表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ガロア剣聖伝  作者: 北見りゅう
第十六章・第一部完結
95/257

君は遠く去りて4

 その夜の深更

 ティプテ・ワルドを突然の腹痛が襲った。

 俄かには信じ難い容態の急変だった。


 珍しく食が進んだ夕餉の後、医師の許しを得て、一刻ばかりも寝台を下りていた。

 安楽椅子に腰掛けて、寝てばかりの体を伸ばしたのである。


「気持ちいいわ。

 いつもよりもたくさん食べられたし、ほらこれも」


 温めた生乳も飲み干した程で、侍女頭も喜んでいた。


「まあ、お召し上がりになれましたのね」

「きっと、もうすぐ治るんだわ。

 ね、セイズ。


 ランスフリートさまがお帰りになられたら、少しでもいいから、お立ち寄り下さらないかしら。

 お願いしてみて」


「かしこまりました。

 お屋敷を通じて御取り計らいを願い出てみます」


 セイズは、その願いが届かないであろう事は判っている。しかし、笑顔で頷いた。


「もしかしたら、御文が届くかもしれません。

 お早くお休みになられて、明日をお楽しみに」

「そうね。

 寝台に戻るわ。明日、御文を頂けないかなあ」


 夜が深くなったあたりで、住み込みの医師が緊急に呼び出された。

 これまでに無い苦しみようで、腹部の激痛を訴えている。

 部屋に駆け込んできた小姓の言葉で、医師も寝床から跳ね起きた。


「これは――下血かっ」


 容体を一見して、彼は顔から血の気を引かせた。

 大陸の現代医学では、手の施しようが無い。下血は患者が死に至る恐るべき症状だった。



 安らかな浅い眠りの中にいた時、ティプテを包んでいたのは幸福感だった。

 夢を見ていた。


 遥かに地平線を臨みつつ、心地よい南の風に吹かれて、愛するランスフリートと草原に居る。

 土の感触は柔らかく、足元でよそぐ草は夏の匂いを放っていた。


「見なさい。

 愛の女神アロアディーネ神がおわす」


 空を仰いだ彼が指をさす。

 見ると、手に象徴である黄金の柄杓ひしゃくを持った、ふくよかな女性の半身が、青空の中に浮かんでいる。


 水と芸術、愛を司る女性神に対して、ティプテは尼僧らしく跪いた。


「馬を遣わしましょう」


 優しい声が響いてきた。

 同時にいななきがし、ティプテのすぐ横には栗毛の若駒が姿を現していた。

 その背には、いつのまにかランスフリートが跨っていた。


「遠乗りに行こう。

 誓いの通り、南へ走るぞ」


 彼は言い、ティプテに手を差し伸べて来た。

 約束が果たされる時が来た。


 喜びに胸を満たされて、彼女も手を伸ばした。

 指先が触れ合ったと思った瞬間、体が浮いたような感覚にとらわれ、馬上の人となっていた。


「ランスフリートさま」

「しっかり捉まっているんだぞ、ティプテ」


 恋人は鞭をあげ、ぴしりと音をたてた。

 若駒は再び嘶き、土を掻き蹴って走り出した。

 ティプテは体が揺れ、風が強く身を叩くのを感じた。


「速いわ」


 草原の風景が矢のように背後へ流れ去ってゆく。

 恋人の広い背にすがりつき、しっかり抱き着いて、ティプテは目が眩む思いを味わっていた。


「ランスフリートさま、もう少し速度をゆっくりになさって

「怖いか」


 答えた声は、だが。

 ランスフリートのそれではなかった。

 嘲笑をはらんだ嫌な響きの声。驚いた彼女を、騎手が肩越しに振り向いて、見つめた。


「オ、オレンジルさま」


 いったいいつのまに。

 確かにランスフリートが側に居て、彼とともに馬を南に走らせたはずだったのだ。

 が、なぜか鞭をあげ、手綱をとっているのは、あの遠縁にあたるとかいう若者だったのだ。


「どうして。

 ランスフリートさまは」


 慌てて訊いたが、オレンジルの返答は無かった。

 衝撃のあまり手を離した瞬間、ティプテは馬上から振り落とされた。悲鳴をあげ、助けてと叫んだ時。


「ティプテさま、如何あそばされました」


 女性の声がして、自分が病室におり、寝台に身を横たえていたのだと知った。


「夢――嫌だわ」


 とんだ悪夢を見たものだ。

 息をついてから、自分を心配そうに見ている侍女に気が付いた。

 気に入りのセイズは勤めを終えて下がっている。別の当番らしい。


「何でもないの、夢を見ていたみたい。

 ねえ、お水を頂けるかしら」


 人は目覚めの時、喉の渇きを覚えるものだ。ティプテも同じ事で、一杯の冷水を求めた。


「かしこまりました」


 侍女は、寝台脇に置かれた玻璃製の水差しを手にとった。

 介添えの手が静かに、病身を支えてくれる。冷たい感触の杯を唇にあて、渇きを鎮めると、悪夢にうなされた気分もようやく落ち着きを取り戻した。


 これでゆっくり眠れる、とティプテは思った。

 朝になったらセイズに言って、以前ランスフリートから貰った二通の短い文を見よう、とも考えた。


 懐かしい思い出がある、彼直筆の機嫌伺いに目を通せば、会えない寂しさにも負けないでいられるのだ。

 が。


 再び眠りにつくはおろか、杯の水を全て飲み終える事も、ティプテには出来なかった。


「あっ」


 手から食器が転げ落ち、水を撒き散らしながら床で砕け散った。

 その割れる音に、侍女の


「ティプテさまっ」


 動転したような悲鳴が重なった。

 判ったのはそこまでである。

 後は、身辺に注意を払えなくなった。



「下血だ、間違いない」


 医師らが、これだけは避けたいと考えていた、内臓からの出血症状が病人を襲っている。

 当人に意識は無いものと思われ、呼びかけにも応じない。


 たちまち、屋敷中の勤め人が大勢、駆け付けて来た。

 侍女頭のセイズなどは、苦しむ少女を見て


「ティプテさま、お気を確かにッ。ティプテさまぁっ」


 半狂乱の体で叫んだ。

 医師が咎めた。


「落ち着きなさい。

 看護役が狼狽えて何とする。


 気を落ちつけて、ティプテどののおすそを清めて差し上げなさい」


 指示されて、侍女頭は我に返ったように表情を引き締めた。


「湯。

 誰か、湯と清潔な布を。

 幾らあっても宜しい、屋敷のあるだけをここへ」


 彼女は背後を振り返って叫んだ。

 折よく扉が開き、新しい清潔な敷布を持って入りかけていた侍女が頷いた。


 同僚へ、台所から湯を運ぶように伝え、さしあたり運んできた布類の中から、手頃なものを一枚、侍女頭へ手渡す。


 受け取ったセイズは、拭えるかぎりの流出物を拭い取りつつ、他の者を指揮して敷布を取り替えさせた。

 ほどなく、大ぶりな蝋燭が何十本も持ち込まれ、次々に火が灯されていった。


 ろうの燃え溶ける独特の臭いがたちこめ、下血の臭気と合わさって、室内は明るくなった代わりに異臭で満たされた。


 誰も気に留めてはいない。皆が、ティプテの急激な症状増悪に神経を集中しており、手当ての為に騒然と立ち働いている。


「お薬は」


 セイズが訊いたとき、医師は水薬の投薬を試みようとしているところだった。

 彼は侍女頭へ手伝うよう、目でしめした。


 抱き起こされたティプテの唇に、薬の入った器が近づけられる。

 が、患者は人事不省に陥っており、飲まされた薬液はことごとく唇の端からこぼれた。


 ティプテは一滴も飲み下す事が出来なかった。

 セイズは眉を厳しく寄せて、腕に抱いた少女の小さな頭へ顔を近づけ


「ティプテさま。

 しっかりあそばして。お薬を」


 必死の体で声をかけた。

 反応は無かった。


 ティプテは目を閉じたまま、せいせいと苦しげに息を吐いているだけで、返答する気力は尽きていると見える。

 もはや苦痛を表現する力さえも失われているのであろうか。


 医師は再びの投薬を断念した。

 患者に意識があれば、たとえ気休めでも薬を飲む事で生への希望を持ち直し、重体を脱する場合がしばしばある。


 期待は、薬効そのものよりも、気力の回復にかけられたのだったが、当人に飲む力が残っていないのは明らかだった。


 下血はまだ続いており、体内からは相当量の血が流失したものと見えた。

 彼の医学知識は、患者を救う手だてが無い事を告げていた。


 セイズは、しかしまだ諦めなかった。


「お願いでございます。お薬を召して下さいませ。

 どうか、お気を確かに。

 ランスフリートさまにお目にかかるのでは、ございませんでしたの」


 切り札を出して懸命に励ます。

 ほんの微かながら、患者の瞼がぴくりと動いた。


 唇も動いた。

 ごく微妙な動きは


「お帰りなさい」


 呟いていると思わしい。

 セイズは盛んに頷き


「ええ。

 ランスフリートさまは、お帰りあそばされましたわ。

 ティプテさまの元へ、お戻りになられたのです」


 医師へ視線をやった。

 男の掌でティプテの手を握ってくれ、と。


 彼は察して、要請に応じた。

 死に臨む少女の手が優しく包まれた時。


 満足そうな微笑が浮かんだのを、セイズは確かに見た――ティプテの、最後の笑顔。



 深夜過ぎ。

 ティプテ・ワルドは、十七歳の短い生涯を終えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ