黒板の裏のソースコード
赴任から一週間。佐藤花子は早くも、理想と現実の分厚い壁に叩きつけられていた。
職員室のデスクに山積みになった提出物、ため息ばかり吐く同僚教師たち、そして何より、担当する1年B組の生徒たちの冷めた空気。誰も教師の言葉なんて本気で聞いていない。ただ時間をやり過ごし、卒業という切符を機械的に受け取るためだけにこの箱の中に座っている。
「……どうして、誰も真っ直ぐ向き合ってくれないんだろう」
放課後の静まり返った教室で、花子が黒板を消しながらポツリと呟いたときだった。
ガラリ、と後ろの戸が開いた。
そこに立っていたのは、くたびれた私服姿の山田太郎だった。手には紙コップの安っぽいコーヒー。授業もないのに、相変わらずこの校舎のどこかを我が物顔でうろついている「謎の主」だ。
「向き合ってるからだよ、佐藤先生」
山田はフッと笑いながら、教室の真ん中へと歩いてきた。
「は……? どういう意味ですか」
「あんたはさ、『生徒を正しい道に導かなきゃならない』っていう正義感で向き合ってる。でも、生徒側からすれば、それは『自分の領域に土足で踏み込んでくる管理者のノイズ』にしか見えねぇんだよ」
山田はひょいと教壇に上がり、黒板の前に立った。そして、チョークを手に取り、スラスラと奇妙な数式ではなく――人間の心理的バイアスを表す図式を書き殴り始めた。
「人間なんてのはな、突き詰めれば単純な入力と出力の機械だ。特に多感な時期のガキどもはな。『強制される』と反発し、『放置される』と不安になる。この矛盾したエラーを綺麗にコンパイルしてやるのが教師の仕事……いや、システム管理者の仕事なのさ」
「システム管理者……? ここは学校です、学校であって、あなたの実験室じゃない!」
花子はカチンときて言い返した。だが、山田は微動だにせず、ただ冷徹で鮮やかな眼光を花子に向けた。
「学校が実験室じゃないって誰が決めた? 敷地があって、人間が群れていて、ルールがあるなら、そこは立派な閉じた系だ。そして、あらゆるシステムは――ハックできる」
山田はコーヒーを一口飲み、窓の外に目をやった。その視線の先には、校舎のすぐ隣に建つ、あの小さな事務所が見える。高校生のときに勝手に建て、そこからずっとこの学校の生態系を観察し続けている彼の城だ。




