第十一話「それは孤高なる常道」⑧
クラドノの夜は短い。この時期の日の入りは、午後九時前後になる。再び朝日が昇るのは、それからおおよそ七時間後だ。
(また、一日が終わるのか)
この間にも、日本の青い繭は覚醒に近づいている。
かすかに前髪を揺らす風に誘われて、神楽夜は西日差す甲板の端へと進んだ。そこにはヴェントゥスと同じく丸パイプで構成された格子の手すりが走っている。それに両手をつき、小さく嘆息する神楽夜の顔には、悔しさがにじんだ。
「なにも、進んでなんかない」
あえて口に出した。誰にも責められぬのだ。己で叱責するしかない。
早いもので、日本を出てもう一週間近くになる。神楽夜が消沈する理由のひとつはそれだ。
三週間。麟寺から言い渡された養父探しの期限だ。その根拠はわからぬが、もしかすればいまこの時にも繭が覚醒し、日本が地図から消えているかもしれない。
(それだけは……)
それだけは、避けたかった。帰る場所さえ失っては、今度こそ自分は立ち上がれなくなる。
神楽夜はぎゅっと瞼を閉じ、苦々しくかぶりを振った。うしろのひとつ結いの黒髪が、それに追従してわさわさと揺れる。
辛苦に歪む顔を上げ、儚げに落ちる太陽を見れば、青い光に包まれるイネッサの背中が思い出された。
――よく見ておけ。理をもって力を御す、その輝きを!
アレスのその言葉の意味を、神楽夜はこの一日延々と考えた。それが「逃げ」であるとわかっていながら。
言い訳をするなら、なにかを考えているくらいしなければ、自分がいまここにいる理由が見いだせず、居たたまれなかったのである。
けれど、それがもたらしたものは、耐えがたい無力感だけときた。
結局、いまこの艦でなにもしていないのは自分だけだ。弟とさして歳が変わらなそうな剛三郎という少年ですら、マシューの補助をしている。
イネッサもそうだ。なぜマシューたちと一緒なのかはわからないが、少なくとも、ここに戻って来た理由があるように見える。
彼女がアービターであることは、クラドノを出たのちにジックから聞かされていた。その彼女について行った九垓なる男はマシューの傭兵だというから、やはり、自分だけがでくのぼうである。
別に、マシューたちになにか貢献したいわけではない。神楽夜は恐れているのだ。無気力だったあの頃に戻ってしまうのではないか、と。
養父に拾われて間もなかった、人形のようなあの頃に。
はじめて目覚めた夜、彼女は畳の上に敷かれた布団のなかで、枕を涙で濡らしていた。
当然ながら、理由は知れない。ただ、まるでその瞬間に生まれたかのような清々しさもある傍らで、心を締めつけて許さない、途方もない喪失感と悔恨の情があったのである。
こうしてはいられない。早く行かねばならない。そんな漠然とした焦りだ。それは、鏡で自分の姿を見るたびに強くなり、いまに至るまでずっと、彼女を苛み続けてきた。
背中の傷跡、一緒に倒れていた少年のこと。果たして自分たちになにがあったのか。それを知らぬまま置いて行っていいのか。そう、鏡に映る己の肉体が問いかけてくるのだ。
そして見れば見るほど、黒い髪も赤い目も、すべて自分のものとは思えなくなる。記憶を失った時に作り変えられたのではないかと疑いたくなるほどに、なにもかもが嘘で、ひとつだって本当がない。
なぜなら自分はもっと、違う顔だったはずなのだ。
己にそう疑心を抱いた時、目の前に暗い谷底がぱっくりと口を開けた気がした。そしてすぐうしろには、見知らぬ誰かの気配がある。
その者がこう言うのだ。
「お前じゃない!」
と。
憎悪を込めて言い放つうしろの自分に、どん、と背中を突き飛ばされる。あとは暗い谷底めがけ真っ逆さまに落ちるだけだ。
それは正しい。なぜなら、彼女こそが本当の自分なのだから。途中から奪い取った自分のほうが消えるのは、至極当然のことだろう。
いまの自分がなすことは所詮、自分の皮を被った別人がしたことでしかない。
そのうち何事にも意味を見出せなくなった彼女は、ただ息をするだけの、凪ぎの時をしばらく過ごした。
当てのない命は虚無を漂う。自分が自分である根拠など、どこにある。
それが神楽夜の苦悩のはじまりだった。
記憶はない。しかし違和感は覚える。そんな自分が思うこと、感じることは、「いまの自分」のものであり、それまで積み上げられた「過去の自分」は一切関係ない。それを、果たして本当に「自分」と呼んでいいのだろうか。正しく過去があれば、いま美しいと思えるこの夕焼けも、少しは醜く見えるのではないのか。
過去といま、自分のなかに生じた乖離を持て余した彼女は、ただ立ちすくむしかない。
だからはじめ、彼女はただの人形のようだった。
いまの状況はその時に似ている。やるべきことがあるのになにもできず、ただ無為に時間を過ごすだけだったあの日々に、とても。
進んでいないのは、養父探しだけではない。己の過去を探すこともまた、これといって進展はしていない。
なにひとつ、進んでなどいないのだ。
神楽夜は憔悴しきった顔を上げた。
大通りに停泊した艦からは、まわりの街並みがよく見渡せる。うしろにはスーパーマーケットの名残が、右を向けば遠目に異国の住宅地が望める。正面に規則正しく建ち並ぶのは、四階建てのマンションらしき建物だ。その茜色の屋根は、落日の光でさらに赤々しさを増して見える。
その景色がそうさせたのだろう。日本を発つ前日に見た、懐かしい京都の夕焼けが思い起こされた。そして神楽夜は、そこにいるあの黒騎士の面影を、屋根の上に幻視した。
――問い続けろ。
黒騎士の影はそう言い残すや消えていき、今度は、アレスの姿を取りはじめる。
これまた似ているがゆえの幻想か。彼女がそう思った時、
「理は意志のもとに生まれる」
と、その幻想は聞いたことのない台詞を口にした。
神楽夜ははっとして目を凝らす。間違いない。あれは幻などではなく、
「アレス・ヴァールハイト……」
本人だ。
「そして意志とは、己の内にのみ宿るのだ」
屋根上で足をそろえて立ち、アレスは腕を組んだまま言った。
「己の……内に」
――問い続けろ。
またも黒騎士の言葉が頭をよぎる。神楽夜はその瞬間言葉を失い、思いに沈んだ顔で両の手のひらを見つめた。
意志は己の内に宿る。意志を持つとは、すなわち、こうありたいと願う心――希望を抱くということだ。
(私は)
なにを望むのか。
「もうわかっているはずだ」
神楽夜は思考を読んだかのようなアレスの言葉に息を呑み、手元に落としていた視線をはたと彼に向けた。そして、その顔つきを神妙なものへと変えると、開いていた両手を握りながら下げ、言葉を探りはじめた。
やがて、
「――わかってる」
と、神楽夜はとつとつと言葉を紡ぎ出した。
「ずっと、うしろばかり見てた。みんな、それまで積み重ねてきた時間があって、そのなかで自分を見つけてたから……。けど、私は違う。そこがなかった。いきなりこんな体で、名前をつけられて、弟までいて。だから……でも!」
再びアレスに向いた神楽夜の顔は、静かな覚悟を湛えていた。
「まだ、なにもできてない。養父さんも、自分のことも、なにも。だから、まだ終われない。終わるわけにはいかない。終わりたくない」
神楽夜の言葉に、一切の迷いはない。アレスは小さく鼻で笑う。それは、どこか喜ばしげだ。
「どうありたいか、それを考え、決めるのはいつでもできる。過去がどうあれ、大切に思えることがいまの自分にあるのなら、それが手がかりになろう。ゆえにカグヤ、いまの己に聞くがいい。さすれば、こいつも力を貸すはずだ」
アレスは言いながら、黒いフルフェイス・ヘルメットで覆った顔を明後日に振り向けた。神楽夜はそれを追い、目を丸くする。
「ゼルク!?」
視界の彼方、背景と同化していた光学迷彩の膜を解かれ、マンション同士の間に突如として姿を現した愛機は、上昇する光の粒子のなかで片膝をついていた。
「ありがとう、アレス――」
神楽夜はすぐさま視線を戻すが、彼の姿はすでにない。あたりを見回して呆然とする彼女は、自分の手のひらに再び視線を落とした。
アレス・ヴァールハイト。あれはいったい何者か。なぜここまで自分に協力する。
(もしかして、あの人は)
その推論が正しいかはわからない。
いまわかっているのは、この願いだけは自分のものだということだ。あの涙の目覚めからはじまった自分でなければ、過去をなくした自分でなければ、おそらく抱くことはなかっただろうから。
(そっか、私……)
「もう答え、出てたんじゃんか」
そうひとりごちた矢先、
「おい、大変だ!」
剛三郎が血相を変えてやって来た。




