ」
エドルウルフは立ち上がりもせずに、コインを見せる。
「コーヒー」
「え、あ、はい」
先日の文句をつけにきたのかと思っていたチェルルは、何でわざわざ苦手な飲み物を……と思いながらも粉を計る。
「この間より苦くないのにしますか?」
「いや、同じでいい。でも、ミルクを入れたやつを試したい」
おっ、と思いながら、言われたとおりにする。
「どうぞ」
ミルクをたっぷり入れたコーヒーと、念のために砕いた砂糖も小皿に入れ、スプーンを添えてテーブルまで運んだ。クグリスでは砂糖は固まりで売られているので、砕いて使う。
カウンターの中に戻り、布フィルターを洗いながらチラチラ見ていると、エドルウルフは少し飲んでみてから、砂糖を少しずつ入れて味を確かめている。
「このくらいがいいか……」
つぶやくところを見ると、砂糖は少な目が好みのようだ。
「……使用人たちに、話を聞く機会を持った」
急に、彼はカップを見つめたまま話し出した。
チェルルは作業をやめ、耳を傾ける。
「今までは父の真似ばかりしてきたが、普段の生活ですら、気になるところもある。どう変えたらすっきりするだろうかと、意見を聞いて、色々試させている」
「そうですか」
チェルルはうなずく。あの使用人たちなら、きっと柔軟に対応するだろう。
「苦手なまま飲み込まず、元の味は生かす。ひと工夫して変えたり、他のものと合わせたりして、自分に合うようにする……だったな」
独り言のように、彼は言う。
「次は、あの従兄弟だ」
チェルルの言った言葉がどう影響したのか、チェルルにはいまいちはっきりしなかったが、彼が苦手なものを苦手なままにしておく気がないということだけは、何となくわかった。
急に、エドルウルフは顔を上げてチェルルの方を見た。
「やっぱりお前、うちのメイドになれ」
「は? いえ、なりません」
チェルルは即座に断る。
「先日、お断りしたはずです」
「すぐじゃなくていい。いつか俺のところに来い。この町で十分商売したら、次は俺のところに」
「そんな時が来るかどうかすらわかりません!」
「三年後くらいかな」
「話、聞いてます!?」
◇ ◇ ◇
そうして、月日は巡る。
「そろそろ、俺のところに来てもいいんじゃないか?」
エドルウルフは、カウンターからのぞき込んだ拍子に、ひさしに頭をぶつけた。
「痛っ」
「ああもう、すっかり背が伸びたんですから気をつけて下さい……で、何の話でしたっけ」
注意深く粉を計っていたチェルルは、彼の方をちらりと見てから手元に視線を戻す。
「もう、四年だぞ? 店も存分にやっただろう」
「まだ足りません。全然足りません」
「俺は毎日、コーヒーが飲みたいんだっ。あの、少し酸味があるやつがいい」
「浅煎りの、少しぬるめのお湯で淹れたのがお好きなんですね。今度伺うときはそれにします」
「じゃあ明日」
「お客様がいらっしゃるんですか?」
「誰か呼ぶ」
「急にはダメです。ちゃんと、常連さんに予告できるだけの日にちをとって下さらないと」
「……相変わらず要求の多いコーヒー・メイドだな……」
「メイドじゃありません!」
客たちが、二人の会話を笑いながら聞いている。
この数年の間に、二人のやりとりは美味しいコーヒーや菓子とともに、店の名物となっていたのだった。
【コーヒー・メイドの流儀 おしまい】