第十八話「零れゆく命」⑪
一方、頬に当たる瓦礫の冷たさに目を開けたイネッサは、小さな呻きとともに、のっそりと身を起こした。
知らぬうちにグスタフから人間の姿へ戻っているのは、落下した際の衝撃によるものか、はたまた意識を失ったためか。
「みんなは……」
あたりを注意深く見回すが、ひとけは皆無だ。霧のごとく土埃が立ち込め、ところどころ火の手があがる、閑静な夜が広がるのみである。
彼女は唇を厳めしく結ぶと、腑抜けた両足に気合いを込めて立ち上がった。
足元に折り重なる瓦礫の山は、おそらくこの周辺に林立していた家屋のものだろう。容易くそう思えるほど、まわりには視線を遮るものがない。あるとすれば、はるか彼方、夜天へと反り返る巨大なレールの影だけだ。
土地勘のないイネッサには、それが唯一の道しるべである。あのレールは確か、城の傍らにあったはずだ。とすると、さきほど天を裂いて降り注いだ猛烈な閃光によって、城は消し飛んだということか。
彼女はあまりのことに愕然としたまま思案にふけった。
するとその耳に、瓦礫が崩れ落ちる音が届く。
かすかな警戒心を抱いて顔を振り向けた彼女は、たちまち炯眼を射った。
視線のさきにおぼつかない足取りで現れたのは、彼女にとって、もはやその名を口にすることさえ忌々しいあの男である。
だが、その風体は惨憺たるものだ。
うしろへ撫でつけた白髪は大いに乱れ、身に着けた黒い祭服は右半分が爛れるように破けている。そこから男の浅黒い肌が覗くかと思いきや、右腕は肩からすでになく、代わりに水銀色をした粘性の物体が垂れている。まるで溶けた蝋のようだ。それは左腕も似たようなもので、肘からさきが、練った水あめのごとく原型を留めていない有様である。
そのなりから、すでに虫の息であろうことは容易に想像がつく。しかし鬼気迫る形相で睨みつけてくるこの男に、イネッサは得物を取り出そうと、無言で背中の紋様を輝かせた。
青白い炎が彼女の右腕を伝い落ちる。
しかし刹那、グラディアは暴風のごとく駆け出した。同時に左腕の水銀はねじれながら伸び、牛刀とまではいかないものの、鋭利な直剣へと形を変える。
イネッサでは神父の接近を目で追うことは難しい。瞬きひとつもせぬ間に間合いは詰まり、彼女はもっとも避けねばならない格闘戦に持ち込まれた。
怒気を孕んだ面で急速に息を吸い、イネッサは生き残るため、全身の筋に力を込める。
そこへどこからともなく雷光が駆け、いままさに干戈を交えんとする両者の間に割って入った。
「ぬ」
グラディアは、ほとばしる閃光に紛れて振るわれた神速のトンファーを受け流し、咄嗟に身を離す。そして、いまや宿敵と呼ぶに相応しい青年の雄姿を睨み見た。
ぼうっとした微光のなかで、両手にトンファーを握り締めたその者は、時折、身のまわりに小さな稲妻を走らせる。腰を落とした構えはまさに、泰然自若としたものだ。
その背中に、
「クガイ、さん」
と、イネッサは心なしか安堵をにじませた。が、九垓は構うことなく、
「ホントしぶてえな、おっさん」
そう吐き捨てながら、神父との間合いを眼光鋭く目測する。
片や、グラディアの逆襲は早かった。攻め入る隙を窺うのも束の間、眉ひとつ動かさず、正面切っての突撃に出る。
こちらは手負いとはいえ、アービターがふたりだ。その性急過ぎる攻め手に、九垓は直感した。
(こいつ――)
時間がないのだ、と。
となればやつの狙いは、うしろのイネッサに違いない。懐にさえ飛び込んでしまえば。現状の神父ならそう考えるはずだ。
炯炯たる目を滑るように横へ流し、九垓は突進してくるグラディアの進路を阻む。そして疾風迅雷の手捌きでもって、刹那のうちに九度、異形の刃と斬り結んだ。
その最後の一合が、神父の体を後方へ大きく弾き飛ばす。
グラディアは両足から砂塵の尾を引き、地を滑りながらも持ち堪える。が、直後、
「ぐ」
その視界は入水の音とともにたちまち歪んだ。されど神父に驚きや焦りは見られない。陸にいながら溺れさせるこの妙技は、幾度となく味わったあの女の魔術だ。
「いい加減――ッ!」
イネッサは左手を突き出したまま、頭部を水で四角く覆われた神父へ、猛然とそう叫ぶ。
それから間髪入れず、翔ける龍がごとき雷撃を従え、九垓が相手の懐に滑り込んだ。
「くたばれッ!」
九垓は荒々しい咆哮とともに、絞りに絞った隆々たる筋を解き放ち、雷光発する右のトンファーをひねり出す。
ところが。
(ぁ――)
信じられないほど大振りなその動きに、九垓は自身の異常を瞬時に察し、瞠目した。
その瞳に、敵が水のなかから振り向ける、赤き眼光が映り込む。
(ここで、かよ)
よもやここに来て、翳祇鍾馗から受けたクナイの毒がまわろうとは。突き出す腕を戻そうにも、しびれた体は緩慢に動くのみである。
(あの、くそジジイ……)
心中に苦々しくそう吐き捨てた矢先。
振り上げられた水銀色の刃によって、李九垓の右腕は、肩から盛大に宙を舞った。
「クガイッ!?」
絶叫したイネッサに呼応し、神父の頭を覆う水はすぐさま氷へと変貌する。けれども、それで止まるような相手ではない。なおも追撃せんと、神父は左腕の刃を当てもなく薙ぎ払う。
うしろ向きに倒れた九垓がその一閃を浴びることはないが、それも時間の問題だ。足元でうずくまる彼の存在に気づけば、あの神父なら見えなくとも八つ裂きにしかねない。
「くっ!」
渋面となったイネッサは、自身の周囲に身の丈以上もある氷塊を無数に作り出し、それを暴れ狂う神父めがけ掃射した。
頭を氷漬けにされたグラディアに、避けることはままならない。砲弾のごとき氷の直撃に負け、異形の神父は彼方へと弾き飛ばされる。
「クガイ!」
ただちに駆け寄ったイネッサは息を呑んだ。地獄の苦痛に顔を歪めた彼は、左手で右肩のつけ根をありったけの力で押さえているが、そこからはどくどくと絶え間なく、黒々とした血潮が溢れ出てきている。
(まずい――)
このままでは失血死する。
イネッサは三叉の槍を振るって濃霧を生み出すと、槍を青白い炎へ還し、九垓を担ぎ起こしてその場を去った。




