第十三話「神が定めし運命なれど」⑭
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波打つ砂漠の稜線に陽光が沈みはじめた頃、砂丘の影に泊まる赤き艦<ヴェントゥス>の右舷後方には、まだ修理の火花が散っていた。
その出どころである大穴の空いた推進器の傍には、甲板の手すりから吊るされて修繕に当たるジック・ブレイズの姿がある。目印の赤いテンガロン・ハットやポンチョはなく、代わりに、さまざまな工具が収納されたフルハーネスと分厚い溶接用ゴーグルが備えられている。そしてまた、片手に持った溶接機の先端から火花が散った。
風が緩いのは幸いであった。もしこれが突風吹き荒れるカムシンの時期に重なれば、高所での修理は絶望的だ。
ジックを吊るした手すりの近くであぐらをかくマシューは、薄暗くなる空を見上げ、まだ見えぬ星にこの幸運が続くよう願いを込める。次にその顔を手すりの格子に近づけると、眼下にいるジックの様子を覗いた。
マシューの手元にはA4用紙程度の大きさで板状をした端末が握られている。端末は片側一面が縁の薄い画面になっており、そこにヴェントゥスを横から捉えた図面が表示されていた。
図面は、艦と同化した朔夜が、神楽夜たちを見送ったあとに船内のデータベースから掘り起こしたものである。設計者名がなく、いつ頃描かれたものかも定かではない。おまけに内容の一部には欠損が見られる始末だ。けれど、歯抜けの内容でもないよりはいい。
それによれば、船内にはところどころ用途不明の装置が設けられているようだったが、ほかは一般的な輸送艦と大差ない構造だった。唯一、エンジンまわりだけは、小型の輸送艦にしては上等な代物を搭載しているというくらいだ。それでも交換による整備が容易な仕様であるのは、この艦がシーカーという男ひとりの手で運用されていたからであろう。
修理するにあたり、こういった情報があるのとないのとでは作業の進みも変わってくる。軍務で艦の知識も多少あるゆえ、ここは自分の出番であると、今朝は意気揚々と修復の段取りを考えたマシューであった。
が、
「難しいかもな……」
いまジックを見下ろすその顔には、すでに諦めの色が漂っていた。それは、下で作業するジックも同様の心境である。
船内中から補修に使えそうな資材をかき集めたものの、そう都合よく穴全体を一枚で塞げるものが見つかるはずはなく。現状はつぎはぎにせざるを得ず、そんな状態で再飛行など、難しい以前に誰が見ても不可能に違いなかった。
そしてマシューの場合、もうひとつ懸念しなければならないことがある。
ここに留まる時間が長くなればなるほど、連合に発見される危険性は高まるということだ。マシューに至っては、それすなわち生死を分かつ大事である。ただの脱走兵ならば軍法会議を経て懲罰を食らう程度で済むが、いまの彼は最新鋭の試作機<ヘルシャフト・カスタム>とここにいる。神楽夜に大破させられたとはいえ、軍の重要気密を持ち出したまま逃亡するなど、普通なら長期にわたる禁固刑が相当だ。
だが、その予想はいささか楽観が過ぎるというほかない。
クラドノでのハウトマンの言葉を鵜呑みにするなら、ケイン・アルカン亡きいまの連合は彼の手に墜ちたと考えられる。マシューがアルカン寄りであるのはハウトマンの知るところゆえ、いま連合に捕まるようなことになれば、牢にぶち込まれるどころでは済まないだろう。
その予感が、修復作業を眺めるマシューの顔つきを余計に曇らせた。
そこへ響いた、
「大丈夫。ジックは前に、連合の艦も直したことあるから」
との声にマシューが顔を上げれば、手すりに身を寄せて夫を見下ろしていたアルマが自信に満ちた顔を向けていた。
「得意なんだな」
「――そうしないと、生きられなかったみたいだから」
そう言って伏せ気味に眼下の夫へ戻されたアルマの視線に、マシューはかすかな疑問を抱いた。
「基地を襲ったのもそのためか」
手に持った端末上に中指を滑らせながら訊いた。以前、マシューが司令を務めていたゴビ砂漠の基地襲撃のことである。
アルマはそれを一瞥すると、迷いがちに口を開いた。
「きっと、そう。でも、探しものは見つからなかった」
「探しもの?」
手を止めたマシューが怪訝に顔を持ち上げた時、ついに宵闇が甲板を侵食しはじめた。
斜陽を浴びた砂丘の影がアルマの背中を下から上へと這い上がる。それに怯えるかのようにアルマは両手で手すりをしっかり掴み、その顔を不安に翳らせる。
だが彼女の浮かべる翳りが、果たして探しものが見つからぬ焦りからくるものなのか、マシューには判断がつかなかった。
(探しもの、か)
砂丘の彼方へ消えゆく日差しをさかのぼり、マシューは左に首をねじ向ける。その視界に、ちょうどアルマに背を向ける格好で甲板の手すりに寄りかかるレジーナの姿が収まった。
レジーナが任されたのは艦の警護だ。といっても、周辺は見渡す限りなにもない砂漠である。レジーナは夜明けとともにここにいるが、空を行く機影はひとつもないし、艦に近づくひとけもない。清々しいほど静かだ。
こう時間ばかり持て余すようになったのは、この艦に乗ってからである。
それ以前の彼女は、ヘドロのなかでじっと息を潜めるような毎日に生きていた。
――なにかひとつでもやり遂げなくてはだめだ!
はじめて父の怒声を浴びたのは、彼女が四歳かそこらの頃だった。いまにすれば、物心がつく以前の子供になにを言っているのかと思うが、父は偽りなく本気だった。本気で怒りをぶつけていた。
それは、子供心には恐怖でしかなかった。
――やりたいことはなんでもやらせているだろう!
――どうしていつもいつも中途半端なんだ!
その怒りはおそらく、シスル家の娘として不出来だからこそ向けられたのだろう。期待の裏返しだったのだと歳を経れば飲み込めるものも、当時の彼女がそれを理解するには、難しい話だった。
そもそもレジーナには、父の期待に応えようという気持ちははじめからなかった。幼き日の彼女は好奇心の赴くままに生きていたし、それは実に子供らしい振る舞いだったに違いない。
しかし、なにかに手を出してはすぐに飽きる彼女の堪え性のなさを、父ルーベンは許さなかった。
繰り返される父からの叱責が無邪気な童心をなぎ倒すまで、そう時間はかからない。
母が彼女の味方であれば、まだ救いがあったかもしれない。けれど彼女の母親は、未熟な自分を受け入れられないままであるにもかかわらず、高いところからものを言う、ひと言で表せば子供のような女だった。
次第に周囲へ関心を示さなくなったレジーナは、ひとり、己を守るために静かに生きた。両親の顔色を窺い、機嫌を損ねないよう過ごすすべを早くに身に着け、屋敷では食事をともにする以外は極力顔を合わせないように努めた。
時折、ルーベンは娘に、人として正しく生きることの大切さを説き、そして、このさきの自分をどうしたいと考えているかを問うた。だが、その問いが投げかけられる頃にはもう、レジーナの心は<レジーナ・シスル>だったものを保つだけの装置になっていた。
それでも、いまに至るまで己の意思で続けたことがふたつある。
剣とヴィオラだ。
そのうち、剣術に出会ったのは彼女が十歳の時、いまから十年前のことだった。
シスル家が邸宅を構える敷地内には、主に家族が生活する本館のほか、使用人も含めみなが「別館」と呼ぶ巨大な離れが一棟、建っている。老朽化が進む離れは、現在の「本館」を新築するまで主屋として使われていた館だ。本館がその役割を果たすようになってからの別館は半ば蔵同然の扱いで、廊下で結ばれているわけでもないため、人が訪れることはほとんどない。
もちろん、レジーナも使用人から受けた「別館には入らぬように」という父の言伝を守り、近づくことはしなかった。
唯一、庭園の世話をしに行く時を除いて。
というのも、別館の正面から本館とは反対側にかけて、豊富な草花を内包する室内庭園が広がるのだ。そこにある花の世話が当時のレジーナの日課だったのだが、そのたびに、彼女には気になることがひとつあった。
本館と別館の間に隠れるようにしてぽつりと、古めかしい平屋が建っていたのである。
それは、かつて連合軍で剣術の指導をしていた曾祖父の計らいで設けられた、床面積で六十八坪ほどある修練場であった。
修練場の造りはレンガ造りの本館や別館と違い、柱などの木材を露出し、骨組みの隙間を白いレンガなどで埋めた半木骨造である。生活する本館から庭園に行くにはその前を必ず通らねばならず、寂れた平屋が放つ謎めいた雰囲気に、彼女は往来のたびに好奇心をそそられていた。
そんなある日、レジーナは日課のために庭園へと向かう途中、修練場の窓に閃く光に気づき、足を止めた。
目を凝らせば、窓には黙々と剣を振るうひとりの少年の姿が垣間見える。
屋敷に住まうのは彼女とその両親を除けば、数人の使用人だけだ。いま木枠の窓から見える少年に、覚えはない。
レジーナは庭の白いライラックに水やりに行くことを忘れ、鼓動を悟られないようそっと窓に近づき、様子を窺った。
少年の横顔は、親の仇と相対したかのごとく鋭かった。けれど、教える人間の姿はない。少年が見えないなにかと戦うかのように剣を振るうたび、窓から差す陽光がそれに煌めくのみである。
直剣が放つ清廉さに見惚れた彼女だったが、結局その場は声をかけぬまま――。しかし彼女の姿は、夕暮れ時になって再び修練場の前にあった。
一度窓からなかを覘き、誰もいないことを確認してから出入口にまわれば、身長の二倍はある木製の両開き戸が立ち塞がる。その片側を押し開けると、扉はいかにも年季が入った様子で軋み、恐る恐る一歩を踏み入れる彼女を歓迎した。
床は茶色の板張りで、天井にはあらわしになった梁が横断している。なかはひんやりとしているが、窓から注ぐ赤々とした斜陽に染め上げられていた。
レジーナは真っ先に少年がいたところへ歩を進める。そのさなか、壁に横向きで掛けられた剣たちを見つけた彼女は、立ち止まることなく壁へと向かった。
鞘に納められた剣はどれも同じもので、上から四段並んでいた。少年が使っていたものがこのなかに含まれているかは検討がつかない。ひとまず彼女は久方ぶりに感じた興味に従って、一番下の段にある鞘へ手を伸ばした。
一キロ以上ある直剣の重みが掴んだ右手から腕を伝う。腹にまで力を込めねば持てぬそれに、
(こんなの振ってたんだ)
と感服する一方、途方もない自棄に陥った。
――なにかひとつでもやり遂げなくてはだめだ!
父親が怒鳴るその真意が、彼女にはわからない。ただ、剣を振るっていた少年から感じたひたむきな想いが、自分に足りないなにかであるような気もする。
(どうして)
レジーナは少年に問いたかった。
どうしてそんなに頑張れるのか、と。
その時、彼女の背後で扉が軋んだ音を立てた。レジーナがはたと振り返ると、扉の前に例の少年がいた。
少年は意外な先客に驚いたのか、気の抜けた顔でレジーナを見つめる。そうして数秒ののち、なにか納得したふうに「あ」とつぶやくと、
「……君、もしかして旦那様の」
そう続けて彼女に歩み寄った。
「レジーナ・シスル」
彼女は抱くように鞘を両手で持ち、少年を見据えた。
「やっぱり。俺はマシュー・ゲッツェン。別館で世話になってる」
互いに名乗り終えても鞘を抱いたままじっと見つめてくるレジーナに、マシューはいたたまれない思いに駆られた様子でいる。
「――剣、好きなのか?」
間が持てず取り繕ったが、
「……なんで」
と、それを見透かしたかのように淡白なレジーナに、マシューは思わず「え?」と訊き返した。
「なんで、そんなに頑張るの」
「頑張る……?」
マシューは質問の意図が見えず当惑する。そこへレジーナは、
「剣」
とだけ言葉を続け、抱えていた鞘をわずかに前へ出した。
初対面にして随分踏み込んだ問いかけに答えあぐねたが、困ったように、あるいは、問い詰めるかのごとく真っすぐに聞いてくる彼女に、マシューは真面目な答えを探した。
やがて彼は、
「ならなくちゃいけないんだ。連合の軍人に」
胸に抱く想いをそのまま吐露した。
「なんで」
「ゲッツェン家の人間だから。連合は世界の秩序を守っているんだ」
「秩序……」
難しい顔で反芻するレジーナに、
「世界の平和だよ。ゲッツェン家の名に恥じない軍人になって、それを守るんだ」
とマシューは誇らしげに続けた。
(ゲッツェン……)
レジーナはその家名に聞き覚えがあった。本館のリビングの壁に、父が見知らぬふたりの男と笑顔でいる写真が飾られているのだが、そのなかのひとりがゲッツェンという名だと、以前、父から聞いていたのである。
「レジーナの家だってそうだ。連合を支える名家だって、知ってるだろ?」
名家かどうかはさておき、当然、それも父から聞かされている。
「知ってる」
伏し目がちに言いながらも、レジーナは凛とした雰囲気を損なわなかった。マシューはその様子にくすぶる反抗心を感じ取ったが、そこに触れるのは野暮というやつだろう。
「それ、抜いてみたら」
話を変えた。
レジーナは身長が頭ひとつ分ほど違うマシューを意外そうに見上げ、その視線をすぐに手元の鞘に落とした。
そこへ、マシューが手を差し出す。抜きやすいよう鞘を持ってやるという意思表示であったのだが、レジーナはそれに一瞥をやるや無言で柄を掴み、片手で剣を抜き放った。
「重いんじゃないか?」
切っ先を床に向けたままで真っすぐ伸ばされた右腕を見て、マシューは感心した様子で訊いた。
確かな重さだった。このマシューのように片手で振るうには、相応の修練が必要であると痛感させられる。
しかし、その重さがレジーナには心地よかった。急に地面に足がついたような、そんな錯覚を覚えるほどに。
レジーナは視線を、剣を握る自分の右手からマシューの顔に持ち上げた。
そして問う。
「お前が剣を取るのは、お前がマシュー・ゲッツェンだからか?」
まるで閃く剣のような眼光に、
「そうだ」
マシューは真正面から受けて答えた。
連合の統治が多くを救う。その一助となるはゲッツェン家の使命。そう信じて邁進するマシューが、レジーナには、このさきの自分が至るべき姿でないかと思えてならなかった。
しかし、いまさら父に「剣の鍛錬に精を出したい」と言ったところで、
「剣術を身に着けてどうする」
と返されるのは目に見えている。実の子にしてもまずは疑うのが父であると、レジーナはもういやというほど理解していた。
ならば、とレジーナは、日課だった庭園の世話に加え、修練場でマシューの鍛錬を真似て、稽古に打ち込む日々を選んだ。
マシューが宿命を受け入れてなお進む姿。それだけが、彼女にとっての励みだった。自分もそうなれると、希望が湧いた。
そして、八年。
再会した彼は変わっていた。
家の名を捨て、こうして目的もないまま放浪するようになるとは、レジーナには想像できなかった。
甲板の手すりに前屈みで寄りかかり、落日を見届ける彼女は、瞳を閉じて無念そうに嘆息する。
あの頃持てなかった剣は、いまでは片手で振るえてしまう。ようやく並んだと思えたのも束の間、追いかけていた背中は遠退くどころか、別の道へと消えていった。
いまだ空ににじむ夕焼けの赤が、あの斜陽に染まる修練場の日々を思い出させる。レジーナはそれを見つめ、手を伸ばした。
その時、
「レジーナ」
背後から声をかけられ、彼女は腕を咄嗟に戻した。そして落ち着いた声色で、
「――修理は終わったのか?」
振り向くことなく肩越しにそう問えば、
「いや、まだかかる」
マシューは浮かない顔を力なく横に振った。
交わさねばならない言葉がたくさんあるはずと知りながら、しかしふたりは、それからしばらく沈黙に漂い続けることを選んだ。
――どうしてここにいるかと聞いている!
クラドノで八年ぶりの再会を果たしたレジーナは、マシューに厳しい問いを突きつけた。
マシューにしてみれば、シスル・タワー崩壊の報せがあって以降、生存が確認できていなかっただけに、再会の喜びもひとしおであったのはいうまでもない。ところが、その失望とも憤怒とも取れる彼女の顔を見てしまっては、なんと返すのが正解なのか、答えに窮するほかなかった。
「レジーナ」
マシューはいまなお考え続けて、されど、彼女の詰問の意図が掴めずにいる。再び名を呼んだはいいが、そのさきが続かず、開きかけた口をつぐんだ。
そういう煮え切らない態度をこの娘は好まない。レジーナはこれ見よがしに嘆息するや、夕映えを睨みつけながら、
「なんだ?」
と突き放すように言った。
「――よく、生きてた。ルーベンのおじさんたちは、その……」
シスル・タワー崩壊の状況からして、レジーナの父ルーベン・シスルとその妻の生存は絶望的だ。彼女だけが助かったのは奇跡である。それだけでマシューにはよかった。どうやってこの艦に乗ることになったのか、そこに至る経緯などどうでもよかったのだ。
その安堵の想いを伝えたかったのだが、
「悲しんでるって、そう思ってるのか?」
レジーナのあまりに冷ややかな反応に、マシューは言い淀んだ。
あの修練場で出会ってから二年ほどの時間を、彼らはともにしている。そのなかでマシューは、彼女と彼女の父母との間に深い溝があることを知った。だからいま安易に「違うのか」という返しは選べない。
ではどんな言葉が適当かと思案すれども、胸の内に答えは見出せそうもないというのが正直なところだ。マシューとて早くに父が戦死し、母が家を捨てたことで孤独を味わった身である。肉親だからこそ振り払えない苦悩があると身をもって知るがゆえに、彼は答えあぐねた。
それにそもそも、考えが及ぶものではなかったのだ。
マシューには、その苦悩を抱えた時点で、それをぶつけられる者がすでにいなかった。だから、ひたむきに父の影を追いかけられたともいえる。そんな彼が、考えの違う「親」という存在と共住し、かつ、それを十年以上も敬遠し続けた彼女の心を理解しようなど、難しい話に違いない。
苦心の末にマシューは、せめてもの惻隠を胸に、
「夕食は、みんなでとろう」
と絞り出すが、レジーナはまたも冷たく鼻で笑った。
「なあ、マシュー。お前はどうするんだ、このさき。宇宙にでもあがるか?」
マシューはすぐには答えられなかったが、一拍の間を置いて、
「……さてな。ただ、ひとつだけわかったことがある」
と、神妙な面持ちでレジーナの背中を見つめた。
「私は、形にばかり捕らわれていた。ゲッツェン家の、あるいは、連合の……。それは、父の道だ。私の人生ではない。だから探そうと思っている。マシュー・ゲッツェンとして、この人生をかけるに足るものを」
「ゲッツェン家のマシューじゃ嫌だって、そういうことか?」
背中で問うレジーナに、
「そう捉えてもらって、構わない」
マシューは決然と断言した。
東から夜に染まっていく空の下、かすかに風が吹きはじめた。
レジーナはひとつ深い呼吸をすると、ゆっくり、侮蔑を含んだまなざしをマシューに振り向けた。
「ずっと思っていた。あんな家、とっとと滅べばいいと。……神様はいるものだな。願いが叶ったよ」
薄笑いすら浮かべる彼女に、マシューは哀れみや怒りがない交ぜになったような顔で向き合った。
「本当に、そう思っているんだな?」
「ああ。育ててもらったことには感謝している。だが、父はこう言った。お前に投資しているんだ、とな」
途端、レジーナの目に獰猛な光が宿った。
「……愛は、見返りを求めないんじゃないのか? 親から子への愛は、無償なんじゃないのか? あんな……愛を金に置き換えるようなやつら、親になるべきじゃなかったんだ!」
「レジーナ!」
怒声をあげながらもマシューはぐっと堪え、前に踏み出るだけに留めた。平手打ちしそうになった手をきつく握りしめ、奥歯を噛み締める。
レジーナは殴られることを覚悟して、しかし、向かってくるマシューをしかと見つめ動かなかった。
マシューは伏し目がちに言葉を絞り出した。
「――伝え方が、悪かっただけだ。お父上はお前を愛していた。お母上もだ。愛情を知らない人間だったなら、私を引き取ったりはしないだろう? 愛は確かに見返りを求めない。でも、自分の子供が幸せになっていく姿を見ることくらい、あってもいいじゃないか」
それが孝行であると、マシューは信じている。だから亡き父の教えを守り、そう在ろうとしてきたのだ。
「……子供いないくせに、偉そうに」
そう言って忌々しげに視線を逸らしたレジーナに、
「そんなことは関係ない! 私たちはみんな、それを持って生まれてくるんだ」
マシューは歩み寄り、彼女の目線に合わせて身を屈め、その両肩に手を置く。
「レジーナ。聞き分けよく生きろとは言わない。でも、親にも想いがあるんだ。もう話すこともできないんだから、あとは、お前が努力して、許してあげよう?」
「……ゆる、す?」
レジーナはキッとマシューを睨みつけた。
「デカくすれば愛情を注いだって、そういうことか?」
「違う、そうじゃないんだ、レジーナ」
マシューのその言葉を遮り、
「だったら! ――だったら、どうしてもっと、わかるように……話してくれなかったんだ」
レジーナは両肩に置かれた彼の手を振り払った。
「レジーナ!」
マシューは脇をすり抜けるように駆けていく彼女の背中を、なぜか追いかけられなかった。
わかってしまったからだ。似た境遇にある自分の言葉では、彼女を救うことはできないと。
レジーナは船内へ戻る扉を力任せに引く。すると、船内側でいままさに扉に手をかけようとしていた剛三郎は、「おわ!」とあわや甲板に転がり出る直前で持ちこたえ、レジーナと鉢合わせした。
「あっぶねー」
驚く剛三郎に詫びる素振りも見せず、レジーナの姿は船内へと消える。
「マシュー」
呆然と立ち尽くしていたマシューは、背後からかけられたアルマの声に我に返った。けれどどうしていいものかわからず、レジーナが去った扉を見つめたままでいる。
「追わなきゃ」
見かねたアルマが催促した。
「いや、でも」
しかしマシューはこの期に及んでまだ尻込みする。
「追うの! 追って!」
「あ、ああ!」
アルマがその朗らかな雰囲気からは想像できない剣幕でまくしたてるものだから、マシューはまるで尻に火でもつけられたかのように駆け出した。
「あんちゃん、言われてたの持って――」
「悪い! アルマに渡してくれ!」
「きたぞって……」
工具箱を差し出そうとした剛三郎は、早馬のごとく駆け抜けていったマシューを追い、ゆっくりと顔をねじ向ける。
「んだよ、夫婦喧嘩かよ」
人知れず文句を垂れる剛三郎に、アルマが歩み寄った。それに、
「あんちゃん、なんかしたの?」
と剛三郎がねじった首を戻して訊けば、
「さあ?」
と、アルマは幼い子供を愛でるような優しいまなざしを少年にも向け、小首をかしげる。そこへ、船外で修理にあたるジックの声がかすかに聞こえ、彼女はマシューが置き忘れた板状の端末まで戻った。
「――のか? おい、暗すぎて限界だ。おーい」
端末からは若干焦りはじめた夫の音声だけが響いている。剛三郎とふたりしてその端末を覗き込むように見ていたアルマは、
「仕方ない」
と上体を起こすや、
「ふたりして引っ張ろっか!」
と、したり顔で、力自慢だと言わんばかりに赤いワンピースの袖をまくし上げて見せる。するとなんとも心許ない、白い細腕が露わになった。
しかしそんなこと露ほども気にしない剛三郎は、溌溂として「うん!」と応じ、工具箱を端末の傍に置くと、アルマに倣って、大してない力こぶを作って見せる。
「よし!」
笑顔を交わしたふたりは、ジックが吊り下がる手すりにずんずんと力強く向かった。




