王太子親征6
軍の進発日を明日に控えたその朝、神殿では普段通りの礼拝に続いて、出陣式が執り行われた。
王を始めとして王家連枝、軍人達が居並ぶ中、司令官あるジークシルトが神々の群像前に佇立している。
脇にはパトリアルスが控えており、いかにも兄弟揃っての東国境遠征らしい。
大司教が、十余名にも及ぶ司祭を従えて神像を背に、軍を率いる若い王子達へ祝福を授けた。
長い祝詞が唱えられる間に、下級僧侶一同が、出席を認められた人々に酒杯を手渡して歩いている。
ユピテア教の宗教定義によれば、全知全能の大神が、幸運の祈りを与えた神聖な酒を信徒に下賜する。
その杯を干す事で、大神の加護を得るものとされている。
全能神を中心に、左右には御子神の四石像が立ち並んでいる。
戦い、勝負に関する祈りは、大神の右横に据えられた炎の(ガストリウス)神に捧げられる。
作法として、司祭職にある高位僧侶が、炎神の足元に蝋燭を備えると、軍の統率者が進み出る。
「謹んで請う。
我らに加護を授け給う闘いの守護者、炎神よ。
戦に勝利をもたらし給え」
ジークシルトの声に、列席全員が和する。
決められた言葉を捧げ終えると、手にしている酒杯から数滴を蝋燭に垂らして消火し、残りは一息に飲み干す。
一斉に、酒杯が傾けられた。
下戸のパトリアルスだけ、強酒を装った真水を飲んでいる。
ジークシルトは勢いよく振り向いて、居並ぶ人々を見渡した。傲然と胸を張っている。
「祖国の為に(フィズ・アクト・マジェア)」
よく通る声が神殿に拡がる。軍人達も応じて
「エルンチェア万歳
「王太子ジークシルト殿下万歳」
「親王パトリアルス殿下万歳」
万雷の拍手が起きて、神殿を揺るがせた。
ジークシルトは慣れた物腰で長髪をなびかせ、片手を上げて喝采に応える。
パトリアルスは、兄程は流麗に振る舞えず、おずおず振り返って軽く頷いた。
儀式は滞りなく終了し、神官達の祝福を受けつつ、彼らは式典の場から退いた。
午前中の予定を終えた後、ジークシルトはパトリアルスを昼食に誘い出した。兄弟にとって馴染みである王太子の馬場である。
「堂々と振る舞え。
上位者の腰が浮いておれば、将兵の士気に関わる」
まだ落ち着きを取り戻していない弟の肩を、小亭の玄関をくぐりながら、ジークシルトは叩いた。パトリアルスは恥ずかしそうにうつむき、小さく頷いた。
「は……どうも、不慣れなもので」
「まあ、おいおい慣れてくるだろう。
せっかくの機会だ、武人どもを刮目させてやるがいい。
だがな、無理に武勲を立てようとする事は無い。将軍が戦場で悠然と構えているだけでも、士気とは高まるものだ。
前線には、おれが出る。おまえには後方を統括してもらう。
戦況をよく把握して、おれの求める都度、後詰めの兵を送り出すのが任務だ。
構えて、自ら戦場に出ようなどとは思うなよ」
「そんな気は、起こせと言われても起こしませぬ。
兄上のお邪魔にならぬようつとめるのが、わたしに出来る精一杯でございますれば」
「それでいい。
おまえには、今一つ重要な任務がある。
万一、おれが戦場から還らずとも、おまえは生きて帰国しろ」
「何を仰います、兄上」
パトリアルスは顔色を変えた。
「兄上こそ、必ずお帰りあそばしませ。
兄上がおわしてこその、我がエルンチェアではありませぬか」
真剣に言うその態度には、赤誠と称するに値する響きがあった。
ジークシルトは柔らかく微笑した。
「むろんだ。おれは帰る。
逃げ帰るのではないぞ、おまえと一緒に凱旋するのだ。
なに、万一の話だ。王家の血は絶やせぬ。
とにかく、おまえは生きて帰るのが何よりも重要な役目だと心得ておけ」
「はい。ですが、必ず兄上もお帰り下さいませ。
わたくしなどより、兄上の方が、我が国には大切な御方なのですから。
生きて帰りましょう、必ず」
「ああ。おれも、まだ死にたくはないからな。
またおまえの居間で駒とりを指したいし、例の詩の本も……まあその、何だ。そのうち読む積もりだ。
それにな、ギルヴェスト。あやつも、まだまだ乗り足りぬ」
「雷光。あの駒には、やはりその名をお付けになられましたか」
「ああ。そう言えば、教えて遣わすのを忘れていたな。
おまえの提案に決めた。おまえが名づけ親だぞ。
疾風の仔は雷光だ。
そう決めた」
ジークシルトは莞爾と言って、パトリアルスを喜ばせた。
やがて、食事の用意が調い、二人は歓談しつつ揃えられた品々へ手を伸ばした。
彼らは知らない。
このひと時が、兄弟が持つこの世で最後の語らいの時となった事は。
雲彩たなびく朱空のもと、エルンチェア王国軍は、東国境へ出発しようとしている。
南刻の一課(午前六時)を期して、王太子は進発の号令をかける予定になっている。
テューロッセ城の正門前には、総司令官とその旗本隊が集結していた。
動員兵は一斉進発である。彼らは既に、王都ツィールデンの郊外で待機している。
王都から東国境までの行程は、最短距離でおよそ三百四十二馬歩(約三百四十キロ)、一日の行軍の限界を四十馬歩(約四十キロ)として、約八日である。
これは、グライアスの王都に比して一日短い。
出動する全軍の陣容は、王国七個師団のうち四個師団、および臨時編成の傭兵二個師団。
動員兵数は、前線要員ではない輜重兵、伝令使、医療関係者、雑役に従う人夫までを含めれば、六万八千名。純戦闘要員は六万名強となっている。
ほぼ全軍の出動と言っていい。
彼らの命運を、ジークシルトが一手に握っていた。
ジークシルトの腹心、ダオカルヤン・レオダルト・ヴェルゼワースの姿も、旗本隊の中にある。
彼だけでなく、王太子気に入りの若い武人達もみな、馬上の人となっている。
いったい、装いは質実剛健で、誰の物にもきらびやかな飾りは無かった。
軽い金属で作った略式の鎧兜を用い、中には盾も持たぬ者も多々ある。
ジークシルトも、ごく実用的な胸当てと胴丸、踵のしっかりした軍用長靴に、青の縁取りが入った王太子の象徴上衣をはおっただけの軽装である。
乗る馬は、俊足の栗毛ギルヴェストに比較すると、見映えはずんくりしていて、あまり宜しくは無い。
が、軍用馬の性能は抜群である。興奮しにくく、長時間の乗馬に耐える持久力があり、飢え渇きにも強い。
彼に限らず、騎馬隊は全員、この軍事に適した馬に乗っている。
一般の兵卒は徒歩で、長距離の行軍に向いている簡素な旅装を調えている。
彼らの荷物は、全て雑役夫が運ぶ事になっているので、ほとんどの者は手ぶらに近かった。
軍の出立を見送るために、城内に暮らす人々は正門前に列をなし、総司令官が発する進発の号令を待っていた。
ラミュネスの姿もある。
武人ではない幼馴染は宮廷に残って、ジークシルトから託された反王太子派の掃滅作戦に従事する。
黒髪の童顔な若者は、虫も殺さぬおとなしやかな顔立ちを、まっすぐ若主君へ向けていた。
バロート王は、式典用の一枚布でつくった礼装ではなく、黒い上下の宮廷武官が用いる軍服を着用していた。
冠もかぶらず、代わりに大ぶりな宝剣を腰に吊った軍装で、あたかも彼当人が出陣するかのような拵えである。
王は常と変わらぬ厳格な雰囲気をまとって、南刻の一課を告げる鐘が鳴るのを待っている。
その横に、正室の姿は無い。
貴婦人が軍事的行事に立ち会わないのは、特に不自然な事ではない。
だからそれは良いとして、問題は。
「パトリアルスはどうしたッ。
なぜ来ないッ」
ジークシルトは、馬上で激しく苛立っていた。
王后の姿がないのは当然としても、パトリアルス・レオナイトが、出征する当人の姿までも無いとは、どういう事か。
遅参どころではない。集合の定刻を一刻以上も過ぎ、進発間際となった今になっても、副司令官ともあろう者が現れないのである。
突然の体調不良でも起こしているのであろうか。
いや、それならそれで連絡があって然るべきであろう。
ジークシルトは、五人もの伝令を親王邸へ走らせていた。ところが、その者達も戻って来ないのである。
何かあった。変事があったに違いなかった。
ジークシルトは焦れて、自分が行こうとさえしたが、周囲から止められた。
老傅役たる大剣将が、総司令官の凄まじい怒気にも屈さず、乗馬ごと立ちはだかって諌止したのだ。
南刻の一課を告げる鐘の音が鳴り渡る。
進発の号令をかけようとしない若い王子を見咎めた者がいる。
「何をしておる。早く行け」
厳しく促したのは、バロート王だった。ジークシルトは頭を振った。
「陛下。副司令官を置き去りにしての進発は致しかねます。
暫時の御猶予を賜わりたく存じます」
「ならぬ」
嫡男の抵抗を、王は太い眉をびりっと寄せて
「余の者の都合も考えよ。
副司令官の遅参は当人の不覚、あやつのしくじりに七万にも及ぶ将兵を付き合わせるわけにゆくか。
勅命である。行け」
反駁を許さなかった。
誰も逆らえない、言葉を発した当人でさえも取り消せない。極めて重大な意味を持つ一言に、万策は尽きたと悟らざるを得なかった。
ジークシルトはきっと顔をあげ、手にした采配を振り上げて
「全軍進発」
大声で命令した。
未だ姿を見せぬ弟へ、早く来いと心の中で絶叫しながら。
兄の悲痛な叫びは、だが弟には届かなかった。
親王邸には、この場に居ない二人が対峙していたのである。
涙ながらに短刀を己の首筋に突き付け、翻意を求めるクレスティルテと、苦悩に顔を歪めて母を見やるパトリアルスが。




