祖国のために3
前線が崩れつつある。
物見台から戦場の様子を見つめていたジークシルトは、近侍する旗本隊へ視線を返した。
「出るぞ。
その方らも来い」
「応」
全員の反応も鋭い。
放置しておけないとの意は、主従の一致するところだった。
飛び降りんばかりの勢いで梯子を降り、馬曳けと口々に叫ぶ。
直ちに用意された乗り馬に跨るや、一斉に鞭をあてる。
大剣将が知れば飛びついてでも止したであろうが、今ジークシルトの身辺に、彼の出陣を制する者はいない。
皆、止めるどころか、先を争って駆け出して行く。
王太子を先頭に、軍馬の集団は砂塵を蹴散らして塁門をくぐリ抜けた。
主の判断は正しいと、ダオカルヤンは思う。
最も統率力に富む総司令官が自ら出馬し、最前線の弓矢に身を晒す事が、先刻の例にある通り、恐慌を来した兵士達の精神を安定させ、軍の瓦解を食い止めるには有効なのである。
「道を開けよ。
殿下の御成りである」
馬上から、ダオカルヤンは大声を張り上げた。
「ジークシルト殿下、御出馬。
一同、速やかに道を開け」
その叫びが周囲に響くが早いか、右往左往していた兵士達は一様に物腰を改め、若主君の為にすばやく前方を開いた。
「殿下だ。殿下の御成りだ」
「殿下がお出であそばしたぞ」
びっしりと空を覆う弓矢の下を、平然と馬で駆け渡るジークシルトを、兵士達は誰もが瞠目し、また感激して見送る。
総司令官が姿を見せるだけで、兵卒の意気とは揚がるものである。
自然と
「万歳」
の声が湧き起こり、歓呼が溢れる。
「殿下のご来着だ」
最前線の兵士らも、敵味方の区別無く再び仰天した。
逃げ出しかけていたエルンチェア軍、弾みをつけて突進して来たグライアス軍、共に驚いて足を止めた。
その中へ、ジークシルトは躊躇わずに飛び込んだ。
「うろたえるな。
リューングレスが何だ、援軍がどうした。
我が軍は勝利を目前にしているのだぞ。
なぜ逃げるか」
大喝が飛ぶ。
「兵ども、退くな。
一歩たりとも退くな。
敵に後ろを見せた者は、このおれが直々に首を刎ねてくれる。
しかと肝に銘じておけ」
厳しい通達も飛んだ。
どよめきが空気をうねらせた。
この若主君なら、本気でやりかねない。
彼の気性の荒々しさは、当国軍人なら新参兵でも心得ている。
全軍潰走直前、エルンチェア軍は、かろうじて踏み留まった。
更に、ジークシルトは麾下将兵を激しく鼓舞した。
すいと馬を煽って前方へ出張ると、兜の面を大きく開け、堂々と胸を張って
「聞け、グライアスの兵ども。
わたしが、エルンチェア軍総司令官、王太子ジークシルト・レオダイン・シングヴェールである。
我が首級を手中にせんと志す者はおるか。
矢を射込んでくれようと考えている者、居るなら構わぬ、たんと射掛けてみよ」
敵を挑発してのけた。
大胆不敵にも程がある。
すっかり頭に血を上らせたグライアス軍将校が、矢を射よと怒号した。
「何をしておるか。敵の総大将が目前にいるのだぞ。
今こそ好機、弓矢隊、射て。王太子の首をとれ」
指令を聞いた弓兵らはこぞって我に返り、慌てて矢を射掛けた。
だが、ジークシルトにはなかなか当たらない。
それも道理で、歩兵が勢い良く突進する際には、弓兵は下がって遠くから援護射撃をするのが定法なのである。
まして、混戦である。
このような時、弓兵は同士討ちを避ける為に、近くの敵は狙えない。後方から距離を詰めて来る敵兵の足止めが、主たる任務になるのだ。
至近の敵を狙って、めったやたらに弓を射れば、奮戦する味方兵士の背中にまで当たりかねない。
だから、超大物を目前にしても、弓兵は思ったように矢を射れかった。
ジークシルトは、むろん承知している。
ばかめ、と鋭く嘲笑した。
「弓兵を使いたいなら、歩兵を下げるべきであろう。
興奮して、的確な判断を下せぬとは、しょせんグライアスなどその程度よ。
そんな連中がいくら矢を放とうと、おれには当たらぬわ」
「御意」
不敵に笑いながら、ダオカルヤンが主君の意をうけた。彼は左右へ
「見よ。
我らが殿下は、炎神の恩寵を賜っておわす。
何も怖れる事はない、進め」
ひとまず瓦解の危険は回避できた、と見ていい。
今少し対応が遅ければ、いかに彼が闘志を燃え立たせて最前線へ出張って来ようとも、怖れをなした兵卒らの散じる足を制止する事は困難だっただろう。。
目下のところ、エルンチェア軍中央部隊の士気は、萎えかけた以前に戻ったか、またはそれを凌ぐほど盛んとなったようである。
息をついたジークシルトは、ゆとりをもって戦場を見渡した。
相変わらず、あちこちで怒号が飛び交い、剣が振るわれている。
その、騒然たるなかを、リューングレス軍兵士らしい者が数名、しきりに旗を振り回しつつ、駆け回って
「援軍来る。リューングレス軍、到着」
喧伝している。
グライアス軍将兵は、彼らの声に励まされて、勢いを盛り返したエルンチェア軍を相手に、何としてでも前進しようとしているのだ。
「ふむ」
その様子を、目を凝らして見つめていたジークシルトだったが、やがて首を回して右に従うダオカルヤンへ視線を転じた。
「おい、気づいたか」
「はっ」
急に問われたダオカルヤンは、飛来した長矢を剣で払い飛ばしてから、訝し気な顔を主君へ向けた。
「何事にございますか」
「なに。あれよ」
ジークシルトは、援軍到着を盛んに叫ぶリューングレス兵を、あごでしゃくって見せながら、微笑した。
「面白い奴らだな」
「は」
主君の意を察しかねて、ダオカルヤンは目をしばたたかせた。
ジークシルトは、いったい何を面白がっているのか。
「恐れながら、それがしには」
「判らんか。
では、ついて来い」
一つ頷くと、やおら馬を駆った。
ダオカルヤンは意表をつかれたが、少し遅れたものの、後に続いた。
若い主従は、敵兵がひしめいている乱戦の真っ最中へ突入した。
その剛胆さに、味方はおろか、敵将までが顔色を変えた。
ジークシルトは平然として馬上から足元を見下ろすと、敵意むき出しで彼を討ち取るべく取りすがって来る東の兵へ向かって
「聞け、グライアス」
びんと声を張った。
風は北西から強く吹きつけてきている。
心無しか潮の匂いがする乾いた突風が、夕暮れ空の下に空しく佇むリューングレス軍三万の体を容赦なく叩く。
一同、例外なく不安げな表情で、風に吹かれつつ異国の日暮れを見やっている。
リューングレス軍は、総司令官アースフルト第三親王に全軍停止を命じられてから、もはやニ刻が過ぎていた。
戦場まで残り五馬歩ばかりというところで、なぜか司令官は行軍を止めたのだった。
王子の補佐役である大剣将が、傍目にも判る程に焦燥して、たびたび行軍の再開を具申していたが、その都度却下されていた。
アースフルトは、やきもきしている大剣将へ
「斥候が戻ってくるまでは、一歩も動くな」
きつく言い渡し、馬上に茶を運ばせて悠々と喫している。
臣下の方は司令官の意を理解しかねる体で、勧められた茶も断り
「恐れながら、アースフルト殿下。
戦場は目前でございます。
何条あって、御行軍を御止めあそばされますか」
詰問すれすれの口調で問いただした。
「我らの策は、既に発動しておりましょう。
ここで止まっては全軍の士気に関わります。
何卒、行軍開始の御下命を」
「それは出来ないな。
とにかく、物見の兵が戻るのを待て」
茶杯を傾けつつ、王子は頑固に応じない。
今まで実務の一切に口出しを控えていた彼が、この期に及んで何を考え、急に方針を変えたものか。
大剣将には訳が分からないらしい。
「御言葉ではございますが、こうしております間にも友軍は苦戦を強いられ、厳しい状況下に置かれて、我が軍を待ちかねておる事でございましょう。
せっかくここまで兵を急がせ、無理をさせたものが、台無しになりかねませぬ」
「もうなっているかもしれないさ」
アースフルトはしれっとして言った。大剣将は絶句した。
目を白黒させている臣下へ、彼は困ったような顔を向けると
「一つ訊くが。
先程の『あれ』を見て、何もおかしく感じなかったのかね」
「は。『あれ』と仰せられますのは」
「さっきの連中だよ」
まだ判らないのか、と言いたげに眉を寄せた。
「あのな、大剣将。
わたしの考えでは、行くだけ無駄だ」
「何と、殿下」
「無駄だ、と言っている」
言い切ると、空を見上げた。




