第20話 署名
「氷室さんは、ゆうべのうちに部長の職を解かれた。今は、本部の調べを受けている。けさ、本部から知らせがあった」
机の向こうで支部長がそう切り出した。
式典の次の日の朝の支部長室だった。呼ばれたのは俺とリタの二人だけだ。いつも机の横に立っていた権藤の姿は、今日はない。
「館内放送を読んだのは、安全管理部の職員だった。氷室さんが前もって用意した文を、卵がかえったら読むように言われていたそうだ」
放送早すぎね――昨日リタの腕の画面に流れたコメントの答えが、それだった。
「白石君は、何も聞かされていなかった。本部でも、そう認められたそうだ」
切りません、と言った時の白石さんの震える声を思い出す。あの一言がなければ録画は大きな画面から途中で消えていた。
「卵は、七番の女王の巣から運び出したものだ。生態の調査、という名目でな」
支部長は机の上の書類に目を落とした。
「調査班の者たちが、話したそうだ。運び出しは、崩落の何日も前から、何度かに分けて続いていた。女王は、運び出された卵を追って、巣を出た。三階まで上がってきたのは、そのためだ」
巣で、何かあったんだ――初めて『Black Cat』に行った夜マスターはそう言っていた。
「それだけではない」
支部長が書類の中から一枚を抜き出してこちらへ向けた。七番の浅い階の地図に赤い線が一本、引いてある。
「卵を運んだ道すじだ。支部に届いていた浅い階のかじり跡の報告と、照らし合わせた。このところ浅い階に出た岩食いは、どれも、この道すじのほうへ岩をかじり進んでいる。一階の奥で、黒瀬君が見つけた跡もだ」
赤い線は三階から二階へ、二階から一階へとくねりながら上がっていく。
一階の線は俺のよく知っている通路を通っていた。崩落のあった二階の脇道のつきあたりの、ちょうど真上。崩落の日、天井の穴の向こうに見えた通路だ。
「ここ、私が初心者向けの配信をしてた通路じゃない」
リタが地図の上に指を置いた。
崩落の日、壁の中で岩をかじっていたあいつも、この線へ向かっていたのだ。
なら三浦の脚にひびを入れたあの瓦礫も、もとをたどれば本部の運んだ卵に行き着く。腹の底がじわりと熱くなった。
「権藤さんの報告書の、迷い込んだ一匹とは、だいぶ違うわね」
支部長は否定もせずに書類をめくった。
「本部のお知らせも、ゆうべ取り消された。黒瀬君の盗みの疑いは、晴れた」
「当たり前でしょ!」
リタが得意げにあごを上げた。
「権藤さんは、調べが済むまで謹慎だ。氷室さんに言われるまま証人に立ったことも、本部の札を越えて君たちのあとをつけたことも、調べに入っている。札を越えた件は、君たちのぶんも、支部で預かった」
昨日、入り口のほうへ歩いていった紺の背中が目に浮かんだ。規則違反だ、と俺たちを責めたあの晩、あの男も同じ札を越えていたのだ。それでも最後まで規則は規則だ、と言い通した。しばらくはあの目に見張られずに済むらしい。
「黒瀬君、赤城君。昨日は、よく客を守ってくれた。あの枠が人の上に落ちていたら、死人が出ていたはずだ。支部として、礼を言う」
支部長が机に手をついて深く頭を下げた。
「ちょ、ちょっと、やめてよ」
リタが椅子の上でうろたえる。顔を上げた支部長はすぐに書類の束へ目を戻した。
「ただ――」
支部長の目が書類の上で止まった。
「生態の調査の命令書には、承認の判が押してあった。安全管理部長の命令に判を押せるのは、それより上の者だけだ」
「誰の判なのよ」
「支部に回ってきた写しでは、その判が、黒く塗りつぶしてあった。本部に問い合わせても、答えは返ってこない」
支部長は書類を裏返して机の上に伏せた。
「名前は、伏せられたままだ」
氷室より上の、誰か。
なぜか昨日の特別班の男の声を思い出した。もったいないな――腕輪を見下ろしてあの男はそう言った。
~~
その夜『Black Cat』の隅のテレビは、昨日の式典の映像を流していた。
浮いた鉄の枠。その下から逃げていく人たち。土ぼこりの向こうで男が一人、岩の床に膝をついている。
俺だ。
画面の下には補助探索者の黒瀬迅さん、と字幕まで出ていた。
マスターが何も言わずに俺の前に皿を置いた。から揚げが山になっている。
「食え。顔が死んでる」
「……これで、片づいたんだよな」
ジョッキを置いて俺は言った。支部長から聞いた話はもうマスターにも伝えてある。
「まだ、終わっちゃいねえ」
マスターがグラスを拭く手を止めた。
「判を押したやつが、本部のどこかで、まだ椅子に座ってる。巣から卵を持ち出す話に、うんと言ったやつがな」
「そいつが、また何かやるってのか」
マスターは答えなかった。テレビの中の俺をじっと見ている。
画面が切り替わった。今度は昨日の公開測定だ。白い台に手を置いた俺の横で権藤が告げている。測定値、ゼロ。
あれが十二回目のゼロで、そのすぐあとに俺は照明の枠を浮かせていた。
「……一年、静かにしてるつもりだったんだがな」
ぼやきが口をついて出た。補助になってまだ三週間もたっていない。そのうちに女王を倒し、泥棒にされ、照明の枠まで浮かせた。目立たない一年は一体どこへ行ったんだ。
「何言ってんのよ」
隣でリタがグラスを置いた。
「同接一位も取ったし、泥棒の疑いも晴れたじゃない。本部の悪だくみまで、生配信の前で暴いたのよ」
リタは指を三本折って数えるとその手を俺の鼻先に突きつけた。
「歴史に名を残すって、こういうことよ」
赤い髪を揺らしてリタが笑う。スマホの画面を見せつけるようにこっちへ向けた。登録者の数がひと晩で三十万も増えている。
「……はいはい」
カウンターの向こうでマスターは、まだテレビの中の俺を見ていた。
*
暗い部屋で画面だけが光っていた。その明かりが机の上を白く照らしている。
画面の中で腕輪をはめた男が、がくりと膝を折った。
映像が止まる。
止まった画面に指先が伸びた。膝をついた男の左の手首を軽くなぞる。鈍い銀色の腕輪の上を。
机の上には書類が一枚あった。
補助探索者、黒瀬迅の監督の変更を求める申し立て。
ペン先が署名の欄に触れた。迷いのない字がすらすらと書きつけられていく。
書き終えた書類が封筒に収められた。宛先は、裁判所だった。
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