第十八話「零れゆく命」⑫
やがて廃屋の影に身を潜めたイネッサは、立てかけるように崩れていた瓦礫へ、抱きかかえた九垓の背中をゆっくりと預けた。
しかしそんな緩やかな動きでも、肩の傷口には大いに響くらしい。歯を食いしばる九垓は大量の脂汗をかきながら、喉奥で呻きを噛み殺す。
その苦悶の表情に、傍らで両膝をつくイネッサはいまにも泣き出しそうな顔で、傷口に両手を近づけた。
夜霧のなか、ぼうっとした青い光がその手に灯る。彼女が得意とする治癒の魔術だ。だが、それにできるのはせいぜい、傷口を塞ぐことくらいである。斬り落とされた腕を再生することは叶わない。
(私が……)
もう少し早く、援護できていたなら。否や、はじめから九垓の力を借りず、ひとりで戦えていたなら。もはや詮無い話であると知りながらも、イネッサはそう悔恨の情を抱かずにはいられない。
そして、修道女のそんな胸の内を、治療を受けるこの男もわかっていた。
「――気に、すんな」
乱れた呼吸の合間を縫って紡がれたその言葉に、
「でも……!」
と、イネッサは顔をしかめる。けれど、
「俺が……見積もりを、誤った……そんだけだ」
九垓は息も絶え絶えに言い捨てた。
いずれ毒がまわることはわかりきっていた。アーキグスタフとなり、それを先延ばしにしていただけなのだ。ゆえにこの傷は九垓にとって、たかがしびれ薬と処置を軽んじた、己の油断が招いた結果に過ぎない。
わずかな隙が、命取りになる。ひとり戦場に生きていた頃ならば忘れもしなかった鉄則だ。それをどうしてか失念したのは、おそらく――。
(甘えちまった……ってコトか)
九垓はもう焼きが回ったらしい自分を鼻で笑った。
「クガイ、さん……?」
「いや――神ってのは、いるもんだなってさ……」
そう。彼女らと巡り合わなければ、こんな失態を演じることはなかっただろう。ならばこれこそ、己の運命であったのだ。
(そういや……)
いつぞやもそんな話をこの修道女としたな。そう思い返していると、
「……そんなの、いない」
イネッサは不愉快極まりないといった口調で言い切った。
それでも、
「いるさ」
と返せば、
「いないよ!」
と、今度は被せるように怒気を激発させる。
その物言いは、己の不運ばかりを嘆いていたあの頃からは想像もつかないものだ。斜陽に焼かれるクラドノの街で、神はいると豪語していたあの頃とは。
「そうだな……。いないほうが、いいのかも、しれねえ。そんな得体の知れない奴に、自分の運命握られてるなんて、気味、悪ぃからな……」
九垓はやれやれといった具合に瞼を閉じるや、
「だから――」
と続け、だらしなく放っていた左腕を力なく持ち上げる。
すると、彼の右脚にぼんやりと青白く虎の紋様が浮かび上がり、同時に、突き出された左手のさきで青き焔が渦を巻き出した。
なにをする気かと刮目するイネッサの前で、焔はするすると細長く伸びていく。やがて伸びきったらしい青き焔は、一瞬だけほのかな閃耀を見せると、一本の長槍へと姿を変えた。
九垓はそれを掴み、胸元に抱くようにして持つ。
そしてその手を、熱いまなざしとともに、彼女へ突き出した。
「取り戻して来い」
次いで放たれた真摯な言に、イネッサははっと息を呑んだ。そこへ九垓は、檄を発する調子で続ける。
「あいつに奪われたものを……お前の人生を……取り戻して来い」
イネッサは託すように差し出されたその槍に、逡巡した顔をうつむかせる。
あの神父を倒したところで、父母も、過ぎ去った時間も、還ることはないとわかっている。これは単なるけじめだ。次の一歩を踏み出すために、逃げ続けた代償を清算したいだけなのだ。
それにいまこの場を離れれば、この男は間違いなく、命を落とす。当の本人が一番わかっているはずだ。傷口からはいまだ止めどなく、赤々とした血潮が流れ出ているのだから。
ならば、選ぶはふたつにひとつ。死んだら終わりと言ったのはほかでもない、この男だ。当然、彼女の答えは決まっている。
されど視線を男の顔に戻せば、男はそんなことなどどうでもいいと言わんばかりに、牢乎たる眼を向け続けている。
その目が言うのだ。
勝ってこいと。
――必ず、勝って帰ります。
思い出された自身の宣誓に、イネッサはいま一度、九垓が握る長槍へと視線を落とした。
九垓のまなざしを、言い訳にはしたくない。
選ぶのだ。捨てるか否か。誰かに置いて行かれるのも、誰かを置いて行くのも、もう嫌だとしても。
否や、だからこそ。
正しいと信じられる道を選び、その責を負うのだ。
ここで仮に逃げおおせても、見知らぬ誰かが犠牲になるだろう。それが嫌だから武器を取ったのではなかったのか。
それに――敵は、いずれここに来る。そんな予感が、彼女にはある。
ならば。
イネッサは口を苦渋に結び、九垓の右肩から静かに両手を引いた。
その手が、差し出された長槍の柄を確かめるように受け取る。それを見届けた九垓は、なにやら満足げに微笑みを浮かべ、名残惜しさがにじむ手を、ゆっくりと離した。
すると、戻っていく彼の手を追いかけるように、黒い修道服がやにわに動き、青みがかった横髪が流れた。
夜霧が薄らぎ、欠けた月の光芒が、月下のふたりに静かに降りる。
分かち合えるものはさほどない。ひとりは人を殺め、ひとりは人を救い、歩んできた者たちだ。
それでも。
そこには確かに――永遠があった。
やがて修道服の衣擦れの音とともに、槍を抱いて前傾していた上体が緩やかに戻される。
そして立ち上がり、踵を返し歩み出した彼女の背に、青白く輝く龍の紋様が浮かび上がった。
足を止めた彼女は授けられた長槍を左手に持ち替えるや、石突を地につける。
紋様から流れ落ちるひと筋の青い炎は、自由になったことで下げられた右腕を伝い、その手に至ったところで左右へ伸びはじめた。
青き炎は九垓の時と同様、一瞬の輝きを放ったのちに姿を変える。顕現するは身の丈以上もある三叉の槍だ。
現れたそれを握り締め、無言のまま再び歩み出した彼女の背中を、九垓もまた、なにも言わずに見送った。
次いで、背にした瓦礫に後頭部を押しつけながら、ため息混じりにぐったりと上を見やる。
その視界に広がる満天の星空は、東山の<青龍殿>から臨んだものと同じだ。
だが。
いまの彼には、いつか見た冬の街の、あの温かな輝きに重なって見えた。
「ハ――」
結局は届かなかったが、漏れ出た嗤いはそれを嘲ったわけではない。ここに至るまでの巡り合わせが、あまりに数奇なものに思えてならなかったのだ。
(まったく……)
どうしようもないとでも言いたげに、九垓は潔く瞼を閉じた。
体は徐々に冷えはじめている。しかし口元には、まだ、命の熱が残っている。
それが全身に行き渡るのを感じながら、九垓はひとり、穏やかに呼吸をした。




