第十一話「それは孤高なる常道」⑥
帰り支度を済ませ、さきに教会の門を潜った九垓は振り返った。視線のさきには、育った場所をその目に焼きつけようと立ち尽くすイネッサの背中がある。
それも束の間、彼女は踵を返すと静かに門を潜り、格子の扉を閉めた。
朱色に染まる無人の街を、ふたりは、来た時と同じようにイネッサの先導で歩いた。
九垓は、道順が最初と異なるのに気づいていたが、なにも言わず彼女につき従った。
そのうち、両脇に商店の跡らしき建物が並ぶ小道に入った。そこでイネッサは街並みを指しながら、とつとつと話しはじめた。
「ここ、私が五、六歳の時は、商店街だったんですよ。よく母と一緒に歩きました」
彼女が五歳程度ということは、プラハに繭が現れて五年、いまからだと十五年前のことになる。
「でも、プラハのことでだんだん人が出て行って……」
そう言うイネッサに、九垓は疑問を持った。
当時は、アルカンの難民政策を採用した連合によって、プラハ周辺の住民は過去に例を見ない早さで領内での移住が進んでいたはずである。
「なんで残ったんだ?」
問いかけに、イネッサは歩みを止めた。
「戻って来たんです、私たち」
「戻って来た?」
彼女の言葉を繰り返し、九垓もまた立ち止まった。
「私が生まれたのは、西にあるプルゼニまで避難した時だったって、母が言ってました。それから五年ほどして、父が難民を救うために戻ることを決めたんです。母と私は、それに従いました」
「それから、ずっとあそこか?」
「はい。連合の査定で駄目だった人は意外に多くて……そういう人たちを受け入れて、みんなで暮らしていました。食べ物は少なかったですが、水だけは、ありましたから」
水だけはあった。それが指すのは、彼女が見せたあの力のことだろう。
「水……結局どんな手品なんだ、それ」
訝しげに訊く九垓に、イネッサは振り返った。
「見えますか?」
言って、彼女は茜色の空に手をかざす。九垓がそれを目で追うと、手のさきの空中がぼうっと水色に光り、そこからひと筋の水が流れ落ちた。
「決められた式に、決められた言葉を当てはめていくだけ。って、母の、受け売りですけど……」
イネッサは石畳を濡らす水を懐かしむように眺めた。
「私の力は母譲りなんです。母は、本当に魔法使いみたいだった」
水は次第に勢いをなくし、途絶えた。しかし足元を見れば、確かにそこだけが濡れている。
「よくわかんねえな」
九垓は素直に肩をすくめた。
「世界には法則があって、それを正しく使えばいいだけなんです。人間はきっと、それを忘れてしまった」
石畳に染み込んでいく水を見つめてイネッサは言うが、その法則とやらが見えぬ九垓に理解できるはずもない。
「それも受け売り?」
からかう調子の九垓に、
「あ、えっと、私の」
とイネッサは両手をへその前で握り合わせると、縮こまるようにして目を逸らした。
その視界に、ぼろぼろに破けたオリーブ・グリーン色のオーニングが捉えられた。店先に張り出したそれを見つめたまま、吸い寄せられるように近づいていくイネッサを、九垓は不思議そうに眺めた。
オーニングの垂れた先端には、野菜を意味する白い文字がかすれ気味に残っていた。
イネッサはそれを見上げながら、
「このあたりでは一番長く残ってくれた八百屋さんです」
と言った。
「ここの店主さん、街はずれに畑を持っていて。耕すのを父が残った人たちに分担させて、できた野菜をみんなで分けていました。――でも」
そこでイネッサは言葉を区切った。わずかな間だったが、不穏な空気を九垓は感じ取った。
「父は、どこからか食料を得ていました。蔵にはいつもなにか食べるものがあって。教会の援助だと言っていましたが、そんなの、届いたところなんて見たことなかった。……きっと、子供を売っていたんだと思います」
イネッサにはそう思うだけの根拠があった。
なにしろ自分が世話係をしていたのである。子供のひとりがある日突然姿を消し、引き取り手が見つかったと父のイヴァンから急に言われれば、それは怪しみもする。
孤児院自体は、イネッサが生まれる以前から彼女の父イヴァンと母アリサが営んでいたものだ。その施設は彼らの姓から<イリューシナ孤児院>と呼ばれ、街で唯一の教会だったこともり、親しまれていた。
もともと孤児の数は多いほうではなかったが、プラハに黄金の繭が現れてからは状況が変わった。
連合が掲げる難民の移住計画は、万民を救いたいと提言したアルカンの想いとは裏腹に、職能、いわゆる生産性の高い人間が優先的に移住をよしとされるような、ある種の選民思想を生んでしまったのである。
そのため、査定で弾かれた家族のなかには、その後の生活に困窮するあまり、泣く泣く幼子を手放す事態に追い込まれる者も少なくなかった。
だがこれは、住まえる豊かな土地が砂漠化と水没で限られていく人類にとって、致し方のない選択ともいえた。
残された大地に、すべての人間を受け入れる余裕はなかったのである。
「母親はなにも言わなかったのか」
九垓は率直な疑問をイネッサの背中に投げかけた。
「……いなくなりました。教会から、あいつが、来て」
イネッサは言葉を詰まらせながら、自分の体を抱きしめるように震えだした。
「大丈夫か」
と九垓は声をかけるが、
「あの日、父は母を売ったんです。教会に。母は――お母さんは異端だって、それで!」
イネッサは最後、見えないなにかに吐きつけるように叫んだ。すると次にはそれが嘘だったかのように大人しくなり、
「でも連れていかれるとき、お母さん、とても静かだった。……父はそれで位を上げました。魔女を捕まえたその功績で。そして、今度は私を」
と、うつむいたまま淡々と言い、服の上から二の腕に爪を立てる。
「あの男……グラディアが言ったんです。お母さんはアービターではなかったって。でも私は違うって」
それはその場にいた九垓も聞いていた。
「はじめから私が行けば……。ううん、全部投げ出して逃げたってよかったのに、どうして? どうしてお母さんは……お父さんは」
イネッサは眉間に深いしわを刻みながら、苦悶の表情で頭を垂れた。
彼女はいまでもたびたび思い出す。
ある日突然、見知らぬ男がやって来て、有無を言わさず母親を連れて行くその光景を。それを止めもしない父親の、神に祈る横顔を。
十三歳の少女には、あまりに酷な現実だった。
理由が魔女だったからだと聞き、そして密告者が父であると知った彼女は、「どうりで」と母の言いつけを思い出した。
――人前では見せないように。
魔術を教える母が口うるさくそう言っていたわけを、彼女はそこで飲み込んだ。
神秘は人の目に触れてはならないのだ。
それから七年。イネッサの背に青白く光る龍の印を見つけた父親は、驚きと歓喜を交え、こう言った。
「聖痕だ!」
と。
<スティグマ>とも呼ばれるそれは、彼らの間では奇跡の証として扱われ、有する者は厚遇されると伝えられている。
その存在はイネッサも知るところだ。しかし彼女には、七年前に連行された母の姿がちらつき、どうしても父のように喜べなかった。
母はなぜ抗いもせず行ったのか。父はなぜ自分の妻を売ったのか。
あまつさえ、実の娘をもあんな男に引き渡そうとした。その心はどこにあるのか。
もはや、彼女が信じられるものなどない。
九垓は彼女のそんな混沌とした心中を思い見た。
「恨んでんのか?」
九垓の問いかけに、イネッサは背を向けたまま静かに顔を上げた。
「……そうかも、しれません」
「じゃあ、どうして父親を埋葬なんかした? あの祈りはなんのためだ?」
その献身とも表現できる祈りを見て、曲がりなりにも自分の在り方を考えさせられた九垓としては、訊かねばならぬことである。
だのに、
「どんな悪人でも、神はお赦しになります」
彼女が淡々と口にしたのは、あろうことか父イヴァンと同じ言葉だった。
「は、馬鹿が。所詮、形だけだろ。信じるのは勝手にしろよ。だがな。手に余したもんを、全部神とやらに放り投げるのはやめろ」
「でも!」
目に余る暴言に、イネッサは怒気を孕ませた抗議の顔で振り返った。だがしかし、それに怯む九垓ではない。
「わかってることだろ。結局はお前次第だって。いい加減、他人に預けてばかりいねえで、自分でなんとかしろよ」
他力本願な姿勢が気に食わないことは、フランスの基地ですでに言われたことだ。イネッサはなにも答えぬまま、苦々しく顔を逸らす。
九垓はたたみかけた。
「はっきりしたぜ。やっぱ俺、お前嫌いだわ。そうやって神がどうだのって、都合よく生きたいだけじゃねえの、お前。だから――」
と、不意に振り下ろされた拳に九垓は言うのをやめ、その手首を掴んだ。
イネッサはうつむいたまま、もう一方の拳を九垓の胸板めがけ振り下ろした。まるで駄々をこねる子供のようだ。だがそれも、九垓には容易く受け止められる。
その腕を、九垓は細いと思った。
イネッサは湧き上がる感情を必死に押しとどめ、むせび泣く。けれど、九垓は主張を曲げようとはしない。どれほど相手がか弱くとも、絶対に。
両の手首を下から握られ、力なく万歳したような体勢でうなだれる彼女に、
「――神なんていない」
と九垓は無慈悲な言葉を送る。
「います……」
「いない」
「……だったら教えてよ。神様が決めたことだから、運命だから仕方ないって、思っちゃいけないの? 証さえなければ、私は……。これが、これが運命でなくて、なんだっていうのよ!」
イネッサは喚き散らしながら両腕を振りほどいた。
すぐに踵を返した彼女は、さきほどまで話題にあがっていた八百屋跡の横まで行く。黄昏時の日陰になったそこで、彼女は壁に肩からもたれかかるようにして、ずるずると地面に座り込んだ。
その背中に、アービターの証である青白い光がぼんやりと浮かぶ。
「そんなの、結果論だろ」
九垓は吐き捨てるように言った。
「考えて、自分でどう生きるか選べよ。てめえの人生なんだから」
そんなことを言われる筋合いはない。ないのに、九垓の言葉は辛辣に刺さった。うずくまるイネッサは抱いた膝に額を押しつけて、きつく瞳を閉じ、唇をかんだ。
「わかってる。そんなのわかってるって……!」
かみ殺すようにつぶやくイネッサの声は、やはり、九垓には届かない。
娘としてのけじめをつけられたまではいい。が、そこからさきの未来図を、イネッサはどう描いていいかわからなかった。




