第十一話「それは孤高なる常道」⑤
イヴァンの遺体は教会の裏手にある墓地の一画に埋葬した。
それに先立ち、ふたりは残されていたはずの孤児たちを散々探したが、結局見つけられたのは、二階の廊下を染め上げるおびただしい流血の跡と、なにかの肉片だけであった。
それらを葬るのに、マシューに渡されたバックパックは大変役に立った。
なんとなく察しはついていたことだったが、墓穴を掘るところから遺体の運搬と収容まで、大部分は九垓がやることになった。イネッサはあまりに非力で、ほとんど給水係だったためである。
しかし、不満はない。傾き出した陽を浴びて、イヴァンの墓標を前に座る彼の心は、この上なく清々している。
昼食をとるのも忘れ、無我夢中で掘り、埋めた。そうして得られた充足感は、戦場で感じ得る勝利の美酒とはなにかが違っていた。
なんとも言いようのない、不思議な感覚だった。おかげで泥にまみれた連合の軍服から着替える気も起きず、九垓は地面にあぐらをかいて、吹き抜ける風に汗ばむ体をただ預けるのだった。
なるほど、マシューが軍服をバックパックに入れていた意味はこれを見越してのことだったのか。そうして呆けていると、うしろから、
「おなか、空いたんじゃないですか」
とイネッサが近寄って来た。両手にはボール紙でできたレーションの箱がふたつ重ねられている。
そう言われてようやく九垓は空腹を思い出した。
「ああ……」
吐息交じりに答え、立ち上がろうと地面に手をつく。その土で汚れた手が、イネッサの目に留まった。
「あ、ちょっと、待ってください」
イネッサはレーションの箱を小脇に抱え、空いた右手を目線の高さに持ち上げた。そしてその手を、まるでオーケストラの指揮者みたいななめらかさで、されど控えめに小さく振った。
白い指先が丸みを帯びたひし形を描くように流れる。その軌跡を、水色の光がたどる。
九垓は立ち上がろうとした中腰のまま、彼女の動きをつぶさに見つめた。
彼女が描いた光の線がその端を結ぶ。そして浮かび上がった像を見て、
(雫、か)
と九垓は感嘆の息を漏らした。
宙に描かれた神秘の印は一瞬だけ大きく輝くとすぐに消えた。
「手を」
イネッサが手のひらを下に向けて右手を差し出した。
なにが起きるかを九垓は知っている。フランスに向かう道中で見せられたものだ。それでもおずおずと両手を出すのは、イネッサの意図がわからないからである。
皿にした九垓の両手に、イネッサの右手から水が注がれる。そこに蛇口があるのかと錯覚する勢いである。
その光景はさながら、杯に己が血を垂らす聖人のようだ。
何度見ても仕組みがわからぬ彼女の技に、九垓は身を屈めてすっかり見入ってしまった。
「あの……手、洗ってください」
「あ、ああ」
言われるがまま手を動かした。
流水は少し温く感じられたが、それでも充分に手指の熱を奪った。土葬でついた土が落ちた頃には、九垓はすっかり空腹を満たすことしか考えられなくなっていた。
単純なものである。
ふたりは修道院の壁沿いに置いてあった朽ちかけの長ベンチまで移動し、並んで腰かけると、斜陽に燃えるイヴァンの墓を眺めながらレーションの箱を広げた。
中身は大きめのクラッカー五枚を主食として、副食にレトルトパウチ化されたミートシチュー、そのほか豆ときのこの煮込みがあり、チョコレートにひと口サイズのゼリーまでと、非常に富んでいた。なんとティーバッグまでついている。
特にミートシチューは、牛骨と野菜のブイヨンから仕立てたデミグラスソースを使ったアルカン領自慢の一品だ。そのうまさは、領地同士で行われるレーション交換会でもすこぶる評判がいい。半日以上かけて丹念に煮込まれた角切りの牛肉たちは、肉の繊維感を残しつつも、ほろほろと崩れる絶妙なとろけ具合である。
レーションの製造は、地域の違いも考慮して、領地ごとに管理がなされている。味にうるさい旧フランスを有するアルカン領では、単にエネルギーを補給する物体になりかねないレーションにさえ、大きな予算をもって開発に取り組んでいた。
知らず空腹の限界にあったふたりは、ミートシチューから口をつけて、そのうまさに目を丸くした。思わず互いの顔を確認し合うほどである。
ふたりとも、これほどふくよかな味わいのものを食べたことがない。数々の戦場で、その地域ごとのレーションを食してきた九垓であっても、アルカン領のそれを食べるのははじめてのことだった。
ふたりは実にものの数分でそれを平らげた。レーション自体、もともと戦地において短時間での摂取を前提としたものである。イネッサは比較的味わって食べていたが、それでも九垓からそう遅れることなく空にした。
食事を終えた彼らの手にはいま、熱い紅茶の入ったアルミのカップが握られている。
バックパックには彼らが使うカップのほかに、簡易式コンロや小型のアルミ鍋があった。食糧が尽きた場合に備えての調理器具である。コンロの火は、レーションに同梱された防水マッチでつけた。水の調達に至っては、いうまでもない。
「ゴウザブロウのやつ、来ねえな」
九垓は紅茶を冷ましながら言った。
ふたりが艦を出て、もう四時間以上経っているはずである。陽の傾き具合から見ても明らかだ。
通信が回復するか、事態になにか進展があった場合、剛三郎がここまで呼びに来る約束なのだが、一向に姿が見えないということは、そういうことなのだろう。
九垓は紅茶をすすりながら、うんともすんとも言わない隣のイネッサを盗み見た。
「やり残したことは済んだか?」
「え?」
遠い目をしていたイネッサははっと我に返り、九垓を見た。
「だから、気は済んだかって」
訊き直す九垓の声色は落ち着いていた。
イネッサは手元のカップに視線を落とす。
「……みんな、わかってたんですね」
「そりゃあ、なんとなくな」
九垓はため息交じりに言い、椅子を軋ませながら空を仰いだ。夜が近づく紫がかった青空に、夕日に焼かれた雲が流れている。
そのまましばらく、ふたりの間に沈黙が下りた。
やがて、
「――これ、飲んだら帰りましょうか」
と、イネッサが口を開いた。その言葉が寂しげに聞こえた九垓は、無言のまま紅茶をすすった。




